9 蜀(むし) その2
9 蜀 その2
1周忌の前に、戰と椿姫は共に代帝・安との謁見に臨んだ。
先の戦の褒美として、椿姫を妃にと望んだ戰であるが、此度、正式に婚儀の許しを請う為である。
先ずは代帝・安から直々の許しを二人共々に受けねばならない。
此れは直接的に「許す」の一言を貰い受けるのではなく、間接的に二人、特に椿姫以上に妃として相応しい女性はいないと認めさせる言葉を引き摺りださねばならないのだが。
が。
「そんなもん、あの古狸も一目散で逃げ出す、肉饅頭も真青けっけのでぶ女狐、いや女豚のこっちゃ。一筋縄で行くもんかいな、気ぃつけなあかへんで」
と、評した虚海でなくとも、戰も真も椿姫も充分過ぎる程に、心得ていた。
★★★
「よお来おったの。許しを与えてやる故に、近う此れへ参るが良いぞ」
戰と椿姫が、玉座に身を深く沈める代帝・安の言葉に従うと、ほほほ……と声が二人の頭上に降りかかった。
祭国如き、蜀の如き国の王を名乗る椿姫に対して、明らかな侮蔑を含んだ其れにも、しかし少女は動じない。そして其れが、老婆の域に差し掛かっている女にとって如何に癇に障るものであるか、正確に推し量れる者は恐らく此の世に存在し得まい。
「此度、安陛下の御温情により、我が正妃として祭国女王椿陛下を迎え入れる事、叶いまして御座います事に、心より……」
「御託はよいわえ」
戰の言葉を断ち切り、ぬらぬらとした眼光で安は椿姫を睨めつけた。
平伏し、最礼の姿勢を崩さぬ椿姫が、微かに背後に促しかける。更に服しつつ付き従っていた蔦が、手にした宝物箱を掲げながら、そそと歩み出た。
「ご笑納下さりませ」
訝しみ、目を眇めながら控えていた殿侍に、安は弛んだ顎を刳る。
殊更に時間をかけて歩み寄るのは、それが厳かさを醸すとでも思っているからであろうか。しかし、宝物箱を受け取った殿侍に蓋を開けさせて、遠めながら中身を改めた安は、あっ!? と、喉を震わせた。
「こ、これ! そ、其れはなんぞ? も、もそっと近うに寄れ、は、早う!」
然し、殿侍は定められた為来りにより、漫ろ歩きしか許されていない。半瞬が万秒に覚えながら、安は殿侍が宝物箱を捧げ来るのを待ちわびた。
漸く、手の届く位置に掲げられた宝物箱の中に涼やかに納められていたのは、絹織物であった。
このような美しい薄物織は、見た事も、いや聞き及んだ事すら、ない。
元来、女性とは見目美しい者に食指を伸ばさずにはいられぬものであるが、安とてもそれは同様であった。
「此れなるは、如何なる織物であるか」
震える声で震える指で、安は絹織物を鷲掴みにして取り出した。
まるで手にしていないかのような、軽やかさだ。
光りを透かしているかのように、向こうが垣間見える。そう、まるで天女が纏う披帛そのものが、世に姿を現したとしか思えぬ麗しさだ。しゃらしゃらと手に、衣擦れの音も艶やかに絡む。
安は女性の心を取り戻して、うっとりと絹織物に見惚れた。知らず、肩口から胸元へとあてがい、絹織物の音色と肌触りとに、惚れ惚れと熱い吐息を何度も漏らした。
「新たなる、織物に御座います、安陛下」
「何と!?」
戰の言葉に、安が目を剥いた。
確かに、敢えて言うのであれば、羅に似ている。
が、糸の縒り方も布地の織りも、羅とは違う。
羅に似ているが、羅の糸の縒り方でも織り方でもない。
「私が、新たに、織りだしました」
椿姫の言葉に、安がごくり・と喉をならす。
「ほう……もう、名は定めたのか?」
「いいえ。仮に紗としております」
「ほう、紗、とな」
椿姫の言葉に、安が目を細めた。確かに、この衣擦れの音からするに、命名するに相応しい名であった。
しかし。
「良き名ではないか。何故、定めずにおる」
「はい、是非に、陛下に定めて頂きたく存じ上げます」
椿姫の言葉に、ほっほほほほほほほ、と安は高らかに笑った。
薄絹である羅は、その製法の特異さと役割により、男性にのみ纏う事を許された特別な絹織物だ。しかしその美しさ故に、後宮の女たちは皆、羅を衣装に取り込みたいものだと常々衣の袖を噛んで耐えていた。
その羅に劣らぬ、いや、勝ると言っても過言ではない、豪奢な織りの薄絹を、椿姫は献上品として携えてきた。
しかも、まだ名を定めていないという。
新たなものの事始たる名付は、後世にまで誉れとして己の名を残す。其れは、戦に大勝する事などよりも栄誉とされていた。
此れほどの持参金を献上する妃は、望んでも得られまい。
何よりも、この絹を纏い、御霊祭に挑み、居並ぶ男たちの度肝を抜いてやりたい欲求がふつふつと腹を満たしていた。
安としては、許しを与えぬ訳には、いかなかった。
恍惚となりながら、薄絹を頬に当てる。
「では、この私が改めて紗の名を、この薄絹に与えて遣わす」
此の一言をもって、安は、戰と椿姫の婚儀を進める事に異論無きと明言したも同然となった。
★★★
1周忌。
と呼び習わすが、平原の民の間、特に貴族以上の支配者層においては御霊祭とした方が馴染みが良い。霊璽霊廟を警蹕を行いつつ祀るのだ。
1周忌には、先の百箇日の法要より広く人々が集う。
祀ってある御霊代である霊廟、即ち陵墓を披露目る目的でもあるが故、一種の祭りとなる。
然しながら椿姫は、未だ戰の妃としては入宮してはいない。
先ずは、代帝・安に椿姫をして、椿姫が戰の妃であると認めたる女性であると周知させねばならない。
そして先帝・景の娘である王女として、薔姫も席次は用意されており、その夫君である真も、当然彼女と並びて挑まねばならなかった。その為、礼法に則り、朱子深衣に身を包んでいるのであるが、相変わらず、もそもそと身体を揺すっている。
「面倒臭い、って思っていても口にしては駄目よ、我が君」
幼い妻に先んじて釘をさされてしまい、おや、と真は苦笑いした。
代帝・安に、口先だけでなく認めさせる為に共に彼女の元に向かっている戰と椿姫とを案じつつも、この様な政治の場に出ねばならぬ己を蔑視している真は、腹の中で何度も何度も、面倒臭いことですね、と呟いていたからだ。
「最近の姫は、怖いですねえ。私の考えている事を、こうも分かってしまわれては、心の中ですら、迂闊な事を呟けないじゃないですか」
「だって、そんな風にお顔にかいてあるのですもの」
おや、ばれているのではなくばらしていましたか、と肩を竦めつつ真は薔姫と共に歩き出す。うふ、と小首を傾げつつ笑う薔姫が、真を見上げた。
二人で並びつつ薔姫の母である蓮才人の部屋に向かう途中で、真は、知らぬ人物に強い視線を投げかけられた。
王女である薔姫に対して礼の姿勢をとりつつも、真に対しては、何故この男に己が謙らねばならぬ・という意思を隠しもしない。無論、無位無官無職人である真は、弁服を纏ったこの男に対して礼拝を捧げねばならない。
不思議な対決の中、真はゆっくりと男を探る。
鋭い視線だ。
だが、顔を合わせた事はない。
其れであるのに、軽蔑を超えた、いっそ清々しいほどの慢侮を込めた視線だ。真は、己が蔑みを受ける事をその出自から常である為、慣れている。然しながら、この男の視線には、己を縊ろうとする意思を、憎しみを感じる。
王宮のこの様な場所に出入りし、更に纏っている弁服の品位から数えて探るに、正三品従四位の下の御位か。
という事は兵部尚書である父・優とほぼ同等の地位を有している。
然し、単純に文官朝服の緑鳳弁服ではなく、上衣に羅を更に纏っている処から察するに、その地位が表す処といえば一人しか思い付かないしかない。
成程。
この方が乱皇子に仕えている、左僕射・兆という方ですか。
此れまでは、父親である大令・中が表に出ており、且つ彼自身が目立った動きを見せる事なく来ていた為、注意を払ってきていなかった。
こうしてこの場に居るというのは、偶然を装いつつ、なのか。
或いは態々、直接堂々と確かめに来たという事なのか。
――両方でしょうか。
何れにしろ、何かしら企んでいるのは必定であり、これで戰の身辺には、新たなきな臭さが漂うことになった。
やれやれ。
また面倒臭いことになりそうですね。
真は腹の中で、深く嘆息した。
★★★
其々の思惑が複雑怪奇な紋様を描くなか。
1周忌が始まった。
本来、禍国においては社稷祭祀の類は太常寺が仕切られるものであり、また陵墓を管理するに至っては帝室の宗廟を守る宗正寺の管轄である。
であるのに、祭国をして執り行われるに至らしめたのには、偏に、彼の国の女王と姻戚関係を結ぶが故に栄誉を賜らせ、且つ遼国への人頭狩りを祭国が認めたと、各国に先んじて知らしめる為でもある。
歴史に浅い禍国は、祭祀国家である古式ゆかしい祭国の名を借りて、人頭狩りを正当化せんと利用したのである。
そのような代帝・安の思惑が腐臭の如く漂う中。
宵に向かつつ努められる御霊祭の警蹕において、一際、呈色光彩を放ち、参列者の度肝を抜いたのは、只中に舞う、祭国の女王の存在であった。
いっそ、おどろおどろしいと言える警蹕の声が低く轟くなかに、椿姫はひとり、舞う。
身に纏うのは、晒したばかりの色味のない楮織の 貫頭と 大袖、下襲の衣に裳、朱色染の麻を使った段だら織の細帯の 襷と倭文布、そして頸珠は 碧玉の勾玉の玉一つきりのみ。
しかし、居並ぶ先帝の後宮の美姫の金糸銀糸を箔された絹裳姿などより、代帝・安が閃かせる紗で仕立て上げたの披帛などより、尊い煌やきを放っている。
ただひたすら一心に、御霊を鎮め鎮魂を祷り、舞う――舞う舞う。
幽き月光に滲む影すらも、追舞するかのように、舞う。
まるで儚い虹橋を呼び寄せ、其れにのり天帝の元へと魂よ飛べと念じているかのように、舞う。
響く警蹕の音は、坑された人々の魂の呻き。
なれば愛しき命よ頽れたままにはせぬと、坑の奥で蠢く嗚咽落涙の一滴までもを掬い助けると己に課して、舞う。
その一途さから額に浮かぶ汗すらも、白椿を己が主の月と違え、此の世に現れた麗しき靑月蛾の翅から零れる鱗粉の如き輝きをみせる。
ただ一つ、胸で跳ねる勾玉の鈍い煌きは、天涯の神が寄越した鶸色の泪かと見紛う揺曳を見せる。
見る者全ての心魂を激しく揺さぶり、この時限りは、彼女に感じ入り、皆が心に涙を浮かべたのであった。
だが、ただ一人、別の次元に揺らぐ存在があった。
そう、代帝・安その人である。
よもや、此の様な手段にて、仕掛けた戦に対峙してこようとは。
椿姫が、己が率い差し出した警蹕の為の雅楽の一団の、よもや当主として現るとは、思ってもいなかったのだ。
白椿の妖精が舞は終焉を迎え、しん……とした康寧さに満ちた静寂閑雅な刻がその場を支配する。そう、まさしくこの一刻のこの場においての支配者、否、勝者とは、代帝・安ではなく祭国女王である椿姫のものであった。
――おのれ、属国の小娘風情が。皇子にして郡王たる男の妃に収まったが途端、愚かしくも我を張るか。
啓蟄にて湧き出た蜀の如き国の王を、名乗る小娘が――今にみておれ。
無様に肥太った肢体を抱える代帝・安は、この陵墓存在全てに対して異を唱えるものであるとする答えをその舞に見出し、怒りに戦慄いていた。




