11 立役者 その2
11 立役者 その2
四月初旬。
句国王・番の元に、一報が斥候より齎された。禍国代帝・安の命のもと、総大将を皇子・戰と定めた禍国軍が、契国救済の為に軍旗を掲げ、進軍を開始した、というのだ。
言い知れぬ不安に、番の心音が、一気に際限なく跳ね上がった。
腑抜け共の巣窟である契国軍を討つのは易く、今や狩りの如き楽しきものであるが、同盟盟主国である禍国を相手にせねばならぬとなると、正直、恐怖が鎌首をもたげてくる。荷が勝ちすぎる。知らぬうちに肌が粟立ち、丹田の下の一物が縮こまるのを感じた。
そもそもは、皇帝崩御の報を聞き入れ、その気になった。
戦の途中で、代替わりどころか、政治にも戦にも疎い皺塗れの婆に過ぎぬ皇后が帝位を継いだ事実を知り、大いに哂ったものだ。
皇太后が、女如きが帝位を継ぐ、だと!?
ハッ! とんだ気狂い沙汰だ!
禍国の皇族は、揃いも揃って脳の病にでもかかりおったか!
世も末、いや、禍国の行く末も知れたものだ!
この機会を逃す手はないと、更に深く軍を押し立てた。
が、果たしてこの判断は正しかったのか?
弱気が、全身を侵食してくる。
しかも、総大将として軍を率いているのは、三年前の祭国との戦いにて一兵も失う事なく勝利を収めたというあの皇子・戰だと言うではないか。
――引き際を、間違えたか。
焦りを感じ、番は奪い取った城楼の一室を彷徨いた。
確かに、容易く討つ事が叶う契国相手とは言え、此処まで戦線が伸びての連戦を強いているのだ。兵馬が疲弊していないといえば、嘘になる。
勝てるのか。
句国王・番は、己の選択の重大さに、今更ながらに戦いていた。
★★★
禍国軍出兵の一報を耳にしてより、約一ヶ月後。
遂に、禍国軍と句国軍の間で、戦端が開かれた。
ざっと見たところ、3万以上の歩兵中心による密集部隊だった。生憎の足場であった為、句国も同様に歩兵をぶつけたのだが、禍国軍は、らしからぬ動きを見せた。どうにも要領を得ぬというか、もたもたとした動きをしているのだ。
軍旗を掲げた天幕の内で、次々に齎される報告に、番は訝しみ、首を捻る。
おかしい。
此れが嘗て猛勇で鳴らした禍国の軍の動きなのか?
そもそも、大将旗が真面に動いていない。
指揮をふるいながらも、どうにも目の前の光景が信じられない。
試しに、戦車部隊をぶつけてみると、禍国軍の兵士は、蜘蛛の子を散らすように 三三五五となり、散り散りに逃げてゆく。句国王・番は、呆れた。統率も何も、へったくれもない。
雷神風神を従えた軍神の御使いと恐れられた、あの禍国軍はどこへ消えた?
此れでは、棒きれを振るいあって競う、餓鬼どもの遊び以下ではないか。
呆れながらも、更に数度、禍国軍とぶつかった。
が、仕掛ける度にその無様さが際立つばかりである。
最初の激突から既に一週間近く。今や、暗闇に光る禍国軍の兵糧を煮炊きする竈の光の勢いは、日に日に衰えるばかりだ。放った斥候の話によれば、その光が示す通りに、脱走兵が相次いでいる様子だという。
3万以上の密集歩兵で詰めるように攻めだてに来ておきながら、この為体は一体なんだ。
今や、大将旗も将軍旗もが、やせ細っているように見える。
番は呵呵大笑、いや、嘲笑を上げる。
勝利を示す、狼煙替わりだと言わんばかりに嗤い続ける。
何を恐れていたのだ。
三年前の大勝という亡霊に気圧されて、目の前の敵の姿を誤って見ていた。
何、皇子・戰とやらも、この程度の男だったのだ。
三年前の戦いは、たまたま得た勝利だったのだ。
そうだとも。
軍を動かさずに捥いだ勝利だったそうではないか。
それは詰まるところ、軍の動かし方を知らぬが故に、じっと亀の子のように首と四肢を引っ込めておくしかなかったという話だ。
そして愚か者とつとに有名であった祭国国王・順が勝手に自滅してくれただけの話だったのだ。
一度そのように思い定めると、番は、まるで弄り嬲るが如くに、ねちねちと攻撃を仕掛けては引くを繰り返した。その度に、禍国の竈の光が消えていく。その度に逆に振起し、昂奮を覚える。
やがて無駄に戦車で追い掛け回し、まるで小動物を甚振って愉しむ狼にでもなったかのように、禍国の兵を追い立て続ける。
初めて剣を交えてより、凡そ三週間。
月の代わりを迎え6月に入ろうかとする頃には、竈の火は3分の1程度にまで落ち込んでいた。
その間、徐々に徐々に。
だが確実に、知らぬ間に。
句国軍は、自軍を国元に向けて戻し始めていた。
そして句国王・番の元に、国元でからの伝令の早馬が、血を吐きつつ到着した。
驚く番王に齎されたのは。
祖国句国を守っていた王子・玖が、禍国軍総大将・戰の前に完全降伏、王都が陥落したとの報であった。
★★★
「何だと!?」
一報を受けて、句国王・番は怒りのままに叫び、使者を蹴り倒した。肩を激しく上下させて息を荒くしている父王の後ろで、まだ少年である王太子・享が、薄ら寒い笑いを口角に刻む。
「父王様、その程度にしておいてやりませぬと、死にます」
半殺しになるまで踏みつけにされた哀れな使者に、愉しげな視線を投げかけながら、漸く享が止めに入った。
此れが享のやり方だった。
自分は決して責任を取る立場に立つことなく愉しむだけ愉しむ。
しかし、流石、王太子様よ、と謳われる行いをする。
父王が蹴りを入れる間の、縋る視線は存分に味わった。
実に楽しい見世物だった。
充分に満足し、堪能した。
だから、止めに入った。
それが、享だ。
これは母親である、左昭儀・蜜より学んだ事だった。
母親の左昭儀・蜜は、正王妃である文を追い落とすのに、ありとあらゆる手練手管を弄して句国王・番の心と躯をじわじわと縛りあげ、じっとりと絡めとり、我が物としのだ。
蜜が、まだ妾の地位であった頃の事だ。正王妃・文が出過ぎた言動をそれとなく注意した。その場は大人しく引き下がったが、句国王・番が訪れると、僅かに瞼に涙を貯め「このように王妃様にご指導賜りましたが、私のような下賤なる婢上がりの女には、とてもこなせそうにございません、どうぞ地位を落として下さいませ」と申し出る。王からの賜物を身分に応じて分配する差配を取るのも、王妃の責務だ。が、蜜は贈られた品物をわざと隠す。番が部屋に訪れると、しなしなとしおれてみせる。何故贈り物を纏っておらぬと、番が厳しく問いただして漸く、王妃様に態と冷たく扱われましたが耐えてみせます、とよよと泣き崩れ、身を捩る。
こうした事を重ねる内に、王・番は、蜜が健気で可愛らしいくて仕方がなくなった。彼女を王妃の嫉妬より守る為にと、どんどんと地位を与えて行く。そして遂に彼女は、昭儀という王妃と並ぶ地位を手に入れたのだ。
王太子・享は、その左昭儀・蜜の息子なのだ。
さも、心使いの細やかな憐れみ深い王子と思わせる事など、享にとっては造作無い事。王太子・享は、氷の浮かぶ真冬の冷水の如き、冷やかな性根に育っており、そしてそれを誰にも気取られぬ強かさを、齢15の少年の身で有していた。
だが享は、句国王・番にとっては、この世の誰よりも愛する女の腹より産まれた子であり、随一の愛情を傾けている王子だ。享の言葉には素直に耳を傾ける番は、漸く使者を痛め付ける脚の動きを止めた。
正気を取り戻した番は、同時に青褪める。
そうだ、国元には享の母・左昭儀を残してきておる。
野蛮な禍国の者共が、あの美貌の蜜を目の当たりにすれば、何が起ころうか。
心の闇を広げるような想像に、句国王・番は悲痛に呻く。
だが、ふと気がついた。
いや……心配する事など、ないのやもしれぬ。
使者が申しておったではないか。
王都に攻め入ったのは皇子・戰である――と。
昨年執り行われた祭国女王の即位戴冠式を思い出す。ただ、祭国の王女としての立場にいる者であるならば、攫って後宮の花とすべしと、腹の下の欲望が疼かずにはおられぬ程の、可憐という言葉そのままの王女だった。
華の香りを零して、凡ゆる男を惑わしているのだと。
色香の跡を残して、あの女こそが誘っているのだと。
下衆の言い訳すらもどかしく、本能的に押し倒したくなる。
嫋々となよやかな様であるが故に、己こそが一番に味わいたくなり、耐えられない。例え天下随一と褒め讃えたくなる美貌を誇る左昭儀を囲っていたとしても、あの王女を正面にして湧く欲望は、また別なのだ。
それが祭国の王女・椿姫であった。
禍国の皇子・戰は、三年前の初陣の折に、あの麗しい白椿の妖精かと見紛う王女を人質としながらも、手折らなかった。それどころか、手厚く保護し尽くしたのは有名な話だ。そのように女に礼儀を惜しまぬ皇子が、左昭儀・蜜を無体に扱う訳がないだろう。
其処まで考えて、漸く句国王・番は気がついた。
残してきた、王子・玖の立場の事だ。
戰皇子は此度、その祭国に郡王としてではなく禍国の皇子として、戦の総大将の地位を得ている。つまりは、皇位継承権争いに勝利を得る為に、手柄に飢えに飢えている筈。
目の前に、正王妃・文の腹出の玖の奴が晒されるのだ。
皇子・戰がどのようん為人であろうとも、総大将としての立場、そして僅かな手柄も取り零せないこの状況で、大敗を被り降伏して王城を明け渡した玖を、どう扱うか。
質扱いされる事は決してないであろう。
良くて虜として幽閉、常であれば牢囚、そして必ず刑に処せられるであろう。
そうだとも、その後にこそ句国に取って返し、禍国軍の総大将とか抜かす皇子・戰を討ち取ればよい。万が一息を繋いでおったとて、王都陥落の恥を死して拭えと命じれば良いだけの事だ。さすれば、何の憂いもなく綺麗に玖の奴を消す事が叶うではないか。
遠からず訪れる我が子の未来に思い至り、句国王・番は興奮に息を弾ませる。
ふと、視線を上げると、目の前に、王太子・享の笑みがあった。
うっすらと口角を持ち上げる享の白い面は、まるで母である左昭儀・蜜と瓜二つだった。冷たく、それゆえにキリキリと肺腑に滲みる美しさだ。
「享よ」
「はい、父王様」
「やはり、儂の跡目を継ぐは、お前しかおらぬわ」
笑う父王・番の前で、未だ少年でありながら、享は、大人以上の寒い笑みを張り付かせて、静かに佇んでいた。
★★★
しかし其れは其れ、此れは此れだ。
祖国、句国の王都が陥落したのは別問題だ。取って返し、禍国軍を討ち払わねばならない。軍を急ぎ編成し直しつつ、番は不思議に思った。
何故、態々、軍を二分したのだ? その様な事などせずとも、15年前の戦のように、全兵力を傾ければ我が軍が敗走の憂き目に遭うのは、予見するよりも定かであったものを。
不思議に沈む番の考えを打ち払う答えを、享が提供する。
「愚か者なのです」
「ぬ?」
「攻める、となればその国の王都を、としか思い浮かばぬのでありましょう」
享の言葉に、番は歪んだ満足感に浸る。
三年前の祭国の戦が余りにも鮮烈であった故、過剰評価していただけの事だ。思い起こせばあの戦も、王都を攻め立てて戦を終結させた。此度も、と安直に考えても仕方があるまい。
既に、目の前の3万を超える禍国軍はその殆どを脱走兵として散らしてしまった。が為、最早、軍とは呼べぬ惨憺たる状態だ。捨て置いてよかろう。
取って返し総攻撃を仕掛ければ、此方は大軍の5万、彼方は3万6千。
生意気に郡王を名乗る小僧が総大将を名乗って率いる禍国軍なぞ、一気呵成に吹き飛ぶ。兵力を二分し、などと言う愚行の果ては如何なるものか、その身に思い知らせて呉れよう。
既に此れまで、既に契国軍を6度も打ち破り、此方に攻めて来た禍国軍も一ヶ月に渡り敗走せしめてきている。
番は、意気を高く強くしていた。
反転を行う前に、占師たちによる祓いが行われた。敵兵の穢を共に連れて新たな戦場に向かう事は、句国では禁忌とされている。根幹に狩猟の血を宿す民族である国家であるが故に、『穢』に対しての考え方もまた、禍国や祭国の其れと異りを見せている。
禍国や祭国では、先に祓いを行う。
戦場に赴く前に、敵陣へ入り込み自軍を誘導する路を祓う場合もある程だ。そこから間諜や斥候といった役割を担う、草という存在が生まれた。
句国は逆で、戦場を離れる際に祓いを行う。
穢を纏ったままでは、汚がとり憑く、つまり厄気に好かれてしまうという考え方だ。獣の血の臭気を滴らせたままでは、次の狩猟に差し障る処からきているのだろう。
ともあれ祓いの儀間に、番は天幕内にて湯を浴びて身を清めた。
新たに鞣した革鎧を身に付ける。その上に、更に甲冑を重ねて身につけた。禍国軍の持つ剣は、15年前の自国との戦の時と比べ、10年前の河国とのあの戦を契機に、陽国産の青銅製のものに統一された。更に一段、強度も硬度も増している。自衛の策をとらねば、何をして、迂闊な道に堕ちるかもしれない。
この身は、大切な玉体だ。
そしてこの道程は、最早、凱旋帰国、どのような間違いも起きてはならないのだ。
「では、行くぞ、享」
「はい、父王様」
同じく身支度を整えた自慢の息子を伴い、句国王・番は、天幕をでた。
夏の高い青い空に自国軍の歓声が上り、軍旗を翻す元となって空を響めかせている。
句国王・番は、己の大勝利と栄光ある未来に、毛筋程の疑いも抱いていなかった。
★★★
五月下旬。
禍国王宮に届いた報せに、天は嗤うしかなかった。
契国にて、句国軍と当たった戰が率いる軍は、みっともなくも小競り合いを繰り返すのみで、しかも連敗、脱走兵を出し続ける始末だという。3年前の祭国での戦の大勝などは、やはりまぐれ当りの偶然だったのだ。
此処で、勝ちを得れば、誰が皇太子として、いや皇帝に相応しいか知れようというものだ。
天は、上機嫌で禍国を出立した。
そして約1ヶ月後の、6月下旬。
本国へと帰還途中である句国軍と遭遇し、睨み合いもそこそこに、戦端を開いたのだ。
眼前に翻る軍旗により、相対する者が何処の何者であるのかが、はっきりと知れた。意匠を深く凝らされた、華麗なる軍旗は代々、禍国の世継ぎのみが持つことを許されるもの、つまりは皇太子・天の軍隊である。
「総数は?」
「概ね、3万に御座います」
句国王・番の問いかけに淀みなく答える王太子・享に、番は満足気に深く頷いた。先に契国領内にて皇子・戰の軍を撃破した為、禍国側はその上位の皇子である皇太子を担ぎ出し、この反転中の句国軍にぶつけてきたのだ。
濃い髭を生やしたままの顎に手を当てて、くつくつと句国王・番は嗤う。
先に対峙した戰とかいう奴も、相当に不甲斐ない阿呆皇子であると思っておったが。
どうしてどうして。
この天とかいう、大層な名の皇子も大層な田分け者だ。3万もの兵力があるのであれば、句国本土を攻めた戰の本陣とやらと合流して、此方を叩けば良いものを。
そう、そうすれば遜色のない兵力差になる。既に句国の領土に近いのだ。
それをせず、態々此方に直接ぶつかってこようとは。
「お前はどう見る、享よ?」
「禍国皇室内の皇位継承権争いは、かなり熾烈であると思ってよいでしょう。先の皇子・戰よりも少なき兵力にて我が国を撃破し、その力量を示そうという魂胆でありましょう」
番は享の答えに満足し、深く頷いた。
そして、少々機嫌が悪そうな、それでいてばつの悪そうな顔つきをして、享から視線を逸らす。図らずも、兄王子である玖が述べたように、 禍国内における身内の争いは相当な泥沼と化しているようだ。
――黙って待っておられれば宜しいのです。お堪え下さい、今、蒙国に僅かばかりの借りを作ってまで禍国に楯突かずとも、遠からず離反する機会は訪れます。
出兵を決断した折に、玖はそのように言って止めた。
実状は、玖の申し立てが正しい。
しかし、それは此れまで句国軍を率い、連戦連勝を重ねてきたからこそだ。玖の言が、正しかったのではない。自分たちの勝利が、玖の言を引き寄せた、それだけだ。
むっつりと押し黙り、句国王・番は息子・享の視線を背に受けていた。
★★★
遂に、皇子・天率いる禍国軍と、句国王・番率いる句国軍とが、荒野にて激突した。
そして、その勢いのままに、皇太子、いやかつて皇太子であった天は、句国軍に飲み込まれた。騎馬軍団を中心にして突撃する戦法は、禍国軍の得意とするところであり、当然、天もその策を採用した。句国は、15年前の戦において、騎馬の兵数を抑えられている。例え数で劣ろうとも、速さで押せば負ける筈がない。
天はそう目論んでいた。
しかし。
眼前に広がる光景は、一体何なのか。
天は呆然とした。
禍国の騎馬は天下無二の無敵の軍の筈。
それが、何だ、この無様な負けっぷりは!?
句国軍の戦車部隊が縦横無礙に放つ弓に、自慢の騎馬は剣を奮う間を与えれる事も許されず、次々と打たれていく。
句国軍は、蒙国産の弩弓を有していたのだ。禍国軍が持つ弓と違い、戦車の上で狙いを定めて発射される弩弓は飛距離と破壊力とに勝る上に、命中率が格段に高い。騎馬が駆け抜ける前に、弩弓の矢が放たれ騎手は串刺しとなって果てる。
句国軍の強さの秘密、契国軍を押して押して押しまくる事できたのは、この蒙国産の弩弓の威力の賜物だったのである。
「おのれ、おのれ、おのれっ……!」
戦というものは、出陣すれば勝てるものと天は信じきっていた。
我が国の軍は、禍国軍は、常勝無敗の軍ではなかったのか!? であるのに、この為体は一体何事だ!? いや、あの戰の奴が負けたとしても、この私が負けるなど有り得ぬ! あってはならぬ!
完全に瓦解した禍国軍を目の前にして、命の危険を感じ取りつつ、天はぎりぎりと歯軋りする。面体を覆った斥候と思しき一人が、天の本陣である天幕へと静かに入幕してきた。礼を尽くし、跪くと、がちゃりと甲冑が擦れて音をたてる。
「皇太子・天殿下に申し上げます。此処は一旦、退却して下さりますよう」
「何!? 引けだと!? 負けを背負ったまま、誰がおめおめと退く事など出来るものか!」
「悪戯に長引かせても、既に負けは決しております。被害が広がるのみ。此処は一度引き、陣をお立て直し下さいますよう」
「ええい、何という腰抜け揃いだ! 誰が撤退などするものか! 勝つまでぶつかれ! 死んでも勝ちを得てこい! 呪ってでも敵を屠ってこい! この役立たずどもめが!」
子供が甘い菓子を強請って地団駄を踏むように、天は暴れる。
一瞬、言葉をなくして様子に見入っていた覆面の斥候は、嘆息すると「この馬鹿が」と短く呟いた。
「な、何!? 貴様、今、なんと……!」
聞き咎め、怒りを爆発させかけた天の腹に、斥候は持っていた不思議な槍のようなものの柄を、鋭く突き入れた。ぐえッ、と短く唸り、天は気を失った。
「殿下をお連れせよ。大切な御身だ、丁重に」
寄ってきた部下に天を託すと、斥候は呆気に取られている皇太子軍の幕僚たちに向き直った。
「皇子・天殿下は陣頭指揮を取られる事、不可能となられました。この上は、殿下と共に幕僚下の御方々は、速やかに句国にて王都を陥落せしめし皇子・戰殿下の元へと撤退なされますよう。句国王都への誘導、並びに殿軍は我らが引き受けます故」
幕僚長をはじめ、皇子・天の幕僚下に否やはなかった。
彼らは皆、若い。
天が皇帝として即位したあかつきには、彼の高位高品の臣下となるべく選りすぐられた、そう、錚々たる『傑物揃い』の貴族の若者たちである。
が、中身は天と良い勝負の、『戦も世間も知らぬ、知るのは膝の上で丸くなる猫の如き、砂糖菓子が大好物のお坊ちゃん』の餓鬼の集に過ぎない。
そんな輩の集団なのだ。
たかだか斥候の言葉に頷き、そそくさと天の後を追っていく。
残される兵の事などよりも、彼らは自らの命が惜しいのだ。
「全く……。よくも此処まで、腰抜けと腑抜けの莫連者共のみを揃えられたものだ。我らが陛下を見習え、このど阿呆めが」
侮蔑の言葉と共に、斥候は覆面を外す。
「私は真殿の元に、句国の兵備について注進せねばならぬ故、一旦戻る。後の者は、克殿に従え」
現れた顔は、早足の芙のものだった。
それまで、まるで戦術もへったくれもなく、ただ力押しで騎馬軍団で攻め立てるのみであった禍国軍の動きが、変わった。
僅かにではあるが集結をしはじめ、そして拙い動きながらも陣形を立て直しつつ、後退し始めたのである。後退してゆく道の先は、句国の王都へと続いている。
「ふん、今更、戰の奴と合流しようというのか、愚か者めが」
「間に合うわけが、ありません」
句国王・番の言葉に、享が応える。出来のよい息子の先見に満足しつつ、番は目を細めた。
そう、昼夜を問わずにこのまま句国へと逃げ延びようとしたところで、勢いも地勢を知る上でも、此方に分がある。負ける理由など、何処にもない。句国に着く迄の間に、全軍壊滅させてやろうではないか。
「徹底して追い詰め、叩きのめしてくれよう。行くぞ、享」
「はい、父上」
しかし、句国王・番は気が付かなかった。愛児である享の冷水の如き視線と微笑に。
★★★
分厚い天幕ですら、暑い夏の日差しを遮るには充分とは言えない。しかし直射を遮るだけましといえた。
戰と真、そして玖と姜が、部下に命じて喉を潤させている所に、早足の芙が重い幕を音もなく持ち上げやってきた。待ちかねていたのか、真が腰を上げて出迎える。
「どうですか?」
「はい、句国王におかれては、契国の地での戦いにおいて戦ったのは、未だ我が軍であると思い違われたままに御座います」
「では、彼方の様子は?」
「はい、真殿の読み通りに、かの地にて大敗塗地なされました」
「剛国と、備国の動きは?」
「順調に、南下してきております」
芙の答えに、満足して戰が頷く。
入れ替わりに、真が水を満たした杯を芙に差し出した。芙は受け取りながら礼を言うと、一気に飲み干して喉を潤した。あまり感情を顕にしない男が、珍しく嬉しげに目を細めている。余程生き返った心地がするのだろう。
返された杯を受け取った真と戰は、芙と目配せし合うが、何も話してはくれない。玖は焦れた。
「何が、どうと? もしや連戦に疲れ切った父王を、禍国より罷り越された天皇太子殿が討ち果たされたと?」
覚悟の息を呑みつつ尋ねる玖に、まさか、と真は軽い調子で肩を竦め、珍しく戰が答えた。
「その逆だ」
「え?」
「我が兄、皇太子・天と、玖殿、貴方の父である番王がこの先の平原で戦い、そして我が兄・天が大敗を喫した」
新たに息を呑む玖に、真が畳み掛ける。
「番王陛下には、魯鈍漢で高慢ちきな天殿下の高く跳ねる驕傲な鼻をへし折り、更地にする程叩き潰して頂けました。有難い事です」
「……」
「そして番王におかれては、既に此れまで、契国軍と6度も寇されておられます。更には我が禍国軍に似せた契国軍と1ヶ月以上に渡り、休みなく剣を交えて頂きました」
「禍国軍に、似せた契国軍?」
「はい、戰様が出陣を命じられた時は既に契国は3度も負けを被っておりました。そこで、句国軍が慢心するように、負け続けて頂いたのです。その上で、我が軍が句国王都に向かっていると思いもせぬよう、目眩しの為、我が軍の軍備を身に付け、更に負けを背負い続けるよう指示しておりました」
「な、何!?」
「番王陛下が何の疑いもなく、契国軍を我が軍と信じて下さっていたお陰で、我々は背後を恐れず憂いなく、句国の王都に攻め入る事が出来たのですよ、殿下」
「うっ……」
「そして戦の何たるかを知らぬ天殿下が、しかもあのように劣る兵力で勝てる訳がありません。腐った性根が刮げ落ちるまで、完膚なきまでに存分に叩きのめされ、言い訳も立たぬほど惨敗なされました」
良い気味だ、と言わんばかりに芙が頷いて見せる。
「いや、しかしその……其の方らにしてみれば、父王が勝利しては都合が悪かろうが」
何とも形容しがたい表情で、玖は眉を寄せて渋面を作る。しかし真は何処吹く風だ。
「いえいえ。句国王陛下には、勝利を得て頂かねばならないのです」
「は?」
「句国軍は、数の上では我が軍に化けた契国にも、我が禍国の天殿下にも勝ります。故に、句国王・番陛下は勝利を得られるのは当然の事です。が、殿下」
「何だ?」
「当然の事とはいえ、連続しての戦に、耐えうるものでしょうか? いえ、度重なる連戦連勝に、浮かれずにいられる御方であらせられますか? 殿下のお父上、そう、句国王・番陛下という御方は」
「――う?」
「愚かな禍国軍を、盛大に破る破竹の連勝。実に素晴らしい。番王陛下は慢心なされる事でしょう。そしてその肥大した過剰な自信のまま、何の疑いもなく我が軍と無防備にぶつかられる筈です。愚かにも驕り高ぶり、ただ戰様を真っ向勝負で叩きのめして嘲笑う為だけに」
「し、真殿」
「しかし、戦術も戦略も、まして大望を置き去りにした軍は、最早、軍ではありません」
「……では、父王が率いているものは、何であるというのか、真殿は」
「烏合の衆です」
真の言葉の端が、まるで鉄の剣のように、ぎらりとした光彩を放ったように思え、玖は、ごくり、と重く息を飲んだ。
先刻、あれ程、清水で喉を癒した筈であるのに、炎天下に数時間晒され続けた後のような、全身の虚脱感を伴う乾きを感じて仕方がない。見れば、背後に控える姜も同様であった。がたがたと小刻みに、膝頭を震えさせている。
「し、真……殿」
「まだ何か?」
「先程、備国と剛国がどう、とか口にされておられたが……」
ああ、と真は、額に手を当てた。
「敗走する天殿下を、誘導するのです――剛国と戦い、南下してきている備国軍と、対峙する地点へと」
「な、何!?」
「ああ申し上げ損ねておりましたが、剛国王・闘陛下に願い出て、備国王・域陛下を、句国王子・玖の名において共に討つと、密約を結ばせて頂いております」
「な、なに!?」
「それでなくとも備国としては、これ以上南下して、剛国に備国本土への退路を絶たれて挟み撃ちされれば、負けは必定。句国を破り、崑山脈を抜けて自国へ帰る、その活路を得る為に、死に物狂いになるでしょう。天殿下には再び、醜態を晒して、無様に負けて頂きます。その天殿下を、玖殿下に救って頂きたいのです。さすれば、同盟主国である禍国を裏切、蒙国に摺り寄りったのは、父王・番陛下の存念であるとの申し開きが立ちますから」
長く伸びて重たくなってきた前髪を、真はくしゃくしゃとかきあげた。
「ああ、勿論、備国を最終的に討ち果たし、実を得るのは剛国にお譲り下さい。玖殿下は名さえ得られば上等なのですから、欲をかいて深追いはなさりませぬよう」
「し、しかし真殿、我ら二万の兵が抜ければ、父王が率いる句国軍との兵力差が……」
「兵力差?」
真が眠気を払う為にか、目頭をこする。
「そんなものは、我が禍国軍と句国軍の間には、初めからありませんよ。寧ろ、我が軍の方が優勢と言って宜しいでしょう」
「――は? 何をどうしたら、そのように構えていられるのだ!? 父王が率いる戦車部隊だけでも、2万5千を数えるのだぞ!?」
「軍の総数だけを見れば、成る程、確かに我が軍は劣勢でありましょうが」
真は再び額に手を当て、前髪を持ち上げた。
「此方の心配は必要ありません。玖殿下は、ただ剛国王・闘陛下に遅れをとらぬ事だけを、考えていて下されば宜しいのです」
概要はこういうことだ。
暫くすれば、敗走する皇子・天が率いる禍国軍と備国王・域が率いる備国軍とが激突する。
玖は、密集隊を押したて山脈に押し付けようとする備国軍から、天を助け出す事のみに注視すればよい。
その間に、剛国王・闘率いる剛国軍は、山脈側に回り込みを終える。
時を同じくして玖が率いる密集隊を引かせれば、備国軍は山間を抜け母国へと逃れる事を優先させる筈。
此れにより、剛国軍は備国軍を全滅せしめるであろう。
そして戰率いる禍国軍は、この先の険阻な山岳地帯に夕闇の落ちる頃に合わせ、句国王・番率いる句国軍を引き入れべく動く。
その際に、最後尾の戦車部隊と本陣を切り離す。
切り離された戦車部隊は、克が率いる騎馬隊に討たれ、岳に突入できないまま壊滅。
句国軍は逃げ道のない截然たる巌巌たる山間にて、包囲網を引き待ち構えた皇子・戰の一気攻勢により、敗北させられ――
句国王・番と王太子・享は、この戦の責を、死を持って負うのだ。
「何か、ご質問は御座いますか、玖殿下」
「真殿……」
「はい、何でしょうか」
「もしも、我らが貴殿らに感銘を受け、父王に反旗を翻し共に戦うと決断せねば、如何にするつもりであったのだ?」
「如何に、と申されましても、どうとでもなります。逆に、どのような未来図がお望みであられますか、玖殿下は? 幾らでも、お望み通りに筋書きを描いて差し上げますが」
「いや……よい」
「そうですか。それは残念です」
およそ残念がってなどいない口調で、真はまた目頭を擦り始めた。
「真、眸に傷がつくから擦らない方がいい」と、戰に窘められた真は「そんな処だけ、御兄妹で似るのですね、全く」と、唇を尖らせている。
玖の背筋に冷たいものが流れた。
この真という青年は、契国に己の主人である戰の軍隊の真似事をさせ態と連敗を重ねさせる不名誉を犯させる事で、父と弟王子を油断させた。更に、兄王子である皇太子・天すら利用して、父王の兵力を削ごうとしている。
その上で、勝利に酔った父を、あの鉄の剣を帯びた騎馬兵団と、新たな武器を携えた騎馬隊とが最も活かせる地点にまで引きずりだし、連戦と駆け足の帰国という疲労の頂点にある句国軍を討つつもりなのだ。
更には、皇位継承権を争う兄皇子・天を敗軍の将に仕立て上げ、剛国王まで餌をぶら下げ引きずり出して此方の少ない兵力を補う事で勝利を収めさせ、句国と自分とを、救おうとしている。
主の名誉も。
その兄の命ですらも。
切羽詰まり、云う事を聞かねば生き抜けぬまで追い詰められた契国の状況も。
この後の蒙国との関係に、有利に立つためには何としても備国に勝たねばならぬ剛国の現状も。
真という青年は、それら全てを利用して、主君である皇子・戰に最終的な大勝利を得させようとしている。
句国にいた1ヶ月。
何も田畑巡りをしたいが為に、悪戯に日々を喰い潰していた訳ではなかったのだ。
この日の為に、待っていたのだ。
彼は、その時間を無為に過ごす事を由とせず、有意義に暮らしていたに過ぎないのだ。
一見ひょろひょろした青臭い風貌の、しかもいざ戦となった今ですら、どこか面倒くさそうにしているこの真という青年。
実は鬼物の手下なのではあるまいか?
鬼物どころか、冥府へ誘う悪謀の鬼神の類そのものではあるまいか?
おまけに、父王の率いる句国軍5万と、祭国軍千騎が加わったとは言え、禍国軍のみで戦う、勝機があるから心配いらぬ、と泰然と構えている。
真の背後に黄泉路へと誘う霊気が見えるようで、玖と姜は、冷汗が止められない。
「真殿……」
「我が軍が、いえ」
ふあ、と真は面倒くさそうに、欠伸をする。
「戰様と玖殿下が、勝ちます」
今や全身を冷汗に浸して、玖は呻き声を堪えるのがやっとだった。




