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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
五ノ戦 紅塵万丈

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4 帰国

4 帰国



 帰国の準備は慌しく行われている。

 戰と真二人きりの帰国であるが、その間に、この禍国でしか出来ぬ事を捌いておきたいのだ。真はときに命じて、造園と建築の腕の確かな職人集団を集めるようにと指示をした。無論、金の出処は、例の『愛の証』からの捻出である。

「これはまた、相当な額になりますなあ」

 真様としょう姫様は実にお熱い事で、と鰻の触覚のような髭を紙撚りながら、時はのんびりと笑う。


「また何を、仕出かすつもりでおるのだ」

 優が腕を組みつつ憮然として、息子に問いかけた。

 まだ横になっていた方が良いとの医師の見立ての為、話し合いは真の部屋にて行われている。しかし、此処の一体どこで横になって休んでいるのだと呆れる程、寝台の上には書簡が山となっている。我が息子ながら、文字にとり憑かれているな、と優は頭を振った。

「はい、実は」

「実は?」

「もっと、まがねの剣や武具が欲しいと思いまして」

「ふむ?」

 優は身を乗り出した。全く、それは優こそが望んでいた事でもあるからだ。此度の戦において、戰の戦巧者にも舌を巻いたが、祭国を経由しての鉄の剣は、禍国軍を一段、質の高いものへと押し上げた。

「どうするつもりでおるのだ?」

「はい、いっそ、製鉄所を作ってしまおうと」

「な、何!?」


 今現在、まがねの剣などは、全てを陽国からの輸入に頼りきった状態だ。大量の輸入を可能としているのは、戰が抱える陽国の鉄師まがねし吉次きちじの存在と、巨大な商船を束として抱える商人・ときの存在があればこそだ。

 しかし、何れ他国も陽国に目を付ける。

 その折に、より良い条件を出されれば、陽国も其方に鞍替えせぬとも限らないし、鉄器を欲して陽国に攻め入られぬとも限らない。


 此度の戦で、兵士たちの間には、鉄の武器に対しての強い依存心が生まれている。

 この武器を携えていれば負ける事はないという、信仰心に似たようなものだ。

 実は、此れこそは、戦において最も重要な事柄だ。

 皇子・戰の元で戦えば負けを知らぬ。

 彼が携える剣を共に手を取れば生きて帰る事が出来る。

 兵士たちからの、目に見えぬ信心しんじんは、金を配ったり強権を発したりして得られるようなものではない。

 此処で、この流れを更に頑強とするには、鉄の剣を安定して手に入れねばならない。それは最早、他国任せに出来ぬ規模にまで来ているのだ。


「しかし真、製鉄の技術は、陽国に勝るものはないだろう?」

「はい、そこが悩み処でして。相当に困っております」

 下男が運んできた薬湯をすすりながら、全く悩んでも困っている様子のない口調で、真が答える。

「鉄の採掘と鉄を製する自体は、さして難しいものではないのです。必要なのは、加工技術なのです。陽国は事も無げに、彼処まで強く鍛え上げる。その秘密が知りたいのですが」

 取合えては、鉄の採掘場の確保とその製鉄の為の炉を建設する事から始めなくてはならない。

「時、調べて頂けますか?」

 真の中では、既にある程度は目星が付いている。それを地固めするように、背後や因果を調べ尽くすのが時の仕事である。新たに真が考え出した仕事に、時は満足気に、ほう、ほう、と梟のように笑った。

「この年寄りに、お任せ下さい、真様」

 頼もしい一言に、真は最後の一口を飲み干しつつ頷いた。


「ところで父上、私と戰様は明日にも祭国に向け出立致しますが、後々の事、重々宜しくお願い致しますよ」

「分かっておる」

 皇太子・天があの様に失墜し、代わって二位の君と揶揄される立場であった兄皇子・乱が躍り出てきた。

 誰がどの様な目論見を持って暗躍し、野望を遂げようと画策するのか。

 その背後にて、操る者が居るのかいないのか。

 見極めを誤れば、まだ、戰もどうなるものか知れないのだ。

「もう一つ、禍国軍の再編成を頼みます。此度、天殿下の大敗は戰様に有利に働いたようにも思えますが、長い目で見れば国領を削ぐ原因にもなりかねません」

「分かっておる」

「私が頼んだ通りに、軍備も整え直して下さい。祭国だけでなく、此処禍国においても、郡王・戰皇子こそが我らの晴天の星と思われなくてはならないのです」

「分かっておるわ」


 此度の戦で真が痛烈に感じた事は、時代は確実に戦車戰ではなく騎馬戦へと移行している、と云う事だ。

 15年前の戦で、父・優が大勝してより、ここ禍国は内陸部の国としては珍しく騎馬を育てる事に腐心した。この時代、一朝一夕で馬を乗りこなせるものではないのだ。

 馬に乗り、剣を振るい、弓を引き、戈を回し、槍を突き出す。

 それらは、たゆまぬ鍛錬がなくしては叶うものではなく、まさに長年の努力の賜物、結実であるのだ。

 しかし、それだけでは、まだ足りない。

 この速度を、更にあげねば。

 馬を強くし、馬を操る術をより易くせねば。

 騎馬軍団を育てねばならないのだ、必ず、最強のものに。


「どの様な細かい事柄でも構いません、逐一、私にご連絡下さい。特に、句国と契国の様子にはお心配りを」

「分かっておると言うに」

 お前は女子おなごのようにくどいな、とぶすったれた膨れ面をする優は、まるでごつごつとした岩石のようだ。息子に良いように命じられるのだ、気に入らないのだ。

 しかし、息子である真は、伝家の宝刀を閃かせた。


「此方も、母上と妹の様子を事細かにしたためて、帰りの馬に持たせますので」

 ふむ? と黒目だけを動かした優の頬が赤くなり、口角が垂れているのを見て、戰と時が誂いの笑い声をあげた。



 ★★★



 三日後。

 戰と真は、禍国に舞い戻った時と同じく、二人きりで祭国に向け旅立った。

見送るのは、真の父親である兵部尚書・優のみである。戰は喪中であるし、側妾腹の真には知り合いと言えばときくらいのものであるからだ。


 別れに際して、戰が代帝・安に「別離酒の儀礼を執り行う代わりに、恙無きくお過ごし下さりますようとの言葉を贈りたく」と望むと、「要らぬ」とのみ記された紙片が盆にのせられて送られてきた。無論の事、祐筆に書かせたものである。

「要らぬ、そうだ」

「宜しかったではないですか、別れ際にお嫌いな方の顔を見ずに済むのですから」

「全く、同感だよ」

 笑い合いながら、戰が真に、愛馬である千段せんだんに跨るように促す。素直に殿侍たちの手を借りて馬上の人となる息子に、優はぎろりと睨みをきかせてきた。主君を守るべきである者が何たる事を、と燃えるが語っている。

「陛下、何も愚息を陛下の馬に乗せられて共乗りなさるなどと」

「いや、それは違うぞ、兵部尚書。私の方が、共に真を連れて行きたいのだよ」

 こそりと舌を出しそうな悪戯小僧の顔付きで、真は父親を見下ろしている。心の中では「や~い」とでも言っていそうだ。息子の様子に気付いた優は、鉄拳の届かぬ場所に居る事に、憮然とした面持ちになる。戰はそんな兵部尚書に、笑顔を向けた。


「では、後の事は一任する。兵部尚書」

「はい、郡王陛下」

「お前の大切な息子を、借りていくよ」


 どうぞ、こき使ってやって下さい、とぶすったれた表情で何とか答える優に、戰と真は、最後の別れを告げて出立した。



 ★★★



 祭国までは千段の健脚もあり10日間かからず帰りつけるところを、真の体調を慮り、行きの旅程同様に2週間かけて行く事になった。

 道中、ときが手配した宿で薬湯を煎じて貰えないかと頼んだ後、真はいつになく、にこにこと笑いながら戰ににじり寄ってきた。普段なら戰に叱られても、突っ伏した姿勢そのままで、寝入ってしまう事もあるというのに。


「戰様」

「……な、何だ、真、気味の悪い……」

「祭国に、帰国の報せは入れられましたか?」

 え? と戰は訝しげに眉根を寄せる。ぷっ、と小さく真は吹き出した。

「やはり、まあ、そんな事でしょうと思っておりましたが」

「え?」

「椿姫様もお可哀想に。お報せを、今か今かと待ち望んでおられたしょうに」

「何故、其処で椿の名前が……いや、真、帰国の報せとは、兵部尚書やときたちが手配してくれていたのではないのかい?」


 くすくすと笑い声を立てながら、真が兵車で寝っ転がっていた折に考えていた事を伝えると、戰の顔色が、さーっ・と音をたてて引いていった。

「し、真! な、何故教えてくれなかった!?」

 戰は言いつつも、慌てて宿の下男に文箱の用意を命じた。帰国する旨を認める短な文章を、紙の上で滑る筆が紡いでいる。一気に書き上げると、丁寧に絹に包み、早馬で祭国に届けるようにと命じた。その背中を、やはり真はにこにこと笑いながら見詰めていた。


 ようよう、祭国の王城への関を抜けた。

 後、一刻も馬に揺られていれば、城の畑に着くだろう。其処で待ち合わせる事になっている。蕎麦の花を、共に見たいからだ。

 しかし、帰国を告げる報せが入れられて、本当に良かった。

 ほ~・と安堵の吐息を吐く戰の様子を眺めながら、あ~あぁ、と真は欠伸をするように、そして明白あからさまに気を引くために、態とらしく嘆息した。


「……真」

「はい、戰様」

「……まだ……何かあるのか、真……」

「いえ」

「何だ、もう何を言われても私は恐れないぞ。言ってくれないか、真」

 では、と真は最もらしく一度咳払いをすると、にこにこと笑いながら戰に告げた。

「私のこの怪我の事を、しょう姫にどの様にお伝えなされるものなのかと……」

 告げられて、あっ……と戰は息を呑む。このまま卒倒するのではないのかと思われる勢いで、顔色がなくなっていく。


「し、真っ……!」

「私のこの怪我を知ったら、姫がどうなるか……。う~ん、想像すると実に面白いです」

「お、面白がらないでくれ、真! ど、どうしたらいい!?」

「どうにもなりません。素直に怒られて下さい」

 真! そんな殺生な! と戰は叫ぶ。

青面の戰をおいて、真は聞こえないふりをしつつ、のんびりと答えた。



「ああ、戰様、ご覧下さい。白い花が揺れているのが見えてきましたよ」



 ★★★



 幼い方の少女が、畑の畝の向こうを指さした。

 確かに白い花が烟るその最果てに、馬というには巨大な黒い塊の上に、二つの人影が見える。影の一つが大きく手を振りながら、何か叫んでいるが、風向きが邪魔をしてうまく聞き取れない。それでも、少女たちには、彼らが何を叫んでいるのかが、はっきりと心に届いていた。


「待っていたわ、戰!」

「お帰りなさい、我が君!」


 黒馬は、歩みを急がせている。大の男を二人も乗せての長旅の疲れなど感じさせない。だが少女たちには、それでも足りないようだ。もどかしさを感じてか、自分たちの方から走り寄る二人の少女の顔ばせには、極上の笑顔が弾けていた。


 どれほど待たされた事か。

 この日を、どれほど待ち焦がれた事か。

 この日を、どんなに胸に思い描いた事か

 恨みがましく言い募ってみようか。

 拗ねてみせたりしてみせようか。

 或いは泣いて言葉を無くしてしまおうか。

 ああ。

 それとも、それとも、それとも。


 あれこれと考え尽くしたが、結局、二人が帰ってきたのだとこの目にした途端に溢れてきたのは、笑顔だった。


 が。

 直様その少女たちの、椿姫としょう姫の笑顔が黒く曇る。

 馬から降り立った人影の一つ、真が、左腕を固定した状態で包帯を巻かれているのを皮切りに、額にも右掌にも、其処も此処もといったていでぐるぐる巻き状態だったからだ。


「わ、我が君、我が君ぃ!」

 あっという間に大きな瞳に涙を溜めて、しょう姫が真にしがみつく。

 ずっと横になっていた割には、さほどふらつきもせずに、真はしょう姫を受け止めた。いや、彼女を悲しませないようにと、相当に踏ん張っていたのかもしれない。その証拠に、畝に踵が随分と埋もれていた。

「我が君、ねえ、どうしたの? その怪我、どうしたの? 」

「ああ、姫、心配をおかけして申し訳ないですね。戦の最後の最後で、へまをやりまして。落馬してしまったのですよ」

「痛い? 痛い、我が君、痛いわよね?」

「はい、まあ、そこはそれ、それなりに痛いです」


 否定せず逆にやんわりと答える事で、心配をかけないようにする真の気遣いを知ってか知らずか、しょう姫は、背中に回した手に力を入れてきた。ぎゅ・と、抱きしめにかかるしょう姫の肩を撫でようとして、真は、おや? と思った。記憶にある彼女の肩の位置と違うのだ。正月に別れてから8ヶ月近くが経ったのだから、背が伸びていて当然だ。だが、彼女がこの祭国でちゃんと無事に暮らしていてくれたのだという証に思えて、真は口元を綻ばせた。

 優しく、年の離れた妻の額を撫でようとして、その右手が空をきる。

 するり、と身体を滑らせたしょう姫が、そのまま、ずい! と義理兄あにである戰に迫っていた。


「……お兄上様……」

「な、何だい、しょう姫……」

「お兄上様は、我が君が馬に乗るの、苦手だって知っていらっしゃるわよね……」

「しょ、しょう姫、これはその、何というか何と言おうか……その、つまりだね、仕方ないではないか、戦だったのだから」

「……知っていらっしゃって、我が君を無理矢理、馬に乗せたのは、否定なさらないのね……?」

「そう、いや違う、これは不可抗力と言うべきか、思わぬ事故というべき事柄でね、あの、しょう姫」

 じりじりと後退りする戰に、俯いたまま、しょう姫はずんずんと迫る。そんな兄妹を、椿姫は苦笑しつつ、真は面白げにニコニコしながら見詰めている。

「お兄上様の、馬鹿馬鹿馬鹿ぁ~!」

「こ、こらやめろ、やめないか、しょう姫、な、殴るな、蹴るな、引っ掻くな、噛むな、ず、頭突きをするな! うわあああ、し、真! しょう姫を止めてくれ! た、頼む、頼むから助けてくれ、真!」

「嫌ですよ、とりあえず、私が痛い思いをした分くらいは、やられて下さい」

 真! そんな殺生な! と戰は叫びながら、小さな厄禍となった義理妹いもうとの容赦ない体当たりの鉄槌から逃れようと、畑の中を逃げ惑った。



 ★★★



 椿姫としょう姫と、それなりに感動? の再会を果たした後。真はしょう姫と椿姫と戰と共に、母・こうが休んでいるという那谷なたの取り仕切る施薬院へと赴いた。この暑さで、あたり(・・・)を起こしたらしい。ここ数日、食欲が出ず、乳の出も悪いのだという。


「まあっ……!」

 小さな叫び声を上げて、両手を口に当てたこうは、目の前の人物が一瞬にわかには誰であるのか窺い知れなかったのかも知れなかった。

「真」

「はい、母上」

「本当に、真、貴方ですか……?」

「はい、帰って来てまでご心配をお掛けするこの親不孝者を、どうかお許し下さい」

 真が母・こうに躙り寄ると、待ってはいられなかったのだろう。好の方から抱きついてきた。

「よくぞ、ご無事で……」

 後は、言葉にならなかった。はらはらと大粒の涙を零しながら息子を胸に抱く好の姿は、正しく愛情溢れる母親の姿だった。その場にいた誰もが母子おやこの姿に感じ入り、胸を締め付けられるかのような幸福感に浸った。


「母上、それで、私の妹は何処に?」

 はっとなり、真の方から身体を離した。

 真の一言に、その場に、此れまでとは別種の、なんとも言い難い微妙な空気が流れる。珊が連れて来てくれた赤ん坊を抱きとりながらも、好は答えない。

「どうしたのですか、母上? 父上が妹の名はなんとしたのかと、知りたがってうずうずしておりましたよ。早く教えて差し上げねば」

 好は、俯いて言葉を閉じてしまった。何だろう? と首を捻る真に、彼を真似るように、ぽりぽりとうなじあたりをかきながら横からさんが助け舟を出した。

「……真、それが、さあ」

「何ですか、珊?」

「うん、あのさぁ、これがね、親父さんが送ってきてくれた、赤ちゃんの名前の候補とかいうのなんだけど、さあ」

 既に、真の中では悪い予感しかない。差し出された書簡を受け取る。ぱらりと広げ、その途端に全身脱力を起こして床に突っ伏した。此れまでの、感動の親子再会を吹き飛ばす破壊力だった。

 其処に羅列してあったのは、妹へ贈る、名前の候補であったのだが。

 これが、凄まじい。


 ――ゆうゆうゆうゆうゆうゆうゆう……


 むくりと起き上がった真は、珍しく、怒りも顕に震えている。

「何ですか、これは……」

「うん、だからさぁ、えと、親父さんから送られてきた、赤ちゃんの名前候補……だよぅ?」

 おどおどと、珊が答える。あっちゃ~、とでも言い出しそうに顔を歪めつつ、愛想笑いをしている。


 どうりで、名をなんとしたか、手紙が送られてこないはずだ!

 父・優の親族の間では所以は知れぬが、男児には女子の、女児には男子の名付けをする習いがあるという。とは言うものの、正室のたえはそれを頑として受け入れなかったので腹違いの兄たちは、皆、名前だけは立派だ。真の名前は、男児なら好が女児ならば優が名付けると約束していたとかで、好が付けてくれたものだ。

 女の子と知った時、優がそれならば、と男児の名をと思い至ったのは自然な流れかも知れない。

 しかしそれにしても、なんだって自身の名前と韻を同じくする名前にするのだ!? 

 信じられない名付けの才能のなさだ。男に生まれついた事を、嬉しく思った事は此れが初めてだった。母に名付けて貰ったその幸運を天帝に感謝しつつ、真はくるりと母・好に向き直った。


「母上、この手紙は見なかった事に、いえ、届かなった事に致しましょう」

「え?」

「生まれて最初の贈り物である名前に、呪いをかけられるなど、あってはなりません。私が、妹の名付け親になります」

 真が手にした書簡をクシャ・と握り潰すと、戸惑い気味だった好の表情が、ほう・と明るいものになった。那谷なたが、下男に申し付けて、文机と硯にすった墨と、綺麗な半紙を用意して持ってこさせた。

 暫く、右手を顎にあてて考えていた真は、まだ火傷痕を保護するために包帯を巻いているにもかかわずに筆をとって、書を認めた。

 皆が注視する。

 半紙いっぱいに大きく書かれた文字は、丁寧な楷書体だった。


 あい


 これ一文字で、美しいむすめ、愛されるむすめという意味を持つ名前だ。

 ほっと和やかな空気がその場に流れる。さっすが真! と珊が飛び上がりながら手を打って、名付けを褒めた。此れまでずっと、赤ん坊の事を『赤ちゃん』と呼んでいて、危うくそれで名前が定着しかかっていたのだった。


あい、さあほら、貴女のお兄様ですよ。貴女の名付け親でもあります。この恩は、一生決して忘れてはなりませんよ」


 万感を込めて、好が赤ん坊を抱き直した。

 真の方をジッと見つめる赤ん坊のその顔つきは、長ずれば母・好に似て、美しくなるであろうと今から期待がかけられる、目鼻立ちのすっきりと整った顔立ちだ。だがよく見れば、何処か、何処がとは言えないのだが、自分とも似ているような気がする。真は胸が熱くなった。


「娃ちゃん。やっと名前で呼んであげる事が出来て、ほっとしましたよ」

 娃に手を伸ばしつつの那谷の一言に、その場に爆笑の渦が巻き起こった。



 ★★★



 母親の好と妹の娃は、暫く施薬院で世話になるということだった。

 名残惜しく感じつつも、我が家へと、真としょう姫は共に向かった。


 家に帰りつくと、真はそのまま玄関から上がって直ぐの玄関の間で突っ伏した。そのまま、例によってうとうとしかかろうとする。

 と、その真の両の脇に手を突っ込んで、無理矢理立たせてくる者がいた。当然、共に住まう蔦の一座の者たちだ。

「うわっ!?」

 叫ぶ真に構わず、ずるずると引き摺っていく。流石に骨折しているので遠慮するかと思えば、結構頓着せずに引っ張るのだ。

「いたたた、痛いですよ、ふう

 文句を言ってみてもふうも「奥方様のお言付けですので」とスラリと答えて、にべもない。

 やれやれ、と真は観念した。

 帰ってくる最中、やれ臭いだの、鼻がもげるだの、頭がおかしくなっちゃいそう! としょう姫が叫び続けていたので、もしやと思っていたのだ。


 やれやれ、しっかり先手を打たれていましたか。

 にやにやしているふうに、ちゃんと言う事を聞きますから、と嘆息する。

「う~んしかし、挨拶もしないで風呂に行かされるのですか。よく考えなくとも、非道くはないですか? 幾ら体臭が酷いとはいえ、戦で奮戦した、いわば恩賞のようなものです。それなのに、真面に家に上げてもらえないとは、寂しい限りです」

「玄関先で寝ちゃうような人が偉そうなこと言ったって、誰も聞いてくれないわよ」

 ぶつぶつとぼやく真の背中に、しょう姫の容赦のない声が飛ぶ。皆の笑い声が、幼い奥方の正しさに軍配があがっていると告げていた。


 湯殿でしっかりと、旅どころか怪我をしてからずっと溜め込んできた垢を落としてくると、しょう姫が膝を揃えて座っていた。

にこにこ笑っている。目の前の懐紙の上には、櫛と小刀が置いてあった。

「さあ、我が君、今度は御髪を綺麗に致しましょうね」

「挨拶は……」

「その後でね」

「お腹が空いてきたのですが……」

「ご挨拶の後で、ちゃんと握飯を作って差し上げます」


 だから痛くっても逃げちゃ駄目よ? と、櫛と小刀を手にして、じり・としょう姫が躙り寄ってくる。

 やれやれ、と真は天を軽く仰いた。

 一気に戻ってきた日常の有り難味と幸せとを、真は、しみじみと痛みと共に感じ取っていた。



 ★★★



 為来りとは言え、本来であれば城に入るなり、大仰しい挨拶につぐ挨拶になる慣例を、椿姫の采配で簡素なもので済ませる事が出来、戰はほっとした。


 自室に戻ると、部屋は、別れた時そのままの姿を保っていた。

 灯されている薫香までが、同じである。

 変わり無い日々に戻ったのだと戰が寛げるようにとの、椿姫の配慮だろう。香炉から上がる、穏やかに筋を棚びかせる薫煙に、手をかざす。立ち上る道筋を遮られた煙は、道筋を変えて天井を目指す。戰は目を細めて、微かに微笑んだ。


 戸の向こうから、声を掛けられた。

 愛おしく思っている、少女の声だ。この数ヶ月、どれほど求めた事だろう。

 どうぞ、と短く答える。

 戰の言葉を、待ち焦がれていたのだろう。忙しなく、扉が開かれた。あの、別れの日に微かに開けた窓の隙間から垣間見えた雪のように、飛び込んでくる人影があった。

 勿論、椿姫だ。

 しかし、あの時の雪は、冷たく鋭く冷気で空を裂かんとするかのような殺気だったものだった。今、飛び込んできたのは、柔らかく芳しい、白い花の妖精せいかと見紛う麗しくも愛おしい、自分だけの少女だった。

 どうした、などと野暮な事は口にしない。

 春風に舞う花弁はなびらのように胸に飛び込んできた椿姫を、戰はしっかりと抱きとめた。


「どれほど、椿を連れて行きたかった事か」

「私……私も」

「どれほど、椿に傍に居て欲しかった事か」

「私……私の方こそ」

「どれほど、こうして抱きしめたかった事か」

「……わたし、も……」


 もう、待てない。

 互いが互いを、幻でも夢でもないと確かめあうように、貪るように身体を腕を絡めあう。

 少女の赤い唇が濡れて零れる吐息の、何と甘く芳しい事か。

 伝わる胸の鼓動の熱で、魂も蕩けよと命じてくるかのような、少女の存在全てが、今、欲しくて堪らない。


 熱い夏の夜を彩る星の瞬きすら焦がすように、戰と椿姫は、思うままに抱きしめあった。




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