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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
五ノ戦 紅塵万丈

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1 凱旋

1 凱旋


 気が付けば、傷病兵専用の兵車に乗せられ、揺られているところだった。


 禍国への、凱旋帰国の行軍途中である。

 という事は直ぐに思い出せたが、その他の事は、真には殆ど記憶がない。あれ程の傷を負っていたのだから当然と言えば当然であるのだが、あの後直ぐに昏倒したのだ。今の今まで、包帯塗れの姿になっている事実にすら気が付いていなかった自分に、ただ苦笑するしかない。


 改めて、自身の怪我を客観的に眺めてみる。

 骨折した腕はもとより、打ち身などの痛み止めの薬効のある塗布薬が、べたべたと全身にくまなく塗りたくられている。独特の臭気に鼻が曲がると言おうか、とても正気を保っていられない程臭く、再び昏倒しそうだと言おうか。

 ぶっちゃけて言ってしまえば、気が狂いそうになる程、強烈にくさい。

 はっとなり、真は少々の冷や汗を感じつつ、掛布団代わりに掛けられていた筵を何とか横にずらした。

 ……多分、粗相はしてない……筈だが。

 ちらり・と尻の下に視線を走らせるが、床には独特の染み等は目に入らない。一応、自然が呼んだ時は起きたように朧げにだが記憶があるし、其方の臭気は漂ってはいない。

 うん、何とか名誉だけは守られたか、とほっとする。

 幾ら意識不明瞭な状態に陥っていたとしても、姫の為にも尊厳は守りたい。避けたい事態を回避できていた事実に安堵する。身動ぎして、何か、つんと突っ張る感覚に似た痛みを、後頭部に覚えた。

 ん? と額に向けて、黒目を動かす。あの時は気が張っていて気がつかなかったが、どうやら頭部にも裂傷があったらしい。包帯が巻かれていた。枕と後頭部にの間に手を差し入れて当ててみると、成る程、擦過傷と思しき怪我の手当てが施してあった。

 頭部だけではない。彼処も此処も、と枚挙に暇ない。

 改めて自身の怪我の重篤さを思い知ると、今更ながらに身を焦がすような激痛が全身を支配し始めた。息をするだけでも、胸と背中が悲鳴をあげ、とても寝返りなどうてない。


 ――これは相当、様態は悪かったのだなあ……それにしても、何日経ったのだろう?

 何もかもが、ぶつ切りにしか思い出せない。

 記憶にあるのは淡い粥を何度かすすったとか、厠にたった以外でいえばその程度だった。それとても誰の介助を受けたのだろうが、それが誰であるのかも、思い出せないのだ。

 どれくらい、此処で寝転がっていたのか?

 そろそろ、禍国王都に到着する頃なのか?

 それともまだ幾ばくかかかるものなのか?

 身体が快方に向かっているからこそ、正気を取り戻したのだ。それなりに日にちは食い潰しているのだろうに、時間的な実感が、ない。


 包帯で固められた左腕を上げてみる。びりびりとした、意識が吹き飛びそうな痛みが走る。

「大怪我だったのですね」

 嘆息しつつ声に出して呟いてみたとこで、事態が好転するわけではないが、自分の怪我の程はしっかりと把握しておかねばならない。追いつかない不明な事柄は、もうこの際、伝家の宝刀、『怪我をして前後不覚だったのだから仕方ない』の一言で、都合よく終わらせるしかないでしょう、と真は腹をくくった。


「それにしても、戰様はちゃんと祭国に知らせを走らせられたのでしょうか?」

 してないでしょうね、と真は自らの問に即答する。

 仮に、戰が奇跡的に気が付き、椿姫の元に帰国の知らせが伝えられたとしても、だ。

 戰の此れまでの調子では、真が馬から転がり落ちて怪我をしたという事実もあわせて知らせなくては、などとは到底思い至るまい。

 気を利かせたときふうを走らせて、此度の戦の大勝を伝えてくれている位なものであろう。

 しかし、自身がこうして戦傷に伏していると伝える事は、『男殺し』の宿星を背負うしょう姫の事を知るときは、出過ぎてはと控えるに違いない。戰自身の手による便りであればこそ、しょう姫もまだ、幾らかは落ち着いて受け入れられるのだと、時も心得ているからだ。

 それにだいたい、しょう姫を前に、仲間うちの誰がこのような事を告げられるものか。


 帰ったら、宥めるのに此れは相当に苦労するでしょうね……。

 ふう、と再び真は嘆息した。そんな僅かな動きですら、背筋が痛む。

「痛いなあ」

 この為体ていたらくを見たら、姫は何と言うでしょうか。

 泣くでしょうか、それとも、怒るでしょうか。

 目蓋を閉じてみる。仄暗さの中に、わんわん泣きながら小さな握り拳を振り回してくる、幼い妻の姿が浮かんできた。

 ……両方、ですね。

「ま、仕方ないですね」

 ぼやきつつを開ける。

 真は顎を上げながら額を左右にふり、伸びた前髪をはらった。の中に入ってしまいそうな程、勝手気儘に伸び放題になっている。帰ったら、櫛と小刀を片手にしつつ、みっともない前髪を切れ切れと追いかけられますね、これは。


「この上まだ姫に怒られるなんてたまったものじゃないですから、ここはひとつ、戰様に罪を被っていただきましょうか」

 どうせ禍国に凱旋帰国を果たした暁には、暫し逗留し、代帝・安陛下とやりあわねばならない。その間、父にもときにもこっそり言付けて、手助けせずにしておきましょう。

 改めて祭国に戻るとなった折に指摘したら。

 きっと、青くなられるでしょうね……。

 自分で言っておきながら、真はきらりとを輝かせた。

「いや……それは、面白いですね、是非とも見てみたいです」

 戰様、どうぞ頑張って、姫の引っかきと蹴りと鉄拳と頭突きと噛み付きによる、体当たり制裁を受けて下さいね。

 私はゆっくり愉しませてもらいますので。

 戰様、此度のこの怪我は、それで御破算と致しましょう。


 その日を思い描いて、くすくすと笑いながらつらつら考えていると、流石に、喉が乾いてきて仕方が無くなってきた。これだけ高熱を発していたのでは当然と言える。

 さて、手近に水差があれば良いがと、思うに任せぬながらも首を捻った。

 思ったよりも直ぐ水差を見つける事ができ、やれやれと手を伸ばそうした時。

 別の事実に真は、目を丸くした。



 ★★★



「……えっ……!?」

 真が驚いたのは、同じ牛車に戰が乗り込んでいた事だった。目の前に蹲るようにして身体を縮こめてうつらうつらと船を漕いでいるのは、確かに戰だった。


 ――戰様!?


 身体を起こし、声を上げようとして、呻き声にとって変わられてしまった。

 骨折からくる発熱が、想像以上に体力を奪い取っていた。身体を起こしたくとも叶わず、唯一自由となる右腕をあてもなく泳がせる真に戰が気がついた。慌てて支えて身体を起こす手伝いをすると、薬湯を満たした大きな椀を差し出してきた。

「やっと目が覚めたというのに、安否を問う声をかける前に此れですか?」

 恨みがましい眼付で真が上目遣いをすると、戰も唇を尖らせたムッとした口調で切り返す。

「大怪我だったのだ。薬はきちんと飲まねば、治るものも治らないぞ、真」

「苦薬湯、ですよね?」

「ああ、発熱を抑える薬と、万が一の為に体内で身体が膿まぬようにする薬が混ざっているそうだ。飲んでおくんだ」

 強引に胸に押し付けられて、渋々、真は椀を受け取り、顰め面をしながら、ちびちびちびちびと飲んでいく。やたらと時間を掛けて、やっと飲み干すと、苦虫を1億匹は同時に噛み潰したのではと思われる程、苦々しい面持ちでべえ~・と舌を出して、攫うように水差を引っつかみ、口直しに水をがぶがぶと飲み干した。

 呆れる戰に、真は怨み節をぶつける。


「薬は嫌いなのですよ」

「え?」

「だって、苦いし不味いじゃないですか」

「……真、またそんな分からない事を」

「そもそも戰様、昏倒から気がついたというのに、気分はどうだとか身体は辛くないかとかいう、優しい言葉はないのですか? 無言で苦薬湯を押し付けてくるなんて、非道いじゃないですか」

「真、何をそんな子供みたいな事を」

「ええ、戰様に比べたら、私は1歳分子供です。大体ですね、薬が必要という事は、常よりも心身共々、弱っているという証拠なのですよ? それなのに口不味いものを飲ませて追い討ちをかけるなんて、正気の沙汰とも思えません。真面な人間の考える事ではありませんよ」

 真は、虚海こがい那谷なたが聞いたら、怒りで折れた腕に拳骨を見舞いそうな事を、平気でぶつぶつと垂れ続ける。そんな真に戰は呆れ、深く肩を上下させつつ嘆息した。


「良薬口に苦しと言うだろう」

「良いものなら、美味しいものですよ。弱っている人間にとどめを掛けるとは、本当に医師だの薬師だの、薬湯を考え出した御方は相当に情け容赦のない人非人に違いないです」

「真……」

 折角用意したのに、と戰は萎れる様子を見せる。

「全くもう、此れが姫だったら、口直しのお菓子の一つでも用意してくれているのでしょうが」

 生憎と、お兄上様の方にそれを望むのは無理ですね、と意地悪く真は締めくくる。

 どだい、口で戰が真に勝てる訳が無いのだ。悄気返って物も言えない戰に、真はしかし何時もの調子で口元を綻ばせ、次いではっきりとした笑い声をあげた。

 戰も釣られて笑い出し、暫し二人で声を上げて笑い合う。


 ああ、こんなふうに声を出して笑い合うのは、何時ぶりだろう? 

 泣き出したい位に、真は『勝ったのだ』という実感と共に幸せを噛みしめる。


 が、不意に真は、笑いを収めて真顔になった。

 唯一、自由が効く右手を伸ばし、戰の襟首を掴む。

 ん? と不思議そうに戰が真を見返してきた。

「戰様」

「何だい、真」

「もしかして、ずっと私についていて下さったのですか?」

「どうしてだ? 当然だろう?」

「いけません」

 詰問口調に不満を顕にする戰に対して、珍しく強い怒りを含んで真は答えた。衿を掴んだ右手が白くなるほど、固くなっている。震えているのは、掌の火傷の痛みの為では、勿論ない。


「誰か一人を、特別扱いしてはいけません。お心を通わせる存在は、一人と思わせてはなりません。寵愛を受けている者が居るとなれば、其処には必ず嫉妬が生まれます。嫉妬はやがて新たな派閥を生み、敵に転じます。今、地盤の確かでない戰様に、此れがどの程の脅威であるか、お分かりになられるはず」


 此度の戦で、禍国内における高位高官の中にも、戰を見直す動きは出た筈だ。芽吹いた内政からの変化の伊吹は、やがてうねりを見せ、孰れ、矢のように尖る。孰れた先鉾は、何れ戰が束ね、一本の大道となる。しかし、成熟する前に別のうねりに変化へんげさせては、決してならぬのだ。

「……私は、どうすればよい」

「今直ぐに、この兵車を降りて、全ての傷病兵の手当の場に脚をお運び下さい。どうか一人一人の手を取り、安堵と労いのお声を掛けてやって下さい。そして彼らが返す言葉に、真摯に耳を傾けて実直にお応え下さい」

「……分かった、私が間違っていた」

 短く答えた戰は、立ち上がると車を止めるように御者に声をかけた。馬が歩みを止めると、戰は兵車から降りるべく真に背を向ける。


「真」

「はい、戰様」

「それでも、真は、私にとって特別な只一人の存在だよ」


 ――全く、何処まで人誑しであらせられるのですか。

 静かに兵車を降りる戰の背中を、真は、すん・と鼻を鳴らして見送った。



 ★★★



 凱旋帰国を果たした禍国軍総大将たる皇子・戰の軍旗が、高い夏空に冴えてはためいている。威風堂々という言葉をそのままに体現したといえる戰の威厳あるれる風貌は、まさに王者そのものといえる。

 帝国の領土にて無慙無愧むざんむきを極め尽くした句国王くこくおうばんと王太子・みちは共々に討ち果たした。

 5万という大軍を、3万6千という劣る兵力で見事打ち破り、大勝したのだ。

 まさに文字通り、英雄豪傑と言えよう。


 禍国の王都の聖大門を悠々とくぐる戰に、近付く一団があった。

「兵部尚書よ、出迎え、大儀」

「祭国郡王にして我が禍国総大将の大任を見事果たせし皇子・戰殿下の凱旋、お慶び申し上げます。まさに国威発揚、禍国に皇子殿下この人有りと知らしめる戦となりました」

 最礼拝をもって迎える兵部尚書・優に、戰が何処かこそばゆそうに眉を顰めつつ、頷きをもって答える。このように持ち上げられる賛辞の美麗句に、戰は慣れていない。何か余所事のように思えてならないのだ。

 戸惑いを隠そうともしない、今や英傑の名を欲しいままにする皇子のこの微笑ましい挙動に、兵部尚書は逆に好ましい視線を送る。


 このままの皇子殿下でいて下されば宜しいが。

 いや心配などせずとも、この皇子はきっと変わらぬままだろう。

 周囲が変わっていくのだ。それも、天変の地異もかくやと言わんばかりに。

 それが吉と出るか凶と出るかといえば、凶も凶、大凶相しか出ぬであろう。


 真。

 ――あの、口先ばかりが達者な、紙上談兵しじょうだんぺいの兵術であると揶揄されはしないかとはらはらと見守るばかりの、頭でっかち尻つぼみのどら(・・)息子めが。

 果たして、陛下の終生のいぬとなりうるものか。


 兵部尚書・優は些かの危惧を抱きつつ、息子が乗っているという傷病兵が押し込められた兵車を凝視していた。



 戰が率いる一軍が、兵部尚書・優の前を通り過ぎていく。

 そして、凱旋の途にある禍国軍の最後尾に、まるで霊気の行列ではあるまいかと見紛う列が伸びている。舌打ちしたい気分を飲み込み、優は一応、兵部尚書としての礼儀をもって、その先頭に立つ皇子に礼拝を捧げた。

 そう、かつての皇太子・天が率いていた3万の軍勢である。

 いや、禍国を出立した折には確かに3万の軍であったが、この帰国までの間に実に2万を切るにまで兵馬をすり減らしていた。辛うじて戦いに生き残った者たちもその大半は戸板に乗せられての帰国であり、遠からず鬼籍に入るのは目に見えている。


 まさに大敗。

 言い逃れの出来ぬ敗残、肝脳塗地かんのうとちを晒す醜態である。


 喘ぎつつ騎馬に揺られる皇子・天を見送る人々の冷ややかな眸は、既に彼を政争の蚊帳の外の人物、過去の人とみなしていたのだった。

 生気を抜き取られた這う這うの態で帰国の途に付いてる皇子・天は、しかし己に向けれらた侮蔑と、進退窮まるにまで追い詰めれれている自身の立場とに、全く気が付く余裕がなかった。



 ★★★



 王城に入るや否や、天の元に彼の母親である徳妃とくひねいとその父である大司徒・じゅうが礼節も忘れて、文字通りに飛び込んできた。

「何という為体ていたらくだ、天よ」

「そちゃ、恥ずかしゅうはないのか」

 母と祖父に同時に詰られれば、それまでであれば、確実に怒りを爆発させていた。しかし、今、彼らの目の前に居る天は違う。頭を抱え込み、部屋の隅でがたがたと震えるばかりであり、ぶつぶつと何やら呟いて要領をみないのだ。

「……天?」

 漸く、我が息子の様子が尋常一様ではない事に気が付いた徳妃・寧は、語尾をあげて問いかけつつ、そろそろと天に近寄った。

すると。


 ――きぃやぁあああああああああああ!


 発狂した狂人かと紛う叫び声をあげて、天はごろごろと床を這いずり転がりまわるして、暴れ出した。

「天、て、天!? い、い、如何致したのじゃ!?」

 寧は一瞬、、言葉を失いながらも、転げまわる息子・天を抱きしめにかかる。

「天! 如何致したと聞いておるに!」

「……如何致した、ですとぉ……?」

 此れまでの惑乱状態がぴたりと止み、天が真面に言葉を紡いだ。しかし逆に徳妃・寧も大使徒・じゅうも、ぞくりと肌を粟立たせた。ぎろりと剥かれたが血走り、口角には血混じりのぶつぶつとした泡飛沫が浮かんでいる。

 尋常ではない。

 癲狂てんきょう状態だ。


「母上、そして叔父上ぇ……」

「な、何じゃ、天よ」

「何故、この私がこの様な目に遭わされねばならぬ!?」

「なに?」

「この私! この、この『天地が入れ替わる程の事変があろうとも、この身を安んじる』と占われた、『驚天動地きょうてんどうち』の宿星を持つと謳われたこの私が、何故にこの様な非道な目に遭わねばならぬ!?」

「て、天……」

「あの《・・》戰ですら、易易と勝ちを得ておると云うに! 叔父上、戦とは戦えば勝利するものではないのか!?」

「て、天……」

「私は『敗軍之将』となる法など、習うてはおらぬ!」


 母である徳妃と、祖父である大使徒に轟々たる非難をぶつけ続ける天の姿は、余りにも浅ましい。皇子である天は、皇祖以外の者を祖父と認めぬという意識から、何事かあれば母方の祖父である大使徒・充を『叔父』呼ばわりして貶める。

 それでも母の欲目から、それすらも徳妃・寧には帝室の高貴の血の成せる業、天ほどの貴公子はおらぬと映っている。この様なさまなどは、天に相応しからぬ、何かの間違いである此の世が可笑しいのだと信じて疑っていない。


 徳妃・寧は、天には生まれながらの帝王となる為に、挫折を味合わせぬよう負けを覚えぬよう、細心の注意を払い続けた。

 己こそがこの世を統べるに相応しき随一の男、天帝の随意を授かった宿星の元に生まれたのであると骨身に染みさせる為に、常に勝利を身辺に置かせた。

 『負』を背負うなど、皇帝には有り得ない、故に教える必要はない。彼が機嫌よく日々を過ごせるよう、何事にも秀でていられるよう、周辺を整えさせてきた。


 否・という言葉は耳入れてはならぬ。

 不可・という事実がこの世にあると感じさせてはならぬ。

 此の世の全ては、やがて皇帝として吾国に君臨する、己が思う儘である。

 皇子・天なる存在は、皇帝となるべく此の世に生を受けたのだ。

 天宙におわす、偉大なる天帝に愛され選ばれし、唯一不二の人物。

 それが皇子・天という人物である。


 かように教えよと、囲う数多の師匠達に厳しく申し渡してきた。

 徳妃・寧は、息子が皇帝として君臨する日の為に、己の望むものは己の望むままにその手に入るが此の世の正しき姿であると、骨身に染み渡るまで天に叩き込んだのだ。

 そして彼の口が申し渡す事柄は、此れまでほぼ正しく実行されてきた。

 異腹弟おとうと皇子・戰が4年前の戦いにおいて勝利を収めるまでは。


「母上、母上、何故に私がこの様な非道に堕とされねばならぬ!? 私は生まれながらにしての皇帝、天に愛されし皇子ではないのですか!?」

「おお、天よ、許しておくれ。全く其方の申すその通りじゃ。この母が、其方に成り代わりて天宙におわす天帝に、異議不服を申し渡して呉れよう」

「それだけでは足りませぬ。何卒、あの糞生意気な負け知らずの戰に、妄誕無稽もうたんむけいにも帝位をうかがおうなぞという槃特者はんどくものに、大敗を味あわせてくれませぬと」

「分かっておる、分かっておるわ、可愛い天よ、全てこの母に任せておきなされ」


 抱き合い、互いに恍惚となる親子の様子を、じりじりとした冷や汗を感じながら薄ら寒く冷え冷えとした心持ちで見詰める者が、あった。

 大使徒・じゅうだ。


 嘗ての皇后、今や代帝を名乗る安は彼の異腹妹であり、徳妃・寧は彼の実娘だ。

 皇后として入宮を果たした妹である安は、父のいや一門の傀儡であった。兄の充にではなく、『家』の為に嫁した。其のくせ、なかなか懐妊する事が叶わず、ようよう産み落としたのは、皇女であったのだ。皇子を産む事こそが、最大の使命であったものを、安は命令を遂行出来なかった。家門を思えば、秘術であろうと呪詛であろうと魔札であろうと縋らねばならぬものを、安は己の自尊心を優先さえ、責務を完全に果たす事を放棄した出来損ないだった。


 父が身罷った時、じゅうは思った。

 一門全人ぜんとが栄耀をみる必要などない。

 家門を率いるのは、今や、この私だ。

 であるならば、その栄華を味わうのは己のみでよい。


 その為に、充は父が存命中からの地盤固めを怠らなかった。娘・ねいには皇帝・景に気に入られる事のみを、存念を叶える存在であると思わせるように、首を縦にふる事を徹底して教え込み、皇子を生んだ暁にはその子が皇帝となる事を疑わぬように、祖父である自身を頼り続けるように、育て上げるべく言い含め続けた。

 何れ、天が皇帝として即位した暁には、外戚として最高の権力者として君臨する為に。

 その為には、皇子は暗愚でなくてはならない。

 自我を持つ操人形くりにんぎょうなどは、扱い辛い。

 充は、娘が皇太子となった孫・天の太傅たいふとなる師の任命にも嘴を挟み引っ掻き回す様を、喜びつつ薄目で眺めていた。


 だが。

 その結果が、目の前にて恥も外聞もなく繰り広げられている醜態である。

 腹の奥で、充は強く舌打ちをした。

 何ということか。

 此奴なぞに寄りかかり、私はこの禍国にての権勢を夢見ておったのか。

 目論見通りに天が皇帝として即位しておれば大使徒としてだけでなく、相国ともなり天下に君臨できたものであるが、かような事態となっては是非もない。

 

 熱く呪いの涙を流し合いながら、戰を貶め呪詛する言葉を紡ぎ合う娘と孫の様子に、充は、ふん……と目を眇める。


 此処に至り漸く、娘・徳妃が愚盲なままに育て上げた孫皇子・天の愚鈍梼昧ぐどんとうまいさは隠しおおしようもない。

 祭国郡王となった皇子・戰が権力闘争に狼煙を上げた今。

 このままでは、立ち行かぬ。

 娘と孫が勝手に野垂れ死にしようが、それは此奴らの暗愚愚癡あんぐぐちが招いた自業自得の極みというものだ。だが、その泥船に乗るのはこの二人のみで良い。

 家門の象徴であるこの私が、共々滅びるわけにはいかぬ。

 別の船にのり、権力闘争という大海を泳ぎきらねばならぬのだ。

 極めねばならぬのだ。

 さてしかし、どの船に乗れば良いか……。


 天は、脂肪をぶるぶると震わせながら、怒りの気を吐着続けている。

 見苦しくも浅ましい、恥知らずな晒し具合だ。


 充はもう一度、ふん……と目を眇めつつ侮蔑の笑みを向ける。


 彼の中では、既にこの孫皇子・天は、『無能な用無し』の烙印を押されていた。



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