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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
八ノ戦 飛竜乗雲
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2 戦地鳴動 その4-1

 2 戦地鳴動 その4-1



 闘より2万もの軍を与えられた烈は、凄まじい速度で句国領を駆け抜けた。

 神速、とは此の事だろう。

 しかし其の進路は、崑山脈をまるで血の道のように割っている公道に向かうものでは無かった。

 当初こそ、句国への牽制であろうと口を噤んでいた部下たちも、いよいよ句国契国禍国の国境を望む地点に到達し更には一時陣を敷くに至り、流石に訝しげに互いの顔を見遣り始めた。


「備国に対し布告を行う。抜かり無く手筈を整えよ」

「――はっ」

 そんな幕臣たちの思いとは裏腹に、戦に臨む漢の顔ばせとなっている烈の声は至極明るい。烈の謎の行動に、部下たちは益々以て眉を顰めた。

「殿下、備国に布告を行うのは扠置き、公道に向かう道より相当離れております。先鞭をつける軍を陛下より預かっておられるのです。斯様な処で安をぬすんでおる場合ではありませぬ」

「其の方らが気を揉むのは当然だ」

 部下たちの進言に、烈は豪快に笑いながら手を振ってみせた。

「備国の奴らに一人残さず冥府への道を背負わせてやらねば為らぬと考えておるのは、私も陛下も同様である。だが、其れ以上に看過出来ぬ相手がのさばっている。私は其れが許せん。断じてだ」

 烈の語気に猛烈な怒気が含まれた。赫怒していると言って良い。

 気圧された誰かが、ごくりと喉を鳴らした。激憤は烈の身上のようなものであるが、彼を此処まで駆り立てる者など一人、いや、一つしか無い。

 句国王・戰の身内として初陣から寄り添っている漢――真である。


「契国に禍国軍が侵攻すべく大凡1万5千の兵を差し向けた。其れに対して句国王は愚かにも兵を割いて援軍を送ったのだが」

 烈の双眸が爛々とした輝いている。

「斥候どもによると、援軍を指揮しているのは禍国兵部尚書であるようだ。兵は2千騎」

「2千騎……ですか?」

 幕僚たちが俄にざわめいた。

 其れはそうだろう。

 如何に禍国軍が落日の只中にあろうとも1万5千の兵に2千騎で挑むなど正気の沙汰では無い。

 しかも、句国軍は寄せ集めの、言わば体裁を慌てて整えただけの見れくれの兵、張りぼて(・・・・)だ。禍国兵部尚書は確かに百戦練磨の猛者である。

 だがしかし、狼が率いたとて野良狗は所詮、野良でしか無いではないか、と言いたげだった。そんな部下たちに、ふっふふ、と烈は余裕をもって笑ってみせた。


「其の方らの疑念は既に奴らによって晴れている」

「何と!?」

「殿下……では、句国軍はたった2千騎にて万を超える禍国軍を破った、と?」

「そうだ」

 ざわめきは、どよめきに取って代わられた。

 部下たちの反応を存分に楽しんでから、烈は用意されていた曲録に悠々と座った。今までに見せた事がなかった烈の此の余裕のある態度に、部下は一様に緊張し圧倒された。

「奴らが2千騎しか契国に割けなかったのは決して契国王を侮っていた訳でも軽視していた訳でも無い。理由は只一つ。句国に其処までの余裕が無い。此れだ。今、句国は兵を進めている禍国軍より祭国を救うべく怒涛の如きに兵馬を進めているが、奴らにとって廃れたと言えども旧主である禍国を討つには余程の胆力が必要となろう。己を励ますのは数の力による安寧よ。となれば、句国は2千を割くのが精々であっただろう」

 男子三日会わざれば刮目して見よ、という言葉を幕臣たちは思い出しつつ烈を見た。実に頼り甲斐のある指揮官へと成長を遂げた烈に、眩しさを感じる。


「だが、句国王にとって大司馬とも言うべき兵部尚書が不在のままで、果たして奴らが禍国軍に勝てるかどうか、だ」

 ざわ、と空気に細波がたった。部下たちの額に闘志が浮かび上がってくる様を、烈はまた、ふっふふふ、と笑いつつ満足そうに見遣る。

「兄上が率いておられる本隊を待つ間、我らは奴らを精神的に、そして徹底的に甚振り、引き摺り回してやろう。句国王などと片腹痛く名乗っておる郡王が気を、漫ろにさせてやるなど痛快ではないか」

 部下たちは内心で驚愕していた。

 彼らが知る烈は、常の彼であれば本隊が到着する前に兵部尚書・優ら2千騎の首を討ち、闘に勝利の前祝いとばかりに捧げよう、と号令する筈である。

 『待つ』『耐える』『堪える』と言う言葉を知らぬ漢であり、だからこそ裏表の無さから兄王・闘から篤く頼られており、自分たちもまた信じて来られたのだ。

 其の、烈が、だ。

 急激な成長、というよりは成熟と厚みを持った烈を刮目しつつも、幕臣たちも烈と同種の笑みをうかべつつ、ずい、と前に進み出た。


「王弟殿下。奴らめが不遜にも我らに矛先を向けてまいれば如何致しましょうや」

「そうとなれば意を得たりと言うものだ」

 烈は顎を跳ね上げて呵呵と笑った。

「立ち向かって来れば是非も無しだ。王弟・烈の名において私が許す。存分に相手になって遣るがよい」

 おお! と揚揚たる声が其処此処から上がる。


「だが先ずは、奴らの行く手を徹底的に阻まねば為らん。全ての道と言う道、獣道まで余さず封鎖せよ!」

 曲録から立ち上がって命じる烈に、幕臣たちは一斉に頭を垂れた。



 ★★★



 すいがほぼ同時に陣に戻って来た。


「どうだ?」

 珍しく、咳き込むように忙しなく杢が二人に尋ねる。しかし、無言で口を曲げて首を振る様子に、そうか、と肩を落とした。

 むぅ、と唸りながら優は腕を組んだ。ほんの五里程先に、剛国軍が軍旗を翻して、既に六日が経過している。禍国軍を殲滅せしめてから、戰率いる句国軍を追って一路ひた走っている真っ最中に剛国軍に行く手を阻まれた。

「来おったか」

 優は遥かにはためく軍旗の群れを睨んだ。

「旗は? 誰のものか」

「王弟・烈のものです」

「そうか、来おったのは、王弟・烈――か」

 剛国王・闘が備国を討伐せんと軍を動かすとして、戰が留守にしている句国本土に手を出すか、真が従っている句国軍の最後尾に仕掛ける可能性はごく低い、と思っていた。

 だから、深夜に真と語らった時に敢えて話題にあげなかった。

 真も口にしかなかったのは、剛国王・闘の此れ迄の戦をつぶさに見れば侵略を行う際に横道に逸れて兵力を中ら分断、疲弊させる愚を侵さない、と判断したからに違いなかった。

 句国の現実は多くを切り捨てた上で更に選別して事に当たらねば立ち行かない。

 戰の前で多くの可能性を列挙するのは簡単であるが、其れ等全てを四捨五入する時間すら惜しいのだ。

 真や優の仕事とは、物事を四捨五入した上で戰に事に当たらせ成功させる率を上げてゆく事であり、仮に捨てた事象が立ちはだかった場合は戰が憂える前に速やかに解決して無かった事にしてしまわねばならない。


 くすんだ色の凍雲が流れる空を、優は見上げた。

 口から吐き出される息は、まるで風に揺蕩う帛書のように白くたなびくようになっている。

 ――いかん。

 自分もであるが、禍国時代からの生え抜きで編成されている此の2千騎の弱点を上げるとすれば、冬期、詰まり雪と凍て付き(・・・・)に弱い。

 対して、剛国は元々、極寒を耐える国土に在る。

 此の先は決して空気が温くなりはしない。冬に突入していくだけであり、日を跨げば跨ぐほど、自分たちに戦いは不利となる。

 歯軋りしつつも、優は剛国の軍旗の波を睨むしか打つ手立てが無い。


「萃よ、其の方は地の起伏を覚えるのに長けておる。抜け道は全く無いのか?」

 萃は自虐的な笑みを浮かべ目を伏せつつ、首を横に振った。

「存じておれば、既に進言しております」

「……うむ、そうだな」

 優は苦笑いしつつ、謝罪の意を込めて手を振った。

 ――其れを見越して、剛国の奴らは悠々としたものよ。

 全く、剛国軍の凛然たる、そして威風たる姿や、どうだ。

 従えている2千騎は、気持ちを圧し折られるようなな人選はしていない。だというのに、旗標を犇めかせるだけで剛の者たちの気持ちを萎えさせ始めている。

 ――王弟め。なかなか、遣りおる。いや、遣るように為りおった、と云うべきだな。

 優は、自分たちの立場が限りなく悪い位置に在る事を素直に認めた。



 ★★★


 しかし、嘆いてばかりいても埒は明かない。

 ――付け入る隙があるとすれば、王弟・烈は激情型の直情径行で単純明快な人物であると云う一点。

「此れしか在るまい」

 本来であれば眼前に精鋭2千騎という餌をぶら下げられては垂涎三尺垂らして噛み付きに掛かるに決まっているし、剛国王・闘が最も寵愛している王弟・烈に、先陣を命じたとは即ち、彼の気の赴くまま戦を開く事を許し、寧ろ其れを望んでいるのと同義である。

 彼に先陣隊を命じたと言う事は『に入った者共を撃滅せしめよ』と、大ぴらに許しているのだ。剛国王・闘が王弟・烈の人物を見誤る筈もなく、また王弟・烈は期待に添うべく己の実力を存分に発揮するだろう。

 ――要は、其れが何時になるか、だが。

「先ずは、王弟・烈が、何処まで我らに対して本気であるのかを知らねば始まらん」

 優は早速、薙と萃に命じて烈率いる先鞭隊を探らせた。

 持久戦には為らないだろうが、近い状態にまで追い込まれれば、戰たち本隊に合流する前に自滅しかねない。

 こうなると、契国の伐たちに多くの物資を分け与えたのは正直、痛い(・・)。無様を晒す前に現状を打破するには、薙と萃の能力に先ずは頼らねばならない。

 二人が得た情報は、剛国の先陣の総勢は2万、という事実のみであった。


「此の時期に、2万を先鞭として送る、のですか……」

 杢ですら、言葉を失った。遠征を行った後だと云うのに、此の余裕はどうだ。句国に対して国力差を見せ付ける示威行為だとしても、此方は唸らずには居られない。

「剛国の国力からすれば驚くには値しない。――が、我らを足止めする為だけに彼処に陣取って居るのか?」

 いえ、と薙が否定した。

「奴ら、亀卜と筮いをしております」

「なにぃ?」

「筮い、を、だと?」

 優の眉が鋭く跳ね上がり、らしくもなく、杢の声が裏返る。

 此れは、優たちでなくとも驚愕する。騎馬の民の頂点に在ると自認している彼らが布告の為に馬を止め、剰え、鼓舞の儀式を行っているとは!

「剛国の奴らが鼓舞を行っている、と云うのか?」

 薙と萃に、杢が訝しむ、というよりは信じられぬ、というような口調で重ねて尋ねる。事実を見たまましか伝えられない彼らも、心の内では杢と同様であるらしく何とも形容し難い顔付きになっている。


「剛国王自らが行うというのであれば、まだ、分かる。だが――王弟・烈が?」

「そう、繰り返して貰っても困るんだかな」

 萃が苦笑しつつ肩を竦める。

 確かに、二人に食って掛かった処で動向が好転する訳ではない。済まん、と杢は素直に頭を下げた。最も、杢の気持ちは充分過ぎる程、分かる。王弟・烈は騎馬の民特有の誇りと矜持の塊のような漢だ。平原の中央に立つ気概を持ちつつも、其れは騎馬の民こそが天帝に定められし唯一絶対の民であると信じているからであり、平原の民の文化や民意を尊重してなどいないのである。

「剛国が警蹕けいひつを行おうなどと、俺たちこそ思いもしなかったさ」

「おう」

 萃と薙が苦々しく零した。

 彼らは元は自由を愛して生きる流浪の民である。赤子の頃より自然を相手ともとして生きており、筮いの道に対する念と造詣は信じているかどうかは置くとして誰よりも深いという自負が在る。

 だから今回、剛国が平原の祭祀と亀卜を尊重したのが、気に入らない。いや、上っ面の真似事だとしても、毛烏素むうす砂漠に起源を持つ騎馬の民としての誇りを横に置くなどと、あの(・・)烈がするなど不気味極まりない。


「全く、野郎、どういう風の吹き回しなんだかな」

 水の入った竹筒を傾けながら、薙が呟く。実を言えば薙にしてみれば、此処は最も思慮深い杢に淡々と答えて欲しかった処だというのに、其の彼も見当が付かないとなれば、ぼやくしかない。

「理由は一つだ」

 だが優が、薙の疑問に答える。

「備国に居る馬鹿者への脅し(・・)であろうよ」

「備国に居る馬鹿?」

「脅し?」

 薙と萃は同時に首を捻ったが、ああ、と杢はを瞬かせた。己の不明を恥じているようである。

「成程、備国には確かに居られます」

「おう、馬鹿も極まれりの皇子様がな」

「――あっ……!」

「おっ……――!」

 烈が敢えて禍国の仕来りを蘆洲した布告と鼓舞を行っているのは、備国に居る天皇子へ精神的圧力を掛ける為だとやっと薙と萃も思い至り、眉の曇りを晴れさせた。


「天皇子は調子のおよろしい(・・・・・)御方だからな」

「はい、下等な騎馬の民が戦とはいえ己への礼儀を欠かずに挑む――とあれば、喩え負け戦となったとしても非礼はすまい、という計算が働くのは目に見えております」

「となれば逆に、剛国を利用して備国を討たせ、禍国に返り咲こうという頓珍漢な野望を抱くのではないのか?」

「そぅれ、其れ(・・)よ」

 久しぶりに、若い才能に囲まれて思い存分戦え、気分が良いのだろう。萃の疑問に、優は笑った。


「剛国王の狙いの一つは、其れ(・・)であろう。最も、上手く行けば儲け物(・・・)、備国内を混乱せしめればしめた(・・・)もの、程度の認識であろうがな」

 霧がさっと晴れたような晴れやかな顔になった若者たちの前で、さて、と優は腕を組んだ。

 ――真の奴は、此処まで踏み込んで気にはしていなかったが。

 備国がどんな策を講じようと、強大な求心力を持った国王を亡くした今、崑山脈という自然の城楼があろうと国の命運が反覆するなど有り得ないだろう。

 遅いか早いか、若しくは、徹底的な破壊の上にか、より徹底的に完膚無きまでにかの違いだけで、備国は剛国に併呑される。

 となると、御荷物を持たされた形の禍国皇子・天の存在はどうなるのか。

 真が敢えてくちにしなかったのは、放って置けば剛国が適当に処分してくれるだろう、という見解だっただからだろう。


 だが。

 ――そう、だが(・・)、だ。

「天皇子の存在に価値など剛国王は塵埃ほどの見ては居らぬだろうが……天の方がそう思っていない以上、もう一波乱在るかも知れぬな」

「もう一波乱、とは?」

 薙がまた、疑問を口にしつつ眉を顰めた。優が愉しげに短く笑う。


「要は、あれこそは真実の禍国皇帝である、と正統性を主張して立たせよとごね(・・)出す――という事だ」



 ★★★



 薙と萃はを見張り、杢は珍しく吹き出してみせた。


「成程、彼の御仁ならば有り得そうです」

 苦笑しつつ杢が答えると、だろう? と優が機嫌良く答えてみせた。

「そういう事だ。我々としては剛国に存分に暴れて貰わねば為らん以上、手出しなどして彼らの勢力をあた削いで(・・・)しまう訳にはいかんからな。手出しなぞ無用」

「とは言うものの、何もせぬというのは暇を持て余します」

「然様、手持ち無沙汰は御免被りたいのですが」

 薙と萃の口調も、幾分軽く、そして明るくなっている。調子に乗っている二人に、優も戯けてみせた。

「なに? 暇だと? やらねば為らぬ事は山とあるぞ」

「そんな、重大事が?」

 訝しみながら問う萃に、優は大真面目に胸を張る。

「気合を入れて休め」

 身を乗り出した杢も萃も薙も、一瞬、ぽかん、となった。

「何を惚けた顔をしておるか。我らも連戦に次ぐ連戦で体力も何もかも消耗し尽くしておる。剛国の奴らが去ってより以後は文字通り、息つく暇も無くなる。心身を癒し英気を養え。其れも大切な仕事の内だ」

「……」

 何か言いたげに、薙と萃はもそもそと身体を揺すっている。

 優の言い分は至極最もなのだが、杢にも薙や萃にとっても、休め、とは暇を持て余して死んでおれ、と同義語なのだ。

 杢が態とらしく、ぷっ、と吹き出すと、優も三人の様子に気が付いたのか、ああ済まぬ、と苦笑しながら詫た。

「無論、眺めて楽しむ分には許してやる」

「――はい」

「ああ、其れと。薙と萃は暇なら、時の元に走って文句を垂れて来ると良い。腹空いては戦が出来ぬ、とな」

「――承知」

 次の瞬間、二人の姿は風の様にかき消えていた。


 休め、と命じてはいるが、実際問題、と言うよりは、端的に、今は何も出来ない、出来る余裕が無い、という方が正しい。

 商人・時が大保・受の懐に潜り込む事に成功しているのであるから、此方の情勢は既に伝わっている筈である。

 武器や武具も逼迫しているが其れ以上に切実感が漂っているのが食糧の問題だ。最短の時間と距離で総てを計算した弊害が既に誤魔化し切れない状態となっていた。

 こういう予想外の事象に出会した途端に破綻を見せるのが、生まれたての仔鹿のような国では儘在るのだが、戰の打ち立てた句国も此の問題から逃れられないでいた。

「動かねば少しは飢えから遠ざかる」

 真面目くさって、何を馬鹿な事を口にしておるか、と優は自虐的に笑った。定時の報告に来る杢に、時折、どうだ、と視線を投げ掛けてみるのだか、其の度に首を横に振られ続けている。


 ――えぇい、時め、何をしておる。まだか。

 苛々しながら東の空と地平が結ばれる方角を睨む。誰よりも現状打破を望んでいる優こそが、待つしか無かったのである。

 鼓舞の儀式を行う剛国軍は居座り続け、睨み合いはとうとう、十日が過ぎようとしていた。

 鼓舞を行う余裕が在る剛国は、毎日三食に加えて夜食と明け方の軽食を給して居るらしい。此方の夜討ち朝駆けと云う奇襲攻撃に対して予防線を張っているのだが、炊飯煮炊を行う竈の煙が列を為して空を目指して登っており、途切れない様を見せ付けられ続けては、些か、目眩と腹の虫が鳴き過ぎて切なくなる。

 ――おのれ、糞餓鬼め。まるで、飯の匂いが此処まで届きそうではないか。

「堪らん」

 優は苦々しく見遣る。

 剛国の充実した国力を目の当たりにさせられて平然としておられぬ程、飢えは心身を縛っていた。

 優は息まで凍らせる勢いの寒さを払うように深く息を吐き出た。禍国と自分たちの違いはこうもあるのか、と仰天する思いが、全身を支配している。

 いよいよ、季節は足早に冬の厳しさを深く始めている。

 体温が下がれば、体力は加速度的に奪われる。

 体力が奪われれば、気力が萎える。

 気力が萎えれば、勝てる戦にも勝てなくなる。

 勝てないと分かっている戦に挑むには、せめて腹が満ちて居らねば挑めないのであるが、其の兵站が無い。

「堂々巡りだな」

 そして優も、此の寒さと飢えの中で気力が萎えたままでありながらも、最後の最後、石に齧りつくように耐えている家臣たちに、希望も無いまま戦に臨め、などと命じられ無いし、句国、いや戰が他国に勝っていると胸を張れるのは何者にも屈しぬ不屈の精神であり、彼を敬慕する民の求心力であるのだが、其れ等が生み出す闘志とて、食うや食わずでは保てない。

 冬期に戦を開かずに生きてきた自分たちが厳寒期を知り尽くしている露国や東燕にどれだけ対向し得るであろうか。

 加えて、爪に火を灯さんばかりの節約を重ねてきた食糧も、遂にあと3日程で底がつく。

 此処を脱出出来たとしても、祭国に向かっている本隊に合流出来る余力は全く無くなる。


「一度勝てなくなった軍の末路は、連戦連敗の末の無残極まり無い瓦解だ」

 ふと、組んでいる腕に優は視線を落とした。

 指や手の甲が筋張って来ている。食事、と云うよりも、水分を充分摂っていないせい(・・)だ。

 ひりひりするような極限状態の中でも発狂せずに兵たちが耐えていられるのは、自分への信頼感があるからだが、此の侭では、馬を潰して食糧にあてねばならなくなる。

 ――薙と萃はまだか?

 此れで何度目であろうか、杢に尋ねようとした優は、自ら将軍にまで育て上げた部下が此方にやって来るのを見た。

 顔ばせが、輝いている。其れを見て、優は一瞬で悟った。


「間に合ったか、間に合いおったか」

「はい、時の使者としてくうが来たと。食糧を携えて来たと、萃が伝えて参りました」

「おお!」

 天を仰ぐようにして、優は感嘆の声を漏らした。

「後、2日も有れば此方に到着致します」

「おお、そうか――そうか、そうか……!」

 ――間に合わせて呉れおったか……!

「其れと」

「其れと?」

「軍馬も用意してあるとの事です」

「何、馬をも――だと?」

 杢は其れ以上何も言わなかった。が、そんな先回りの指示を出す者が誰であるかなど、口にせずとも、たった一人である。

 膝から焦燥感が力と共に抜けていく思いだった。同時に、優は脳裏に愛しい女と無邪気で可愛いばかりの娘の姿が脳裏に瞬いた。瞬間、優は気合で背筋に力を入れていた。

 残している愛すべき者たちとの未来の為にも、必ずや生き延びねば為らない。

 一人として欠ける事無く。


「ようし、皆にも伝えよ。そして剛国にも伝わるようにしてやれ。我らは飢えにも屈しぬのだとな」

「はい」

 杢の返答にも、活力が凜々と漲っていた。

「其れにしても」

「――は?」

 ぼそりと呟いた優の声を、杢は聞き逃さなかった。

「如何為されましたか?」

「いや、何な……此の1年、私は兵を喰わせ、走らせる心配ばかりしておると思ってな」

「……は、其れは……確かに……」

 優が苦く笑いつつ零すと、杢も珍しく師匠に倣って苦笑してみせた。

 確かにそうだ。だが禍国を出た時と今とでは事情が天と地と程に違う。


「先が見えず怯んでおるのと、何糞、何れ奴らに怖気を返して震わせてやるぞ、と思えるのと違いで御座いましょう」

「其の通りだ――さて、杢よ」

「は、太尉様」

 愛弟子の言葉を聞く優のは、薙の隣に立つ茹の姿と、部下たちが歓喜に湧く姿を捉えている。

「剛国は動くと思うか?」

あの(・・)王弟殿下が此処まで耐えられたのです。故に、動かぬ筈が無いかと」

「そうか、ふむ、其の方もそう見るか」

 剛国軍が今の今まで静観し続けたのは、偏に、自分たちの意気地を最大級に挫く為である。となれば、食糧が届けられる寸前に自分たちを包囲し、眼前で食糧を強奪するであろう。

「萃」

「はい」

 面持ちに緊張感見せながら、萃は跪く。

 速さを誇るのは優の御家芸(・・・)だ。当然の事ながら、2日ではなく1日で届けるように命じてくるだろうと身構えている萃の前で、優は剛国軍を睨みつつ命じた。


「兵站であるが」

「はい」

「此処まで運ぶに及ばぬ」

「……は? 其れは、一体、どういう――」

 流石に萃は首を傾げざるを得ない。剛国軍が動くと分かり切っているのだ。

 飢えを癒やさねば乗り越えられぬではないか。

 くらくらと目眩を起こしているような顔付きのままの萃に、優はにやりと笑って見せた。


「何を戸惑うか。死にたく無くば時が寄越した食い物まで走れば良い。其れだけであろうが」

 ほんの今迄、2千騎の漢たちは狂気と冷静のはざまのぎりぎりの瀬戸際に在った。

 然し乍ら兵站の目処が付いたのだ。

 死なぬ為には剛国軍を突破せねばならないが、突破し、生き延びれば確実に喰える状況になったのだ。


「漠然とした儘、死ぬまで、死の臭いを嗅ぎ感じながら死と隣合わせで居らねばならなかった此れ迄とは違う。生きる為に死を乗り越え、喰うという目的が出来たのだ。此れを利用せぬ手は無い――杢」

「は、太尉様」

「皆を集め、そして残っておる全ての飯を喰わせよ」

「はい」

「そして命じよ。飯の匂いを生きて再び嗅ぎたければ、遅れずに私の後について駆け抜けるのみ、とな」

「――はい」


 珍しく、含み笑いを浮かべながら杢は一礼すると、仲間の元に走って行く。

 同時に萃も、時が寄越した仲間たちの元へと向かった。


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