10 遼国王・灼(しゃく) その3
10 遼国王・灼 その3
鉄を鋳鉄するには、高温の炉が必要だ。
高温を発するといえば、素直に思い浮かべるのは先ずは木炭、次いで石炭であろう。しかし木炭であれ石炭であれ、必須となる高温を保つどころか、その温度に到達させるのは至難の業だ。
「我らの祖先が遼の地に住処を定めたのは、そこに瀝青があったからに他なりません」
「瀝青?」
そうだ、と灼は頷く。
その背後で、燹は胸元を探ると、握り拳大の小さな群青色の包を取り出した。開くと、何処か褐色と鈍色の混じりあったような石塊が現れた。
「此れが、瀝青、ですか?」
「如何にも」
どうぞ、手にお取りを、と勧められるままに真はその包を受け取った。戰と椿姫、蔦や時も寄ってきて、共に見入る。この瀝青の存在を知る平原の民は、恐らく遼国の民をおいていまい。真も、今初めてその名と存在を知った。確かに瀝青の見た目は、石炭に似ていた。
「石炭よりも高温を発する事が出来るのだ。着火率は低いが、一度着火し、高炉にて燃え盛ればこれ以上望めぬ程素晴らしいのだ」
瀝青を焚いた高温の炉をもってして、錬鉄を行う。
産された鉄は、量産に最も適しているのだと、少年のように頬を熱く照らして燹が語る。灼に成り代わり説明をする、と申し出つつも彼も人の子であるらしい。興奮と情熱は、隠し立てできるものではないようだった。
「しかし、遼の地にて産出される瀝青は、多く望む事は叶わないが故に、技術は一旦闇に沈んでしまった、とそういう事ですね」
「……そうだ」
真の言葉は、冷たく燹を現実に呼び戻す。
そう、遼国の地にて天然に産出する瀝青は、あっと言う間に底をついた。方々を探し回った遼国の先祖たちは、やがて絶望する。此処中華平原にては、瀝青を産出できる地盤は、遂に望めなかったのだ。羅紗埡より新天地を求めて出奔し、旅に旅し流れ流れて遼の土地を切り開いた祖先たちの夢は、そこで潰えた。
「しかし燹殿、祭国では瀝青どころか、石炭の生産量は自国の青銅器をうつ程度のもので其れこそ底が知れたものだ。誇れるものではないのだが?」
「分かっております、郡王陛下。我々が、手にしたいと切望しておる瀝青は、実は郡王陛下の人脈なくして得られぬのです」
「其れは?」
「契国です」
燹の言葉に、戰と真は顔を見合わせた。
契国。
紅河の上流に位置する、剛国と盟約を結びし国だ。
然し乍ら先の戦においては、禍国に救済を求め、応じ参じた戰の作戦に則り、辛くも句国軍を率いる句国先王・番の侵攻を辛くも退けた。
其れ以後、確かに密かに水面下で契国とは連絡を取り合っている。
しかしそれは、来るべき戦に備えてのものであるし、現在、病を得ているが為、政治を行えぬ父王・邦に代わり地政を行い始めている王太子・碩とは、胸襟を開き蕩然と悠々款語し合う仲になりつつあった。何よりも句国新王・玖との蟠りを解くためでもあり、且つ、戰の考え方に共鳴して貰う為だ。
その契国と繋ぎあいたいという。
思ってもみなかった話の展開に、流石の真も面喰らう。
「契国と繋がりたいとは、それはつまり?」
「そう、彼の国には、人の手に寄って瀝青を創り出す術があるというのです」
「人の手に成る瀝青を、契国が産するのですか?」
真は顎に手をあてがった。
契国は、基本的に農業と放牧で成り立つ国家だ。
だがそれ以上に、確かに鉱物を多く産出する。その内は、当然石炭も存在している。河国と地質が続いているか、もしくは似ているせいだろう。僅かばかり離れただけで、遼国はその恵みを受けられなかった。
然し、契国に高熱を発する、しかも人の手に寄って産み出されるという瀝青というものが存在するとなれば、もっと世に知り広まってはいまいか?
契国にて有名なものといえば。
句国と国境を接する位置にある放牧地で育て上げた、軍馬。
そしてもう一つ。
「契国で有名なのは、煤黑油と呼ばれる、ものを腐敗させる力を弱め、水を通さぬ油だが……」
戰も、真と同じ気持ちからか、低く唸る。
契国産の煤黑油を染み渡らせた木材は、つとに有名だ。
彼の国の煤黑油を使用した木材で組立し、目張りを施した巨船は百年先も海に漕ぎいでる胆力を備えると讃えられている。その煤黑油は朝貢品として、禍国でも尊貴なものとして慶ばれているが、此れまでの朝貢品の中で瀝青の名は上がった事はない。少なくともその様な品であれば献上品として上がらねば可笑しいし、何よりも先ず戰や真が知らぬままでいられる筈がない。
「ですが、確かなのです。我々の祖先は嘗て、契国でみたという文献が残っておりました」
燹も必死で喰らいつく。
河国から離れ、技術を保持するために瀝青を得んと契国と通じようとした遼国の民は、逆に重い楔を打込まれ、河国の為にその腕を振い続ける事を余儀なくされたのだ、と燹は云う。
「この瀝青を手にし吾らの技術をもって高炉をまわしてこそ、鉄の量産は叶えられるのだ、いや」
「燹殿」
「やってみせる」
族の血塗る歴史を背負った男が、ただ一寸丹心を込めるべしと迫るのだ。燹の言葉には、偽りは感じられない。
何よりも、戰の手をかり、契国と繋ぎを取れねば遼国は此のままではじり貧のまま、何れ河国なり禍国なりに再び攻め入られるのは必定なのだ。最早、偽りや取り繕いなどは意味はないだろう。
戰が、真に目配せをした。同じ思いらしいと悟り、真も軽く目蓋を伏せた。
彼らが示した文献が確かならば、此度の戦は、思わぬ展開を生むかもしれない。
「契国にて、その人の手による瀝青たるものの正体を詳らかにし、手に入れたとして、遼国と交易を成す為には、遼国としては先ず、河国を討たねばなりませんね」
真の言葉に、おお、と灼は喜色を隠さずに激しく頷く。
「どう思われようと、吾は吾が国の民を守る為に、河国より独歩する。その為には、鉄が必要だ。その鉄を産むには、契国が必要だ。その契国を得るには、郡王よ、貴殿が必要だ」
しかし、と言葉を繋げる。
「だが、其れだけではない。いや、本当の目的はな――彼是どのように建前を言って繕ったところで、吾には実は、此れこそが真実の全てなのかもしれん」
「と、言われるのは?」
「過日、禍国が入った邑はな、吾が亡き母御前の生まれ育たれし邑よ」
「灼殿、それは」
灼の言葉に、戰の顔色が厳しいものに変わった。
戰の今は亡き実母である麗美人の故郷――
そう、蒙国皇帝・雷により撫斬りにされこの地上より失われた楼国を思い出したのだ。
「河国丞相である秀はな、禍国が吾が国領に入るを知り、敢えて彼の地を示しおったのよ。吾らが、河国より更なる独歩を目指し、鉄の産出を再びと躍しだしたのを知り、その出頭を打ち砕き、心を折らんとして、な」
「灼殿」
「郡王よ、吾は吾が国の礎に、己が母御前を贄とした、とんでもない親不孝な慮外者よ。何処の恥知らずが、のうのうと王を名乗るか、なあ、そうは思わんかよ?」
机の上に置いていた、灼の握り拳が、怒りのままにぶるぶると震えている。
戰が、椿姫の背中を、そ……と優しく押し出した。
戰を一度見上げた椿姫は、小さく頷くと、唇の端を噛み切らんばかりに噛み締めている灼の前に進み出た。つ、と椿姫がその固く締め付けられている握り拳に、白い指先を重ねた。はっと灼が顔ばせを上げると、優しく微笑んで手を解き、小さな茶器をかえて握らせた。
「済まぬ、な」
短く礼を言うと、灼は素直に茶器に満たされていた湯を飲み干した。人心地がついたのか、灼の顔ばせから僅かではあるが、険しさと辛さが薄らいだ。
「だが、灼殿は、その道を歩むのをやめられぬ」
そうだ、と空になった茶器を置き、灼は立ち上がった。
「吾は、遼国を真の一国に、千金に値うる国に押し上げたいのだ。何者にも侵されぬ国にしたいのだ――吾を信じておる皆の為に」
真っ直ぐに、戰の前に立ち、堂々と眸を合わせる。
「今、河国の実権を握っておるのは、丞相である秀という人物です。奴は、吾国・遼が独歩への歩みを止めぬのを苦々しく思い、此度は禍国と組んで、完全に討とうとしておるのです。吾国が鉄の秘術を復古させ、自国が失墜せぬ為に」
燹の言葉に、優と杢が表情を引き締める。
河国丞相・秀とは、11年前の戦で何度も撃剣を交しあっている間だ。忘れようとしても、忘れられるものなどではない。
「恐らく、禍国の方にもその様に話が入っておる筈だ。まあ、どこぞで差止められて歪められておるのだろうがな。まあな、それは何処ぞの国でも同じであろうしな、そもそも吾が責任ではないからな、其処までは面倒はみんぞ」
漸く、灼がにやりと笑う。
禍国の内情を知っているのだぞ、という意思表示だ。
禍国としては、この機会に遼国を平らげ11年前の戦の真の決着を付けるべく、河国の併合をも目論んでおるのだろう、何れ下る代帝・安陛下よりの命令なぞ筒抜けであるぞ、知っているのだぞ、と言いたい訳だ。
どうも灼の中には、自分の中で『格好付け』の基準というものが存在し、それに沿わぬのは己が許しがたいのだろう。どこまでも子供じみているのだが、灼の良い処は、それが欠点ではなく、なぜか彼という人物の愛すべき点として加味されてしまうところか。
戰と真だけでなく、優と杢も苦笑いする。
遼国にこのように禍国の実情たるものが、何故、知れ渡っているのか。
何処の誰の手に寄る情報の漏洩かは、分からない。だが代帝・安が『何処ぞの誰か』に唆されておれば、更に王宮内の政情は複雑怪奇な様相を深める事になる。
然し、禍国と河国の思惑はどうであれ。
祭国と遼国。
この二国は、常に外敵である強国に、その存在を揉み消されようとしている。
そして今は、戦わねば、即ち直ちに滅びへの道をひた走る事となる。
だが。
「滅びてなるものか。踏みとどまり、己の道を選び往こうではないか、と仰るか」
戰の言葉に、灼は力を得たとばかりに頷く。
祭国郡王として、戰は、量産できる鉄が、剣が欲しい。
遼国国王として、灼は、嘗ての技術力復古という悲願、鉄を産出する為に、契国との交易を図りたい。
独立自尊の為には、この暗闇の荒海を漂うかのような地盤を確かなものとしなければならない。
その相手として、手を携え足りぬ部分を補い合う相手として、祭国と遼国は、互いに互いが必要なのだ。
「どうだ、郡王よ。吾と戦ってくれるか――いや」
灼が、居住いを正した。
「ただ今話して、吾は強く思った。郡王よ、貴殿とこそ此の世を面白きものにする為、共に歩み、戦いたい」
国の為に、戦わぬ。
人の為にこそ、戦う。
そう言い切れる男を掌にする男を、灼は信じた。
だからこそ郡王・戰よ、この遼国王たる灼は、此度共に戦う人物に値するのだ、吾を見よと、灼は戰に向かい手を差し延べる。
「頼む、郡王よ。吾が手をとってくれ」
「此方こそだ、遼国王・灼殿」
二人の若い王者は、しっかりと手を握り締め合った。
★★★
話が長引くようであるし、何よりも暇なので、薔姫は宮の厨に向かった。珊と芙と共に、夜食の用意を整える為だ。またしても、握飯と茹で卵である。ただし今回は胡麻を混ぜたものと、魚醤を軽く振り掛けた後に焼いた焼き握飯の二色である。夜中になって冷えてきたので、鶏の羹もこしらえた。食後には、橙の絞り汁で作った、出来立ての乳餅を添えるつもりだ。
しかし、用意をし終えてしまうと、また暇になる。
部屋に戻ってきた薔姫は、手慰みのつもりなのか、組紐を編み始めた。色とりどりの彩に染め上げられた紐は、薔姫の小さな指先がくいくいと小気味良く踊るたびに、鮮やかな綾を織り成していく。珊は芙と楽器や衣装の点検をしていたが、この機会に、ずっともやもやしていた気持ちをぶつけてみる事にした。
「ねえ、姫様」
「なあに?」
「あの……あのさ、さっきの真ってさ、何時もの真じゃなかったね」
組紐から目を離す事も手を止める事もなく、薔姫は、うん、と頷いた。しかし、声は何処か細い。
薔姫も、自分と同じように思っていてくれたのだと思い、珊はちょっと安心した。そして、少し気持ちがぐずついた。真の違いに気がついたのは、自分だけじゃなかったんだ、と思うと、何故か胸の奥がじくじくと厭な感じに湿り、残念に思う気持ちが残るのだ。
「でもね、珊。私、あの時の我が君がね、怖いとか寂しいとか、う……んとね、嫌とか、そういうのじゃないのよ?」
「え?」
薔姫の言葉は、意外なものだった。
句国に、蕎麦と蜂蜜を届けに行った時の事だ。
当時はまだ、王子の身分であった玖と彼の臣下である姜が連れ立って、真に話があるとやってきた。表情を改め、戰と彼らと語らう真は、祭国でいつも見慣れている、大好きな事に熱中する真ではなかった。その時の真は、珊にとっては、真ではなかった。自分が知っている真ではなかった。
正直、真がみんなとしている難しい話なんて、分からないし知りたいとも思わない。でも、難しい話をしている真は怖い顔をしているから、嫌だ。
自分の好きな真は、あんな真じゃない。
好きな事となると目の色をかえて釈迦力になって、夢中になって周りの事なんててんで見えなくなる位に集中してしまう、真。
其のくせ、嫌な事には面倒だと欠伸ばかりして、何とか逃げ出そうとごそごそとしてしまう、真。
極端過ぎる彼を心配していると、のんびりと構えて、大丈夫ですからと逆に気遣って笑ってくれる、真。
其れが珊の知っている、大好きな真、だ。
自分の知っている真じゃなくなるのは、そんな真を見るのは嫌だ。
けれど、薔姫は、嫌ではない、そうじゃない、と言う。
どうして? という疑問がむくむくと心に広がる。
「姫様は、違うの?」
「うん……、上手に言えないのだけど」
違うと思うの、と薔姫は笑う。
「だって、どの我が君も我が君だもの」
「え?」
益々もって、珊にはわからない。
と。
ほとほとと扉が叩かれた。真が戻ってきたのだ。
真が自室に入るや否や、小さな旋風が飛び込んできた。おっと、と言いながら、真はその旋風をしっかりと受け止める。
「我が君!」
「おや? 姫も、珊も。起きて、待っていて呉れたのですか?」
「お帰りなさい、我が君。お疲れ様」
「はい、只今戻りましたよ、姫」
旋風の正体は、勿論真の幼い妻、薔姫だ。
何時もなら、此処までの夜更かしを真は許していない。薔姫も、真に早く寝て下さい、と言われる前に床につく。それでも今日起きていたのは、珊には ああ言ったものの、真が心配だったからだ。
帰ってきても、自分の知らない真のままではないかと、怖かったからだ。
――良かった、何時もの我が君に戻ってくれてる。
安心して、ついつい背中に回している手に、力が入る。
真は中肉中背な方であるが、薔姫は年齢層の中では最も小柄な方だ。だから抱きつくと、真の腹の鳩尾あたりに、薔姫の頭がくる。ぎゅ、と抱きつく薔姫の肩を、真がいつのもように撫でようとした。
その時。
ぐうう。
真の腹の虫が、盛大にないた。
互いに動きを止めて、その後、こそこそと視線を合わせる。ちらりと珊の方も覗き見るようにしてくる。待ち構えていたように珊が、ぶふ~っ! と吹き出した。そしてそれを合図にして、三人は一緒に声を上げて大笑いした。
「いやだ、我が君、お腹でお返事しないで」
「本当だよぅ、何処に口つけてんの」
「すいません、難しい話をすると、どうにもお腹が空くのですよ」
くしゃくしゃと項あたりの髪をかきあげて、背中を丸めている真に、うふふ、と薔姫が肩を窄めて笑う。
「珊と一緒にお夜食作ったのよ」
薔姫の言葉に、真は嬉しそうに笑い、幼い妻の額にかかるさらさらした前髪をくしゃくしゃと掻き回した。
「それは嬉しいですねえ」
「どうせ、そんな事だろうと思ったの。我が君が大好きな胡麻入りのものと、焼き握飯を作ってあるのよ」
「え? 本当ですか?」
「あたいの茹で卵もあるよ!」
「益々、嬉しいです」
有難うございます、珊、と真っ直ぐな笑顔を向けられて、あ・ううん、と慌てて珊は手と頭を左右にぶんぶん振った。
「あとね、寒いから鶏の羹も作ってあるのだけど、食べる?」
「勿論です、いいですねえ」
「お葱たっぷりだから、温まるわよ。お兄上様と椿姫様、お義理父上様と杢も、時も蔦も、みんな呼んで頂きましょう」
用意してまいります、と笑いながら芙が部屋を出て行く。
「持つべきものは、料理上手、お世話上手の妻ですねえ」
――ぐう。
笑う真の腹が、再びないた。




