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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
四ノ戦 戦禍繚乱

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5 雪

5 雪



 年が改まろうとしている。

 祭国の城内は、他国と同様、朝賀を交わす使節団を迎え入れる為の準備に追われている。と言っても、戰は喪に服している為、各国からの朝賀を受け取ることが出来ない。正しくは、寒見舞いとなる。

 祭国は禍国に追従の意を見せて喪に服している為、、此方から朝賀に出向かずに済むがましと言おうか、はっきりと手間がない。何しろ、其処までの余裕が人的にない。


 おまけに、百ヶ日の喪明の法要の為、戰は年が改って直ぐ禍国に戻らねばならないのだ。寒見舞いの使節の挨拶は、椿姫が全てを取り仕切る事になる。その為に、随分と戰と真を抜きにしての政務を執り行うように、彼女なりに努力していた。

 しかし、以前のように『どうしたら』と悩む事は、殆どなくなってきている。

『私はどうしたら良いの』ではなく、『私は皆とどうしていきたいのか』と考えるようになり、自然と振る舞えるようになってきたからだ。

 それに今は、一人ではない。

 城の殆どの者が、椿姫の為にと進んで動いてくれるようになっていた。頼れる者が居るという、確かな心強さは、何よりも人を励ますものだ。しかし流石に、全く実務の経験のない椿姫独りを残すのは心許ない為、極力人手を残そうと、戰は、真の他には商人のときを連れて行くのみとした。

 出来るだけ早く、帰国するつもりではいる。

 が、出立迄にさばいておかねばならない事が多すぎた。

 戰は、皆に指示を出し続けだった。


 特に真は、迎春の農耕地鎮祭に向かう禰宜ねぎおかんなぎめかんなぎに託す、蕎麦の栽培方の書簡を完成させ、祐筆ゆうひつに写しを大量に書き上げて貰わねばならない。

 新しくたくと作り上げたすきの使用法の注意の但し書も、同時進行で考えねばならない。特別に蕎麦の為に考案したわけではなく、主産である米をこそ、増産に励まなくてはならないからだ。

 おまけに、吉次に託したくわや鎌の仕上がりも春の耕耘時期に間に合わせなくてはならないし、それも先ず先に禰宜ねぎたちに祓って貰わねばならない。

 ならない事ばかりで、真の頭の中は現在、孜孜汲汲ししきゅうきゅうたる状態である。


 真だけでない。

 必要なこがねの計算に走るつう

 必要書類を揃える為に大わらわのるい

 屯田兵たちに鉄製の剣の扱いの心得を説く為に無い頭を振り絞るかつ

 此れまでの穴だらけの祭国の軍備を一から鍛えなすべく根底から見直しているもく

 仲間を総動員して新しいすきを大量生産する為に奔走するたく

 そのすきくわに咬ませる刃先、そして青銅製の鎌の開発に追われる吉次きちじ

 皆、『暇』とはどのような漢字をもってして表すのか忘れてしまう程、飛び回っている。


 栽培促進の書簡の誤字脱字を調べるのには、そのがくが進んで買って出てくれた。

 那谷なたの指導の元、栄養のある差し入れを作るのは、しょう姫と珊とが請け負った。

 彼らの仕事を椿姫は率先して見守り、時に舎人とねりや宮女、采女うねめたちにも手伝うように指示を出す。

 鉄製品の輸入に必要な采配を下す為に、ときは忙しなく禍国へと一足先に戻っていき、祭国におけるときの仕事は、つたが代わって引き継いだ。

 楽団を率いていただけの事はあり、財の動かし処を見極める目と、迷う事なくこがねを動かす度胸も持ち合わせているし、手の引き際の判断も確かな為、ときの仲間たちも自然と蔦を受け入れるようになった。

 何よりも、同じく渡世の世界に生きる者同士、決して互いを卑下する事も嘲る事も過剰に美化する事もないのが、気に入られた。後は、人間として単純に言ってしまえば、妖怪のような怪しい爺さんに命じられるよりも、羅刹らせつとはいえ美形の口から涼しく命じられた方が、正直気分が良いものだ。


 戰と真の言葉を受け、誰ひとりとして、のんびりと構えてはいなかった。



 そしてとうとう、年が明けた。



  ★★★




「明けましておめでとうございます、姫」

「明けましておめでとうございます、我が君」


 年が改まって最初の朝餉に、皆で一人一人新年の挨拶をしてゆくのだが、先ずは家の主人あるじである真としょう姫からである。

流石に、正月であるから、何時ものもっさりした出で立ちの真ではなく、丁寧に髷を結いあげ、新しく縫われた深衣しんいに袖を通している。しょう姫も蔦の一座の者も、それぞれに晴れの衣装を纏っているので、それだけで部屋の中は明るく華やかになり、賑わしい。

 本来であれば、ここで更に屠蘇酒を家人の間で交わしあい、一年の無病息災を祈願するのであるが、生憎と下戸である真と、まだ幼少の身の上である上に喪中のしょう姫では如何ともしがたし・と言う訳で、蔦の一座を代表し早足のふうが音頭をとると、あっという間に楽しい酒膳へと様変わりしていた。


 そうこうしている間に、縁側から慣れ親しんが明るい声が届く。

「おう、大将! 明けましておめでとうだぜい!」

「明けましておめでとうございます、たく

 酒の匂いを嗅ぎつけたのか、琢がやってきた。

 大きな風呂敷包みを背負っている。大きさの割に平べったく厚みがない。何だろう? と首をひねる真としょう姫、二人の前で琢が笑いながら包みを開いた。出てきたのは、真っ白い立派な大凧だった。

 わあ! としょう姫が嬉しそうに声を上げる。

「どうせ、懇意にしてるたなも少ないだろうと思ってよ。手に入れておいてやったのよ、どうでえ?」

「すいませんでしたね、琢」

 後頭部をかきあげながら、真は正月早々、小さくなる。

 運気を上げるにかけて、新年に凧あげをするのは習いであるが、忙しさにかまけてそれをすっかり忘れていたのである。しかし、同じように忙しくしていたのにも関わらず、琢は覚えてこうして用意をしてくれているのだから、言い訳にもならないだろう。

 穴があったら入りたいとばかりに身体を縮こまらせている真に、くすくすとしょう姫が笑った。


「いいわ、お正月早々にお小言は我が君だって嫌だろうから、今日だけは許してあげる」

「……すいません」


 まだ小さくなったままの真をおいて、ふふ、と短く笑うと、しょう姫は、わあ! と大きな歓声をあげると、大凧を手に掲げつつ縁側から外に飛び出した。これだけは、例え喪中であっても許される、楽しい正月の行事だ。ふうたちと一緒に庭を駆けて凧をあげあって、競争をし始める。

 縁側に腰をかけながら、そんなしょう姫の様子を見詰める真の隣に、琢がどっこらせい、と腰を下ろしてきた。


「もうすぐだなあ」

「はい」

「気を付けて行ってこいよ、大将」

「はい、有難うございます」

「ま、俺っちに、ど~んと任せとけって!」

「お願いします」


 正月の三が日を過ぎて直ぐ、戰が喪開けの法要の為に禍国に戻る事を言っている。それに同行するのは、真ただ一人きりだ。

 禍国は、此処まで対外的に、何も言わず沈黙を保っていた。という事は、皇太后・安はやはり、この法要の後に代帝に登る旨を正式に宣するつもりなのだろう。

 新年の朝賀の代わりの寒見舞いの参詣の折であったとしても、告げる事は可能だ。其れをしないと決したという事は、皇太后・安が、何かしらを企んでいるとしてよいだろう。

 此れまで虐げられてきた者が、不用意に権力を握ると暴走するのは常であるが、皇太后・安は、一体何処まで暴走するつもりなのか?

 酔っ払って走りだすのは、彼方あちらの自由である。

 勝手にしてもらって大いに結構であるが、巻き込まれるのは御免だ。

 戰の為にも、椿姫の為にも、微塵も気は抜けない。

 それでなくとも、自分はいつも何処かしら抜けていて、臍を咬まされ続けている。

 だからこういった時に、椿姫を一人残すのが心配でならなかった。

 何も起こらねば良いと願うしかない。

 本当にもう一人、自分など及びもしない出来た人物が欲しいと、真は痛切に思っていた。


 焦る真の気持ちを知ってか知らずか、ばん! と琢が背中を叩く。げほげほと咳こむ真に、けけけ、と琢は蛙のように笑った。つられて、真も笑い返す。

 見上げた青い空に、くっきりと白い大凧が風に乗って走っていた。



 ★★★




 しょう姫と城に元旦と寒見舞いの挨拶に訪れると、いつもの顔ぶれが既に集まっていた。いや、先に城に向かった筈の琢がいない。首を捻る真に、多分、施薬院に居るのでしょう、とるいが答えた。

「珊、琢殿を呼んできておくれ」

「え、ええ? あたいがあ?」

 蔦の命令に、新年そうそう、珊は不満顔だ。しかし再び強く促され、珊はぷりぷりと頬を膨らませながら、城の外に飛び出していった。


 施薬院の敷地に入ると、確かに琢がいた。

 供えてある、小さなお社にお神酒と榊を捧げているところだった。それが終わると、かんなをかけ終えたばかりの柱を見回りながら、風で捲れ上がった保護用のむしろをかけ直してやる。持ち込まれたばかりの屋根葺き用の板や、壁用の泥もそれぞれに入念に見直している。真に頼まれたすきを造る方の指導に回っていた為、施薬院の方は仲間任せにしていた。進行具合が気になったのだろうが、何と足場用の材木まで、いちいち細かく見回っている。

 呆れていると、気配に気が付いた琢が鼻の下を擦りながら、へへへと照れ臭そうに笑いつつ、近づいてきた。


「見られちまったか」

「見たよ。なに? 仲間の仕事のあら捜し? 嫌味な姑婆みたい」

 やな奴、と唇を尖らせる珊に、けけけと琢は笑った。

「何だよう」

「おうさ、あら捜しだ。もう直ぐ雪が降ってくるからよ。此処であらが見つかったら、事故は起こらねえだろ?」

 言葉に詰まる珊に、また、琢は笑った。

「所で、なんでい?」

「ん、あ……その、皆がさ、呼んでるからさ」

「ほ! そういや、城の方、忘れてたぜ!」

 折角だから、仲良く行こうぜ、珊! と、肩を抱いて頬に唇を寄せようとしてくる琢の顳に、珊は握り拳を容赦なく叩き込んだ。



 ★★★



 持ってきた大凧を、しょう姫と学と二人で上げているのが、楼閣の窓から見える。子供の明るい笑い声も、同時に上がっている。

 凧の動きを追いながら、優しく目を細める戰の背中に、声をかける者があった。真である。


「戰様、明けまして御目出とう御座います」

「ああ、真、おめでとう」

 戰の横に真も並ぶ。

 楼閣の為、寒風が特に身に染みて痛い。祭国の正月は、元旦と共に猛烈な積雪にみまわれると散々椿姫や琢たちに脅されていたのだが、今年は何とか崩れずに保ちそうだ。

 崩れずにと言えば、未だ、露国側は沈黙したままだ。お陰で、戰も椿姫も安寧に過ごして来られた。


「いよいよだな」

「はい」


 皇太后に、その地位を利用して皇太子・天に皇位を贈る事なく、自身の後ろ盾になったのだと仄めかしを、と、父・優に暗示して貰いはした。

しかし、はっきりと『代帝』となると宣し、後見となる事を決したのは、安だ。

自分たちではない。

 此等はみな、彼女自らが考え付いたものなのか。

 それとも違うのか。

 自ら考えついたのであれば、権力を手にしたとたんに暴走しだす激情型と思わねばならぬだろう。

 違うとあらば、彼女の背後に忍び寄る気配が、兵部尚書である優以外にも存在するという事になる。

 もしも存在するとなれば、それは一体誰であるのか?

 明けたばかりの新年の済んだ空気を、二人は重苦しく変えていた。



  ★★★



 そして、三が日が過ぎだ。

 いよいよ、他国からの寒見舞いの使節たちがやってくる。

 椿姫が本格的に『女王』として独り立ちする事も、同時に意味していた。

 明日から、戰と真は、共に禍国に旅立つからだ。

 先代皇帝・景の服喪開けの百ヶ日の法要に、列席する為に。





 夕餉の膳を終えて、戰が部屋に下がったのを見届けてから、椿姫は手に小さな盆を持って、彼の部屋に向かった。

 女王として、多くの仲間に囲まれているのは確かに心強い。が、逆に言えば、戰はそれだけ禍国にて、多くの不安に晒されるという事に他ならない。

「禍国には、兵部尚書もいる。大丈夫だよ」

 戰はそう笑っていたが、『兵部尚書しか(・・)』頼れる者がいないのだと、もう彼女も知っている。楼国の騒ぎの折に、他の尚書は追従の意思を見せてくれたが、それは皇太后となった安の権力に寄るものであり、その安は、どの様な牙や爪を研いで戰を待ち構えているのか、解らないのだ。


 ふと、気が付くと緊張に唇を固くしていた。

 いけない、私に心配をかけないようにと、万端を尽くしてくれたのだもの、安心させなくては。

 皆が居てくれるのだもの、私は大丈夫と思っている、と感じて貰わなくては。

 心配で胸が張り裂けそうになりながらも、椿姫は涙を堪えて戰の部屋を訪ねた。



 戸の向こうから声を掛けられて、戰は書物へと下げていた視線を上げた。どうぞ、と短く答える。

 戰の言葉を待ち構えていたのだろうが、それでもゆっくりと、声の主が姿を現す。手に小さな盆を捧げ持った、椿姫だ。

「どうした?」

 立ち上がろうとする戰を、視線の動きで制して、椿姫が近寄ってきた。

 椿姫はまるで神へ進物を捧げるかのように、静かな所作で彼の座る朱塗りの文机の上に盆を置く。被せてあった布巾を白い指先で摘んで取り払うと、屠蘇器が用意してあった。


「椿」

 戰が困惑の声を上げた。

 旅立ちにおいて、安全祈願の別離酒を交わすのは当然の仕来りであるが、今、自分は喪中の身だ。歳事祭礼には、殊更煩い国柄であるというのに? と訝しむ戰に、椿姫は、ほのかな笑みを向けた。

「大丈夫です、中身は清水ですから」

「水?」

「城のお社にある、浄めの湧水を汲んできました」

 確かに、酒器に注がれた透明な液体からは、確かに酒精の香りは立ち上って来ない。

「きちんと、お別れをしておきたいのです」

 涙を堪えた落ち着いた椿姫の声音が、逆に切ない。

漸く顰め面を解いた戰が、差し出された盃を受け取った。酒器から更に、盃に清水が注がれる。半分まで注がれると、椿姫の手が止まる。戰は、それを微かに掲げて唇に運んだ。


「後を頼んだよ、椿」

「はい」


 戰の言葉に椿姫が短く答えると、戰が盃の中身を飲み干した。

その盃をそのまま椿姫に差し出す。受け取った椿姫の手にのる盃に、今度は戰が残りの清水を注ぎ込んだ。

 戰がしたように、僅かに盃を掲げる。が、言葉が出てこない。

 別離の盃の際には、直接的に『別れる』『離れる』『遠い』などの言葉を口にしてはならず、また短く心の内を伝えるのが作法だ。


「行かないで」

 そう言えたら、どんなにか良いだろう。

「連れて行って」

 そう口にできたら、どんなに幸せだろう。


「……椿?」

 なかなか言葉を口にしない椿姫に、問いかける戰の語尾が上がる。

 椿姫は震える瞳で、掠れた声を絞り出した。

「……待っています」

「ああ」

 盃の清水を、隠した涙とともに、椿姫は飲み込んだ。



 椿姫が、盆に盃を戻すと、ひゅぅっ……! と空を切る音が、窓の外で鳴り響いた。閉められた板戸が、僅かに遅れてがたがたと激しく震える。流石の戰も、このような吹き矢のような音をたてる風の音など、聞いた事ない。連続で鳴り響く風の音の凄まじさに、驚き、腰をあげる戰を、椿姫が笑った。

「御山からの、雪告の笛吹風です。これが聞こえてきたと言うことは、もう雪が降っているわ」

「――ほう?」

「この強い風の音が、雪雲を連れてくるの。明日の朝には、一面真っ白の雪景色よ」

「たった一晩で、かい?」

以前から、脅すように話されていた雪の話を思い出しつつ、まだ訝しんでいる戰に、椿姫がくすくすと笑い声をあげた。

 閉め切ってある固い雨戸を力を込めて僅かに引き開けると、ひゅおっ! と勇ましい音をたて、空気のつぶてが戰にぶつかってきた。勢いに飲まれて、思わず知らず硬く目を閉じる。


「見て?」

 笑いの成分を含んだ椿姫の声に、ゆっくりと目を開けると、隙間から見える闇の中に、白い綺羅々とした粒が哮り狂って踊っていた。


 ――これが雪か!?


 思わずあらん限りに目を見開いて、窓に寄る。

 自分の知る、禍国での雪景色と全く違う。牡丹の花びらのような、もったりとした大粒の雪が、ちらりちらりと舞い落ちる姿ではない。落ちた途端にしゅんという儚い音とともに消え去り、地面を湿らせて行くのが、戰の知る雪だ。 

 しかし、今眼前で猛々しく逆巻く、まるで空一面を河とする、一本の濁流のような姿が、雪なのか!?

 声を失っている戰に、椿姫はまた、笑いながら声をかけた。

「大丈夫よ。明日の明け方には風も雪もやんで、穏やかになるわ」

 がたがたとと音をたて、戸を閉める。闇は程なく細く狭まり、かたん・という音と共に、消えた。


「凄いな」

 聞くと見るとでは違う、とはよく言い現される言葉であるが、まさにその通りだ。半ば自失しながら呟く戰を、静かに見詰めながら、椿姫は室内をあたためようと、灯炉に寄った。僅かな時間であっても、部屋中の空気を外のそれと同等にしてしまう程の冷気が流れ込んできていた。吐く息すら、真白くなりそうな程、寒い。

 薪を一本手にし、崩れかかった灰色の塊に添うように立て掛けると、直ぐに火が燃え移る。

 ぼうっ……と音がのぼり、炎が揺らめいた。

「まだ寒いわよね? 御免なさい、もう一本、薪をくべ……」

 薪に手を伸ばしかけた椿姫の白く細い手首が、横から掴まれた。

 あっ? と思う間も与えられず、戰の胸の中に抱き寄せられた。からんと乾いた音をたて、薪が床に転がる。


「この方が、暖かい」

 戰の胸に埋もれるような形で抱き締められながら、椿姫は眸を閉じた。




 正月三が日があけた四日。

 戰が真と、禍国に向かう日の朝が来た。



 遠くで、狐の、高く劈くような鳴き声がした。

 戰と椿姫は、二人並んで朝日に輝く銀色の雪の色を愛であった。椿姫が予言した通りに、深い雪に沈んだ庭は、清らかな白一面の世界となっていた。


 そして、僅かな時間を惜しんで、椿姫は戰の身支度を整える。

 もうすぐ、女王・椿としての顔に戻らなくてはならない。

 けれど、それまでの間だけは、女王に戻るまでの間だけは、せめて、ただ戰の恋人として振舞いたかった。

 髪を櫛ですいて髷を結い、笄をさして冠をとめる。背中側から、長衣に袖を通せるように、衣を広げた。言葉もなく椿姫のなすように、戰は袖に腕を通した。

正面に回って組紐を締める。戰の身支度が整った。


「有難う、椿」

「はい」


 返事と共に、椿姫は自分の髪を飾る領巾ひれをさらりと解いた。くるくると折りたたむと、自分が指していた笄と共に差し出した。何も言わずに、戰は受け取ると懐深くに仕舞い込む。

 そして、引き寄せた椿姫の唇に、自分のそれを押し当てた。戰の腕が椿姫の腰に絡んで固く抱き、椿姫の手は戰の背に回されて強く引き寄せている。

 そのまま暫く、熱い時間が部屋を満たしていたが。


「郡王陛下、御出立の刻限が参りました」

 もくの声が、二人の別れの刻をも告げる。

 戰と椿姫の身体が、名残惜しげに、離れた。


「行ってくるよ」

「はい」

 

 甘い吐息と共に溢れた健気な椿姫の言葉に、戰はもう一度、軽く口付ける。

 喪中の旅立ちは、見送りが許されない。

 戰は、振り返りもせず、部屋を出て行った。




 ★★★



 いよいよ出立を明日に控え、真は早めに夕餉をとった。

 つたの一座の者と、それぞれに別離の盃を交わしあう。


 思えば、以前に祭国に旅立った時は、このように仕来りに添った別れを交わしあえる者はいなかった。密命であり、しょう姫にも全容を然と言えぬ、突貫の旅でもあったからだが、自分には、こうして別れを惜しみ合う仲間などいなかったのだ、と改めて思い知らされる。

 そう思うと、自分の周辺も、あれから大きく様変わりした。

 下戸故に、盃に唇を付ける真似だけで済ます真の分を含めた酒を、ふうを始めとした皆は、豪快に盃を傾けて飲み干していく。別れの言葉を酒と共に飲み干し座をたって行く彼らの背中をみて、自分の恵まれていく立場を、真はしみじみと感じていた。

 


 全員と、別離の盃を済ませると、真はしょう姫の待つ、囲炉裏のある部屋へと向かった。喪中のしょう姫は、別離酒の席に同席できないからだ。

その為、今日はしょう姫と二人で、その後をゆっくり過ごすのだと真は決めていた。

 部屋の戸を開けると、しょう姫が栗を囲炉裏にくべている所だった。

「おや、焼き栗ですか?」

「うん、我が君、好きでしょう?」

「いいですねえ。お酒なんかより、嬉しいです」

 並んで囲炉裏端に腰をおろして、真が囲炉裏を火箸で突くと、仕込んだ栗が爆ぜる音がした。食べ頃の合図である。

「栗の凄いところって、一生懸命にならないと、絶対に食べられないところよね……」

 まだ幼い為、爪が柔らかいしょう姫は、焼き栗の鬼皮と渋皮がうまく剥けない。包丁を使えば良いだけのであるが、それは邪道だと言って、頑なに厨に向かわないのである。うんうん唸るが、熱いしつるつる滑るしで、まだ一つも口にしていない。半分泣きそうになっていると、すい、と栗が手の平から飛んでいった。代わりに、ころんと綺麗に皮が剥かれた栗が落っこちてくる。

 顔を上げると、悪戯小僧のように笑ってみせた真が、取り上げた栗の皮を剥きにかかるところだった。


 栗を食べ尽くしてしまうと、急に沈黙が訪れた。

 手水用の鉢で指先を綺麗にする、水が跳ねる音がだけが、やけに耳に残る。

それが済んでしまうと、いよいよ、静かになる。ふい、としょう姫が突然立ち上がった。そのまま、自室へと小走りに駆けていく。真はその背中を目で追いながら、静かに待っていると、しょう姫は手に、小さな白い絹包をもって戻ってきた。


「我が君、これ、持って行って」

「何でしょう? 開けてみても良いですか?」


 真は頷くしょう姫の、愛らしい手の平の内にある小さな絹包を、そっと開けた。中には、綺麗に伸された赤い薔薇の花弁が眠るように抱かれていた。微かに花の香りがするようにも思われて、知らず、真の頬も緩む。

「溢れた花びらをね、捨てちゃうのは勿体無いから、押し花にしてとっておいたの」

「綺麗ですね」

 白い絹布に、赤い花弁は鮮やかに映える。

 暫く二人で、絹布の上の花弁を見詰めていたが、隠れていた栗がぱん! と爆ぜて飛び上がったので、同時に囲炉裏に目を向けた。

 顔を見合わせて、一緒に笑う。


「大事に持っていきますよ、有難うございます」

「うん」


 最後の栗は、真の持つ火箸でたぐり寄せられた。

 皮を剥かれた栗は二つに割られ、真としょう姫によって、仲良く食べられたのだった。



 

 宵過ぎから舞い始めた雪は、朝には、五寸程も積もっていた。

 脅されていただけの事はあると、禍国では見る事の叶わない眩しい銀世界を、真としょう姫は暫し並んで、眺めていた。


 玉子入りの熱い雑炊の朝餉を済ませると、しょう姫に厳しく言いくるめられて、真はまた、髪を結わされた。苦笑いを堪えて、言われるままに静かに身支度を整えて貰う。

 玄関に腰掛けて、靴を履いて立ち上がり振り返る真の前で、しょう姫が膝をついて静かに座っている。


「行ってまいります、姫」

「……うん、我が君」


 泣きそうな顔で見上げるしょう姫の額の髪の毛を、くしゃくしゃとかき混ぜながら真が笑う。もう、とむくれながら、しょう姫もやっと笑った。

「そうそう、笑っていて下さい。姫は笑っていた方が、可愛いですよ」

「……うん」

 ふうたちの手により、雪掻きが済まされた門前まで、馬が引いてこられた。背にくくりつけられた荷物は少ない。これも前回と変わらない。

 違うのは、慌ただしさの中無理矢理の出立であった以前とは違い、玄関までとはいえ、ちゃんと真を見送る事が出来ることだ。


「では、行ってまいります、姫」

「行ってらっしゃい、我が君」


 真は、その背中に懸命に手を振るしょう姫を何度も振り返りながら、泥濘む道を馬に揺られて、旅立っていった。



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