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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
五ノ戦 紅塵万丈

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8 勝者

8 勝者



 隣で、がくの、うーんという声が上がったので、ふと、真は視線を上げた。

 虚海こがいを相手に、学が口述問答を解いている最中だった。

 真が戦に出ている間、学術的な事は那谷と虚海こがいが学の師匠となっていたという。もう間も無く、戰も真も、先帝・景の1周忌の法要の為に再び禍国に向かう。その為、引き続いて虚海たちに教えを請う事になっていた。

 禍国に入る前に、一つでも多くの書簡を編しておこうと急ぐ真の隣では、つうが真の頼みをうけて算出したこがねの木簡の束を抱えており、るいは真の更に上を行く速さで筆を動かし書類作成に没入している。

 彼らを横目にしつつ、布団の上で肘をついて横になった虚海の前に、膝を揃えて学は座っている。


「どうやな? 分からへんかな、坊ちゃん」

「はい、分かりません。私には此度の戦で一番得をしたのは、矢張り蒙国皇帝だとしか思えないのです」

 虚海の問いかけに正直に答える学に、真は柔らかく目を細めた。

「おやおや、流石は真さんやな。答えが分かっとるらしいで」

 虚海の言葉に振り返った学が、膝を使って真の方に向き直る。

「お師様、私にはどうしても分からないのですが、お教え願えますか?」



 この戦で、一番得をしたんは、実利を得たんは誰やな? と虚海に問われた学は、半瞬置かずに「其れは蒙国皇帝です」と意気込んで答えた。いつも遠慮がちに答えが正答であるかどうか、探りをいれるように丁寧に答える事が多い少年には、珍しい事だ。絶対的な数の不利をものともせずに大勝利を手に凱旋した戰が、子供心にも鮮烈に焼き付いたのだろう。その為に、自ら意識的にこの戦について調べ上げたに違いにない。

 学に付き添い、剣や弓や馬術に留まらず、戦術戦略の知識面においても鍛錬し教鞭をとっているのは、もくである。杢は、元々は真の父親である兵部尚書・優が自らの後継者にと望んで仕込んだだけの事はあり、単純に武術に優れているだけではない。事変の流れについても、深く洞察し、読む識眼にも優れている。

 その杢に、此度の戦の全体全容について自ら乞い、細微に至るまで己が納得ゆまでの教えを受けてきたのだろう。そうでなくては、容易く蒙国という国名は出てこない。



  ★★★



 此度の戦。

 先ず、禍国においては考えてみる。

 戰が率いる禍国郡は、句国王・番と王太子・みちとを討取り天下に轟く大勝利をおさめた。

 が。

 皇太子・天が率いる3万の兵はその数を結局1万にまで減らす大失態を犯している。大切な兵馬を失った事には変わり無く、軍備の弱体化が危ぶまれている状況だ。そして、それに気が付いているまことの忠臣たる人物が取立てられておらぬ、という事が最も重要視されるべき瑕疵かしであろう。

 そして此処、祭国においては。

 先の戦において、国を挙げての勲一等の戦功を捧げた。

 が、未だ、宗主国である禍国の支配の傘から逃れ出る事が叶わずにいる。

 そもそもが、参戦したと声高に叫んでみたとて、たかだか百騎十組の千騎の騎馬隊なのだ。大仰に胸を張って、戦功を誇る事など首筋が寒くなる思いにて、ただ面映いばかりだ。

 大国に一気に攻め入られれば、どうなるか。未だに心もとない実情を抱えている。



 契国せつこくにおいては、何としたものであるか。

 同盟主国である剛国こうこくを裏切って禍国に近づいた上に、句国と戦う前の疫病にて大勢の自国民を失ってもいる。その人的被害は最大であろう。また、禍国皇子・戰の意のままにせねば句国に蹂躙されていたであろう事実は、周辺諸国に知れ渡っている。王・ほうの権威は失墜した。

 同盟主国である剛国王に対し、ことを収めるべく必死の画策中であるらしい。が、禍国軍総大将としての戰は、契国に何も朝貢を望まず全てを安堵すると約して過ぎたが為、国はようやく平静を取り戻している。


 句国くこくにおいては、如何であるものか。

 同盟主である禍国に反意を示した上に、あまつさえ裏で蒙国に擦り寄り、契国に戦いを挑み禍国国領を掠めんとし、結果、何を得ることもなく禍国に大敗を喫した上に、国王・ばんと王太子・みちを失った。が、正王妃の腹の王子・きゅうが正統に王位を継ぎ、新たな王として即位した。此れにより、句国内にはさしたる動揺が走る事もなくかえって祭国郡王である戰との繋がりを保てたと国の意気は盛んである。

 但し、同盟主国禍国との関係修復は急務であり、一度道をあやまれば国は滅びへの一路を辿る事になる。新国王・きゅうの外交手腕に、国の存亡全てがかかっている。


 備国ひこくにおていは、如何に見るべきか。

 宗主国蒙国を後ろ盾として剛国に戦いを挑んだは良いが、結果的には隣接している国領の多くを剛国に譲渡し、剛国王・闘の名において国王・よくの王位を剥奪し後主となさしめ、王子・いきへの受禅じゅぜんを行わせた。怨みを抱きつつ後主となったよくは憤死したが、新国王・いきは宗廟を奉るどころか陵墓すら亡き父王に与えなかった。

 此れにより、剛国への随従の姿勢をみせたのであるが、その深淵には苛烈なまでの怒りの蜷局とぐろがありありと見え、逆に新王の心火と共に燃ゆる存念で民草が一体となっているという。



 剛国こうこくにおいては。

 備国との戦に勝利を収め、禍国に恩を売付けた。が、契国が離反し、国王・闘の治世の始まりに泥を塗られた感は拭えない。

 しかし、蒙国からのたっての執り成しの申し出を受け入れる形をとり、蒙国皇帝妃・來依麗らいら義理妹いもうと姫・世亜羅せあらを剛国王・とうの妃として娶る事を承諾した。

 此れにより、剛国は禍国に匹敵する程の強大な帝国への道を歩みだした蒙国と、深い血縁けちえんを結ぶ事に成功した。この事実は、こん山脈より以西への足掛りをこじ開けたと言って良い。中華平原を正面に臨みつつ、こん山脈以西へも貪欲に歯牙を向けようという魂胆を、隠そうともしない。

 いっそこの国王・とうの豪胆腹の程を、褒め称えるべきだろう。


 では。

 蒙国もうこくにおいては?

 蒙国皇帝もうこくこうていを名乗るらいは、句国をけしかけ契国を討たせ禍国をも巻き込ませ、更に自国の属国である備国をして剛国を伐たせにかからせた。その間、こん山脈以西の国である土琉久どるく国を属国と成しその公女・摩邇まにを妃の一員として後宮に収めさせ、更に隣国冴々無ささん国をも攻め、王女・衣李朱いりすをも妃として後宮に収めさせた。

 国を剛国に良いようにあしらわれたように、一見感じられるが、その実、国力においては比ぶるべきにも在らぬ大国である剛国と血縁になったのだ。備国如きを捨てたとて、こん山脈以東の足掛りとして、剛国ほどの国は、今はあるまい。



  ★★★



 以上の事を踏まえて考察すれば、導き出される答えは一つ。

 蒙国皇帝・雷が最も実益えきを懐に得たとしか思えない、と学は言う。

 剛国か蒙国かで悩む処を、迷いなく蒙国と答えるのは、多くの後宮を得た事により配下となした国々の乱を憂えるよりも、虜として懐柔なさしめる手腕があると蒙国王・雷を評しているからに他ならない。


 たかが8歳の幼さで、此処までの情報を欲して杢に喰らいついて言葉を得、遂に答えを蒙国と見定める識眼を持つとは。

 何と素晴らしい慧眼の御子であろうか。

 椿姫の兄王子・かくの英知さと、母親・そのの聡明さと、二人の良い処をより良いように手繰り寄せ、我がものとして体内に宿している御子の才智に、真は内心で舌を巻いた。

 是非とも、このまま素直に、王者としての資質を健やかに伸ばして頂きたいものだと真は願っているが、其れは真の後を受けて教えを授けている虚海こそが、感じている。

 素直過ぎるこの少年は、何か難敵にぶつかれば折れて消えてしまいそうな程の危うさも兼ね備えていると、虚海は見えてしまっている。

 それは奇しくも、少年の父親であるかくを彷彿とさせ、被るものであったが、さてさりとて、何れ王者となるべきこの少年にとって吉となるか凶となるかは、まだ推し量るべき時期でもなかった。



「お師様、一体何処の国が、最も実を得たのでしょうか?」

 少年の言葉を飛び越え、真は虚海をじっと見据えながら、答えた。


露国王ろこくおうせい陛下です」

 真の答えに、虚海は、のっほっほ、と笑いながら瓢箪型の徳利をぐい、と傾けた。



  ★★★



 露国王ろこくおうせい


 全く言葉の端にも登らなかった国と王の名を告げられて、えっ!? と学は目を丸くした。

 少年の背後から寄る人影が、真の代わりに答える。

「どのような理由があろうと、戦を仕掛けた時点で負けなのだよ、学。露国は、今のこの議題に名を登らせなかったが故に、勝者なのだ」

「郡王様、それはどのような意味でしょう?」


 現れたのは、戰だった。

 虚海の前に座ると、師匠への礼の姿勢をとる。虚海がどのように戒めても、戰は虚海への礼拝をやめようとはしない。それは彼の中での、一種のけじめのようなものであるのかもしれない。

「周辺諸国が此れだけ戦に明け暮れる只中、ただ一国、戦に手を染めずにいる。それが何れ程の成し難い事であるか、まだ、学には理解せよと言うには難しいかな?」

 礼を解いた戰が、学に視線を落とす。慌てて、少年は視線を膝の上に丸めている己の小さな拳に落とした。

 出会ってもうじき1年になるが、その間に少年の身長は2寸程伸びた。もくに鍛えられて、身体も丈夫になってきたと学は子供心に思う。それでも、6尺を超える、戰の堂々たる体躯には遠く及ばない。

 いや。

 体躯という見て呉れだけを捉えて、どうこう云いたいのではない。

 正面に存在する戰は、文字通りに『王』としての風格を感じるのだ。普段、笑顔を絶やさず、場の空気を和ませる優しげな空気を纏った姉姫と慕う椿姫と共にいる姿からは、想像できない。


 此れは恐怖によるものでは、ない。

 畏怖である、と少年は理解している。

 そうこれは、おそれなどではない。

 戰という、そびえる先達とも言うべき人物が、己を真綿のように包んで守り通してくれているのだ、豊かな愛情からくるものなのだ、と直感的に理解している。

 だが同時に、学にとっては、まるで己などには、何時までも永久にたどり着く事は出来ぬと境地であると宣言されているような、そんな圧迫感に似た哀しみを感じる。

 そして、早く同じ位置にまで到達したいという、焦りに似た憧れも。少年が一度は抱く、父親への羨望に近いのかもしれなかった。

 学は心が湿り、学はぐすりと鼻を鳴らして啜り上げた。


 知らず、鼻を鳴らしてしまった事を学が慌てていると、戰は微笑み、気が付かぬ振りをして言葉を続けてくれた。

「戦わずに勝利を得るのではなく、勝利を求める事をも捨て戦わぬ事を選んだ。露国王の素晴らしさは、この一点に尽きる。全くの中立を貫き通し、どの国の盟友であるとも意を表さずに、此度の荒波を乗り切った。漁夫の利や一挙両得を求める事は、自国を自らを戦渦に落とす事に他ならない。戦とは、何れ程立派な題目を唱えていようとも、詰まる所、より国力をより傾けた方が敗者となる。長い目で見た場合、露国のように戦に出張る回数がより少なき者こそが、勝者となる」

「……つまり、此度この中華平原に属する国々において、戦に参加せずただ傍観していた故に、露国こそが、最終勝者という事になるのですか?」

 納得がいかない、という顔付きで学が唇を尖らせる。

「学様、不服ですか?」

「はい、お師様。矢張り、戦って実益をあげてこそ勝者と讃えられるべきです」

「では、4年前、此処祭国と禍国との間で行われた戦において、郡王陛下は勝者とは名乗れませんね」

 学が、真の言葉にあっとなる。なりつつも、食いさがった。

「それでは、燕国えんこくはどうなりますか?」

「燕国は、我が祭国とそして郡王陛下と既に国交を開いております。我が祭国産の蕎麦の種と、此度禍国で始めた綿織物の綿花の生産も燕国です。つまり、戦う前から、我らが同盟と意思表示を示しておられます。故に、次に我が祭国にて事あらば、お味方となられると捉えられましょう。さすれば、敵の鉾は我が国との連携を絶つ為に、燕国に向きましょう」

「あっ……」

「しかし、露国は違います。郡王陛下と露国王・静陛下の妹姫君であらせられる初姫様との婚儀をないものとされた後は、徹底して他国との関わりを絶たれておられます。この先、戦により疲弊している各国が何かしら自国で賄えぬものが生じた場合に、真っ先に思い浮かべるのは露国です。露国王・静陛下は、思うままにそれらの国々を翻弄しつつも最も実益えきのある国を懐に寄せれば良いだけのこと」


 理解できてきたかな、学、と戰が少年の肩に手を置いた。

 長く、美しい手指をしているが、紛れもない武人のそれである証拠に、掌は分厚い。それすらも少年にとっては、感嘆と羨望の眼差しを集めるものであった。

それでも学は、溜め息を、ぐっと飲み下した。

 迫る別離の刻は近い。

 今は、少しでも多くの言葉を、この尊敬する郡王と師匠と慕う年長者二人と交わしあいたい。言葉の端まで拾いあげ、己が物として吸収できるこの貴重な時間を、例え一瞬の瞬く間であろうとも長らえたいと、学は必死だった。

「自ら戦を起こして事を収め、解決しようとするのは所詮は下策、君主や国王が取るべき道ではないのだよ」

「例え其れが、意に沿まぬもの、他国からの侵略より自国の民を守るものであったとしても、ですか?」

 そうです、と真は強く頷いた。

「自国に他国を呼び寄せる事自体が、国王として己は役立たずであると物語っているとお覚え下さい。この国と戦をしてはならぬ。この国と手を携えてゆかねば何れ自国は立ち行かぬ、と他の国々の王侯将相に感じ入らせてこそ、とお覚え下さい」



 戦とは。

 負の方向にのみ働く巨大な消耗行動だ。

 一人の兵士を失えば、その一人が守り養う背後の民が路頭に迷う。

 路頭に迷った民の持つ田が焼かれれば、その畝にて産出される扶持米が消えより多くの兵士が飢える。

 兵士が飢えれば戦いと成りえず、より多くの兵馬を失う。

 この連鎖が、巨大な渦となり、国土を襲う。

 其れが戦だ。

 勝利のかんを得ようが、負杯を飲まされようが、変わり無い。

 

 戦において、人は常に『幾千・幾万』という()として見られる。

 然しながら、其れこそが、国の頂点に立つべき人物が最も行ってはならぬ事柄の一つだと、多くの王者君主は気付かずに、人を戦に駆り立てている。 

 家を建て、田畑をおこし、牛馬を飼い、絹綿を紡ぎてはたを織り、山にいりては柴を打ち、木の実を拾い、獣を狩り、堤をたちあげ、道を整え――それらを行うのは、国を作り上げているのは、人であるというのに、だ。

 国を造ることが叶う場にこそ、人は集い合い人として生きられる。

 然しながら、この、人が人として成り立つ世と成るのに、一体何年かかると思い至る王者の何と少なき事か。



 人が土地にて行う、連綿たる営みが滞ることなく行われるからこそ、人は人でいられるのです。

 国が人地を失えば、一人の命と命を養う地を取り戻すのに、幾日幾年掛かると想像なされた事はありますか?

 人地くして、国は成り立ちません。


 戦とは、その人地を掛けて行うもの。

 故に、此の世で最も愚かな行いなのです。

 故に、起こす事も飛び込む事も、王者は選んではならぬのです。



「戦で得られる実益などは、此の世には何一つないとお覚え下さい。しかし戦とは、此の世で最も愚かで怨害えんがいを産む行いであるが故に、一度ひとたび事起きた以上、決して負ける事は許されぬです。戦う以上、負けてはなりません。民と民の命を紡ぐ地を預かる以上、勝利は必然でなくてはならぬのです」

 真の言葉に、学は深く頷いた。膝の上に置いた小さな握り拳が、熱く感動に震えている。


 すると、瓢箪型の徳利と傾けつつ、虚海が横からのっほっほ、と笑った。

「そんでもな、坊ちゃん。人間生きとったら、なんや此奴め糞たらめ、言うて訳わからんうちに戦わなあかへん事の方が、実はほとんどなんやで?」

「え?」

本当ほんまやで。今まで真さんが言うたんは、ただのええ格好かっこしいの方便、見た目だけ取り繕った御題目や」

「ええ?」

本当ほんまやでえ。今しがた真さんが偉そうに言うたんな、こんなもん、いざ・っちゅう時にゃ、糞の役にもたたへんわ。鼻糞みたいな嘘っぱちなもんばっかりやでな、覚えへんかってもええで坊ちゃん。忘れてまい」

「え、ええ?」

「坊ちゃん、こんな偉そうな事を真面目くさって言うとる真さんがやな、一番言うとる事と反対の事を平気でしてまう、道を外してまいやすい、危な~い危険なお人なんやでえ。ええか、坊ちゃんのお師さんはな、恐いお人なんやでえ、見せたりたいわ」

 よお覚えときな、と徳利を傾けつつ、のっほっほ、と虚海が楽しげに笑う。

 学が、を困惑に瞬かせつつ慌てて振り返ると、真は、珍しく照れたように首を窄めていた。



  ★★★



 二位の君。

 そのように、いつの間にか蔑みと憐れみを込めて呼び称されるようになってから、幾年経つのか。

 ふつふつと滾る思いを抑えつつ、乱は部屋の窓から零れる月光に、ふと、視線を落とす。ふん、と鼻で嘲笑うと、ほのかな夏の名残の風に揺蕩う光を、足下に踏付けた。


 意味などはない。

 いや、ある。


 もうじき、父帝・景の1周忌が執り行われる。それに合わせ、先の大戦の立役者であるという面目をさげ祭国郡王となった弟皇子・戰が再びこの禍国の領内に入る。奴の栄光とは、この月光のようなものだ。ほのかであり、満ち欠けにより強くも弱くも遂には消えもする。踏み躙りつつ、何れ奴自身の身体を直接にと心に黒く念じて、子供じみた行為に耽る。

 戰の奴めを追い落とせば、天の奴めが墓穴を掘った以上、時代が求める皇帝はこの私をおいて存在し得ぬ。

 思い知らせてやるぞ、戰め。


 その汗染みた影を、更にじっとりと睨めるように見詰める影があった。

 大令・中の息子、左僕射さぼくやじょうである。

 しかし、直接的な親子ではない。

 彼は大令・中の養子であり、実父はじゅう――そう、あの大使徒・充である。


 じょうじゅうの三男として生を受けた。

 長男は家督を継ぐ為に。

 そして二男は憂慮すべき自体の為に止め置かれる。

 兄二人は、過分な程の教育を施されるが、以下に生を得た男子は悲惨だ。ほぼ全員が、日陰の存在となり顧みられる可能性など皆無に等しい。

 兆も御多分に漏れず、全く見向きもされずに幼年期を過ごした。俄かに父に必要とされたのは、叔父である大令・中の実子が突如病を得て此の世を去ったからだ。父である大使徒・充は、兆をして、弟である大令・中の義理息子として送り込んだのである。


 馬鹿にしている。

 兆の中には、うらぶれた気質が育っていなかった、と云えば嘘になる。が、それでも父親である大使徒・充のやりように、其れまで僅かながらも父親として仰ぎ見て抱いていた尊敬の念が、落魄するように消え去った。

 長兄は家督を継ぐ為の大事の身。

 そして続く次兄は、陰日向になり長男を支え家門の有事の際には後に入る為の大切の身。

 だが己はどうだ。

 たかが、叔父を取り込む為の、楔としての質入れ品ではないか。


 馬鹿にしている、と兆は再び心に刻む。

 この時以後、兆の中に暗い焔が灯ったといえた。

 二位の君と貶められるこの皇子・乱も、己と同じだ。決して常では顧みられる事もなく、歴史に名乗り出る機会すらも与えられずに朽ちていく身の上だ。

 ただ、ほんの僅かばかり、此の世に息をしに躍り出るのが遅れたばかりに。

 そんな事が、だが、許されてよいのか?

 人はもっと、正当に、能力によって評価されるべきではないのか?

 大令・中の下で、仮宅の猫のように小さな振りをしつつ、兆は考える。


 己を輝かせねばならぬ。

 その為には、誰ぞ皇子を利用せねばならぬ。それは誰だ?

 ……それ、それは目の前に居るではないか。

 この盆暗皇子を、骨の髄までしゃぶるように利用しつくしてやれば良いのだ。

認めさせてやるのだ、己を、ただ産まれた順番でのみその価値を測ろうとしなかった愚か者どもに。

 その為には、国内外を問わずありとあらゆる人物を、己のたなごころにて踊らせねばならぬ。


 だがしかし、と思う。

 己の才覚を活かし輝かせるのに、この皇子では物足りぬ。

 見渡し、眼力に叶う人物を探し出せば、ただ一人いちにんしか居ない。

 ――そう。

 今や郡王となり先の大戦の大勝利の立役者としての誉れ高い、皇子・戰だ。一廉の者と自負しておれば、天然自然と知れようものだ。凛々しく屈強な体躯、美々しく秀麗な眉目、その好様よさまは正に文字通りに暉映きえい晴天の陽光をも駆逐する綺羅星の如しである。


 しかし、その戰の傍らには、常に寄り添う影がある。

 そう、宰相にして兵部尚書である優の側室の息子、真とかいう名の男だ。

 馬鹿にしている。

 何故、あのような側妾腹の男が、したり顔で雲上に出入りしているのだ。

 穢れた血を持つ賤臣めが、馬鹿にしおって。


 じょうは腹の中で熾烈なる毒を含んだかげを育てていた。


 

  ★★★



 背後にて、密かに怖気に震える気配に気が付いた。

 じょうがぐるりと視線を巡らせると、はくが部屋の沁みのように存在を無くして縮こまり、控えていた。に顎を刳って呼び寄せる。細めたから零れる眼光の鋭さに、博が身を竦ませ平伏つつ進み出てきた。


「露国王の元に行け」

 差し出した小さな書簡を、博はぶるぶると震える手で受け取り、袂の奥深くに仕舞いこみ、そそくさと退出して行く。

 目を眇め、醜態を見送り終えると、兆は改めて乱を凝視する。ふと、その乱の痴態がひたり、と動きを止めた。ぬらぬらとした涎を垂らした口角が釣り上がっている乱の顔ばせは、厭忌にたえない。しかし、兆は堪えた。


「兆よ」

「はい、乱殿下」

「途中、至らぬ事柄は多々あれど、此れまでの、貴様の忠義は褒めてとらすぞ」

「恐悦至極に存じ上げます、乱殿下、然しながら」

「ぬ?」

「臣へのお誉めのお言葉は、僭越ながら殿下が陛下となられました折に、頂戴致したく存じ上げます」

「ならばお前には、酒でも呉れてやろう」

 兆の言葉は明らかな諂いであるというのに、乱は満足気に頬を弛ませる。そして、高らかに嗤いながら酒膳を用意するよう、居丈高に命じた。

その背を、隠れて兆は睨めつける。


 愚かな――何と浅墓で痴愚蒙昧ちぐもうまいな男なのか。

 皇子であるという以上、何の価値もなき貴様如きが、この私の君主面をするとは、何たる世の中か。


 馬鹿にしている。

 何れ、存分に思い知らせてやる。

 そう、私は常に勝者と共にある事こそが、否、勝者となる事こそが相応しい光徳高貴の身。

 我が手中にある切り札を元手に、郡王・戰を操る地位に登るのは、私こそが得るべき誉だ。

 私には、その品位品冠があるのだ。


 だが其れを成すには、あの男。

 宰相・優の側妾腹の息子。

 真とかいう、あの菲薄ひはくなる男を追い落とさねばならぬ。

 いや、己が如何に出過ぎた存在であるかを存分に思い知らせた後に、首り殺してやらねばならぬ。



 兆は、己が身を苛む憤怒の嵐をおさめる手立てとしての、郡王・戰に従う影の如き男の失脚法を、幾重にも胸に思い巡せつつ、くつくつと薄く嗤った。




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