11 立役者 その3
11 立役者 その3
逃げる皇子・天が率いる禍国軍は、まさに文字通り、昼夜兼行の退却劇であった。
そして追う句国王・番率いる句国軍は、追討、追伐、追撃の限りを尽くしたと言えた。
しかし何故か、一気撃破して皇子・天を捉るには、殿が異様な粘りを見せ、叶わない。
――何故だ?
句国王・番は、肉迫しつつも切り崩しきれない歯痒さに、いらいらと脚を揺する。この3日間、皇太子・天との戦いにおいて、最初の激突の大勝は無論の事、その後の小競り合いも含め、此方が負けを見た事などは一度もない。いや、契国に進軍してよりこの半年近く、負けなしなのだ。
この私こそが、世に一番の戦巧者であろう。
番の腹の内側には、密かに、だが強大な自信が実って熟れていた。
「父上、如何なされますか? やはり本日もこのまま押されますか?」
享の言葉に、番は顔を昂奮に赤黒く染めて頷く。
「当然だ。今日のうちに決着をつけねば、気がすまぬ」
「ならば、兵を軽装備にさせては如何でありましょうか?」
「何?」
「鎧兜と申すものは意外に重たく、体力を奪うものに御座います。どちらにせよ最早、禍国軍に我が軍に反撃に出るような余裕などありますまい。身軽となり、追走しやすくさせてやった方が、兵の為になりましょう」
享の進言に、おお、と番は大袈裟に手を打って喜んだ。
「お前の言う通りだ。兵を労ってやらねばな」
伝令、此れへ! と大声で呼ばわる番の前に走り寄る伝令隊に、声を張る。
「全兵士に伝えよ。鎧を下ろし、身軽となれ。速度をあげて最後尾に喰らいつき、本日中に禍国軍を全滅せしめようぞ!」
上機嫌で命じつつ自らも鎧を外しにかかる番に、享も数歩後で満足そうに冷たい視線で頷いた。
――どうぞ、お身軽におなりに。不慮の事故が起きたとて、この私があとに控えております故、どうぞ後顧の憂いなく、黄泉路へ旅立たれますよう。
此れまで同盟主として君臨してきた禍国皇帝・景は、実に40年に渡りその座を守り抜いた。禍国の成り立ちは50余年。つまりはその殆どが、先代皇帝・景の治世であったのだ。
強大な大国となるには、一人の絶対王者こそが必要。
国が富み、栄華を誇るには、長く安定した御代こそが不可欠。
この戦の後、強大な力を蓄えし句国に、絶対王者として君臨するに値する者は只一人。
そう、この私こそが相応しいのです。
腰に帯びた革袋を一撫でしつつ、享は心の中で、うっすらとほくそ笑んだ。
勝利のあかつきには、父上、最早貴方様は用無しに御座います。此れからは、この私、享がこの句国の王として君臨し、長く安定した世を作り上げます。
革袋を弄びつつ、冷たい視線で、享は父王が鎧を脱ぐ姿を見守っていた。
★★★
句国軍の追撃の速度が一段上がったように、克には思えた。
いや、此れは錯覚ではない。確かに、圧迫感が増している。
殿をまとめる任に努めていた克が、此れはもしや、と思い草たちを放つ。果たして句国軍は、装備を最大限にまで軽くし、もって身軽となって追走の手を早めているのだという。その分、歩兵と騎馬軍団と、戦車部隊との差は開き、隊列が伸び出している、と草は淡々と答えた。
「いよいよ、か。いや、流石に真殿だ」
ぺろりと舌舐りをして、かさついた唇を湿らせると克は、もう一人の草に、最前列の誘導隊の様子を問う。彼によると、もはや遠く離れた皇子・天の本隊は、句国本領土内に踏み入ったという。合わせて、戰の元よりくだされた、禍国軍6千騎も此方に到着したとの報が届けられた。
「順調だな」
頷く草たちを前に、祭国より率いてきた自慢の千騎に克は胸を張り、傍らに控えていた早足の芙に目配せをした。
心得えている芙が、まるで颯の如きに走り去る。その背を見送ってから、克は手にした武具を振りかざしつつ、声を張り上げた。
「良いか、真殿の作戦を遂行する刻限が近付いてきている! 禍国軍精鋭の騎馬隊6千、そして虚海殿に鍛えられし我ら百騎十組の動きに、成否がかかっている! 心してかかれ!」
克の気勢に、従う千騎の精鋭は「おう!」と威勢よく声を揃えて答え、腕を突き上げる。
そしてそのまま、克に率いられた一軍は、密かに殿の役目を離れ、騎馬を駆って目的の地を目指したのだった。
句国軍約2万5千の戦車部隊と、克の指揮の元に彼が率いてきた祭国軍千騎と禍国軍6千の騎馬隊、合わせて7千の騎馬隊とが、激突すべく反転。
更に皇子・天が率いる禍国軍が句国領土内へ達し、備国軍と互いに対峙する位置まで到達した旨を、早足の芙が伝令に来た。
頷く真は句国王子・玖に、此れより直ちに、皇子・天救出に向かうべく、陣を上げ軍を押したてられよと進言する。頷きつつも、最後に玖が、克が率いる7千騎の騎馬隊の有り様を案ずる言葉をかけると、む、としたように芙が顔を顰めた。この芙という男、この戦の間に、随分と表情を表に出すようになってきていた。
「ご心配には及びません。克殿が率いる我が軍は、何と優勢である事か、玖殿下には遂に思い至っては頂けなかったようですが」
「うぬ?」
「ものの見方を、少し変えるだけで宜しいのですよ、玖殿下」
真は微笑んで、説明を始めた。
戦車は、通常5人一組一機と数える。つまりは、2万5千の戦車部隊といっても、実総数は5千機と数えるべきなのだ。
「大元の数だけを見、実を把握せぬから、5万の大軍と恐れねばならぬのです」
真の言葉に、早足の芙が頷く。
「克殿は、僅か7千騎で2万5千という3倍以上の大軍と、対峙するのではありません。対等以上の数の差がある上に、武器に置いても優位に立っているのです。恐るるに足りません。残る句国軍2万5千とて、戰様が率いる3万の兵にて仕留める事など、造作ありません」
もう一度、芙が頷くと真も漸く、表情を緩める。
皇子・天の元へと分かたれる直前、真に真実を話された句国王子・玖は、得心し、そして深く嘆息した。
5千対7千。
2万5千対3万
確かに数字だけを見れば、どちらがより優れ、どちらが勝利を得るか、知れようというものだ。
しかも、機動力において、戦車と騎馬ではどちらがより優勢かそのようなものは火を見るよりも明らか。元より、戰が率いる禍国軍は騎馬がその中核を担っているのだ。
しかし、そのような数の『数のからくり』に、誰もが思い到れる訳ではない。いや、思い至ったところで、所詮は度胸試しのような博打に近い。
一機。
と数えれば、成る程、句国軍の戦車軍団は5千であろう。
しかしそんなものは所詮は数を捏ねて表しただけの詭弁、机上にての絵空事でしかない。
幾ら、無敵の鉄の剣を帯びた6千の騎馬と、戦車を打倒す為にのみ開発された武器を手にした豪胆揃いの千騎の騎馬が寄ろうとも。
目の前に迫るは、事実、総数2万5千の軍勢なのだ。
その圧迫感と重層感。
そして威力迫力に怖気を持たぬ者が、果たして存在し得ようか?
「恐れなく飛び込む事など、誰にでも出来うるものではないだろう」
玖の言葉に、珍しく怒りに眉を跳ね上げた芙に、戰が諌めるように間に身体を挟み込む。
「玖殿」
「な、何か?」
「一つ思い違いをされているようだ。戦っているのは、『誰』という不特定で不明瞭な人物などではない」
「ふむ?」
「志を同じくする、克という人物が率いる、私の仲間だ」
「ぬ……」
「私が彼らを深く信じ、恐れを抱いておらぬ以上、彼らもまた、恐れを抱いていない。己の為すべき事を、ただ己の誇りと意地にかけ、己の才覚にて、全うする事のみに全霊を傾けて注いでいるのだ」
うう、と玖は言葉を飲み込む。
此れまで、語気を強めた事のない戰の言葉は、ずしりと重く、玖に伸し掛る。静かに進み出た真が、戰の言葉の後を引き継ぐ。
「玖殿下」
「な、何だ?」
「戰様のお身内を侮辱なされるお言葉は、例え殿下であられようとも許されません。たとえ、戰様がお許しになられようとも」
「――戰殿下が、許されようとも……?」
「この私が許しません」
お忘れなきよう。
釘を刺す真の眸の鋭さに、玖と、控える歴戦の猛者・姜ですら、怖気により思わず身を引いた。
★★★
此れで何度目であるのか。
既に夕闇が迫りつつある中、句国軍と禍国軍とが、激突した。
しかし、少々様子が違うのは、激突された方の禍国軍にある。
翻る軍旗が、その持ち主である総大将が皇子・戰であると告げていたからだ。
皇子・天相手に戦っていたと思っていた処が、知らぬ間に相手が皇子・戰にすり替わっていた。これは一体どういう事だ?
「戰の奴め、いつの間に天の阿呆を救い出す位置に迄、南下してきておったのだ」
驚きつつも、句国王・番は嘲り嗤う。同時に、王都に残してきている息子の玖の不甲斐さと情けなさに、舌打ちが出る。何をやっておるのだ。そのまま油断して無防備にさらしたままの背後を突けば、切り崩せるものを。
「父王様、此処が肝要に御座います。奮起なされませ。帝位後継候補筆頭の皇子・戰を討ち取れば、この戦、此方の大勝利に御座います」
「分かっておるわ」
するすると後退しだした皇子・戰の軍の動きに、愛児である享の言葉に頼らずとも勝利を確信した番は、弾んだ声で命じた。
「このまま全軍、全心全意をもって前進、禍国軍を討て!」
御意のままに、と答える王子・享の両眼が、氷の如き光を孕んだ。
「戦車部隊は?」
と問おうとして、番は再び舌打ちをした。弩弓を積んだ装備のせいで、戦車は騎馬や歩兵ほど、速さを稼ぐことは出来ないであろう、未だ追いついていない筈だ。
「戦車部隊がなくとも、何の皇子・戰如き。父王様が率いられる密集歩兵と騎馬軍があれば、如何様にも蹴散らせましょう」
再び享の言葉に機嫌を直した句国王・番は、馬に跨り直すと鞭を入れた。
句国王・番の大戦旗が、風に勇ましく靡く。
巨大な旗がはためく際に落とすバタバタという破裂音ですら、勝利を予感してのざわめきのようにも思え、番は意気揚々として馬を駆り続けた。
既に空が甘い赤紫から仄かに青紫へと変幻し始めている。所謂、誰彼時が近付いてきているのだ。
しかし皇子・戰が率いる禍国軍は、此れまでの皇子・天が率いる軍勢などとは比較にならぬ程、滑らかな、するするとした動きで引き続ける。
もしや誘っているのでは? と流石に疑いをかけ、追撃の手を緩めかけると、途端に強気となり猛烈な突撃をみせる。そのくせ、反撃の為に腕を振るうとしおしおと項垂れるように、引いていく。
先に対峙した皇子・天の殿と、全く変わり映えのしないその動きに、番もとうとう、嘲笑仕切りとなった。
「ふん、この程度の男であったか、禍国皇子・戰め」
たかが欲狂いの婆が認めた皇子。
やはり何程の力もありはしなかった。
いや、禍国の国力自体が既にもう、枯渇していたのだ。
あの無様な軍の有様を、見るがいい。
兄皇子である天といい、いま対峙している戰といい。
その戰に王都を奪われた玖といい。
全く呆れて物が言えぬ。我が子、享を見習うがよいわ。
宵の帳が完全に落ちる前に、決着を付けてくれよう。
鼻息も荒く、句国王・番はにやりと頬を歪めた。
★★★
早足の芙が、頭を垂れた。
「では、此方も仕掛けます」
真が振り返ると、戰が深く頷く。
「此方も手筈通りに動く。克に、決して戦車部隊を乗り入れさせるなと伝えてくれないか」
御意、と短く答えた芙は、身を翻して菖蒲色に染まりきる直前の空の下、飛ぶように駆けていく。
既に半刻程前に、芙が束ねている草から連絡が入っている。遂に、備国軍と、兄皇子である天が率いる禍国軍が、出会い頭に無造作に衝突したのだ。今頃は、潜んでいた句国王子・玖が万騎将軍・姜と共に、剛国王・闘が率いる猛者揃いの騎馬軍団と呼応して、備国王・域が率いる備国軍を挟み撃ちにしている頃合だろう。
「行くぞ、真」
「はい、戰様」
芙の姿が紫色の影と重なって淡く消えていくと、戰と真は立ち上がった。
改めて、戰は手にした鞍を千段の背に固定し、轡を咬ませる。手に入れたその日に椿姫を乗せて駆けた事を除けば、戰は千段に、極力、轡を付けさせないでいた。そんなものがなくても乗りこなせる絶対の自信と、千段との意思疎通が出来ているとの思いからだ。
が、今回の、こと戦に至っては仕方がない。片手で手綱を操り、血気奮って戦わねばならないのだ。
「気に入らずとも、堪えてくれよ」
諄い、とばかりにギロリと巨大な眼で睨みを効かせてくる愛馬に、戰が苦笑する。首筋をいなすように軽く叩いてやると、千段は、ぶる、と鼻を鳴らして逸る気を堪えた。
戰が鐙に足を掛けて、その一際高く広い背に飛び乗ると、真もふらつき、覺束ぬ動きながら後に続いて馬上の人となる。
「行くぞ! 此れより、句国王を討つ!」
戰が右腕を宙に向け、高く突き上げる。
真の指示により、声や物音を立てることを固く禁じられている全軍は、息を吐く事で呼応した。
しかしその呼気は、乱気流もかくやと言わんばかりの波動を生み出していた。
★★★
ちらちら遠慮がちに、星の瞬きが天空に生じ始めた。まだ、濃い茜色が僅かに残る宵闇に落ちる寸前だ。山間の路に、禍国軍を追う形で句国軍が迫り、ひしめき合っていた。
そしてそれは、まさに一瞬の間に起こった。
禍国軍が、引いたのだ。
いや、引くと言うよりも干潮により潮が一気に引く、と表現した方が正しいかもしれない。それ程の勢いだった。
――遂に、刻が来たか。
狩りを楽しむ余裕の心で、句国王は禍国軍を追う。
この山間は、句国の方が地理に明るい。
禍国軍の奴らめ、切り立つ山の峰に挟まれた、峻険たる地形に自ら進んで、落ち込んで行っておる。
最早何処にも、逃げ場などない、知らぬとは恐ろしいものよ。
此処から事も無げに脱出するなど不可能、そう、文字通り艱険と言えよう。
追い詰めたぞ、とうとう、貴様の首を狩る刻が来たのだ、禍国皇子・戰よ。
「父王様、どうぞ皇帝となられる第一歩を、この戦にて刻まれますよう」
番の勝ちに逸る心を諌めるどころか、火に油を注ぐ一言を享は心得ていた。
「おお、享よ、お前の眸にも心にも、刻みおくがいい。この父王の偉業の第一歩を」
勝利に酔いしれながら、叫ぶ番の耳に、別の叫び声が矢のように突き刺さった。
「禍国軍の総大将旗だ! 皇子・戰の軍団旗だぞ!」
一瞬、信じられぬ事実に言葉を失いながら、番と享の親子は顔を見合わせた。
総大将旗を残したまま、逃げ出しただと!?
戦において死者の数が亀甲している場合、奪い合った大将首の数がより多い方が勝ちを名乗る事が出来る。だが中には戦いの最中においてですら、打ち取られたくないばかりに命乞いをする、臆病が存在する。その場合は、己の首代わりの形代として己の旗を差し出すのだ。
総大将が、己が軍旗を手放す。
つまりそれは、全面降伏を意味する。
馬に鞭を入れ、番と享は声の元に馳せた。逸る心を必死で抑えつける。
もしも皇子・戰の身を表す軍旗であれば。
それを手にした時点で、この戦はこの句国軍の勝利!
歩兵たちが指し示す巨木の根元には、果たして軍旗が立てかけられている。まるで、人質が逃げぬように縄で括られているかのようだ。遠目からでも、壮麗な刺繍が施されたその軍旗は、皇子・戰を表すものであると知れる。
しかし、国王として番は、これを正しく改める必要があった。万騎将軍以上の軍旗を改める事が許されるのは、国王及び参戦している王族にしか許されていない。
「松明の用意をせよ! 句国王・番の名において、軍旗を改める!」
勿体ぶって、句国王・番は命じた。
そうでもしなければ、興奮し叫び狂う醜態を晒す所だった。冷たい眸で、享が「父王様のご随意のままに」と応じる。
果たして、宵闇に落ちかかる山間の地に、松明が灯された。一際熱く燃える太い松明が句国王・番の元に走り、示された巨木の幹を照らした。
興奮が抑えきれない。
此れは確かに、禍国軍総大将として皇子・戰が掲げる戦旗だ!
震える手で、軍旗の三方を囲む黄金色の錦糸の編み込みの房飾りを、乱暴に鷲掴む。
「句国王・番が改めた! 此れこそ、禍国軍総大将・禍国皇子・戰の大軍旗である!」
番が宣言した。
その、刹那。
――皆、覚えたか! あれこそが、句国王・番だ!
声を共に、ざっ! と影の塊が、空を切る音が立つ。一斉に、何かが立ち上がった気配、それは人影の山であった。
「放て!」
一歩先立つ、青年のものと思しき孤影が発する号令に従い、闇を切り裂く弓の音が、突然、句国軍の頭上に降り注がれた。
怒号と悲鳴が、交錯し闇を濡らす。
矢がまるで、颱風の豪雨もかくやと言わんばかりに降り注ぐ。
瞬く間に死屍と化していく己の軍勢を、茫然自失となった番は部下に護られながら、ただ見ている事しか出来ない。
まさに、衝戟と言い表すしかなかった。
「狙いは只一人! 句国王・番を討て!」
先程と同じ声が、この険阻な路に犇めき合う軍が織り成す姦しくも喧囂たるこの場において、す・とまるで何か透き通った調べのように伝わる。
「かかれ!」
青年の号令に合わせ、「おう!」と呼応する声が木霊し、番の耳朶を噪音となって叩く。
いや、叩いているのは、山頂より波濤となって一気に駆け下りてくる軍馬一体の山津波が起こす地響きであった。
「句国王・番を討て!」
それは、禍国軍の合言葉となっていた。
此れまでとは、全てが真逆となった。
句国軍は、三三両々となって逃げ惑う。
醜態を晒し、無様に蹴散らされて行く。
全て、計算され尽くされていたのだ。
この山間に誘い込まれたのは、此方であったのだ!
歩兵と騎馬軍団とを、逃げ出せぬ地に追い込み、完全に包囲せしめんが為に動いていたのは、なんと奴らの方であったのだ!
闇に落ちるまで決定的な反撃を見せなかったのは、偏に、大将旗を餌にしてこの句国王である自分を引き摺り出さんが為!
全ては、禍国軍総大将である皇子・戰の姦詐詭謀の成せる技であったのだ!
逃げ惑いながら、番は何度も舌打ちをする。
しかし戦車部隊はどうした!?
不敗の軍団である戦車部隊が此処に間に合えば、転機となる筈、それが何故姿を見せぬ!?
幾ら何でも間に合わなさ過ぎるであろうが!
そこへ、注進が駆け寄ってきた。肩に背に矢尻を受け、剣による全身の傷跡も生々しい姿は、よくぞ生残したと怖気がもよおす程の惨烈さだ。
「も、申し上げます。我が精鋭戦車部隊が、全軍壊滅、ぜ、全滅致しました……」
注進の言葉に、句国王・番はこれは悪夢だと吠え立てた。
何故、句国軍の戦車部隊が全滅させられたのか?
何故、禍国軍にそれが可能であったのか?
何故か?
禍国軍は、句国軍の戦車部隊が主力として据え置いた弩弓に対抗すべく、短弓を用いたからだ。
弩弓はその威力の凄まじさ的を射抜く的確さと引き換えに、引き絞り、的を定めて発射する迄に時間を要する。
が、短弓は違う。弓に矢を番え引き絞り、一気に放つ事が出来る。弩弓が1発放つ間に、短弓は最低5発は放つ。簡単な計算式だ。しかも、駆け抜ける騎馬隊がそれを行うのだ。威力は倍々で算しても追いつくまい。
但し。
先に玖が指摘したように、相当の胆力と勇気があったとて、おいそれと決行できるものではない。
弩弓の一発の威力は凄まじい。一度に人馬を串刺しにしてなお飽きたらず、新たな敵を求めて飛翔を続け、矢尻を突きたてにくるのだ。それに畏れを抱かずに、相手の弓が番えられる僅かばかりの間を味方とし、弓を引き絞り飛び込みつつ放ち倒すなど、正気の沙汰では出来うるものではない。
だが、克の指揮の元、恐れ知らずに果敢に攻撃に打って出られたのは、真が答えたように、戰という『王者』を頭上に見ていたからだ。
戰を、信じていたからだ。
禍国軍の騎馬隊による短弓による攻撃の後、容赦なく、克が引きいる祭国軍が奮う新たな武器で、一気に戦車部隊は撫斬りに払われていく。
「よいか! 一人で一機を倒すと思えばよい! 簡単な事だ! 我々であれば成しうる! 目の前の敵を恐るな! 己の技を縮こまらせる恐怖心を敵と覚えよ!」
語気を強め激を飛ばす克に、おう!と呼応しつつ、騎馬軍団は平原を駆ける。
勝利の為に、計算しつくされた動きは美しい。
しかしその美しさは、受ける側にはただひたすらに、恐怖を怖気を――絶望を、生み出すものでしかない。
弓の対決に負けをみて動揺を隠そうともしない句国軍に、祭国の騎馬軍団の奮う武器は唸りをあげる。回転しつつ襲いかかるそれは、一撃目を逃げ延びたとて、続いて躱す事を許してはくれないのだ。
その武器は、一唸りを上げれば御者の首を跳ね飛ばし、返す唸りで戦く引き弓手の背を叩き潰す。肉団子と化した頭部や腕が血飛沫と共に縦横に飛び散る。
あまりの悍ましさに、死を覚悟する余裕すら、ない。
未知の恐怖に発狂せんばかりに、句国軍は逃げ乱れる。乱れた軍はもはや軍として機能しない。まさに『狩られる』立場へと自ら身を堕とした句国軍は、禍国軍の敵ではなくなった。
叩き落とされて尚、細々ながらも息を灯していた御者や弓の引手は、自軍の馬の蹄に打たれ死ぬか。
或いは、車輪に轢かれて死ぬか。
馬車から落ずに済んだものは、戈にて引き摺り倒されて死ぬか。
もしくは、振り下ろされる禍国軍の鉄の剣にて首を跳ね飛ばされて死ぬか。
何れかの道しか残されてはいない。
そして克の指揮の元、容赦なく、果断に作戦は決行されていく。
既に其処は平原ではなく、血塗の鉄の臭気の滴る坩堝、阿鼻叫喚の修羅の場と化していた。
「夢だ! これは夢だ! 質の悪い悪夢だ! この私がこのように無様に負けよう筈がない!」
吠えたてる番の前に、有り得ぬ程の巨躯を誇る黒馬に跨る美々しい武者が率いる一軍が現れた。
「句国王・番!」
武者は叫ぶなり、迅雷風烈の如くに黒馬を駆けさせ、一気に間合いを詰め寄る。その武者の正体を、恐怖をもって句国王・番は思い知る。
うお! と番が恐怖に歪んだ叫び声を上げるのと、武者が手にする剣が閃くのとはほぼ同時であった。
どっ! と鈍い音をたて、武者の剣が番の身体に喰いこんだ。元々、身軽にあるために甲冑を薄く軽いものに変えたのだ。防護など、無きに等しい。更に剣は、骨を叩き斬ってなお飽き足らず、身体を深く切り裂く。
まるで鉈で割られた薪のようだ。
血飛沫が、間歇泉のように吹き上がる。
遠のく意識は、手放せば二度とは戻らぬと悟りつつも、番は抗えない。
――……何と、この私が、貴様如き、皇子・戰如きの名を世に知らしめる為にのみ、此処まで走りに走らされておったのかっ……!
急速に薄れ、揺らぐ視界の中、句国王・番は虚空に向かって怨み節をぶつける。
威風堂々と佇む巨大な黒馬に跨る武者の正体に、臍を噛みつつ、番はぐらりと身体を傾けた。
どっ・と音をたてて馬上から転がり落ちた句国王・番の首を奪うよう、黒馬に跨った武者――戰その人が命じると、傍に従っていた一人が剣をその首にあて、脚を掛けて一気に叩き落とした。
「句国王・番を、禍国総大将、皇子・戰が討ち取ったぞ!」
戰の宣言に、何処からともなく、「勝鬨を!」との声があがり、大地を揺るがす勝鬨が上がった。
★★★
星が落ちる勢いの夜空に、風の流れに乗った勝鬨の声が微かに届く。
同時に、烽火が上がった。藍の夜空を焦がして上がる烽火を、目を細めつつ見上げる、見事な武者姿の若者がいた。
「ほう、禍国軍が勝利したようだ」
声の主は、芦毛の愛馬に跨る剛国王・闘であった。
背後に、栗毛の馬に跨る青年を従えている。既に、備国と禍国皇子・天、及び句国軍率いる句国王子・玖との四巴の戦いは終結をみていた。
真の目論見通りに事は進み、窮地に陥った天を、備国軍より見事に玖は救い出した。句国軍の出現に動転する備国軍を、熱波の勢いで闘率いる剛国軍は打ち破り、此処に長きに渡る戦は漸く終を告げたのだ。
「兄上、何故このまま、禍国軍と句国軍を打ち破りになられないのですか?」
「烈よ、お前は戦と政は似て非なるものなれど同一に生すべし、と云う先達の言を知らぬのか?」
「知りません。知りたくもありません。私が知るのは、兄上こそは全ての勝利を得られるべき御方、兄上こそがこの剛国の未来そのものだという事実のみ」
そもそも、句国軍の援助などなくとも、剛国軍のみで備国軍を打ち破り、備国王・域を討ち取ることが出来たのだ。それを、何故、禍国の申し出を受け、名ばかりとは言え句国に益を与えたのか。
不平不満を隠しだてせずにぶつけてくる自らを兄上と慕い呼ぶ青年に、闘は目を眇めつつ、ふ……と短く笑いかけた。
「気に入らぬか、烈」
「当然です。兄上、何故そのような温情をおかけになられるのです。兄上らしくありません」
気色ばむ烈と呼ばれた青年の様子に、ますます闘は笑い声を上げる。
「恩を売ってやったのだ」
「恩?」
「そうだ、真という奴にな。何れ、高く買いとらせてやる」
「真? 何処の者なのです、其奴は?」
烈よ、お前にも今に教えてやろう、それまで待て、と愉しげに身体ごと揺すって笑いつつ、闘は馬首を巡らせた。砂塵を巻き上げ、去っていく。
烈と呼ばれた青年は、忌々しげに遠い勝鬨の遥かを睨んだ。そして、兄上と慕う、闘の背中を追った。
★★★
禍国軍の勝鬨を聞きながら、闇に紛れて馬を走らせる。
句国王太子・享は、舌打ちしつつ怒りのままに醜悪に顔を歪めた。
我が父王ながら、何と無様な。
どうせ死ぬのであれば、皇子の片方なりと共倒れになれば良いものを。
しかし、戦いの最中に見せた、禍国軍の剣、あれは一体何なのだ!?
恐るべき威力だった。
此方の剣がまるで子供が振るう棒きれのように、打ち合った途端に折れて木っ端のように砕けた。
何よりも、父王の身体を生木を裂くが如くに斬り伏せた!
恐ろしい……。
あのような禍々しい剣の存在を自在にするなど、皇子・戰は何という恐ろしい男なのだ。
生かしておけぬ。
この後の私の栄光ある王の道の為に、何をしてでも討ち取らねば!
でなければ、この私の命が危うい!
僅かな手勢に守られなから、険阻な獣路を転がり落ちるように馬を駆る享の目の前に、見知らぬ一軍が立ちはだかった。
ぼう……、と亡霊の魂のように揺らめく松明の明かりは、どんどんと膨らむ。ハッとなった時には、既に四方を固められいた。
享の手勢は、手綱を引き絞り、脚をとめつつ呻く。
「句国王太子・享殿下であらせられますね?」
中央に立つ青年が、静かに問いかける。
享は答えない。
青年の身なりは、将軍どころか、隊長以下、伍長としてのそれですらない。
――下郎如きに聞かせる言葉は持たぬ!
それが王子としての享の矜持だった。
歯噛みしつつ、青年を睨む享の目の前に、新たな騎馬隊が現れた。
率いる巨躯を誇る黒馬を駆る人物が皇子・戰であると、一目見て知れた。
「句国王太子・享、父王・番は、禍国軍総大将であるこの戰の手により打ち取られた。貴殿は如何にする?」
「おのれ!」
享が叫ぶ。同時に、腰にぶら下げていた革袋を手にし、投げつけてきた。
地面に革袋が落ちた刹那、独特の臭気が周辺に、むわりと立ち込める。
「油だ!」
誰かが、悲鳴のように叫ぶ。
剣を交え、蹄が石に当たり、下手に火花が飛ぼうものなら、炎に巻かれる!
その場に居合わせた、禍国軍の足が止まる。
そもそもがその異質な臭気に、馬も戸惑い脚を止めてしまった。それは、戰が跨る胆力を誇る千段も、例外ではなかった。
その一瞬の隙に、享が馬首を突き入れて来た。手には、懐から出した火元の、ちろちろと儚い焔が握られている。怨念に近い主人の決死行に、馬が恐慌をきたした、という方が正しいかもしれない。
「禍国皇子、戰! 覚悟!」
叫びざま、体当たりを喰らわせるべく享は馬を駆る。戰を地上に引き摺り落として、火を付けるつもりなのだ。
棒立ちになり、戰を守る事に気が回らない禍国軍の中で、只一人、動きを見せる影があった。
「真!」
叫ぶ戰の前に進み出たのは、先に享を止めた一軍にいた、真だった。
慣れず覺束ぬ手綱裁きながらも、享の前に立ちはだかる。
真の、何としても戰を守るのだという執念が、馬に乗り移っていた。
右腕を伸ばして、享が手にする焔を掌で握り潰す。そのまま殆ど正面から、馬ごと激突しあい、縺れあいながら享と真は馬から転がり落ちる。真が下敷きとなり、その上に享が伸し掛る形で地面に叩きつけられた。
どう! という重い音が周囲の土塊を巻上げて響き渡る。
形容しがたい憤怒の雄叫びをあげながら、享が起き上がった。執念の成せる技だった。叩き落とされたまま肺腑を空にする程、咳をあげ、転がり呻く真の身体の上に馬乗りになって抑え込む。
「貴様あ!」
目を血走らせて、雑巾を絞るように真の首を締め上げにかかる享の前で、何かが閃いた。
「がっ!?」
短く叫ぶ享は、その閃きが何であるかを理解する間も無く、左眼に鋭い痛みを覚えた。
千段から飛び降りた戰が、何か細長い棒状のものを手にし、それを享の目に突き刺したのだ。
脳天を突き抜ける痛みに、真の身体の上からのたうち回りつつ降りた享の上に、千段の蹄が落ちる。熟れた柿が地面に落ちて拉げるように、享は五臓六腑を周囲にぶちまけた。
断末魔をあげる事も許されず、身体を二等分された享の命は、永遠に絶たれた。
同時に、呪縛から解き放たれた禍国の兵士は、瞬く間に句国軍の残党を討ち取っていった。
喉元を抑えて、背を丸めて激しく咳き込み続ける真の背を庇って、戰が駆け寄る。背をさすりつつ、抱き起こした。
「真!」
「だ、大丈夫……です……」
無事な訳がなかった。真の左腕が、上腕あたりであらぬ方向に曲がっている。
骨折しているのだ。
だがあの凄まじい衝突を受け、真面な甲冑もなしに馬から落ち、腕の骨折のみで済んだのだ。しかも落馬した折に、同時に馬が横倒しにならなかったため、下敷きにもならずに済んでいるのだ。
奇蹟に近い。
「無茶をする」
「今回、ばかりは……丈夫な身体に産んでくれた、母上に……感謝の念しか、ありません……」
珍しく、怒気を含んだ戰の言葉に、真が顔を顰めつつも苦笑した。漸く、掌の火傷と全身打撲と、何よりも骨折の痛みが、業火のように真に襲いかかり始めていた。
戰が、真の丸められた右拳をとる。
無理矢理広げさせられた掌には、火傷による無残な火膨れが出来上がっていた。懐手にして、何かを探っていた戰が、巾を取り出す。美しい白絹の巾は、包帯代わりに、真の掌に手際よく巻きつけられて行った。
油のぬめりと臭気に塗れながら、痛みを堪え、耐えつつ、真は既に屍と化した享に視線を移した。何やら、光る棒状のものが目に付いたのだ。千段に踏み抜かれたが為、砕けてはいるが、元が何であったくらいは、判別できる。
華美を避けた慎ましい型が、その持ち主の気質を如実に表している、女ものの、笄だ。
そうそれは、椿姫が別れの折に戰に手渡した、笄だった。
申し訳ありません……戰様。
胸の内で、小さく呟く。
椿姫様が、戰様の無事を祈る為に。
心を込め手渡したであろう、別離を惜しむ品であった筈。
それを――自分の為に。
お二人の、大切な品を。
そう思うと言葉が出ない。
滲む涙を、痛みの為と勘違いしたのか、戰が力付けるように努めて明るい声をかけてきた。
「全く、骨が肉を突き破って出てこなかっただけ、運が良いと思うんだぞ、真」
「そうですね……。戰様であれば、私が庇わずとも、幾らでもご自身の身を守る事ができましたね……」
文字通り、骨折り損です、と巾を巻かれた右腕で涙を拭いつつ、真は無理に笑った。泣き笑いの様子となる。
その真の折れた左腕を、戰は無言で掴む。無言のまま無理矢理伸ばして、骨折した部位を正した。痛みに叫び声を上げる真の腕に、戰はやはり無言で添え木を施した。
寄ってきた仲間と共に真を肩に担ぎ抱き上げると、戰は愛馬・千段の高い背に彼を跨らせた。
そして自らも愛馬の背に跨り、手綱をとった。
「勝ったぞ、真」
「はい……戰様」
「帰ろう」
「はい……しかし、戰様」
「うん?」
「まだまだ……此れから、ですよ……お覚悟を……」
漸く、何時もと変わらぬ爽やかな表情を浮かべ、戰は、うん、そうだな、と答える。
再び、山間を揺るがす勝鬨が上がった。




