10 遼国王・灼(しゃく) その1
10 遼国王・灼 その1
列席した各国代表、諸侯の中にあって異質なる存在であるのは、なにも祭国女王・椿姫のみではなかった。
句国新王である玖。
病気を得て伏せている契国国王・邦の名代である王太子・碩。
共に並びての代帝・安への謁見を許されたが、彼らの胸中に去来するものは、果たして何であったのか。
★★★
1周忌が表面上は恙無く終焉を迎えた為、順に座を去る各国の三槐が姿を見送っている戰に、句国王・玖が近づいてきた。
「久しい事です、郡王、益々の清栄ぶり。慶ばしいことです」
「ああ、句国王におかれても、勇健であられたようで、何よりです」
「更に此度は、祭国の女王を妃として迎えられるというではないですか。あのような、まさに靑月の妖精かと見紛う如き美女を妃にされるなど、羨ましい限りだ」
「いや、それは……」
短かな言葉を交わしあう横で、契国王太子・碩が頭を垂れて静かに近寄ってきた。
「郡王よ、お久しい。ご健勝で在らせられたか?」
「碩殿こそ。御国の父上の御容態は如何か?」
「お気遣い痛み入る。……正直、もう快癒する方向には向かわぬだろうと覚悟している」
「其処まで、酷い状態で在らせられたのか?」
「寒気が降りてきたせいもあるだろうが、喘音が途切れぬときがないのだ。痎瘧のように熱が出るわけでもなし、かと言って癆痎でもないという見立ては変わらぬ」
うむ、と重く戰は頷いた。玖も、表情を暗くする。
句国との戦の前に契国にて猛威を奮ったという流行病に、契国王・邦もまた罹患していた。だが流行病とはいえ、流行に周期があるわけではない。しかも急速に広がりをみせた後は伝染するわけでもない。かような不可思議な病な上に、契国以外では見られぬ症状の病だ。
一度罹患したうえは、徐々に徐々に体力を消耗させ死に至る病。
何とか手をうてぬかと戰も真も、那谷と虚海共々に古今東西の本草学や薬学著や医学大全などをひっくり返し血眼になって探し尽くした。が、そのような流行病の症例は、遂に発見する事が叶わなかった。
「お父上を大事になされよ、碩殿。私が言える立場ではないが……」
「いや玖殿よ、お心遣い、有難く頂戴する」
年若い3人の王の談笑は続く。
彼らの背後にて、其々の従者である3人も目配せをし合っていた。
そしてその空気を遠巻きにして、じ……・と、物陰より睨めつけている者があった。
左僕射・兆、その人だ。
見漏らすまじ、と隠れ、密かに見張る兆の姿は、まさに身も心も影と言えた。
★★★
戰と椿姫、そして真と薔姫、蔦の一座が宮に戻ると同時に、舎人が緊張の面持ちで貴人の来訪を告げにきた。
「何方です? 名乗られましたか?」
「は、それが、その」
「……遼国からの御来訪ですか」
真の言葉に、舎人が小さくなりつつ頭を垂れて定する。
主人である戰の立場を思えば、この来客は毒にしかなりえぬと彼なりに慮り、怯んだのであろう。
しかし。
「会おう」
潔く戰は決断し、真も頷く。
深く礼をとりつつ下がる舎人の背を見送りつつ、大人たちの視線が目紛るしく交錯するのを薔姫は頭上で感じた。
と、つ・とその手を柔らかく取られた。早足の芙である。一瞬、ぷう、と頬を膨らませてみせたが、手を引かれるままに、渋々であるが、何も言わずにその場を去った。
自分はまだ子供で、出しゃばった処で、不用意に彼らに気を遣わせてしまうだけだ。それくらいの事を理解出来ぬほど、子供ではない。
一度だけ。
後ろ髪を引かれるままに、振り返ってみた。
薔姫の眸に映った真の姿。
それは、少女の知らない人だった。
★★★
深い頭巾を外した賓客は、遼国丞相・燹その人であった。
遼国の成人男性は、魔除の為、護符を纏うとして鯨面文身となる。燹もまたそれに慣い、顳附近から顎にかけて、不思議な波型の紋様を刺していた。目尻に赫い刺青が見て取れる、視線がやたらと鋭い共連れは、つ・裳を裁き、一歩二歩、燹の背後に寄って身体を低くする。まだ頭巾で面体を隠したまま、明かそうとはしない。
基本的に禍国では、鯨面を民度が低き故と嫌う風土である。故に遼国の者は、禍国に滞在する間は顔を隠す傾向がある。西方の国々でも顔を隠す風習の国はあるため、此れは遼国出身であると隠すにもうってつけの方法でもある。
「初にお目にかかる。我が名は燹。吾が主君、国王灼陛下より丞相の御位を授かり、不肖ながら努めておる身、見知りおきを」
言葉少なに自己紹介をする男は、優と世代的には同じ頃か。その名の示す通りに、野火の如きの深い赤銅色の肌色は凛と張り詰めており、優と比しても見劣りせぬ気力体力の充実ぶりをみせつけている。
ふと、戰が目を細めて燹の背後に控える共連れに声をかけた。
「過日、丁寧な書簡を頂きました、遼国王・灼殿。私が、祭国郡王にして禍国皇子、戰です」
差し出した戰の掌を、共連れは頭巾の下でくぐもった笑い声を上げながら、受け取った。
「よくぞ吾が、灼であると看破したものよな」
用意された居間に入ると、燹の共連れは漸く頭巾を外して面体を顕にした。額の中央に菱形と渦巻、そして目尻に赫々と伸びる鋒のような紋様の刺青を施している。鋭い視線を更に鋭くする為に、敢えて刺しているようだ。年の頃は、30の少し手前、杢と代わらぬ世代のようか。背は真と同じほどの中背と言える身の丈だ。だが体躯のうちに、名のように盛る灼を飼っているかのような赤銅色の肌は、そう、南国の密林という場所に生物の頂点に君臨するという、豹という生き物を彷彿とさせる。野生動物の其れを思わせる筋肉にしなやかに覆われている体躯は、中背であろうとも、彼自身も自ら名だたる武辺者を駆逐する手練であると知らしめている。
「染み付いた歩き方は、隠せなかったようですね」
「ふん?」
「従者のそれではありませんでした、裾と褄先の裁き方が」
「ほお? そんな処で化けの皮が剥がされたものか、吾もまだまだよな」
幾ら着物を変え姿を変えしたところで、所詮、変装は素人だ。王として慣れ親しんだ作法を隠す事にまでは、思い至れなかったのだ。戰に指摘され、灼は己の不明を呵呵大笑する。
蔦にすすめられた椅子に、どかりと深く腰掛ける灼は、その居丈高さもさることながら、尊大不遜な雰囲気すらも逆に王者のそれとして受け入れさせてしまう、不思議がある。鯨面の成せる技か、嫌味に映らないのだ。
「吾は間怠い事は好かん。故に、単刀直入に云う。郡王・戰よ、返答をよこせ」
いっそ清新さすら感じさせる灼の言い様に、くすりと戰は笑みを零した。
「ほう郡王。恐れ知らずにも、吾を笑うかよ」
ぐ、と背凭れに背筋を預けて胸を張る灼の、責め立てる口調とは裏腹に、戰に向けた眸は楽しげだ。
「気を引くにしても、実に子供じみておられる」
殊更、座の空気を粟立たせる為にしているのだろう、と戰が声音に意を滲ませると、灼の眸が眇められた。
「貴様、吾を愚弄するかよ」
「いや、実に素直なお方だ。裏を作られぬ人物であると、お見受けする」
戰が明るく答えると、灼は明白に眉を跳ね上げた。
しかし一瞬の間の後、灼は再び大笑する。笑壺に入り、実に楽しげだ。遼国王・灼という人物は、相当に豪放磊落な人物らしい。
もう宜しいでしょう、と嘆息しつつ燹が主君を戒めた。
「御主君、御主君こそ間怠い。直截に申し上げねば」
「そうか、そうだな、済まぬ相国」
これまでの挑発的な態度は全て棄て、灼は燹に素直に謝る。噂通りに、父親の代からの忠臣の言には、野生動物も温順な飼猫になるものらしい。
椅子に丁寧に腰掛け直すと、灼は少々上目遣い気味に机の向こうに座る戰に、ずい、と身を乗り出す。しかし何処までも、斜に構えたいようだ。
「郡王よ、吾と吾が国は此度、河国よりの完全なる独歩という悲願を成し遂げたいと目論んでおる」
「ついては、此度の禍国の愚挙を逆手にとり、河国を巻き込んだ戦乱を再びと目論んでおいでなのですね」
戰に代わって真が答えると、再び眉根を跳ね上げた灼が、ぎろりと睨んできた。ふん、と鼻息も荒く身体を起こすと、ずん、と背凭れに背筋を預け、踏ん反り返る。黒々とした眸には、何故か其処にも赤銅色の灼が走っているように思わせる。
「先に手を出したは其の方ら、禍国の莫連者どもであるよな? 吾が其の莫連者を利用して、何が悪いかよ」
「悪いと、は申し上げておりません。随分と、馬鹿正直な物言いをされる御方であらせられる、と」
真の言葉に、灼は、今度は前屈み気味にしつつ脚を高く上げてから、組んだ。肘掛に肘を乗せて、片頬杖をつく。この灼という若い王がする仕草というのは、何処かやる事がいちいち芝居掛かっていると言おうか。やんちゃ坊主が、殊更に己を大きく見せようと格好をとっているような雰囲気がある。
灼が、つい、と視線を上げた。
宮女が用意してきた菓子の盆を受け取った椿姫が、円卓に戻ってきたからだ。普段、祭国でしているように手ずから振舞う彼女に、灼は驚きを込めて遠慮会釈なく身を乗り出した。頭の先に光る笄から裳裾の先までを、じろじろと舐めるように見詰める。
「ほう、愛い女だな」
「――え?」
茶器を差し出してくる椿姫のほっそりとした手首を灼はとり、ぐ、と引き寄せた。椿姫が身動ぎして、構える間も与えない。王にあるまじき行いに椿姫が慄くと、灼が更に彼女の躰を押し倒さんばかりに、ずい、と上半身を傾けてきた。
「ああ、実に佳い女だ。其れだけ胸と尻の肉置が豊かなれば、可い子を孕み、乳も良く出そう。育つ子は、丈夫な武者となろうな」
明白に欲をぶつけられ、椿姫は狼狽え、怯えた。
これまでも、幾度も男たちの情欲に満ちた視線の被害に遭ってきたが、この様な、『子を孕み、産み育てるか否か』の視点で躰を値踏みされるのは初めてだ。
味わった事のない恐怖に身体を強ばらせ、逃れる事も考えられない。息をするのも忘れて竦み、身動ぎできぬ椿姫の肩を掴んだのは、戰だった。ぐ、と力強く引き離し、己の胸の内に収める。漸く、ふぅ、と短く安堵の息をつなぐ椿姫を抱く戰の両眼には、燃え盛る怒りが宿っている。殴り掛からなかったのは奇跡であるが、褒められるべきであるかもしれない。
ほう、と灼の唇から、嘲るような吐息が漏れる。
「国よりも、女子を選ぶかよ。この程度の事でいちいち、怒り心頭に発しておっては、とても王などは務まるまいによ」
「なに?」
「何れ遠からず、祭国も何処ぞの国に『入られる』ぞ、と忠告してやっておるのさ」
ふふん、と鼻で嘲笑うすらする灼に、戰は激昂するままに剣を抜きかかる。しかし、灼との間に燹が身体を割り込ませてきた。表情を改めて居住まいを正して、目を伏せ、静かに頭を垂れる。
「あい済まぬ。御主君の罪は吾が罪、斬るのであれば、この吾に刃を呉れてやって下され」
下出に出られ鼻白む戰に、頭を垂れたままで燹が続ける。
「だが、分かって欲しいのだ。吾らが国は、その祖先の御代より、常に河国にこの様に嬲られ続けてきておるのだと」
燹の言葉に、灼が視線をずらせた。胸の中に仕舞うように抱いた椿姫が、つ・と戰の腕に細い指を絡めてきた。
「お言葉、分かります」
「椿?」
「私の国、祭国も、盟主を何度もすげ替えつつ、どの様な嘲笑にも侮蔑にも、笑みをたたえて美として言葉を飲んでこねば、生き延びることあい叶わぬ国柄でした」
椿姫に、おお、と呻くように燹が何度も仲裁感謝の意を込めて頷く。
燹が言うまでもなく、遼国の歴史は、迫害と蹂躙に打ちのめされる苦悩と屈辱の歴史だ。征服者である河国に、まるで瘡蓋のように張りつく事で生き延びてきた。併呑され、搾取され、血を吐きつつも土地に這い蹲ってしがみき、血脈を相承してきた。生口として狩られ、人として扱われず、その産業を下支えする日々を連綿と何十年何百年と積み重ねてきたのだ。
時に高圧的にみせつつ子供じみてみせたりする態度、掴ませようのない弄れた態度は、灼の鬱屈しつつも祖先の血脈を継いでいるという誇りからのものなのだろうか。
此度、皇子・乱が消滅させたのは、邑一つだ。
一邑と容易く言い表すが、邑一つは軽く見積もり、軒千軒5千余人をみる。
子供は斬られ、年寄は蹴潰され、女たちは犯され嬲られ、男たちは無念のうちに坑された。
怒髪天を衝く怒りに任せぬ方が、おかしい。
それを偽り隠す為に、灼は殊更に斜に構えて己を作るかと思えば、むずがるやんちゃ坊主のような態度をも取り続けているのか、と漸く真は思い至った。
膿。
恨みを膿と言い表した、虚海の言葉を思い出しつつ、真は灼と燹を見て、しかし此れは膿ではないな、と思った。
この若い国王からは、虚海が持つ瞋恚は感じられない。
寧ろじっくりと探れば、感じるのは凄まじいばかり憤懣だ。
灼が抱くのは、至尊至霊を共にする輩を仇なされたという赫怒だ。
心の臓には、滾り、天宙に噴き届かんばかりの活火山さながら、赫々と焼け熔け吼える溶岩の如き、義憤という名の激震の怒りを飼っているのだ。
灼の体内にはその名が示す通りに、灼という赫い怒りの溶岩流が、蜷局を巻いて巣食っているのだ。
今。
遼国は全土に、灼が狂わんばかりに渦巻いているのだろう――
灼の赤銅色の肌をすべる汗を眺めつつ、真は思った。




