3 不穏
3 不穏
王の間から退出すると、待ちかねたように背後から金切り声と共に、凄まじい物音が聞こえてきた。まるで生きた颱風のようだ。発狂した豚のように荒れ狂う代帝・安という厄禍に、惑う宮女たちの悲鳴が重なり合っている。
戰と真はちらりと黒目だけを動かして視線を絡ませあうと、一瞬の間を置き、そろって声をあげて笑い転げた。
「真は怖いなあ」
「そうですか? お止めにならない処か、面白いからやってしまえと嗾ける戰様も相当ですよ?」
「おや、そんな事を言ったかな?」
「また、そのようにらしくもなくとぼけられても、似合いませんよ。しかしとりあえず、此方の思う壺にはまったのですから」
「その言や美、だな」
「はい」
朗らかに返す真に、戰も笑い返す。
途中、戰と代帝・安との会話を打ち切るように失態を犯したのは、勿論、態とだ。戰から自分へと気を引く為だ。
安は戰の宣言を、自身への諂いと受け取りつつも、後宮がもつ重要性を捨て去ってまで媚びるようなものかと訝しんでいた。
だから代帝・安が悟る前に、許しを得る必要があった。
安が、禍国皇帝・景の元に妃として入宮した時、景は未だ皇太子の身分であり、その政治的背景は磐石ではなかった。先帝の御代における最高権力者であった父・大司空の意思により、安は嫁いできた。其処には無論、愛情などない。ただ、景に最高権力を掴ませ、それにより家門と父とが、より栄えんが為だ。
しかしそれに対して、安は別段、不平不満を口にした事はない。高貴なる血筋に生まれついた嬢の宿命だと受け入れた。婚姻は、所詮、互いの立場と栄耀を、より強固にし安寧に導かんがためのもの。
愛を囁いたところで全ては幻、嘯きだ。本気にする方が虚しく、可笑しい。自分の役目は男児を産み、皇室の血を繋がらせかつ家門を知らしめる為だけに、ある。
景の方も、心得ていた。
女児しか産めぬままに年を食い、男児を得られなくなった安にあっさりと見切りをつけた。安の父親である大司空がこの世を去り、己自身の政治的影響力を強める最大の機会に直面していた事も、起因していた。
新たに味方につけたのは、彼女の兄弟である大使徒と大令であり、彼らの娘が後宮の大一品として入宮し、それぞれに子を儲けたのである。政治的影響力が薄れるにつれて、安は顧みられる事が薄れていく。皇后という地位が、いっそ惨めさを深めすらしていた。
しかしギリギリで耐えられたのは、景は誰にも、後宮の女たちの誰ひとりとして、愛情など注がなかったからだ。愛ではしたが、与えた官位以上の何かを望めば容赦なく身分を落として婢として死ぬまでこき使った。景にとって、女は対外的な政治を潤滑に執り行う為の道具、方便でしかなく、あるいは内側に滾る欲情を発散する為の道具でしかなかった。其処からはみ出す者は、必要なく、必要のない物は捨てるだけだった。
だから、まだ安は耐えていられたのだ。
皇后という地位を手離さぬ以上。父親が身罷ったとはいえ、その政治背景と経済資源を幾ばくか引き継ぐ自分は、また利用価値がある。皇后として君臨できるうちは、まだ自分は景に認められ、求めらるのだ。例え、礼儀による数ヶ月に一度の夜の渡りであったとしても。
それを粉々にしたのが、戰の母親である楼国王女・麗だった。
少女であった麗へ注ぐもの。
それは景にとって、初めての、真実の、恋であり、愛だった。
狂瀾を既倒に廻らすではないが、他の後宮たちも失った権勢を取り戻そうと躍起になった。が、結局のところ、みな失敗に終わった。皇帝・景が王女・麗に向ける態度は、その死により分たれるまで、愚直なまでに真摯だった。いっそ哀れな程に、彼女を庇護し続け、政治的に利用しようなどという態度は一切見せなかった。
無論、戰は知らない。
安が、宮女、端女どころか、官婢に至るまで、戰の耳に入れぬように徹底しているためだ。
嘗て、真が剛国王・闘に対して、他国より王女を後宮に囲い込み、彼女らの背後からの支援を巧みにりようしつつも互いを反目し嫉視し合うように追い込むつもりであろうと指摘した。
だがこれは別に、彼に留まった考えではない。どの国でも多かれ少なかれ行われている、単なる政治だ。
禍国における戰の立場。
そして、この中華平原における祭国の立場とを鑑みれば。
本来であれば此度の戦勝を餌に、高位高官の貴族や他国の王族より姫君を後宮に得て、地盤を磐石にべきなのだ。血縁による縦横の繋がりをもってすれば、瞬く間に戰は、一大勢力を苦もなく築き上げられる。
しかし戰にとってのこの言葉は真実、言葉のままの意味だ。
己が選んだ祭国の女王以外の女性と、生涯を共にするつもりはない。
他国の姫とも、そして禍国の重鎮たちの娘たちも。
如何なる身分の嬢とも、血を結ぶ行いにより、国を靖んじるつもりはない。
自身の愛する女性は、祭国の王女のみ。
それ以外の女性を、腕に抱きはしない。
戰は、椿姫への愛情の一途さを示さんが為に、彼女を王妃にすえ、且つ後宮を生涯持ち得ぬと宣言したのだ。
この真実に辿り着けば、代帝・安の事だ。
――この腐れ小僧が! 再びこの私を怒りの淵に堕とすつもりか!
とでも怒鳴り、喚き、暴れまわるに違いない。
安は、思い出したくもない、足繁く通う景が麗美人が微笑んだのだと少年のように心を浮き立たせている様子を、鮮明に目の前に蘇えさせれ。正気でいられる人物ではない。
巨体を震わせつつ眸を血走らせて猛り狂い、決して許しなど与えまい。
いや、堕ちぶれた過去を思い出させた戰に、代帝・安がそれ以上の何かを仕出かすに相違ない。
目に見えている――と、其処までとは、真も知り得なかったのだが、不測の事態に備えて予防線を張るのは当然だった。怒りの矛先を自分へと向けさせたのは、その為だった。
しかも、真の真実の目的は、そこではない。
真が父親である兵部尚書・優を求めた以上、事ある毎に代帝・安は自分への怒りを晴らそうとこれから先、災厄に近い厄介事を押し付けてくることだろう。
だが、それでいいのだ。
それは裏を返せば、全て、燦然と輝くばかりの戰の偉大なる功績にできるという事に他ならないのだから。
誰にも成し得ぬ偉烈に戦く頃には、禍国は総て、戰のものとなるのだ。
しかしそうなると、現実問題として何よりも金が必要になる。
今現在、祭国が捻出できる金などは微々たるものだ。禍国の国庫から自在に金を引き出す為には、何か口実が必要となる。それも、国家として動かさねばならぬ、一大予算を仕組む程大規模な。
そこで真は、薔姫を愉しませるままに欲するままに、与えたいと望んだのだ。
「妻が喜ぶといえば、義理兄である郡王・戰陛下の戦勝以上のものは、此の世に御座いません。私は、望むままに妻に歓びを与え続ける為に、湯水のように自在に操れる金を望みます」
と、言外に申し出ていたのだと、果たして安は気が付けたであろうか?
★★★
「ところで真」
「はい、戰様」
「本当に安陛下の懐から引き出した金で、薔姫に薔薇園を作ってやるつもりかい?」
「冗談でも、おやめ下さい戰様」
戰の言葉に、真は肩を竦めた。
いつの日か落ち着いたら、薔姫の為に何か尽くしてあげたい、とは思っている。姫の望むものを、出来るだけ揃えてあげたいもと思っている。しかしそれは、矢張り自分自身の手で成し遂げてこそだろう。
と言うよりも、真には未だ、夫として関わる何が、妻である薔姫の為になるのか、分からないでいる。
そもそも、彼女との関係を何と言い表すべきであるのか。
幼馴染のように、隔てのないものと、言えるかもしれない。
友人のように、楽しい関係であるとも、言えるかもしれない。
仲間のように、気持ちの通じ合ったものだとも、言えるかもしれない。
が、当然、夫婦であるなどとは、誰にも、夢にも思われていない。
それでも、琢に挨拶に行った時には兄妹とは思ってもらえたのであるから、家族なのだろう、とは見なされてはいるようだ。
では、自分と薔姫の関係は、云わば、家族のように暖かいものである、とすべきなのか。
薔姫を娶った当初、真はせめて友達になれたら、と願ったものだ。もしもこの4年間という歳月の流れは、家族となる為のそれであったとするならば。調子が良く身勝手だと理解しつつも、友人や仲間である事よりも、真は嬉しく感じる。
それは、実は真ではなく薔姫こそ感じている事なのだが、幼い為に自分の気持ちを掴めていないのだった。
無論、薔姫と結婚した時、何れ彼女が大人の女性へと成長した暁には、彼女自身の眸と心と魂とで、生涯の伴侶となるべき人物を見付けて欲しい、と願っている。
そう、戰と椿姫のように。
もしかしたら、そのせいで家族にはなれても、夫婦らしくなれないのかもしれないが、結局のところそれも根拠のない、曖昧な想像に過ぎない。
夫婦。
夫と妻。
自分と薔姫の関係を、何度も、事ある毎に、そう、口にはしている。半ば以上は自分自身に言い聞かせる為に、口にしているのかもしれない。自分でも、そもそもこの感情が何であるのか、真には説明できる言葉が思い浮かばないからだ。
余りにも不思議と言えば不思議な関係だ。
だが今、こんな和やかに共にいる時間を過ごせる間柄になれたのは、二人揃っての努力の賜物だと思っているし、自負している。やっと築き上げたこの穏やかな関係を、無理にどうこうして傷付けたくない、と願うのは狡いのだろうか?
戰と椿姫のように、お互いが眸に入った瞬間に、心が通うという出会いもある。
傍に居るのが当然で、求め合うのが自然な間柄。
心も魂も、溶け合うように重なり、互いの為だけに存在しあう二人。
夫婦という間柄でなくとも、人と人が織り成す関係の、理想の極致であろうと思う。
だが、自分と薔姫の関係はそのような夢想の産物では有り得ない。
突然、否応無しに突きつけられた現実の中で、手探りで初めたものだ。
だからこそ薔姫との関係は、心が惹かれあっているとか魂が求め合っているという、戰や椿姫のような麗しいものではない、と冷静に見詰めている。
なのに、代帝・安に、薔姫を侮辱された時に感じた強い怒りと憤りは、待ったなしで沸き起こった。
何故であるのか。
何故、自分は、薔姫を守りたい、守らねばと思ったのか。
妹のようであるからか、家族のようであるからか。
だがそれだけでは、沸き起こったあの激情は、説明しつくせない。
真にとって、自分自身の気持ちが此処まで訳が分からないというのは、薔姫に対してだけだ。
だからこそ、この気持ちは大切にせねばならないと思っている。
虚海に言われた、怒りという炎を消してくれる存在。
それは、この気持ちと繋がるような気がするからだ。
★★★
「真?」
考えに沈んだ真を、戰が覗き込んできた。慌てて、真は項をかきあげながら、言葉を続ける。
「まあ別に、言葉通りに実行せねばならぬと言う馬鹿げた法はありませんので、幾らか悪い事を仕出かしてやろうとは思っております」
「幾らか、で済むのかい?」
「さあ?」
「それは誰にとって悪い事なのだろうね?」
「さあ?」
再び、二人で笑い合う。
禍国の国庫から金を引きずり出す。
という事は、禍国の役人が絡んでくる、という事にほかならない。此れまで禍国では役人がその予算を着服する事など珍しい事ではなく、寧ろ、常習化している。
だから真も真似るのだ。有り体に言えば、『幾らかちょろまかしてやろう』という事だ。
真の悪事に気が付く者も、当然出てくるだろう。どうせ明白に賄賂を強請るなり、強請集りに来るに決まっている。
その時は、一旦買収してしまえばいい。
そして後で此方から脅すのだ。此方の口止め料を受け取ったからには、他の皇子の味方にならぬと宣言したようなもの、お前の命をも賭けた進退は、この手に握られたのだぞ、と。
何処まで芋蔓式に釣れるかは分からないが、内側から内官職に就く者たちを揺さぶる位にはなる。他の皇子たちへ気を回せる状態ではない以上、互いに探り合って潰れて貰う他はない。だから真としては、是非とも一人でも多く、強欲さ丸出しで餌に喰らいついて欲しい処だった。
真が考え出した事柄はざっくりいって、以上だ。
だが、此れら全てを成し遂げる機会は、凱旋後の謁見、ただ一度きりしかない。
その為に、三人だけでの謁見を望んだのだ。
当初この計画を真から持ちかけられた戰は、一瞬絶句し、そして腹を抱えて笑い転げた。
「真」
「はい、戰様」
「真が身内で良かったと心底思うよ」
「そうですか?」
「ああ、全くどうやったらこんな面白い事ばかり思いつくのか、知りたいよ」
「お褒めの言葉として、頂戴しておきますよ」
まだ笑っている戰に釣られ笑いをしながら、真は後頭部に手をやろうとして傷に触ってしまい、「あいて」と小さく叫んだのだった。
★★★
戰が真を支えつつ王の間を退出し渡殿に出ると、改めて兵部尚書として優が出迎えてきた。
戰に肩を借りる形で帰参した息子の為体に、武辺強者の優は眉根を寄せる。気に食わないのだ。
「兵部尚書よ、改めて護国の役目、ご苦労だった」
「いえ」
しかし、短く戰と交わし合う言葉の成分に、真は優の中に何かを感じ取り、眉尻を微かに跳ね上げた。
「父上、乱皇子が何か?」
「……お前は無駄に鋭いな」
口では拗つつも、看破されて何処かホッとしたような目の色になる優に、戰と真はますますもって言い知れぬ不安を募らせた。
優が、国内の案件において何かしら腹に据え兼ねる事柄があるとなれば、代帝・安か兄皇子・乱の所業しかない。そして戦に出ている間になにか事を起こすとなれば、乱の方が圧倒的な確率を誇るであろう。天が戦陣をたてながら大敗し、翻って戰が無傷の軍功をあげた以上、乱も同様に何事かを偉業をと、立ち上がるのは想像に難くない。
そして乱は、この優の態度から、何事かを成したに相違ないと見て良い。簡単な事だ。
だが、何事を?
優がこの様に怒りつつも其れ故に歯切れが悪くなるなど、余程の事柄に相違ない。痛みを堪える為に咳込みながら、真は父親を忙しく促す。
「何を? 何をされたのです、乱皇子は?」
「乱皇子は、自ら申し出られた宗正寺の任務に勤しまれ、大成なされた」
口でそう称えも、再び優は顰のように顔を怒らせる。
戰の兄皇子であり貴妃・明の長子である乱は、やはりその叔父である大令・中の威を借り、此度の父の崩御における霊廟陵墓を奉る役についていた。陵墓には、俑と呼ばれる人形と共に埋葬する。生前の偉勲武功を知らしめる為でもあり、死者の魂を靖んじる為でもある。その全てを恙無く執り行う役に、自ら申し出て就いているという。
実に地味な仕事だ。
やり遂げて当然であり目立つ訳でもなし、何故、この役を自ら好んだであるのか、不思議である。
だが、この兵部尚書・優の様子はどうだ。心火に身を焦がさんばかりの形相だ。
何を、『成した』というのか?
促す戰の声音も、自然と硬く、強いものなる。
「何を? 乱兄上は何を成された?」
「遼に入って戻られた」
「父上、それはつまり、人頭狩り……」
「言うな、真」
父・優に成り代わり答えようとする真に、戰が顔を強ばらせつつも厳しく咎めた。真も素直に口を噤んだ。逆に咎められてホッとしたのだが、兵部尚書である父・優が、顔を怒らせる訳だと呻いた。
入る、とは戦争を起こす事ではない。文字通りに他国領土に踏み入る事を指す。
そして彼が代帝・安より拝命している役を思えば、『入る』意味はひとつでしかなかった。
皇子・乱は、河国とい分たれた遼国との国境において、人頭狩りを行ったのだ。
――人頭狩り。
悍ましい言葉が、戰と真を貫く。
この場合の人頭とは髑髏を意味し、それは生口という人々を表す隠語だ。
太古において。
嘗て此の世には、生きながらにして屍人として扱われる人々を指す、生口と呼ばれる奴隷以下の存在があった。奴婢扱いすらされぬのは、所謂、服わぬ異民族が大元であるからだ。
生口の最も重要な役割は、君主が崩御した際に、黄泉路においても常に慰める存在として、陵墓に副葬品として坑される事だ。この時、生口は、生き埋めにされる。『人』ではなく『屍人』であるから、扱いはそのようになる。陵墓規模が大きければ大きい程、副葬品である生口の数も増える。無論、王の威光を知らしめる為にだ。しかし余りにも凄惨な儀式故に、やがて自然に人形へと変わっていった。
皇子・乱はその惨烈な儀礼を復活させんが為に、人頭狩りをも復活させたのだ。
大成した、という事は、既に陵墓への坑を迄、終えているという事に他ならない。
真は、ざっと音をたてて自身の血が激しく巡るのを感じた。
「父上、規模は掴まれておられますか?」
「邑をひとつ消された」
震える声で問う真に、優は激昂を押さえ込みつつ憮然として答える。
この時期に、態々と生口を得んとして遼国に入り、邑ごと消したのは、明らかに戰の武勲に対抗する為でしかない。
「代帝・安陛下のご反応は?」
「以て、美とのお言葉を下された」
この様な時に。
真は左腕の痛みからくるものとは、別種の熱に、怒りに唸る。
お二方とも、暴挙、いや、軽挙妄動が過ぎる。
遼国は厄介な国柄だ。其れ故に蒙昧な行動は慎むべき地方であるのに、事もあろうに『人頭狩り』で『入る』とは。
しかもこの事態、乱皇子は、必ず戰様を追い落とす糧とすべく画策される筈。
……また、下衆な輩が寄って集って戰様を汚そうと。
先程、代帝・安へ仕込んだ目晦ましが直ぐにでも活用されようとしている。
しかもこの上もなく悪い事態で。
よろしいでしょう。
ならば骨の髄まで、肺腑に至るまで、いや毛筋の先々にまで。
思い知って頂きます。
二度と、戰様に立ち向かおう、などと気が起こらぬよう。
真は煮え滾る思いを隠そうと、熱い吐息を深く吐き出した。
★★★
戰の宮に二人で戻ると、時が、虚海と那谷が勤めていた薬房から薬師たちを手配してくれていた。
寝台の上に真が横になると、薬房の者たちは、流石に那谷の師匠であったと肯ける手練で真の全身を診察し、そして薬の調合を行っていく。
真の二の腕の骨折部分を診て、ふむ、とその手が止まった。
「どうした?」
「いえいえ、順調に御座います。最初の手当がよろしかったのでしょう。これでしたら、真当に骨が繋ぎ合わさりましょう」
手際よく包帯を真新しいものに取り替える医師の明るい口調に、戰は安堵したらしく、何度も頷く。それで、と説明の先を促す声が明るい。
「この先、秋を迎える頃には、多少の不自由さは残りましても、添え木を外すまでにご回復なされることでしょう。しっかりと養生と訓練をなされれば、年を改める迄には、完全にご快癒なされます」
「本当か?」
薬房の一団が一斉に頭を垂れると、戰は、長い吐息を吐き出し脱力した。ふらふらと座り込むと、真を見上げて、笑顔をつくった。
「良かった……何も後遺症は残らないのだな?」
「はい、どうぞご心配なさらずに」
薬師たちの言葉に、戰は眸を潤ませている。真は喜び半分、呆れ半分の成分の視線をなげかける。
「何だ、もう思うままに振舞ったって、良いだろう? 此処は私の宮殿だよ?」
「ええ、そうですね」
眠い眼をこじ開けながら、真は苦笑する。もう大丈夫なのだと医師に告げられた安心感に、眠気が一気に襲ってきていた。我ながら現金なものだと思うが、本心は隠せない。
診察を終え、下男たちに薬湯の指示を出すために部屋を退出しかける医師の後を、戰が追った。見送るつもりらしい。
「真の世話の仕方や、薬の種類や時間などを覚えたいのだが、良いか?」
「は? 戰様、なにを?」
「真、典医たちに薬湯の話を聞いてくるから、そこから動くんじゃないぞ?」
「いえ、薬の管理くらい自分で致しますよ、戰様」
「駄目だ。真に任せておいたら、ずるをするに決まっている」
「ずる? 一体何の事です?」
「不味い薬湯はこっそり処方箋を破り捨てて、薔姫に伝えずにおくつもりだろう」
「……何処の子供です」
「しかし、やるつもりだろう?」
真面目に返されると、はいはい、と真も答えざるをえない。兵車の中で冗談半分にぶつけた恨み節を、どうも本気にしているらしい。
「真、いいか、覚悟しておくんだぞ? 絶対に薬は誤魔化せさせないからな」
いいな、と念を押して薬房の一団と部屋を出る戰の背中を、真は笑いながら見送った。
押し込められていた寝台でそのまま寝てしまおうかと思ったが、戰が付けてくれた下男の手を借りて身体を起こした。どうも、高さのある寝台は、素直に寝付けない。薔姫との初夜を思い出してしまうからだ。
「私にくだされている部屋に、案内してくれますか?」
下男が頷き、肩を借りて部屋に向かおうとする。其処へ、父・優がのそりと入口を塞ぐようにして現れた。
「うわっ!?」
叫び声を上げる真に、優は顰面をしてみせる。その顔をみて、下男はすっ飛んで逃げていった。悪法を犯す無頼漢にでも遭遇したかのような態度だ。ふん、と鼻息も荒く下男を見送ると、何と、優が真の肩を拾って立たせた。驚く真に、もう一度、優はふん、と鼻を鳴らす。照れ隠しのそれに、真は必死で笑いを堪えた。此処で下手に吹き出せば、鉄拳が飛ぶに決まっている。
「改めて見れば、何だ、その無様な為体は」
「もう少し、言いようは無いのですか、父上」
「それで武門の誉れ高き我が一門の血を引いておるのか」
「はあ、まあ、どうやら相当にいい加減に」
よく帰ってきたとも、無事で何よりとの言葉もない。しかし、態々こうして戰が離れたところを見計らうようにして、会いに来るのであるから、何かあったのだ。
ふん、と優が三度ぞんざいに鼻を鳴らす。が、そこに微妙な照れを感じ取り、ははあ、と真は感づいた。
「産まれたのですか?」
「うむ、お前にとっては、同腹妹になる」
口にして、初めて父・優の頬に赤みがさした。よほど嬉しいのだろう。身体が忙しなく小刻みに揺れている。真に話したくて話したくて仕方がなかったに違いない。
しかし、それは真とても同じ事だ。珍しく声を弾ませて父をせっつく。
「それで、名前はなんと名付けられたのですか?」
「む……それがな」
「それが、どうされましたか?」
「それがだな、好に幾つか名を認めた文を送ったのだが、それからどうしたともこうしたとも、返事が来ぬのだ」
厳つい声を涙で濡らすばかりでなく、顔付きまでへにゃり、と情けなく曇らている父・優に真は自らの戒めを破り、ついつい、……ぶ、と小さく吹き出した。
すると、真の顳あたりに父・優の拳がこつりと当てられた。
「痛いですよ、父上。戦傷の勇者である誉れ高き息子に、何をなさるのです」
「馬鹿もんが、いいからとっとと祭国に戻り、名を何としたのか返事を早急に寄越せ」
はいはい、と適当に返事をする息子の顳に、優は今度は情け容赦なくぐりぐりと拳を突き入れたのだった。




