5 つしだま
5 つしだま
戰と真とが祭国に帰国してより、半月ほどが経った。
真の右手は包帯を外し、漸く筆をとるまでに回復を見せていた。禍国に居る父・優へと認める初めての文の内容には、勿論、同腹妹の話題も含まれる。自然と笑みが溢れてくる。この手紙を受け取った父が、どんな顔をするかと想像するだけで、一晩笑い転げていられそうだ。
と、身体を揺すって笑っていたら、墨を跳ね飛ばしてしまった。右指に、ちょんと墨が黒子のようにつく。あっ、と思ったが、そんな失態すらも、今は嬉しい。
文机に向かい、自らの手で硯に墨をするのは、本当に久しぶりだ。
墨が放つ独特の薫気に、真は眸を細めた。文机に向かい、膝を正して座り、右手を動かし続け、墨をする。包帯が取れたとはいえ、掌には火脹れの後が痛々しく残っているし、引攣れる感覚もある。
だが、何でもない日常がこうしてまた一つ取り戻せたのだとの実感が、こうも喜びを誘うものとは。
改めて、那谷に深く感謝するとともに、彼のような人物が戰を慕ってくれている事も有難く感じた。
ふと、うぃっ・と小さな声が上がった。
傍らの、つぐらの中に居る妹・娃があげたものだ。まだ首はすわらないが、最近、喃語が出始めて可愛さも倍増である。
「娃? はいはい、兄は此処ですが、どうしましたか?」
「うっ、うー」
「はいはい、娃、貴女の名前を父上にお知らせする文を書き上げたら、遊んで差し上げますよ」
健康的に艶やかに膨らんだ妹の頬を、ちょん・つついてやる。すると、娃と呼ばれた赤子の頬に、黒い丸い点がついた。あっ……となったが、もう遅い。慌てて指先で擦ってみたが、被害が広がってしまった。頬から鼻の下にかけて、髭がのびた様に黒い墨の跡がついたのだ。
「困りましたね」
くしゃくしゃと前髪を書き上げる。
そこは以前と違い、綺麗に整えて切り揃えられていた。真の予想通りに、帰ってきて直ぐに薔姫に、髪を切られたのである。
「すいませんね、娃、でもどんな顔してても、娃は可愛いですから」
と、言い訳にもならない言い訳をして、真は再び文机に向かった。訳を知らぬ妹は髭を付けた頬で、きゃっきゃ、とはしゃいだ声をつぐらの中で上げていた。
★★★
真が硯に墨をすっていると、格子戸がすらりと開き、薔姫がひょっこりと現れた。
「あら、我が君、何か書を書かれるの?」
手には、紅岩塩を添えて蜂蜜をかけた、乳餅を盛った皿がある。
声に振り返った真は、おや、と目を細めた。
骨折してから、那谷に奨められているおやつである。骨を強くするには、骨と同じ白い食べ物を摂ると良いと言われたのだ。この乳餅、この祭国に来てから初めて口にしたのだが、真はすっかり虜になってしまっていた。
乳餅は、山羊の乳に柑橘系の果実の汁を加えてつくるものだ。暫く掻き回していると、白い塊と水分とに乳が分離してくる。その白い塊をすくい、晒でさらに水分を絞りながら形を整えたものが、乳餅だ。数日、天日に干して、油で揚げたり焼いたりして食べる、贅沢なものだ。が、骨折して毎日この乳餅のおやつにありつける。此れだけは良かった、と真は内心で喜んでいる。
「言ってくれたら、お手伝いするのに」
「大丈夫ですよ。甘えてばかりではいけないと、那谷も言っていたではありませんか」
傍に座りながら、文机の端に皿を置く薔姫の唇が、少し尖っている。
不満なのだ。
帰国してから此れまで、両手が思うに任せぬ真の為、筆を取る場合には薔姫が硯と紙や木簡の用意をしてきた。まだ長く筆を持てない真に代わって、口述を写し取る作業もしてきた。共に城にあがり、真の傍で仕事の手伝いをするのが、楽しくなってきた所だったのに。
……もう、一緒にお城に上がれなくなっちゃう。
真が元気になった証明であるとはいえ、薔姫の心には痛みを伴う、何がちくちくしたものが刺さるようだった。
「うっ、うー!」
そんな薔姫の気持ちを知ってか知らずか、娃が声を上げた。
つぐらの中で、娃が小さな手をぶんぶん振り回して、ふっ・ふんっ!と鼻息を荒くし始めた。薔姫が来ると必ず抱っこをしてくれるので、期待しているのだ。
そろそろ人を見分けられる時期であるが、娃はそれを表現する方法が激しいようだった。
「一緒に暮らしているので、姫に似たのですよ」
と真が誂い半分に言った事があったが、あながち違うとも言えないかもしれない。
つぐらの中を覗き込んだ薔姫は、ぷっと小さく吹き出した。娃の頬から鼻の下に、墨で髭のようなものが描かれているのだ。描かれている、というよりも誤魔化そうとして被害が広がった、という方が正しい雰囲気のようだ。
「……我が君」
「はい、何ですか?」
「娃ちゃんの顔にある、お髭みたいなの、なあにこれ?」
「はい? 何がでしょう?」
「知らんぷりしても駄目、もう」
いけないお兄上様ね、と笑いながら薔姫は、硯の墨をする為の水差をとり、袂から懐紙を取り出して水を含ませた。娃のぷくぷくした頬に描かれた墨の髭が、消されていく。綺麗な顔になった娃を抱き上げてやると、満足そうに、声を上げて笑った。
振り返ると、少し丸くなった真の背中が揺れている。
笑っているのだ。
もう悪いんだから、と薔姫も釣られて笑う。
「何を書いているの?」
「此方の状況と、後は」
「後は?」
「娃の名前について、書くつもりですよ」
娃の名前について、と言われて、薔姫は娃を抱っこしたままで、また吹き出した。
あの厳つい義理の父親が、散歩を強請る仔犬のように尻を落ち着かせなくしながら、今か今かと忙しなく手紙を待っている様子を、思い浮かべてしまったのだ。
「おやおや、悪い嫁様ですね。舅殿を笑うとは」
「我が君だって、お父上様を騙してなんて、狡い息子じゃない?」
「まあ、悪かろうが小狡かろうが、仕方がありません。娃の一生の問題ですから」
確かにそうね、と言って、真と薔姫は笑いあう。
娃も一緒に、あうー! あうー! と声を張り上げて、上機嫌で笑った。
真が父・優への文を認めていると、芙を伴った母・好が部屋に入ってきた。芙は何やら穂を付けた草束を抱え込んでいる。
「おや? つしだまですか?」
「はい、少々早いですが、良い色合いの物が取れました」
薔姫は、あやしながらつぐらの中に娃を戻す。
機嫌を損ねる事もなく、つぐらに横になった娃も、興味が引くのか芙が手にする穂を、じーっと見詰めているようだ。
用意した使い古しの包敷物を広げて、その上につしだまの穂を置く。
文を書き終え、筆をことりと下ろした真も、膝を揃えつつ躙り寄ってきた。
「懐かしいですね」
つしだまとは、別名、数珠玉とも言う。
黒い実を秋から冬にかけて付ける、鳩麦に似た雑草に近い植物だが、薬として庭の隅に植えたりもする。根が、打ち身や身体の凝りに効くのだ。禍国にある真の実家でも、植えられていた。黒い実も薬として使う。今回も、真の為に薬にする為に、実と根とを採るのだろう。
が、つしだまは女児がいる家庭では、もっぱら遊び道具になる事の方が圧倒的だ。お手玉にしたり、後は糸を通して腕輪のように装身具として遊ぶのだ。娃が生まれたので、其方の目的も当然あるだろう。
「お母上様、実を採るのは私が致しますから、娃ちゃんにお乳を上げてきて下さい」
薔姫が言うと、そう? と好は目を細めて遠慮がち微笑み、頷いた。
嫁とはいえ、強大な帝国の皇室の一員、先帝の王女なのだ。
好の性格上、遠慮が生じて当然なのだが、薔姫にはそれが不満だった。
「珊や豊たちには、隔てなく接していらっしゃるのに。お母上様は私が嫌いなのかしら?」
とても気になり、薔姫は真に尋ねた事がある。
すると、真は幼い妻の額を撫でながら、笑って答えた。
「遠慮が生じる程、姫が可愛いのですよ」
好にしてみれば、まだ幼い身でありながら、懸命に息子に尽くしてくれる嫁が可愛くない筈がない。
しかし、余りに親しくし過ぎて自身の垢にまみれさせ、将来、禍国に戻った折に薔姫が『鄙者よ』と蔑まれてはならぬ、と思っているのだ。姑の役目を果たせぬであれば、せめて嫁が恥をかかぬようにひっそりと控えねばとする、そんな好の遠慮こそが薔姫は嫌なのだが、真は笑うばかりだ。仲が良すぎて、奇妙な喧嘩をする母と妻の間にいるのは、面白いらしい。
好が娃を抱き上げて、乳をやりに別室に下がると、芙が改めて大きな敷物を広げた。この上に、実を採っていくのだ。
「芙、櫛をとってきて」
命じる薔姫に、真は、うん? と訝しげな視線を送った。
「櫛? 櫛をどうするのですか?」
真の問いかけに、薔姫はうふふ、と小さく肩を窄めながら笑う。
「こうするのよ」
芙が持ってきたのは、壊れかけ、歯が折れたり抜けたりした古い櫛だった。
それを、つしだまの実の手前に引っ掛けると、髪の毛をすく要領で敷物へ向かって滑らせる。すると、束についていた実は、一気に外れてころころと敷物の上に転がった。薔姫が髪の毛をすくように腕を滑らせる度に、つしだまはころころと敷物の上に零れ落ちる。
あっという間に、芙が持ってきた大きな束の穂から、実が外されてしまった。
「お母上様に、教えて頂いたのよ?」
つしだまの黒光りする実の山の前で、得意気に、うふふと笑っていた薔姫の手首が、がっ、と乱暴にとられた。勿論、真の仕業だ。
「わ、我が君!?」
「ちょっと、見せて頂けませんか?」
薔姫の手から、古い櫛を奪うように取り上げると、真は舐めるようにそれを見、そしてつしだまの束を見、最後に採られた黒い実の山を見た。
次の瞬間。
櫛を手にしたまま真は、ガバ! と立ち上がった。
格子戸を勢いよく開け放ち、縁側から庭に出ようとして、躓き、勢いよくつんのめった。
脚がもつれたのである。怪我をしてからこれまで、殆ど身体を動かさずにいたのだ。急な動きに、脚がついていけなかったのである。何とかぎりぎりで受身のような体制をとり、左腕だけは守ったが、右肩から前のめるようなかたちで、どっと盛大に転ぶ。
「うわっ!?」
「もう、我が君、何をしているの? 折角添え木が外せそうなのに、また折れちゃうわよ?」
後を追ってきた薔姫の手を借りつつ立ち上がり、真は、面目ありません、と小さく誤った。
腕や肩に掛かった砂や泥を一緒に払いつつも、しかし、次の瞬間、落とした櫛を拾い直すやいなや、くるりと爪先をかえて走り出そうとする。が、顔を顰めて右脚を引きずった。転びかけ時に無理に右側に身体を傾けた為、くじいたらしい。
再び体勢を崩しかかった真のその腰が、ぐん! と突っ張った。薔姫が、帯を掴んでいたのだ。
「おわっ!?」
「何処にいくの?」
「え? ああ、琢が居ると思うので、施薬院へ」
「急ぐの?」
「え? はいまあ、一応」
「そのお足で?」
う……と言葉に詰まりつつ、真は額に手を当てて、ぽりぽりと顳あたりを爪をたててかく。
「……姫」
「なあに、我が君?」
「申し訳ありませんが、施薬院まで私を送っては貰えないでしょうか?」
くじいた右足首をぷらぷらとさせながら、珍しく真は、神妙そうな顔付きで、ぺこりと頭を下げる。
しょうがないわね、と薔姫は、ぷっと吹き出した。態とらしく咳払いし、髪を束ねて結い直す。
「我が君、では、私が送って差し上げます」
心得た芙は、既に厩に走っていた。
★★★
最近、珊は施薬院で手伝うようになっていた。
意外とというか、矢張りというかは人次第であるのだが、虚海と珊は、気が合うというか、ウマが合うのである。お互いに『言いたい事は明日言え』という言葉を、笑って蹴り飛ばす質だからなのかもしれない。
それに、人の役にたつ仕事を手伝えるのは、素直に楽しい。
珊だけでなく、類の長女である福をはじめ年頃の娘たちが仕事を求めて手伝いに集いはじめてもおり、一座以外の同年代の娘と話せる機会を持てるようになったのも、大きい。
「さん、さ~ん、珊、な、ちょっと、なあおい、おいってば」
「あんたなんかに、『おい』呼ばわりされる覚えなんて、ないよぅ」
床に右足を伸ばして座る琢が、珊に来い来いと手を振っている。
しかし珊は下唇を突き出して、ぷい・とそっぽを向いた。
「そんな事言うなよお。な、俺っちの脚にもその薬、塗ってくれよ」
「嫌だよ。自分でやりなよ」
珊がこの時間帯、打ち身や捻挫に効く薬を調合する手伝いをすると知っているから、態々やってきているのだ。
句国からの帰り道、真に頼まれて書簡だの荷物の山を持って帰る事になったのだが、その際に琢は、脚をくじいたのである。くじいたといっても、半分以上自業自得だ。珊にまたちょっかいをかけていて、前をよく見ていなかったのだ。荷台から転がり落ちてきた甕の一つを避けそこねて、足首を捻ったのだ。
その怪我も、実はさほど大したことはなく、もう快癒している。しかし珊に会いたいが為、こうして嘘をついてまで日参しているのだ。
涙ぐましい努力といえば涙ぐましいが、琢という男は相当に激しい感情表現をする為、鬱陶しさが際立ってしまい、余り周囲の者に感動して貰えない。無論、琢はそんな事は気にしないのだが。
「なあ、珊ってばよう」
「駄目だよ、これ、真に渡す分なんだから。薬が欲しけりゃ、ちゃんと那谷に言ってきなよぅ」
二人のやり取りを見ていた虚海が、「小無ないやっちゃな」と言いつつのほっのほっのほっと、独特の笑い声を上げた。
「ええやないか、嬢ちゃん。那谷坊には儂が言うて、新しく調合させといたる。その薬、塗ったりぃな」
ええー!? という珊の不満たらたらの声と、さっすがお師匠! という琢の賛辞の声が混ざり合う。渋々、といった様子で、珊は薬を水で溶いて練り始めた。独特の、酸っぱいというか酸味のある臭いが漂い始めた。
「ほら、脚出しなよ」
珊に言われて、琢はうきうきと身体を揺すりながら、脚を差し出してきた。怪我の痕すら残っていないきれいな足首に、珊は紫掛かった緑色の、どろりとした泥状に練り上げた薬を塗っていく。此れを打撲や捻挫をした所に塗ると、塗った箇所が、優しくほかほかと温まってくるのだ。熱が引く頃には、腫れや痛みも和らぐのだ。ただ、真の場合は骨折であるので毎日塗り直している、という訳だ。
琢の足首に、刷毛でべたべたと薬を塗ると、つん・と珊はそっぽを向きつつ立ち上がった。
「へへへ、有難うよ、珊」
鼻の下を指先で擦りながら、琢がにやにや笑う。と。その顔がひくり、と引きつった。
「――うほっ……!?」
奇妙な叫び声を上げると、次の瞬間、わー! と叫びながら立ち上がり、走り回って助けを求める。薬を塗られた箇所が一気に熱を帯び、ビリビリと酷く滲みて痛痒くなってきたのだ。
「痛え、痒い、痛え、滲みる、痛え、痒い、痛え、し・滲みる~!」
どうやら珊は、薬を溶くのに水ではなくお酢を使ったらしい。
叫びながら井戸に向かって走っていく琢の背中を見送りつつ、珊と虚海が、ぱん! と手の平を打ち合わせあった。珊と虚海が、最初から仕組んでいたようだ。
「ひでえ! お師匠、俺っちになんの恨みがあるんでい!」
「儂ゃ、世の中の別嬪さん全ての味方なんじゃわ」
のっほっほ、と相変わらずの声を揚げ、腹を抱えて笑っている。
「珊みたいな別嬪さんに助けてくれ言われてまったら、佳い男で鳴らしとるこの虚海様が、一肌脱がん訳にゃいかへんやろ?」
「流石だよぅ! お爺ちゃん、大好き!」
珊が虚海の首筋に縋り付く。そして、琢に向かって、べえ・と舌を出した。
「ひでえ~! ひでえぜ、お師匠! それじゃまるきり、俺っちが助平の半端もんみてえじゃねえかよう!」
「みたい、じゃなくて、そうなんだよぅ」
半泣き状態の琢が、井戸の水を汲んでは脚にかけて薬を落としていると、馬の蹄の音がした。
「琢、琢、いる!?」
「ほ!? どうしたい」
飛び込んできたのは、馬を颯爽とかる薔姫だ。
「ちょっと、見て欲しいものがあるの」
「……その、馬の上で伸びてる大将の事か?」
え? となった薔姫が鞍の前部に乗る真に視線を向ける。必死になって馬を飛ばしてきて、共乗りしている真の事をすっかり忘れていた。
酔ったらしい真は、馬の首筋にぐったりと身体を預けて青白い顔付きで、う~んう~んと呻いていた。
★★★
「大将、大丈夫かよ?」
「ああ……はい、有難うございます……だいじょ……うぷっ」
「じゃ、なさそう過ぎんぜ、その面付き」
呆れ半分の声で、琢が井戸の水を汲み上げると、早速薔姫が布巾を浸した。冷たい井戸の水を含ませた布巾を受け取りつつ、青い顔付きで真は、珊につしだまはないかと聞いた。
「あ、うん、あるよ? 丸や小さい子に腕輪とか作ってあげようと思って」
「まだ、実を採っていないのなら、束ごと持ってきては頂けませんか?」
「いいけど、どうすんの?」
「まあ、それは持ってきて下さってからのお楽しみです」
不思議に思いながらも、珊は言う通りにつしだまの束を抱えて戻ってきた。
筵を敷いて、その上に置く。真が一束手に取って、薔姫に渡す。薔姫は、家で真にやってみせたように、つしだまの実を櫛を使って外した。黒や茶色の愛らしいつしだまの実が、筵の上でころころと踊った。
「ふわぁ? 凄いね、これ、どうなってるの?」
薔姫の手に握られた古ぼけた櫛を、珊は大きな瞳をくりくりさせながら見入る。
分かってしまえば簡単な事なのだが、ようは、櫛の歯にあたる部分に実が引っ掛り、櫛を滑らせると実が外れる・という訳だ。
「なる程なあ。上手い事考えたもんだぜ。で、大将、俺っちに此れを見せて、どうしたいんでい」
「此れをですね、米や麦に活用できないかと思いまして」
「へへ、つまり大将は、俺っちにそのでっかくした奴を、作って欲しいっ・とまあ、こういうこったな?」
「はい、歯と歯の隙間は考えなくてはならないですが、出来ますか?」
「見縊るない、大将。仲間の所にゃ、10寸木釘もある。竹釘を一から作って、並べてもいい。兎も角、一丁やってやるよ」
お願いします、と真は頭を下げた。
「いいって事よ、任せとけって!」
豪快に笑いながら、琢が、真の丸くなった背中を、ばん! と勢いよく叩く。
皆が、あっ……! と思う間もなかった。
真の顔から、血の気が一気に引いた。
堪えていた酔いが、背中を強く叩かれた事で一気に復活したのだ。
そのまま、ふらあ・っと意識を無くして、真は突っ伏したのだった。
★★★
額に冷たく濡らした手拭を宛てがわれながら、真は横になりつつも、庭先で作業をする琢にあれこれと指示を出した。
米と麦とでは実の粒の大きさも違っているし、穂を繋ぐ茎の太さも違う。
蕎麦は天日干しした穂を叩くだけで実が落ちてくれるが、米や麦は違う。穂から実りを外すのには、相当な手間と労力を要するのだ。
一度、粟を波状の板で脱穀している地域があると本で読んだので、麦で試してみたが、見事に失敗した。粒の大きさと量が違うのだから、当然といえば当然なのだが、真の落ち込みは結構なものだった。
どちらにしても米も麦も、殻竿を使っての脱穀は、農家にとって大変な総力戦になってしまう。脱穀しそこねた穀物を、更に扱箸でしごくか、穀打台で更に叩くかせねばならない。
正に、一家どころか一族郎党総出の手間、しかも甚大であった。
その手間を省くことが出来たなら。
その人的労力を、実は、真は猛烈に欲していた。
使われなかった4寸柱を適当に斬って台木とし、木釘を櫛の歯のように並べるべく、琢がああでもないこうでもないと弄りだした。この男、仕事に関してだけは、どんな小さな依頼であっても妙に細かいのだ。
「大将、隙間はどんくれえ開けたらいいよ?」
「そうですね、取り敢えず1分程で良いのではないでしょうか? 出来ますか?」
「ほいよ、ならやってみっかよ」
琢は小さな焚火を起こして、其処に木釘をかざし、態と薄く焦がした。こうすることで、湿気で木釘が緩む事を防ぎ、且つ強度を増すのである。
釘の頭の部分を台木に固定する為に、別の添え木を上から被せる。作業をこなしていく琢は、こういう時は真剣な表情だ。
「こりゃ固定すんのに膠使った方がいいな、安定しやがらねえ」
「その辺は、お任せしますよ」
言いはしたものの、当初、熊手を逆さにした程度の物を想像していた真には、琢の作り上げげていくそれは、想像以上だった。
作り上げられたものは、まさに櫛を超巨大化させたようだ。幅は子供の身丈程もあり、文字通りに巨大脱穀扱櫛、とでも言い表そうか。
「へっへへへ、どうでえ、大将?」
「素晴らしいですね、流石です。想像以上ですよ」
「いつ試すんでい?」
「とりあえず、この秋の米の収穫で、ですね」
おっしゃ、それまでにもう少し作りやすいように考えておくぜ! と琢は豪快に笑い、腕をふるった。しかし今回は、背中を叩かれる前に、真はひょい、と身を捩って上手く逃げたのだった。
薔姫が、真の額の手拭を取り替えにきた。
額だけでなく、首筋にも濡れ布巾を当ててもらい、有難うございます、と真が上目遣いで礼を言う。うふ、と小さく、薔姫は肩を窄めて笑った。まだ、気の萎えた青白い顔色である良人の体力の無さが、逆に幼い妻には可愛くて笑いを誘うようだった。
そんな二人の様子を、虚海の首筋に抱きつきながら、ふ~ん、と珊は眺めている。
ちょっとだけ、唇をつんけんさせている珊の前に、虚海がひょい、と瓢箪型の徳利を差し出して視線を引き付けてきた。
「なあ、嬢ちゃん」
「なに、お爺ちゃん」
「あんたさんも、難儀なこっちゃな」
「え?」
「真さんは、ええ男やでなあ」
珊はどきりとした。
真が好きだという事は、誰にも喋っていないが、蔦にだけはばれている。しかし、蔦だけでなく虚海にも知られてしまっているらしい。だか、ばれてしまったとなると、猛烈にこの気持ちを聞いて貰いたくなった。もやもやを、吐き出したくて仕方なくなったのだ。
「ねえ、お爺ちゃん、聞いて貰ってもいい?」
「何やいな? この虚海様を頼ったったらええがな」
言うてみ? と促されて逆に、珊は、うん……と一度遠慮がちに唇を閉ざす。だが、虚海の肩に形の良い顎をのせると、思い切ったふうに話し始めた。
「お爺ちゃん、あたいね、真が好きなんだ」
「は~ん」
「でもあたいさ、どうしたらいいのか分かんないんだ。真はさ、あたいの事、好きでも何でもないって知ってるのに」
「は~ん」
「分かってんの、真がね、あたいを女の子として好きになってくれない事くらい」
「は~ん」
「主様はね、琢はいいやつだよって言ってくるの」
「はっは~ん」
「お爺ちゃんも、諦めた方がいいって言う? 琢の方を見た方がいいって言う?」
「うんにゃ」
ぐび、と瓢箪型の徳利を傾けて、酒を飲み下しながら、虚海は首を横に振った。
「真さんを、好きなまんまでおったらええがな」
「へ?」
「やめとけ言われて諦めらめられるんやったら、そら本気で好いとる訳やあらへん。どうしようもあらへん位に好きになったらええんや。そしたらな」
「そしたら?」
「本物の好きが見えてくる。どないしよ、こないしよ、云うてうろうろするのは、まだ本物やあらへん証拠や」
「本当の好き?」
「ほうや」
本当の好きが見えてきたらな、どうしたらええかなんてな、直ぐにわかるわ嬢ちゃん、と徳利を傾けつつ、虚海は答える。
虚海の手にする徳利には、横たわりつつ笑い声をあげる真と薔姫の姿がうつっていた。




