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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
四ノ戦 戦禍繚乱

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7 怒り

7 怒り



 ときから得た情報をもとに、皇太后・安が仕掛けてきそうな話を探り合う。実際に話をし合ってみて、真はこの虚海こがいという人物の鋭さに感嘆せずにはいられなかった。

 受けた指摘を、この後に父に確かめねばならないと、深く言葉を反芻していると、虚海が、『疲れたで、今日はこのへんでな』と申し訳なさそうに呻いた。10年前の過酷な刑罰を耐え抜いて生き延びたが、それ故に虚海は生涯、薬が手放せない身体となった。


「これから身体中にな、痛み止めの薬を塗り直さねなあかへんのや。見とって気持ちのええもんやあらへんでな、悪いけど、皇子さんも真さんも帰ってくれへんか」

 それならば自分が、と申し出た戰に、虚海が一喝する。

「皇子さんの阿呆たれ。そんな暇こいとる場合か。とっととお宮さんに帰りい。皇子さんも真さんも、色々やらなあかへん事があるやろが。儂からの宿題や。ちゃんとやっとき」

「しかし、お師匠……」

「皇子さん。またあんたさんの事、そう呼ばせて貰えただけで、儂、今日は充分元気出たわ。やで、早よ帰りい」

「しかし……」

「此処まできたら、会いたなったら直ぐ会えるがな。な、皇子さん」

 握る手をなかなか離さない戰の額を、よしよしと撫でてやる虚海を見て、ああそうか、と真は納得がいく。最初の出会いの時に「畏まらないで、戰と呼んでくれ」と言ったのは何故か。この虚海師匠に常日頃から「皇子さん」呼ばわりされていては、あの出会いでは、こそばゆく感じて当然だろう。面白い師弟関係だったのだな、と笑いが込み上げてくる。

 気が付いたのか、むっとした様子で睨んでくる戰の視線を外す救い主のように、迎えに来たときの使いの声が聞こえてきた。


「ほんならなあ、皇子さん、真さん」

 部屋の中央で、うつぶせ寝で布団にもたれ掛かりながら、虚海こがいが手を振った。




 部屋を出て、玄関に向かう廊下の途中で、ぴたりと戰が足を止めた。

 何だろう、と訝しむ真に、くるりと振り返った戰が肩を抱いてきた。男同士とはいえ、戰は尋常ないほど、背が高い。頭ひとつ分以上の身長差と体格差に、真がよろめいていると、ぐ・と戰が力を込めて動きを止めてきた。


「真」

「はい、戰様」

「お師匠を探し出してくれて、有難う」

「いえ」


 戰の中では再会の喜びもあれど、それ以上に師匠を彼処までの身体に堕とした父帝への、強く深く拭い取れぬ怒りが刻み込まれた筈だ。そして同時に、何故、放逐されて直ぐに探し出して救おうとしなかったのかという、自責の念に苛まされ続けてもいるだろう。「後悔なんかしても無駄やし、勝手に怒っとらんと、皇子さんのせいやあらへん」と、虚海ならば笑うであろう。が、戰はこの先、師匠を目の前にする度に、この怒りと後悔と、戦わねばならないのだ。

 同時に、それらを隠しきり、感じさせずに此処まで来た戰の強さに、真は悔しくなる。


 何という、哀しい強さなのだろう。 

 胸が痛み、苦しくなる。


 しかし、戰様。

 椿姫様がいらっしゃいます。皆がいます。

 貴方の怒りを、私たちは分かち合えます。

 どうぞお辛い時は、このように頼って下さい。


 隠しきれない嗚咽に揺れている戰の肩を、真も固く抱き直した。




  ★★★



 虚海の住まいから、戰は直接、自身の宮へと向かった。

 流石に郡王となった身で、王宮の部屋に戻る事は出来ないし、事あらば真と話し合わねばならないとなると、王宮では何かと不便であるからだ。

 しかし真は一旦自宅へ戻ってから、真の離宮へと向かう。兵部尚書である父と、祭国へ旅立った後、皇帝・景が身罷ってからの直接の城での動きを直接確かめたいからでもあるし、時からの情報と虚海の話も含めて父と話をしたい。

 真は数ヶ月ぶりに、実家の門を潜った。


「父上、只今戻りました」

「うむ」


 礼節に則り、最拝礼をもって父・優に礼をおくる真は、ふと、物陰から此方を伺う気配というか、視線を感じた。母である、こうのものだ。珍しく、優が許しを与えて、好を此方に呼び寄せた。

 驚きつつも、真は母親の為に礼儀を尽くす。こうして、真面に顔を合わせる事が出来るなど、一体いつ以来の事であろうか? 良い年をして何を、と自分でも思うのだが、母親の顔を真正面から拝む事ができる幸せに、嬉しさが募る。

「ご壮健であらせられましたか」

 真の言葉に対して、好は俯き、そして袂で赤く色づいた頬を隠した。訝しみながら額をあげた真は、気が付いた。

 細身であるのは変わらないが、母・好の下腹がふっくらとし――そう、ぽってりとした印象なのだ。よく見れば、帯も臍の下にくるように、緩やかに締められている。


 まさか……、と真は冷や汗をたらした。

 指を広げ、一本づつ折りながら数える。

 祭国の旅立ちの日から今日まで、何ヶ月たった?


「父上……」

「おう、気が付いたか。そうだ、夏にはお前の同腹弟おとうと同腹妹いもうとが出来るぞ」

「……」

「何だ、その顔は。大体、お前が言ったのではないか」

「は?」

「宜しく頼むと」

「……ええ、言いました。確かに言いました。言いましたけれどもですね!」


 こんな風に『宜しく頼んだ』つもりはありませんよ、全く!

 全身をほの赤く染めて、恥ずかしそうに身を捩る母・好を前に、真は頭を抱え込んだ。



 かつての己の住まいに等しき懐かしの書庫で、父と二人、向かい合う。

 はぁ……と真は深い溜息をついた。

「何だ、その溜息は。もっと素直に喜ばんか」

 むっとする父・優を前に、真はやれやれと嘆息しつつ、長く伸びた前髪をくしゃくしゃと弄る。

 20歳差の『きょうだい』ですか。確かに、椿姫様と兄王子・覺様も同じ程離れておられましたが。

 しかし、この時期に母・好が身篭ったとは。心配でならない。


「気に入らんのか?」

 溜息をつく真の様子が、些か気に入らないらしい。ますます不機嫌を極めて、むっつりしだす父・優に、真はいいえ、と被りをふった。

「素直に喜べるほど、私の性格が真っ直ぐではないだけですよ」

「お前の性格が歪みきっておる事なぞ、もう知っておるわ、このたわけめが」

 再び嘆息する真を、優は腕組みをしつつ、ぎろりと睨んできた。

 真が何を危惧しているのか。優とても同じ心配を抱えている為、気がつかぬ筈がない。


 嬉しくない訳ではない。

 むしろ、逆だ。喜ばしいと思う。側妾腹として生まれれば、生まれながらに自分のように立場に恵まれぬ子となる。それでも、新しい命が宿ったことを喜ばぬような、獣の性根ではない。

 自分が案じているのは、此度の政変に母・好が巻き込まれはしないか、腹の赤子にまで累が及ばぬか、という事だ。


「母上を、どうにかして祭国へと送っては差し上げられませんか?」

「……考えては、おるのだがな」

 実は悪阻が酷く、懐妊が発覚してからこちら、ずっと床に伏せっていたのだと優はぼそぼそと呟いた。今日は、自分が戻ると知っているからこそ、無理をして起き出してきたのだという。

 それを知り、胸が熱くなる。

 頬を赤く幸せの色に染めていた母は、美しかった。

 父・優が、戦から凱旋する姿をこっそり覗き見る折に垣間見せる笑みと、似ていた。離れて暮らす事が当然であった真には、母・好に抱きしめられたどころか、その胸の温もりすら、覚えてはいない。確かに自分だけに向けられる微笑みすらも、知らない。

 その母が、自分の弟か妹に向けた仕草が、羨ましい。自分が腹にいた時にも、母はあのような表情をしてくれたのだろうか? だからこそ、自分の『きょうだい』には、母の愛情を存分に受けて生まれ、健やかに育って欲しい。自分のように、母親の温もりを知らない子供時代など、送って欲しくない。

 ともあれ、体調が落ち着き次第、祭国に向かわせよう。


ときに手配させます。一刻も早く、祭国に」

「……分かった」

 父・優が渋る真実の理由は、悪阻ではなく別にもあると真は知っている。

 母・こうと離れるのが、嫌なのだ。いつも、たなごころの中に抱くように、傍に置いておきたい。父にとって、母とは、永遠に自分の手で守りきらねばならぬ存在なのだろう。結婚して20年以上経つが、どうして此処まで愛せるものなのか。

 女性を其処まで愛せるなど、本来は麗しいのであろうが、正直、父にやられると暑苦しい。

 真はやれやれ、とうなじあたりの後れ毛をくしゃくしゃと掻き回した。



 此れからが、肝心の話となる。

 旅の途中、ときの放ったくさたちから、きな臭い情報を幾つも聞きつけている。

 特に気になるのが、虚海にも相談を持ちかけた事柄だ。

 同盟国である筈の句国くこくが、なんの断りもなく契国せつこくに攻め入ったという。同時に、この禍国の領土をも侵し始めているのだという。

 それが、皇帝崩御とほぼ同時期だ。

 これは偶然なのか? 

 しかも、それに対して禍国としては何の動きを見せずいる。何の手出しもせずに、既に数ヶ月が経過してると言う訳だ。兵部尚書である父と兵部省が動いていない以上、明らかに、皇太后・安が何か良からぬ事を考えているに違いないと、虚海こがいも指摘していた。


「今夜は離しませんよ、父上」

「……気色悪い言い方はよさんか」


 ずい、と膝を詰めてくる息子に、散々やり込められている父・優は腕組みをしたまま、思わず知らず仰け反っていた。



 ★★★



 禍国に到着してよりの数日間は何事もなく過ぎ去った。

 皇太后・安も、皇太子・天も、二位の君である乱も、不気味なほどに動きを見せない。その貴重な時間を無駄には出来ぬと、此れまでの出来事をつぶさに話す為、自由にならぬ戰に成り代わり、真は虚海の所に幾度となく走った。

 





 いよいよ、喪開けの法要が始まった。

 重苦しい曇天からは、牡丹雪が溶けながらちらつき、地面を濡らしていた。

 銅鑼どらや太鼓、鐃鉢にょうはちの音が、夜明け前より続く不吉な空模様を払拭すべく、燦々と鳴らされ続けている。


 天に召された魂を慰め、かつこれ以後、眷属を守護する英霊となった死者を讃える為に、法要は華麗且つ盛大に執り行われるのが常だ。

 まして、此度の法要は、禍国三代皇帝・景の法会だ。

 皇族一同をあげて、執り行われる。

 法要に参加を許されるのは、『皇子・皇女』を名乗る事が許された御子と、その母親である妃のみ、そして伴われた皇子の母妃、及び皇女は同室は許されても同席は許されない。


 列席者の中でも、更に壇上に上がる行為を許されるのは、上品上位の皇子のみ。

 第一の臣下がただ一人、その背後に付き従う。

 

 つまりこの法要は、系統を引き継ぐ事が許された、選ばれた皇子のみが許された、特別な場なのである。


 戰の場合は、実母である麗美人が身罷っている為、本来であれば此れまでの養育者である蓮才人を伴う事になる。だが、皇太后・安――いや、代帝を名乗ると宣言した安が後見となったが為、蓮才人の立場は再びただ才人としてのものとなり、参加は叶わない。


義理母上ははうえ、それでは」

「御立派ですよ、皇子様」

 戰の言葉に、蓮才人は嬉しげにその頬に手を伸ばした。かかるみだれ髪を、細い指先ではらってやりながら、そんな所は、まだ手のかかる少年のようだと微笑みが漏れる。

 蓮才人にしてみれば、それでも、この10年もの長き年月、息子として接してきた青年が立派な姿を見せてくれるまでになった。姉と慕った王女・麗の忘れ形見である戰を、大切に大切に此れまで育んできたのだ。

 彼が、今の立場になっただけでもう、蓮才人は充分に幸せだった。





 法要の場となる広間に、名が呼ばれ、戰が姿を現した。

 兄弟皇子たちの間に、響めきが走る。


 本来であれば、末席に何とかすえられるか否かという、瀬戸際の身分の皇子でしかない筈の皇子・戰。

 その戰の名が皇太子・天、二位の君・乱に続いて、早々に呼ばれたのある。

 堂々と上段にあがり、最前列に向かう戰の美々しくも雄々しい姿を、皆が苦々しい害意を隠しもしない面持ちで、見送る。


 だが、更に苦々しい、いや深い敵意の視線に晒されている者があった。

 法要に参加する皇子には、それぞれ背後に従人が付くのは、先に述べた。

 それは後見となる母の勢力を率いる叔父や従兄弟など、血族であり、一番の懐刀である部下である場合が殆どだ。

 皇太子・天であれば、叔父である大司徒・じゅうであるし、二位と揶揄される兄皇子・乱であれば、同じく叔父の大令・ちゅうである。


 しかし戰の後見は、皇太后・乱であり、禍国内において実質的な部下はいない。

 なればどうなるのか。

 兵部尚書であり宰相である優が、この場に来ると皆が思っていた。


 ――しかし。


 毒素の視線を一身に浴びる、戰の背後に従えるその者は。

 無位法衣の装束姿で戰の数歩後を、そんな視線などものともせず、面倒くさそうな表情で歩いている。


 彼は、戰の義理妹いもうとであるしょう姫を娶っており。

 無位無官無職人であり。

 仮の『目付』という名誉のみのえきを負う者であり。

 そして、兵部尚書・優の側妾腹の息子である。



 そう、真という青年であったのだ。



  ★★★



 一日がかりの長い法要が、無事に終焉を迎えた。

 誰もが安堵に胸を撫で下ろす中、玉座が据えられている王の大殿に、列席した皇子とその一位の臣下が共に礼を尽くし、座して皇太后・安を待つ。

 本来であれば此処で、本日の法要の礼儀を尽くした者への感謝と労いの言葉が下される。

 そして皇太子に全ての権利が譲渡され、新たなる皇帝の誕生とあいなるのである。しかし、それを代帝・安は既に否定してる。

 そう、これからが彼らにとっては戦いの場となるのだ。


「皆の者、足労、苦労をかけた」

 居丈高な物言いに、垂れたこうべ下で、皇子たちが一様に、はっ・と息を飲む。

 皇太后・安が現れたのだ。

 衣擦れの音も高く優雅に響かせながら、玉座に迫る気配が伝わった。

「皇太后安陛下におかれましても」

 皇太子・天が口火を切る。

 しかし、安は手を振って、その言葉を押しとどめた。

「其方らからの労いの言葉は無用じゃ。無駄な時間はとりとうない。本題に入る」

 玉座に腰を据えた音が、盛大に響き渡る。肉付きの良過ぎる、でっぷりとした尻が沈み込むのだ、当然と言えた。


「先に宣した通りじゃ。わたくしは、皇太子・天を皇太子と認めぬ」

 安は、女の身でありながら、皇帝のみが纏うことを許されし大袖に裳、赤地の袞冕こんべん十二章に袖を通している。但し、法要であるが為に、冕冠べんかんりゅうはない。

「偉大なる禍国の次期皇帝として、太子となる皇子には、相応しく目指しき面目の躍如をわたくしは欲しておる。故に」

 一同にかいする皇子と付き従う臣下が同時にこうべを深くし、最拝礼をとる。

「三年間の正しき喪が開ける迄、この皇太后・安が代帝として玉座を護る。其の方らも、然と心得よ」

 言葉を切ると、にや~……・と、安は口角を持ち上げた。音として耳に聞こえてきそうな程、その笑の醜悪さは凄まじい。


「そこで、じゃ。私としても、たれがこの玉座を嗣ぐに足るか、正しゅう見定めたい。故に其の方らに均等に、戦いの機会を与えようと思う」

 皇子たちの間に、微かな響めきが走った。この言葉は、先の宣言の時にはなかった。緊張が膨らむ。

「先ずは、わたくしが後見となった、祭国郡王・戰よ、此れへ」

 はい、と短く答えると戰は玉座の前に進み出る。


「良い、許す。共に其処に控えおる、『其れ』も此処へ来るが良い」

 安が、手をひらひらと手招いた。

 安が言うところの『其れ』とは、無論の事、真を指す。無言のまま、平伏低頭のまま控え続ける真の頭上に、安は、おっほほほほほと高い笑い声を与えた。

「許すと申しておる。先にも言うた。無駄な時間は使いとうない。早う『其れ』も戰の傍へ侍れ」

 無言のまま、真は礼節を崩さす、戰の背後に静かに添った。

 本来であれば、庶人以下の扱いを受ける真が、このような場に足を踏み入れるなど、あってはならない。それを咎めもしないのは、安が、既に腹に何か必殺の一撃を囲っているという意識が働いているからに他ならない。

 それは何か? 床を眺めつつ、真は耳に意識を集中する。


「戰よ、先ずは其方に命を呉れてやる」

「はい、代帝・安陛下、何なりとお命じを」

「実はの、西方の句族くぞくの王、ばんめが、我らが軍馬の育成地を狙うて良からぬ動きを見せておる」


 句国くこくは、禍国と祭国に挟まれた位置にある、古き国だ。互いの国境あたりで軍馬育成の為に放牧が行われているが、禍国の立国以来、不可侵の盟約を固めて同盟の盟約を結んでいる。無論の事、禍国が盟主である。その為、先の戰の祭国郡王就任と椿姫の女王戴冠の折にも、早々に朝貢をしてきた。

 その句国が皇帝崩御と同時に、この禍国に対して反旗を翻したのだ。


「討て」


 戰と真が互いに目配せし合う。

 やはり、予想した通りだった。虚海と相談しあい、兵部尚書である優と先に話を共有しておいてよかったと安堵する。

 二人が意を交わし合う間に、玉座より、楽しげに安が命じてきた。


「句国の阿呆な王のばんの奴はの、せつ国を討ちつつ、あわよくば我が神聖なる禍国領土をもと狙うておるようじゃ。契国より、我が国に救国の嘆願が届いたのでな。如何にも哀れである故、戰よ、番の奴を討て」

「句国王を、ですか」

「そうじゃ、契国に攻め入った句国軍を打払え。愚かにも程があろうに、句国の番の奴め、蒙国なんぞと結びつきおって気が大きうなりおったらしい」


 蒙国。

 と聞いて、戰の顔色が変わった。


「やるであろうな、戰よ?」

 戰に拒否権はない。

 もとより、蒙国が背後に控えていると知って、辞退など出来よう筈もない。

 息が荒く猛々しく狂うのを、抑えられない。思わず、背後から戰の裳裾を、それと気取られぬよう真が掴んだ。

 そんな戰の様子を、にやにやと嗤いながら、代帝・安は続ける。

「最ものう……お前の義理妹いもうとである、蓮才人腹の姫、あれを当初の予定通りに嫁しておけば、このような事にはならなんだかやも、知れぬがのう」

「――は?」

「何じゃ? 知らなんだのか? お前の義理妹いもうとの、何というたかの、苦い名前の……そう、しょうとかぬかしたの。その苦い名の姫をの、片田舎の蒙国で、烏滸がましくも皇帝を名乗る破落戸ごろつきの奴に、呉れてやる筈だったのじゃ」


 戰の裳裾を掴んだ、真の心の臓が凍りつく。

 息が止まる。

 今、代帝・安は、何と言った?


「三年前にの。皇帝陛下のお許しを待つばかりであったのじゃ」

 三年前の祭国この戦の後、蓮才人が娘姫であるしょう姫の縁談を反古とする手立てはないかと、涙ながらに訴えてきた折の事を鮮明に思い出す。

あの時、蓮才人は誰が主導者として話を進めているのか、口に出来なかった。当たり前だ。相手が、皇后では、太刀打ちが出来ようはずがない。


「のう、戰よ。あの折、苦い名の義理妹いもうとが、そのまま蒙国に嫁しておれば、母の故郷である楼国は滅ぼされずに済んだであろうのう。代わって、皇帝を名乗る莫連者の破落戸ごろつきの雷とやらが、滅びておったかの。何しろ『男殺し』の宿星を持つ、稀なる姫じゃからのう」

 おっほほほほほほほほ、と安は弛んで二重になったおとがいをはね上げ、高笑いをする。笑う度、筋になった肉の襞が醜く揺れる。そこを「ああ、痒い痒い、愉快過ぎて痒うなるわ」と嗤いながら、掻き毟る。


「おお、そうじゃ。戰よ、お前の後ろに控えおる『其れ』が、苦い名を持つ姫の、今や良人おっとであるらしいのお。どうじゃ、今からでも、遅うはない。離縁して、蒙国に贈らぬか? さすれば、戦も少しは楽に進むやもしれぬぞ? 『其れ』も命の危険を感じる事もなく、枕を高うして寝られる。良き事ばかりじゃ、のう? 其の方らも、そう思わぬか?」

 安の促す視線に、皇子たちと控える臣下の間に、嘲笑の波がうねった。


「初潮も迎えておらぬ、女にも成りきれておらん小娘一人差し出すだけで、勝ちを得られるのじゃ、易いものよ。どうじゃ、この策は? 私もなかなかの策士であろう? ん?」

 戰の裳裾を掴む真の拳が、血の気を失い、震える。


「まあ、嫁した先で別の意味で『女』にはして貰えるであろうがの。知っておるか? 蒙国の破落戸は、殊の他色好みだそうじゃ。特に毛色の変わった女を好むらしき故、存外、可愛がって貰えるやも知れぬぞ?」

 今度は、戰が真の手首を硬く掴んだ。

 しかし、それに気が付く者はいない。


「それとも、もう同衾しておって、『其れ』も手放すのは惜しいのか? おお、『男殺し』とは、正しくはそのような意味合いであったのか」

 流石に楼国の血を引くだけの事はあるのお、おーっほほほほほほ、と下顎から首にかけて幾重にも重なるように弛んだぜい肉を激しく震わせ、安は笑い続ける。

 響き渡る代帝・安の高笑いを、真の氷のような視線が射抜く。

 視線の矢尻を隠すかのように、戰の刃の如き声が飛んだ。


「代帝・安陛下」

「――何じゃ、戰。気を削ぎおって。まあ良いわ、許す故、申してみよ」

「この戦に勝利を収めました後、わたくしは何を得るのでありましょうか?」

「……何でも良いわ。おお、戰だけではない、『其れ』の望むものをも、呉れてやろうほどに」

「それは、まことに御座いますか?」

「くどいわ。帝が二言なぞせぬ」

 笑い声を止められた不快さに歪んでいた代帝・安の脂肪にまみれた醜い頬が、にやにやと歪み出す。


「最も、この戦に何としても勝ちたいとあれば、先に望みとして、『其れ』と苦い名の姫との離縁を許すぞ? 蒙国の雷とやら破落戸ごろつきに、とっとと呉れてやれば良いではないか?」


 嗤う代帝・安は、途中でその声を飲み込んだ。

 凄まじい殺気に、怖気を起こしたからだ。額から顳にかけて冷や汗が一気に吹き出、顎を目指して垂れて行く。


「では、有り難くお言葉を頂戴致します」

 真の手首を掴んだまま、戰は衣擦れの音もたてず、静かにこうべを垂れた。



  ★★★



 戰の離宮へと戻ると、俯き加減のまま、真が口を開いた。


「戰様」

「何だい、真」

「私は、戦が嫌いです」

「うん」

「あんな怖そうで痛そう過ぎる上に、確実に死が見えているものを、喜び勇んで平気でなんて、とても私には正気の沙汰とは思えません」

「うん」

「戦で全てを解決する事こそよしするのは、戦に赴く事なく重ねられた屍を有益えきとかえ、流れる血を啜って富を得た者だけが感じる、悍ましい考えです」

 吐き捨てる真を、戰は揺らぐ事のない真っ直ぐな眸で見つめ続ける。そして、静かに答えた。


「ああ、そうだな、私もそう思う」

「しかし、戰様」

「何だい、真」

「私は、此度の戦に、勝ちたい」


 真は、漸く額をあげた。青ざめた肌の上に、ぽろぽろと大粒の涙が流れる。その涙を生み出す瞳の奥には、怒りの蒼い炎が揺らめきたっている。


「真……」

「餓鬼だと馬鹿にされたっていい! 青臭い青二才扱いされたって構わない! 勝ちたい!」


「真」

「誹られようが蔑まれようが、どんな手を使ってでも、私は勝ちたいのです! いけませんか、戰様!」


 戰が、真に近寄り、肩を抱きしめた。

 奥歯を噛み締めつつ、真はまだ涙を流し続けている。


「私も同じ思いだ。勝ちたい」

「はい」

「しかし、どのようにすれば勝てるのか分からない――真」

「はい」

「三年前のように、私を助けてくれるかい?」

「はい」

 真の肩を抱く戰の声も、涙に濡れている。


「真」

「……はい」



 義理妹いもうとの為に泣いてくれて有難う、と最後に戰は静かに告げた。




くさ 


所謂、忍者みたいな諜報活動をしてくれる、便利屋さんです・・・

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