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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
五ノ戦 紅塵万丈

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2 代帝・安

2 代帝・安


 代帝・安の許しを得て、戰は真と共に玉座に座る彼女と謁見を果たしていた。

 戰がたっての希望である。

 己の地位は今でこそ祭国郡王を拝命してはいるが、元を辿れば属国である弱小国家の王家の血筋の下品の位の母を持つ身の上。他の気高き御位の御母堂を持たれる異母兄弟と些か見劣りするのは必死。ここは、己の恥を覆い隠したく。


 故に、この三名のみので拝謁を、と申し出たのだ。


 安は厳かに笑いつつ、それに許しを与えたのである。

「戰よ、此度の戦の大勝、誠に大儀であったことよ。千軍万馬の兵部尚書であろうとも、此度の其の方の武運にはおよそ敵うまいぞ」

 恐れ入ります、と戰は静かに答える。跪いた戰とその背後に控える真は、外征から帰国したそのままの姿だ。戰は兎も角も、真は満身創痍、額には地の滲んだ包帯を巻きつけ、左腕を添え木で支えて吊るしている上に、開いた衿からは打撲の痛みを抑える為の塗布薬の臭いが汗の臭いと共に発散されている。そもそもが未だに一人で歩けるような状態ではなく、なんと主君であるはずの戰に支えられて王の間に現れた。


 ――何という、悍ましさじゃ。あれはそもそも、『人』ではない故、獣と等しきなり(・・)でも仕方ないかのう。


 袞衣こんえの袖を合わせつつも、その綻びから眇めた眸と忌々しげに歪めた口元を、態と見せつける。安とっては、王侯貴族、殿上を許された雲上の人々のみが『人』だ。それ以外は、『人』に仕うるべき『存在』として認識されている。真のような庶人などは文字通り『虫螻むしけら以下』・本来であれば目にも留るのも恐ろしい、『もの』以下なのだ。


「出立の折に、其の方らに約しておいた話であるが」

「はい、陛下」

「欲しいものとやらは、決まったのか?」

「はい、既に」

 即答する戰に、ほほほ……と安は笑い声をあげた。浅ましいものじゃ。所詮は男子おのこなぞという生き物は、己の欲望を望みと考え違える阿呆な生き物。欲を叶うる為に死地に赴く、愚かな生き物よ。

 だが私はその愚か者どもを走らせて、我が意のままにしてくれる。

 わたくしを此れまで、蔑み貶めてきた者共全てを踏みつけて、天涯の太祖となるのじゃ。


「では、戰よ。其の方は何を所望すると?」

「妃を」

 間髪入れず答える戰に、ぴくりと安の太い癖に長さの足りぬ芋虫のような眉が蠢く。

 ふん、この男も所詮は陛下の血を引く者か。

 何を欲するかと思えば、女・じゃと? つまりは後宮を開きたいのか。

 全く何奴も此奴も、目の色をかえて、女、女、女、女、女……! 

 それほど女の股の間の『あな』が恋しければ、いっその事穴熊にでもなれば良かろう! 

 一端の戦果を上げて見直そうかと仏心を呉れてやろうとした此奴ですら、それを望むか。

 ふん、後宮なぞは、何をどう取り繕うたところで、所詮は慰みもの。

 男の『しも』の欲の処理をする為にのみ、躰を熟ませた下衆な女の溜まり場に過ぎぬものを。

 己の母親の有り様を見ても、それが解らぬ阿呆であったとはのう……。

 ふん、と鼻にさえも脂肪のついた丸い鼻の穴を広げ、安は大仰に息を吐き出す。


「それはつまり、後宮を開きたい、と言う申し出か?」

 戰の今の身分は郡王。

 その彼が妃を得て後宮を持つとなれば、皇太子が囲う規模となる。

 安は肥え太った身体を捻りつつ、まるで落ちぶれた獣を見るような、ねっとりした視線で戰を見る。とっととこの会話を打ち切りたいと言わんばかりだ。

 しかし、戰は静かに首を左右にふる。

「いいえ、私が望むのは、正しく文字通りに妃、つまりは、正妃に御座います」


 漸く安の態度が、ほう? と探るようなものになった。

 戰は皇室の一員だ。

 後宮に妃を迎え入れるのならいざ知らず、正妃を娶るとなれば、勝手にはならない。皇室の長、即ち帝である安の許しを得ねばならない。


 正妃を迎える。


 戰にとっては、外交上の切り札を一つ切る(・・)という事に、他ならない。政治基盤の薄い戰は、他国の姫君との婚姻による影響力の増大こそが、この禍国の政争を生き残る為にも不可欠。

 数少ない手持ちの札を、此のような時期に切るとは。

 しかし、此度の戦の大勝をみて、戰からの申し入れを断るような国はまずあり得まい。相手国としても、此方の三回忌の喪開けまで実質的には1年と数ヶ月を残すのみ。様々な要因を重ねて考えたとしも、例え喪中の身の婚姻であろうとも、御子を儲ける時期にさえ注意すれば、良いだけの事だ。逆にこの機に戰の後ろ盾として大いに助け手となり、恩を売らねばと相手は考え、尽力を惜しまぬであろう。相手に利用価値があればあるほど、禍国においても、正に事は有益至極に進むであろう。


 ふむ、分かっておるではないか。なかなかの時節の読み、田分けではないようであるか? 

 さてしかし、何処の国の姫に目を付けた?

 眇めた眸をぎろりと動かしかけた安の耳に、戰の宣言が耳朶を激しく打つ。


「我が治めし領国の王である、椿女王を」


 安のこめかみに血管の筋がひくひくと浮き出し始めた。



 ★★★



 祭国の王女であり、今は女王である椿姫の事は、安は良く知っている。

 知りすぎている。

 4年前、戰が初陣の凱旋帰国の折、戦利品として持ち帰ってきた王女だ。当時、未だ12か13の幼い身でありながら、一眼、その視界に入っただけで、衰えが顕著であった皇帝・景の女体への欲を復活させた王女だ。

 その椿女王は、此度の戦において実に重要な役割を果たしていた。

 即ち、領国内において蕎麦の栽培育成に成功を収め、その収穫を進軍中の禍国軍に全て捧げ奉ったのである。更には、屯田兵に頼るものでなく、自国の軍馬を徴収し、鍛錬した千騎ものそれを追軍として送り出もした。祭国は、国力としては、平素、3万を揃えられれば御の字、根こそぎ兵役につかせたとても5万に満ちるか否かの弱小国だ。その祭国にとっての千騎。如何に国体にとって、重要なものであるか。

 そんな窮乏した国力でありながら、兵糧として捧げた蕎麦と、追軍として送り出した千騎の騎馬軍団。彼らの活躍があってこそ、速戦即決が成し得たのだと王都に住まう幼童ですら、今は知っている事実だ。

 それにしてもたかだか17歳の小娘が王位を引き継いだとて、容易に成しうるものではない。この英断と内政手腕の殆どは、百ヶ日の法要に禍国に戻るまでに戰が布いたものであろう。


 ふふん、と安は脂肪に塗れた身体を、ぶるぶると震わせながら笑う。

 戦に集中しておるものとばかり思うておったが、なかなかどうして、随分な余裕ではないか。

 色香で男を縛るに飽き足らのうなった女を、王妃として娶るつもりか? 

 戰の奴めは、女の面体と色香に狂い。

 小娘は男の権勢と権力にたかりおって。

 この戰も、椿とやら女王になりくさった小娘も、二方共々、何という下衆な輩じゃ、臭うて堪らぬわ。

 どちらにしても、似合いではあるかのう……。


「ほほ……誰を望むかと思えば。しかし、そのような見事な政治手腕を持ちうる女王なれば、其方にとって哲婦傾城てっぷけいせいとなりはせぬかの?」

 最もらしく、戰に釘を指す。しかし戰は静かに微笑むのみだ。

「それならばこの私の持つ運気、覇王の宿星も、それ程度のものであったというだけの事に御座います」

「ほう、随分と大層な事よの」

「陛下」

「何じゃ、戰」

わたくしが、祭国女王を正妃として迎える事、お許し願えますでしょうか?」

 良かろう、許して遣わす、と勿体ぶりつつ安は答える。

 何にせよ、弱小国とはいえ祭国は長きに渡る歴史ある国だ。

 禍国は強大な帝国として君臨しているとはいえ、その歴史は、未だに建国50余年の新興国家に過ぎない。この時代、歴史と由緒と血筋出自は、国家にとってこがねを出しても欲するものの一つであった。弱小国でありながら、祭国が遂に滅亡を見ずに此処まで息を長らえてきているのも、偏にその万古不易たる由緒によるものだ。

 この婚姻は、その祭国の由緒ある歴史をも吾国のものとして飲み込む、決定的な手段となる。これでまた一歩、戰はこの禍国においての皇位継承権争いに抜きん出た事になる。

 成る程、女を侍らせるのみで通うな益を得ようとは、正に上等の手段であるわ。

 が。


「しかし、戰よ」

「はい、陛下」

「相手が女王であっては、なんとしても正妃に据えねば申し訳が立たぬ故、面倒な事よのう? 祭国の姫君のままの身分であれば、奉儀あたりで勝手に寝所にも連れ込めるであろうが、のう?」

 安は、喉を鳴らして笑っているつもりなのであろうが、幾重にも連なった肉の襞がぶるぶると震える様は異様であり、醜悪だ。

 郡王の身分となれば皇太子並に後宮に品位が生じる。6品6位からなり、良娣・良媛・承徽・昭訓・奉儀と定められているのだ。俗に上品の良嬢までは王侯貴人より嫁し、奉儀となれば望むままに定める事が出来る。

 安が殊更に、後宮の品位を持ち出して椿姫を貶める言を発するのは、戰の母親である麗美人に起因しているのは、明白だ。


 しかし、戰はそれについては答えない。

 答えては別の言葉を口にした。

「実は、もう一つ望みが御座います」

「何じゃ、えらく強欲ではないか。此れまでの其方の為人の噂とは、随分と違うことじゃな」

 人とは権力を得るとこのように様変わりするものか、戰、お前もその程度の男子おのこであったか。

 ほーっほほほほほ、と喉元の弛んだ贅肉をたぷたぷと揺らしながら、代帝・安が笑い、戰に許しを与える。

「恐れ入ります。代帝・安陛下の御名のもと、この私に、正妃以外の妃を持てぬよう、命じて頂きたいのです」

「なに?」

「後宮を、持たぬようお命じ下さい」

 安の高笑いが、ぴたりと止む。ぎろりと黒目だけを戰に落としこむ。

「……何故じゃ」

「私には、必要ないからです」



 必要ない、じゃとお?

 安の眉が、もさり、と動く。脂肪で弛んだ目蓋も釣られて、ぬるりと蠢いた。

 古来より、後宮に入れるむすめ、は即ち人質と言っても過言ではない。

 後宮は上手く使い回せば、国を挙げての、そして何よりも個人的に有益な人物を外戚として身内に率い入れる交渉術になりようもの。

 それを自ら捨てるじゃと?


「代帝・安陛下におかれましては、後宮という存在を酷く毛嫌いされておられる御様子。よって私は、安陛下の御心に添う為にも、後宮は一生涯持たぬ所存に御座います」

 戰の言葉は、表面上だけを見れば、成る程、弁口べんこうをして安に追従しているように思える。しかし、表面上だけの追従をそのまま受け入れる程、安は幸せな性生活を送ってきてはいない。逆にその筋の愁嘆場においては猛者手練と言っても過言ではない。

 その彼女にも、戰の今の心情の深淵が読めない。

 安の弛んだ全身の脂肪が、ぶるぶると震える。

 頬の分厚い脂肪をぴくぴくと引きつらせながら、安は喉を戦慄かせた。

 小娘一人の為に随分と、笑わせてくれるではないか。

 どうしてくれようか、この小僧風情めが。


「お許し願えますでしょうか、代帝・安陛下」

 問う戰の言葉への不審が、安の豊か過ぎる脂肪まみれの身体を、ぶるぶると震わせる。こうべを垂れたまま跪く戰の表情は、玉座の高みより見下ろす安には伺い知れない。

 重ねて言うが、後宮、即ち側室を得ることは、王者を目指す者によって大切なえきの一つだ。臣下や他国の姫を『質』替わりに『室』と成すのは最も確実、且つ重要な意味を持つ、内政外交手段だ。

 だからこそ、先帝・景は、大使徒・じゅうや大令・ちゅうの娘たちをそれぞれ後宮に納めたのであるし、他国の姫たちをも同等に入宮させているのだ。

 それを知らぬ身でもあるまいに?

 そこまでこの私に、服従の意を見せたいというのか?

 そんな可愛げばかりの男と信じて良いものか?

 分からぬ、全く解せぬ。


「陛下、お許しを」

「――よかろう、許しを与える」

 礼儀の中に素直な喜びを隠さずにいる戰が、安には不可解だ。

 何を企んでおる、戰の奴め。


 瞼にまで重く肉のたるみをみせる双眸を細め、安が戰を更に攻め問おうとした時。

 ふあ・と小さな欠伸の音が、戰の背後より漏れ出た。



 ★★★



 戰の後ろに平服して控えていた包帯まみれの青年の身体が、ふわりふわりと揺らぎ出している。と、ぐらりと大きく傾ぐ。慌てて、戰が倒れる寸前の青年を支えた。

「真」

「……申し訳御座いません、戰様、寝ておりました」

 真、と呆れた声を上げる戰に向かって、名を呼ばれた青年はこそこそと答えつつも、実に面倒臭そうに、ふあ、と欠伸をする。

「どうも、怪我をして痛みに神経をすり減らしている為にか、疲れて疲れて仕方が無いのです。それに、詰まらない話を延々とされたのでは、どうにもこうにも、眠くて……」

 やはりこそこそ言っている。傍から、再び欠伸をする。


 おーっほっほっほほほほほ、ほっほほほほほ、おほほほほほ。


 醜く脂肪を纏った身体を殊更に揺すりながら、安は高く哂った。天に届こうかという程に高い王の間に、安の醜悪な笑い声が走り、満ちていく。

「身内にしがい《・・・》のなき奴よの。のう、戰。其方が色恋ざたに必死になる様なぞは、その男にとっては瑣末過ぎて詰まらぬそうじゃ」

「……」

「よい、許す。帝であるこのわたくしと直接言葉を交わす栄誉を、其の方に与えようほどに。其の方も、この私に望みのものを申すがよいぞ」

 ぞんざいな口調に尊厳をのせようという魂胆が見え隠れし、それ故に浅墓さが際立つ。この思考の安直さ安穏さは、女性ならではであるかもしれない。

「云うてみよ」


 安のが、ぬらぬらと怪しげな光と影を孕む。

 それに臆する事もなく、では、と真は改めて跪く。というよりは、左腕を庇っている為、折敷くような姿勢となった。

「それでは、偉大なる代帝陛下に我が所望致します品を、申し上げたく」

「云うてみよ」

「……それが」

「何じゃ?」

 未だに、どこか、うとうとした様子を見せる青年に、面白みを感じて安は身を乗り出す。既に、戰への興味は失っていた。


「それが……この渺渺びょうびょうたる身にも、我欲というものがございます」

「ほう、それはつまり何とした欲であるのか?」

「実は、烏滸がましき望みであると知りつつも申し上げますれば、些末な身上のこの私が欲するの品とは、二品、御座います」

「ほ、ほほほぅ?」

「強欲に存念を申し上げて良いものではない、控えねばならぬと尻込みを致しております」

「ほっほほほほほほ、何という、まあ、ほーっほほほほ」

 真の申し出に、間髪を入れずに安は高笑いを返す。弛んだ喉元の幾重にも重なり連なった深い皺の溝を掻き毟りながら、ぶるんぶるんと脂肪まみれの身体をゆする。


「よい、よいのお、その正直さ、逆に可愛ゆげがあってよいわ。云うてみよ、共々、叶えて取らすほどに」

真実まこと・に、御座いますか?」

「私を何と心得るか? この偉大なる禍国の帝であるぞ」

「必ず、その言やよしとのお言葉を賜る事、叶えられましょうか?」

「諄いわえ」

 それでは、と真はこうべを垂れた。


「先ず一品目に、我が父を、所望致します」


 恍惚としながらも侮蔑の高笑いを真へと落としていた安から、表情が消えた。



 ★★★



 安は喉元裂けよとばかりに、おとがいを跳ね、声を張り上げて笑う。


 此奴。

 どうしてくれようか、途方も無く面白き奴よ。


 目の前に跪いている真とやらいう青年が、兵部尚書にして宰相の地位に在る優という無頼漢崩れのような男の側妾腹であるとは、当然聞き及んでいる。

 であれば、此度の戦における勲の証、誉として、地位、冠位、爵位を欲するであろうと、容易に目星はつく。

 それが、父親である兵部尚書にして宰相を追い落として、その権勢の全てを望むとは。

 兵部尚書が管轄する事柄とは、この禍国における軍兵馬の全てに至る。とどの詰り、父親・優が所持する兵部省と宰相としての権限と権力とを、自在に我が物として操る力が欲しいと言っているのだ。

 数多の武官の上下に限らす漏らさず、兵器兵具は言うに及ばず兵站へいたんに至るまで、そう、禍国軍の軍政そのものを統制する兵部尚書としての身分を、戦勝の誉として寄越せ、と言ってきているのだ。


 無位、無冠、無職の身の上である、側妾腹の物品と変わらぬ瑣末な身の上で。

一足飛びに人間に成り上がり、直後直様、天宙の帝国であるこの偉大なる禍国の、兵部尚書と宰相という地位と身分とを望むというのか。

 面白い強欲者じゃ、実に面白いわえ。


「面白き高望みよの、真とやらよ。其れ程までに、父の地位が、冠位が職位が欲しいか、ん?」

 笑い声が、喉の奥の贅肉に阻まれて掠れだした。嘲笑され続けながらも、真という青年は暴発する様子もみせずに、静かに控えている。

「いえ、私如きが一代の大武辺者である父の後継者としてなど、相応しかろう筈がありません」

「……何? ならば何とした意味であると申すか」

「私が望んでおりますのは、文字通りに、父自身、そのままの身柄に御座います」

 安は、芋虫のような太短い眉を顰める。


「貴様如きが、何故に兵部尚書自身を求めるか」

「それは無論の事」

「何がどうじゃと?」

「天下随一の禍国軍の威力勢力を、遠慮会釈なく我が物顔でこき使いたいからに決まっております」

「な、何じゃと!?」

 代帝・安の皺塗れの声が金切り声となり、更に裏返った。



「此度の戦にて、私は大いに思い知りました。私が仕えております祭国屯田兵の軍備は何と脆く脆弱である事か、と。この先、如何なる戦においても勝利を我がものとせん為にも、何としてもこの中華平原において最強の軍備を誇る禍国軍を、まるっと欲しいのです」

「き、貴様……!」


「しかし、事が悪極に及んだ場合に、責任の所在を問い詰められたくは御座いませんし、罰せられたくなど勿論、御免被りたいですし」

「お、お、おおおおお……!」


「このような、至極真当な理由にて、命令を下す最高責任者たる父そのものを、望んだ所存に御座います」


 ご理解頂けましたでしょうか、と真はけろりと答えた。



 ★★★



 ――この腐れ小僧があ!


 怒鳴り散らすところを、安は何とか耐えた。

「……もうひとつの、望みとやらは」

「はい、それは此れに御座います」

 真は右手で何とか懐を探り、小さな包を取り出した。

 染み付いた血糊によってドス黒く変色しているが、元は上質の絹糸で織り上げられた絹布の品であろうことが、遠目でも見て取れる。

 左腕が自由にならぬ為、真はそれを床に置いた。丁寧に包を開くと、其処には小さな花弁が可憐に眠っていた。押し花にしてあるようであるが、それにしても花が生来持つ鮮烈な赫色を未だ残している。色も匂う、と表現したくなる美しさだ。


「それは」

花弁はなびらを伸したものに御座います。我がさいが、我が身の無事を祈り、別れの際に持たせてくれたものです」

 真の言葉に、安はひくり、と目を眇めた。

 安とても、元は皇后だ。

 この強大な帝国の、生きる女たちの頂点に存在していたのだ。

 故に、高貴な女性が身に付けるべく求められる知識は、経年により一方ならぬと自負している。


 だから知っている。

 あの花弁を知っている。


「薔薇と申します」

 果たして、真は花の名を告げ、その内の一枚を指先で大切に摘まみ上げた。

「無論の事、代帝陛下が根刮ぎ払われた月季花では御座いません。私が懇意にしております商人に命じて取り寄せた、西方種に御座います。故に、色も芳香も全く別物、至高の逸品に御座います」


 月季花は一重咲の薄紅色をした美しい花だ。別名を長春花と言い、薔薇とは近類種である。

 しかし真が商人・ときの手を借りて手に入れたのは、月季花ではなく全くの別種、楼国以西に根幹を持つ品種だ。

 月季花は、その昔はここ禍国の後宮でも咲き誇っていた。

 花弁と実は美容に効く薬として珍重されており、高貴な身分の女性はその権勢を誇る為に競って庭に植える花として知られているのだ。茨を持つ故に訪れた皇帝を逃さぬという意味あいと、自身の美貌を保つ薬膳として活用する為と、何よりも美麗な花弁を楽しむ為に、美姫は挙って月季花を庭に誇らせた。

 だがある日を境に、月季花を後宮に植えるのは禁忌となっていた。

 そう、皇帝・景が戰の母親である麗美人を、楼国より持ち帰ってきた(・・・・・・・)あの日から。

 皇帝・景は、麗美人を慰める為に、彼女の祖国の衣装や装飾品を取り揃え、彼女が愛した祖国に咲き誇る花を求めた。今は遠い、楼国のかおり(・・・)に、少しでも麗美人を癒してやろうと必死になった。

 衣装や装飾品は、此処禍国で造り上げられなくとも、買い求めればなんとでもなる。だが薔薇は、この花は通年通して咲く訳ではない。しかし月季花は、違う。その名の通りに毎月のように新たな花を咲かせ、冬でも葉を茂らせ花弁を誇らせる。その為、景は彼女の為に他の後宮の庭に植えられた近似種である月季花をすべて、彼女に与えた房に植え替えさせたのである。後宮においては、例え皇帝といえども口出し出来ぬ範疇を越えての暴挙であった。

 麗美人が儚い存在となった時、当時皇后であった安は、その庭に咲き乱れる月季花の盛る庭を潰させた。以後、どのような御位の妃にも植える事を許さなかったし、後宮たちもそれに従う事で皇帝への無言の諫言としたのだった。


「……その花を、何とするつもりでおるのじゃ」

「はい、先に代帝陛下が仰られました。我が妻は、蒙国皇帝陛下の元に嫁ぐ予定であったと」

「……それが、どうした」

「皇后として輝ける道を用意されていた、それ程の高貴なる身の妻を得ておきながら、私は何一つとして彼女に尽くしておりません。それ故、祭国に戻りし折には、是非とも妻御孝行をしたいと念じているのです」

「……それに、その花と何の関係があるというのか」

 はい、と真は花弁を包に戻した。丁寧に包み直して、懐にしまう。ないはずの温もりを確かめるように、愛くしむように、暫し胸元に掌を当てていた。が、背筋を伸ばすと代帝・安を、ぐっと直視した。


「陛下。私のもう一品の望みを申し上げたく」

「なんじゃ、云うてみよ」


「我が妻の為。私は、先代皇帝・景陛下を見習う所存に御座います」

「何じゃと? 其れは、如何なる……」

「我が国のみならず、他国の如何なる王侯貴族の御方々と比しても、私以上の良人おっとはいまいと知らしめたいので御座います。故に、我が妻を歓ばせる為であるならば、何ものをも与えたく。我が妻を愉しませる為であるのならば、先帝・景陛下を倣い、此の世ならざる美しさを誇る薔薇庭園をも造りあげたく」

「な、何じゃとおっ!?」

 どうぞお許しを、と言葉を結んだ真は、態度を崩さない。



 なんと、いけしゃあしゃあと! このしゃっ面憎い小僧めが!

「側妾腹如きの下郎の小童こわっぱめが! この禍国の土塊砂粒一つとて、思う様になるのはこの帝である私のみじゃ! 許さぬ! 断じて許しなぞせぬ!」

 怒鳴りかけた安の耳孔に、真という青年の涼やかな、しかし錐のようにキリキリとした張りのある声が突きたった。


「代帝陛下、どうぞこの私めに、お約束通りのお言葉をお与え下さい」

 真の言葉に、安ははっとなり、声を潰す。


「……う、ぐぬ……」

「どうぞ、お言葉を」


「ぬ……ぐふ……」

「陛下、二言なしとの約して下さいましたお言葉を、私めに」


 ほんの僅かに、真が、ずい、と身を乗り出す。安は、堪えきれぬ怒りに、顔のみならず、肉にまみれた弛緩しきった身体全体を赤黒く染めあげた。


「陛下」


 真が、最後通牒とばかりに語気を強める。

 ぐふぐふと口角の端に飛沫泡を浮かべながら、安は叫んだ。



「その言やよし! 其の方に、望むままに与えよう!」


 有難き幸せに御座います、と真はこうべを垂れた。




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