8 涙の轍(わだち)
8 涙の轍
翌日。
戰の宮に、時の手配によって虚海が移ってきた。此処で暫し過ごしつつ、真の母親である好の体調が整い次第、共に祭国に旅立つ手筈となっている。虚海がいれば、妊娠中の好の体調が旅の途中で悪転したとしても安心であるし、身体に弱みを抱える虚海も、同じ事が言える。
だが先ずは、好が出立出来る程の体力を取り戻さなくてはならない。
「父上、では母上を宜しくお願い致します」
「うむ」
神妙そうに、それでいて明白に切なそうに顔を歪める父・優に、此方が鉄拳を喰らわせたくなる。しかし、今は父に構っている暇はない。
数日は要するであろうから、その間、此度の戦について、みっちりと時と虚海と作戦を練り上げたいと真は願っていた。
王宮での一件を、時より聞き及んでいるのか、虚海は部屋に落ち着くなり、はっは~ん、と喉を鳴らす。時と真が用意した布団の上に横になり、瓢箪型の徳利を引き寄せる。
「よう我慢したわなあ、皇子さんも、真さんも」
褒めたるわいな、と肩を揺する。
「そんな、格好の良いものではありませんよ」
巻いた綿布の地図を手に、自嘲の成分を多分に含んだぶすったれた真の声音に、虚海は意外にも目をぎろりと光らせた。
「真さん、そら違うで? 腹ん中でむらむらしときながら、何も言わんと引き下がるんは、誰にでも出来る事やあらへん。それが出来るんは、皇子さんも真さんも、本物の強いお人やからや」
あんまり、自分を卑下するもんやないで? と、にやっと虚海が笑う。
「お褒め頂いて嬉しいのですが……虚海様、祭国に旅立つ前に、是非ともご相談にのって頂きたいのです」
真は言いながら、時と共に地図を広げた。
「そのつもりや」
座布団を折りたたんで、その上に身体を投げ出すような姿勢を取る。すると、戰が師匠の身体が冷えぬように、薄掛を肩に広げた。少し目を細めて嬉しげに戰を見上げると、虚海は、瓢箪の徳利に直接口をつけて、ぐび、と一口飲み下した。
★★★
車座になり、皆して額を突き合わせて、床に広げられた地図に見入る。
禍国のほぼ真西に位置する句国は、俗に『竜の背』と呼ばれる崑山脈を更に西に背負う位置にある。
句国から東北の位置するのが祭国であり、西北に位置するのが剛国である。
さらにほぼ真南に位置するのが、俗に『竜の髭』と呼ばれる二大河の内の内陸よりの河、紅河の源流を持ち、剛国の盟友国でもある契国である。
この禍国・句国・契国の間にある草原地帯は優良な野生馬の産地であり、遠く各国が成り立つ時代の以前より、領土争いが続く土地柄ではあった。
実に、元を遡れば相当に古い根を持つ戦である。
兵部尚書である優が指揮をとった戦のうちの一つで、今からざっと15年以上前にまで遡る。
その当時も今回と同じく、軍馬の育成地を巡り、契国と句国が対立を始めたのである。元来は、句国は禍国に、契国は剛国に寄った国である。しかしこの折、契国が剛国よりも禍国へ擦り寄ったのは、距離的に救援が来る日数の現実問題と、何よりも宗主国として句国との執り成しを望んだのだ。
句国王・番の横暴に、押された契国王・邦が禍国に泣きついてきたと言えば分かり良い。
句国は、此処で契国に勝利を収め、領土を自在に切り取る事が叶えば、という欲を抱いて戦をおこした。それが、契国の思わぬ弱気の及び腰により、順当に軍を押し進める事が叶ったが為、欲が肥大していったのだ。宗主国である禍国の領土をも掠め取り、更には離反出来るのでは・という出来心というか、色気がむくむくと鎌首を擡げてきたのだ。
それを文字通り完膚なきまでに蹴散らしたのが、当時、万騎将軍としての功労を認められ、兵部尚書に推挙されたばかりの優であったのだ。
禍国の兵は基本的に戦車部隊と歩兵による密集部隊、そして騎馬隊の三部から構成される。しかし、禍国の中では戦車による重厚な一気破壊を美とされていた為、騎馬隊を有しながらもその地位は低かった。それを一気に押し上げたのが、この戦いだった。
契国に攻め入っていた句国軍に対して、優率いる禍国軍は先ずは騎馬隊のみで、疾風の如くに攻め入った。契国の王都を陥落せしめんとする勢いを見せ付けていた句国軍を、騎馬軍団のみの攻撃で中央突破を図り、撃破したのだ。慌てた句国軍が陣を敷き直す間など与えず、両脇を密集部隊で固め、背後から潜めていた戦車部隊にて怒涛の攻勢をかけ、遂に句国軍を屈服させた。
この時、句国軍4万に対して、父・優は何と6万もの兵力を投入した。数を頼みに勝利を得たかと謗る者も当然いたが、優の武勇はこれ以後、更に広まりをみせた。
ともあれ、以後、句国は従順さを取り戻していたのだが……。
此度も15年前を準えるように、句国王・番が、自国と禍国の領土を犯したとして、契国に攻め入った。契国の領土を切り崩すと同時に、禍国の領土をも順当に掠め取っている事まで、当時を準えている。
その、句国軍と王を、再び討てと、代帝・安は言う。
★★★
「お父上であられる宰相・優様の戦を、息子である真様が引き継がれるのですなあ」
湯の用意をしながら、のんびりと、時が言うと、碗を受け取って直ぐに口をつけながら、「そやな」と虚海が応じる。時も虚海も老人であるが、時はのんびりとした老人の代表であり、虚海は忙しない老人の筆頭と言える程、対照的だった。
「そんなもの、引き継ぎたくなどありませんよ」
面倒臭い因縁ですよ、と真が答える。
二人の老人は、互いの特徴でもある、独特の笑い声をあげた。
「しかし、何にせよ、此度もこの契国と句国の間の紛争が、どのように進んでいるのか詳しく知る事こそが、勝利の鍵を握ります」
「そうだね、時、何か掴めたかい?」
「はいはい、まあ、多少なりとも」
鰻の触覚のような髭を紙縒りながら、時が答える。
懐に手をいれて包を取りだすと、其処に含まれていた干棗を、ころん、と地図の上に転がした。
それぞれ大きさの違う棗を軍に見立てているのか、契国と句国と、そして禍国と剛国と蒙国に配置する。
契国と句国の間の激突は、既に三度に渡っているという。句国軍は、戦の度に徐々に契国内に押し入り、遂に紅河の支流近くで競るに迄、契国軍は押されているのだという。
「其処までか?」
訝しむ戰に同意するように、真も時を見る。幾ら句国がそれなりの軍備力を備えおり、蒙国の後押しを得ていたとしても、盟友国がここまで虚仮にされて剛国が黙っているとは思えない。
特に、あの剛国王・闘の気質からして、許せまい。
「蒙国ですか?」
真の問いに、時が笑って頷く。真は、蒙国領土内に転がされた棗をひょいと取り上げると、剛国の真西に位置する備国に転がし直した。
うんうんと頷きながら瓢箪を傾けた虚海の隣で、時が、梟のような笑い声をあげて肯定した。
剛国と備国が戦端を開いているとなれば、確かに契国に援軍を送れまい。備国はさほど国力がある訳ではないが、蒙国に寄生するかのように取り込まれる事で生きながらえてきた国だ。備国が動いているとなれば、背後の蒙国と剛国との戦いであると捉えてよいだろう。なる程、契国がこの禍国に擦り寄ってくる筈である。
蒙国は、北方領土を網羅する超大国だ。しかし、冬期はその厳しさ故に、戦闘を控える。だが此度、蒙国は自らが動く事なくではあるが、この冬期に此れまでの禁を破って戦に打って出始めた。
此れは何を意味するのか。
今は気にしている余裕がないが、がしかし、遠からず直接的に祭国に向かってくるに違いない。忘れてはならないだろう。
「それでは、時、正確には句国は何時頃から、契国に攻め入り始めたのでしょうか?」
「それがですな、器用な事に、皇帝陛下が身罷られた後、直ぐに行われておるのですわ」
戰と真は、顔を見合わせる。代替わりのどさくさを狙う事は、別段、可笑しな事ではない。それにその情報は、既に齎されているものだ。何を今更? と訝しむ戰と真を前に、つるり、顔をなで下ろしながら時が続ける。
「禍国からの正式な御使者が向かわれる前、つまりですな、皇子様と椿姫様がご行幸先で襲われました頃合に、露国へと何やら秘した早馬が向かった、とかいう、話がありましてなあ」
露国。
という言葉に、戰も真も表情が険しくなる。
「という事は……」
「裏で手を引いていたのは」
露国王・静なのか?
「ま、直ぐに断定するのは愚かやで、皇子さん、真さん」
熱くなりかける二人の青年を、徳利を傾けつつ、すらりと虚海はいなした。
「露国王さんは、お身内さんが御使者として交渉しに行くまで、皇帝が死んだのを知らなんだのやろ? それやったら、偶然と見た方がええのと違うかいな?」
確かにそうだ。
勘ぐり過ぎだと言われれば、返す言葉がない。だが、『露国』の名を聞く度に、何かが引っかかって仕方が無い。
ふと、真は虚海が下唇を突き出し気味にしているのに気が付いた。
そう言えば、虚海は、皇帝・景を呼び捨てにし、死んだと現した。尊意を払える対象ではないとはいえ、徹底している。それは、例え戰の父親であったとしても、いやだからこそ、許せないものなのだろう。
戰の事は、弟子として愛おしく思っているし、助けてやりたい。
だが、戰に肩入れすればするほど、己を不具とした憎き帝国が栄えてゆくのだ。
複雑な思いを抱いて、この戦に臨んでいるのは、決して自分だけではないのだ。
★★★
この戦は、戰が祭国郡王としてではなく、禍国皇子・戰として赴く。
真には幸いといえば幸いと言えた。
戰も真も、戦が終決を見るまで、祭国に戻る事が叶わぬ身となってしまったが、郡王として赴けと命じられれば、今はまだ貧弱な国体に鞭打っての出陣となる。
それを避けられただけでも、よしとせねばならない、と真は深く自分に言い聞かせた。
だが、万が一にも戰に不幸が起これば、祭国はどうなるのか。
どちらにしても、戰を護りきらねば、話にならない。
そして、自分にはその腕力も胆力もない。あるのは知識だけだ。
嘗ては、果たしてこの知識で何処まで戰を覆う事が出来るだろうかと、心底不安に落ちたものであるが、今は虚海がいる。この安心感は大きく、何ものにも代え難い。
真が、戰の横顔を見詰めながら自身の考えに沈んでいると、契国が句国に既に三度猛攻を受け、じり貧状態に落ちている事実に、戰が辛そうな声をあげた。
「契国を、直ぐにでも助けてやりたいものだが……」
「無理です」
間髪入れずに、真が答えた。
分かっているよ、と戰が目を伏せる。
「今日思い立ち、明日には兵馬・弓・槍・剣・甲冑・兵糧が相揃い、明後日には句国軍前に到着しており、明々後日には句国軍を全て蹴散らし終える事が可能であるというのならば話は別ですが、無理ですよ、戰様」
「分かっているよ、真」
実際問題として、これから戦の準備に取り掛かり、全ての軍備がたち揃うのに1~2ヶ月は見なければなるまい。そこから更に、戦地に到着するまでの日数を稼いでおかねばならず、結局春にならなければ、句国と戦端は結べまい。
現実的に、無理なのである。
そんな事は人外の不思議の作用が働いたとて出来ぬ相談だと、戰も分かっている。ただ、言いたくなる気持ちは、真にも分かる。数ヶ月前に、実母と養母、二人の祖国である楼国を失ったばかりなのだ。つい、重ね合わせてしまうのだろう。
戰が句国を討てばそれは叶うであろうが、その間、契国が己を励まして国を守り続けてくれるよう、天帝に祈るくらいしか、此方としては出来ない。
戰が見ねばならぬのは、句国軍だ。
契国の民ではない。契国を護るのは契国王の責任だ。
そして。
実を言えば、戰の気持ちを考えれば口には出来ないが、真には契国がとことんまで追い詰められ負けを食っていたくれた方が、何かと都合が良い。
戰が出陣可能となる頃は、契国が句国によって蹂躙され尽くされるか否かの瀬戸際となっている事だろう。元が剛国との同盟国である契国が、禍国になど軍事的に救済される事を望んでなどいないだろう。
だが滅亡するか全滅するかを選べと言われるような状況に堕ちた時、救いの手を差し伸べられれば誰しもが、感謝の念を抱くことだろう。それが、戰のような人物であれば、尚更。
そして何れ、戰が祭国だけでなく禍国を手にすると望んだ時、契国は残る皇太子・天や二位の君である乱ではなく、戰を選ぶ筈だ。
だが、このような狙いをもって戦いに挑む事を、戰は好まない。
亡き母・麗美人の祖国が蒙国皇帝・雷より、無残にも撫斬りにされ地上から消し去られた時の、深い嘆きを見れば分かる。
それでも。
やらねばならない。
以前に、戰に言った言葉は、そのまま自分に跳ね返ってくる。
戦で全てを解決する事こそ美とし、重ねられた屍を有益とかえ、流れる血を啜る――そう、まさしく自分が選ぼうとしている道だ。悍ましい考え方だ。
だが、自分はこうも伝えた。
どんな手を使ってでも、勝ちたいのだ、と。
戦において、勝利は正義だ。蒙国皇帝・雷は、正義を行ったと言えるのは、完全なる勝利を遂行したからだ。
此れからの自分は、戰の為に、そうあらねばならない。
例え戰が望んでいなくとも。後主・順の時の苦い思いを、忘れてはならない。
躊躇する事は、戰の未来に掛けて、してはならない。
この考え方のずれが、そう遠くない将来において、戰と自分を別つ時を引き寄せる事も、分かっている。
だがそれでいい。
覇道を行く上で、綺麗事がまかり通るわけがないのだ。
清濁併せ呑む事が出来てこそ、真の君主となる道が開くと真は思っている。が、戰には無理だとも知っている。
ならば、自分が汚濁に塗れればいい。
そして戰が自分を傍に置く事が辛くなれば、それが自然の別れの時となる。
戰の覇道が極まれば、自分は暇を得る。
それでいい。
暖かい日々を、果たして自分は手放せるのかと陰鬱にもなったが、何故か今、真はその日を素直に受け入れられそうな気がしていた。
★★★
王宮から、代帝・安の使者が来たと、殿侍が伝えにきた。
分かった、と短く答えると、戰が座を立つ。代帝・安の使者となれば、真を始めこの一同中の誰一人として、同席する事が叶わぬ身分だ。皇帝の言葉を諳んじて伝える使者は、皇帝自身とされるからだ。
戰の背中を見送ってから、綿布の地図をくるくると巻き仕舞っている真を、虚海が厳しい眼付で、じ……・と睨めつけるようにしている。法っておいたのだが、ずっとその調子のままなので、真は肩を大きく上下させた。
「真さん」
「はい、何でしょう?」
「あんたさんは、皇子さんから離れたらあかへんで?」
虚海の言葉に、真はどきりとした。思わず、綿布を巻いていた手が止まる。
「真さんが、皇后の阿呆たれな言葉に頭に来たんは、正しい事や。頭にきたんはな、真さんが権力ちゅうもんを、上手い事嫌っとるからや。皇子さんにはな、そういう気持ちを持っとる、分かったれる者が、傍についたっとらな、あかへんのや」
それは、と真は言葉が繋げない。やはり見透かされているのか? と思うと、どんな顔をして良いのか分からない。
しかし。
薔姫を侮辱され、自分は真実の怒りとはどのようなものであるのか、初めて知った。満面朱を注ぐ、腸が煮え滾るの意とは此れであるかと、身を持って知った。この怒りを晴らす為ならば、勝利を得るためならば、と、手段を選ばず道を模索しているのだ。代帝・安と、何ら変わるところなどありはしないだろう。
虚海は瓢箪型の徳利に口をつけて、ぐびぐびと中身を煽った。
「真さん」
「はい」
「今、あんたさんを突き動かしとるんは、何や?」
「はい?」
「怒りやろ? 皇后の阿呆たれに怒っとるでやろ?」
言葉を返せないでいる真に構わず、虚海は再び徳利の中身を煽る。痛み止めの為に呑んでいるのは、既にない。それは、苦い味がするのだろう。虚海は眉を顰めて煽っている。
「権力に真当に怒れるうちは、大丈夫や」
「虚海様は、違うのですか?」
「ああ、違うで。儂のは恨みや」
恨み。
酔いつぶれかけているくせに、虚海の声音はぞっとする程、抑揚がない。無理矢理に感情を押さえ込む為なのだろうが、その方が内なる黒々とした感情の凄まじさが垣間見えるようで、恐ろしい。
「ちゃ~んと怒れる奴はな、真さん、何かやったろ思った時に、最後の最後、踏ん張れるもんや。道を誤らへん。けどな、恨んどる奴は違う。自分に溺れたまんま、流されてってまうもんなんや」
時が、真の手から綿布の地図を静かに譲り受ける。
「真さん、あんたさんの腹ん中に巣食っとる怒りっちゅうのはな、炎と同じや。どんだけ激しゅう燃えとっても、誰かが気いついてくれて、大変や助けたらな、熱かったやろ、苦しかったやろ言うて水をぶっかけてくれたら、消えてまう」
ぐび、と瓢箪型の徳利を傾けて喉を潤すと、虚海はまくし立てる。
「けどな、儂が飼っとる恨みちゅうのは、膿や。溜まりに溜まって、瘡蓋を破ってどろどろと流れ出しても、誰もそんな臭いもん、拭き取ってくれへん。近寄ってもくれへんわ。垂れ流しのまんまや。そんで垂れたとこが、また腐ってくんや。そんでだんだん、だ~んだん、腐れて、とうとう自分の臭い膿に溺れて息が詰まってまう。どうしようもあらへん」
「そんな」
「いや、ある。ま、聞きいや。別に儂はそれで構わへんのや。自分で選んだ道やしな。あんたさんに言いたいのは、そんなんやあらへん。真さん、同じ兵を操る策を考える者として言わせて貰うで? 今回、真さんが句国を打ち破る為に、軍を動かしたろかと思うとる策と、儂が考えとる策は、恐らく一緒や。多分、皇子さんも腹の底では、同じ事思っとる。同じ考えが浮かんだんやったら、そら真さんだけが悪者と違うんやで? 皆一緒や。儂らも同罪や。真さんが糞泥被るんやったら、儂も皇子さんも、一緒にまみれなあかへんのや」
「……」
「皇子さんは、きっとその覚悟ができてる筈や。やでな、何があっても、離れんといたって欲しいんや。いや、逃げんと、信じたって欲しい。真さんとは、会ってまだ間もあらへんけど、皇子さんとあんたさんとを見とったら、分かるんや。真さんが思っとる事、皇子さんが気が付いとらへんわけ、あらへんやろうが、ん?」
答えられずにいる真の目の前で、虚海は、ぷは、と盛大に酒精まみれの呼気を吐き出した。
「若い時はな、格好つけたなるもんや。何かするにしても、自分が犠牲になる、言いたなる。自分が苦しんどけば皆幸せになれるんや、そんでええやろ、言うて、前のめりにしていたなるもんや。けどな、真さん。そら、間違いやで」
「え?」
「真さん、皇子さんはな、あんたさんがおらへん世の中なんか、考えもしたないお人や。それやのに居なくなって、そんな一番大事なお人傷付けて、あんたさんは満足か? 皇子さん泣かせて嬉しいか、楽しいか? 皇子さんはな、真さんが居いひんくなったら、寂しゅうてわやになってまうで? 離れたら、あかん。真さん、あんたさんは皇子さんから、離れたらあかへんのや」
「……」
「それにやな、ええか、そもそも、真さんがどんな事しても、絶対に皇子さんは真さんを離さへんで? 何があっても、離さへんわ」
眸だけは矢のように光らせて真を見据えつつも、のほっのほっのほっ、と何時もの調子に戻って笑う。
「絶対や。儂が保証したるわ、信じとけ、真さん」
「年寄りの言葉は価千金と申しますぞ、真様」
時も鰻の触覚のような髭を紙縒りながら、ほう、ほう、と梟のように笑う。二人の老人の笑い声に挟まれながら、真は鼻をすすった。
★★★
数日後、真の母である好の体調が好転た為、時が手配した馬車に乗り、いよいよ祭国へと向かう事となった。
身体が冷えぬようにとの心使いからか、馬車には上等の毛氈の上に、更に狐や兎などの毛皮が敷き詰められていた。
一刻も早くと焦りつつ、虚海の荷物を詰め込む準備をする只中、せめて一目と真は馬車の小さな窓越しに、母・好と言葉を交わした。
「どうか、お気をつけて。そして、元気な弟か妹を、その腕に抱けますよう、お祈り申しあげます」
「真、貴方も」
窓越しに、好が手を伸ばしてきた。手を握り合いながら、此れまでも細かった腕が、悪阻の為にろくに食事が取れていないせいだろう、一層細く頼りなげになっている事に、真はどきりとした。
「真」
「はい、母上」
「御自分の道を信じて、弛まずお生きなさい」
再び、どきりと心の臓が激しく跳ね上がる。
好が、父・優や自分の立場を正しく理解しているとは思えない。父・優は、仕事の話を好に持ち込む事をよしとしなかったからだ。
だから、この好の言葉は、純粋に、息子を思う母の心から出ている。
何も知らないからこそ、真心を込められた言葉だ。
自分の事だけを、思ってくれている言葉だ――
そう思うと、知らぬうちに、真は頬が濡れていくのを感じて、慌てた。しかし、そんな真を、暖かい声が包んでくれる。
「真」
伸ばされた母の手の平が、濡れた頬を優しく穏やかに、撫でてくれている。
真っ直ぐに、自分に向けられた、声と手。
産まれて初めて感じる、母・好が、真実、自分だけ与えてくれた、微笑みと温もりだった。




