2 戦地鳴動 その3-3
2 戦地鳴動 その3-3
戰が片手を上げると、主人が何をするのかを感じ取ったのだろう、巨躯を誇る愛馬・千段は一際高く、蹄を鳴らした。
「止まれ。休息を入れる」
微笑を称えながらの戰の命令で、句国軍は動きを止めた。
すると愛馬・千段は嘶きを放ち、不満を訴えてきた。戰は首筋を優しく叩いて宥めてやる。
「少し、行軍の速度が過ぎたようだ。皆がお前のように千里の脚を持っている訳ではないからね」
主人に優しく宥められても千段は、黒い尾をぶるん、と回してまだ不満気だ。苦笑しながら戰は愛馬から降りると、戦車隊に歩み寄った。
こうしている間にも、禍国の本隊と言うべき大保・受が祭国に刻々と迫っている。迎え討つべく戰は昼夜を問わず進軍している。戰が率いる軍は強く、且つ恐ろしく疲れを知らない――只一人を除いて。
戦車の一つから、唸り声が響いて来る。苦笑しつつ、戰は声を掛けた。
「真? どうだい、調子は」
「……」
しかし返って来るのは矢張り声に為らぬ唸り声のみである。どうすべきか、と逡巡していると、入口から上半身が覗いた。芙である。
「芙、どうなんだい、真の調子は」
「相変わらずです」
淡々と答える芙に肩を竦めつつ、戰は戦車に乗り込んだ。
そう広くない戦車の中央に、真は横になって芋虫のように身体を丸めて倒れている。うんうん唸っている真は、戰が入って来たことに気付く余裕も無さそうだ。
芙が肩を叩くと、やっと青白い顔を持ち上げて、虚ろな視線を戰に向けた。
「其の様子じゃ、薬も飲めていなさそうだね」
「……あ・う……せ、せん、さま……こ、行軍を、止め、られて……は、いけま、せ……ん――おぅっぷ」
話し掛けて、再び俯けになって倒れる真の背中を、戰は擦ってやる。下手に上を向いて話を続けさせると突然、嘔吐いたかと思うや汚物をぶちまけられるので、俯せのままにさせてやる処などもう手慣れたものだ。
「数刻、早く戦地に辿り着いたとしても、真がこんな調子で使い物にならなくては意味がないよ」
「……」
半分は恨めしそうに、半分は情けなくも何処か嬉しげに、転がりながら真は上目遣いをしてきた。
「今の内に、芙は斥候たちからの情報を纏め呉れないか?」
「――はい」
命令に答えると同時に、芙の姿は掻き消えていた。残された気配に、頼もしげに眸を細めてから、戰は床を転がる真の傍に躙り寄る。桶に掛けられていた布を水に浸し直して固く絞り、真の目元に置いてやる。人心地がついたのか、ほう……、と真が溜息のような息を漏らした。
「真……。答えなくても良いから、私の考えを聞いて欲しい」
「……」
「直に祭国国境に辿り着く。が、此処まで禍国軍の気配をまるで感じられないのが不気味でならない」
「……」
「……大保は、本当に祭国に攻め入る積りなのだろうか? そう、其れに、此度こそ露国も動くだろう。露国王・静が椿と縁者であるからといって、祭国に肩入れするとは考え難い。寧ろ、禍国と手を結ぶだろう。露国が禍国と誼を通じずとも、東燕が名乗りを上げるだろう。そうなれば何れにせよ我が軍は挟み撃ちにされる」
「……」
真の視線を感じずにいられるせいだろうか、戰は何時になく弱腰の意見を吐き続ける。
「戰様らしくありませんね」
とは、真は答えなかった。
戰の言葉は戰のみの胸中を吐露したものではなく、彼が率いている兵卒たちの偽らざる心中であり、真とても同様であった。
常勝の戰と真を信じて此処まで立ち上がって呉れてはいるが、今回は剛国からの援軍は見込めない事実から来る恐怖心は、今、じわじわと兵たちの心を蝕み始めている。
勝ち続けているからこその、恐怖である。
一度の敗戦が全てを雪崩のように失う切掛になりはしないか、という恐怖だ。此れは本能的なものだ。
戰の理想に感奮興起している間は彼らは恐怖を忘れていられた。然し乍ら此処から先の戦は夢想ではなく現実である。夢を現実のものとする戦とは即ち歴史を作る戦だ。
自分自身が歴史の覇者の一部分となる興奮が畏怖に転じ掛けている。詰まり、迷いが生じかけている。
自分たちのみで禍国の本隊とも言うべき大保・受を迎え討てるのか?
此れに打ち勝てるのか?
最早、剛国からの援軍は望めない。
だというのに、露国、燕国と戦えるのか?
――答えはどう足掻いてみても、否、である。
動かせる兵の数が絶対的に不利な状況下では、幾ら真であろうとも必勝の策は講じられないのは、戰の初陣を勝利に導いた時からの道程を見れば分かってくる。
戰が此の先、大保・受に勝つには、万騎の兵を滞る事なくまるで己が手足の如くに動かし、戦場を支配下に置けるだけの指揮能力を持つ優と杢の存在が必要であり、更に加えて河国王となった灼からの物資の救援が不可欠となる。
河国からの援軍の目処は立っていない。そうなると、士気高揚の策としては、優と杢が加わる事こそが最も重要となってくる。
不意に、真は肘を使って上体を起こした。
慌てて、戰は腕を伸ばして真を支える。馬を止めているとはいえ、右腕しか使えない真は身体の均衡を崩し易い。下から見上げる形となっている戰に、やれやれ、と真は肩を竦めた。
「……戰様」
「ん?」
「戰様も、かなり御人が悪くなられました――よね?」
「……」
「詰まりは、戰様は私を気遣う事で、父上と杢殿と、秘蔵子の2千騎が追いつくまで、行軍を緩やかにしよう――とまあ、そう言う魂胆、なのですよね?」
困ったな、と言いたげに戰は頭を掻いた。
「いや其の……此れ位しか、思い付かなくてね……」
「……」
――苦肉の策、いえ、究極の選択に近いですね。
自分たちが率いる兵と、祭国で待つ兵。何方か一方の戦意の高揚は、其の儘、もう一方の気力の衰勢となる。
――しかし此処は、防守の要となっておられる椿姫様と虚海様を信じるしか有りません。私たちが此の儘の姿で祭国に入り、大保様と相対したとしても、竜頭蛇尾に終わってしまう確率が高い。
急に静かになり、視線を落とした真に、戰は眉を寄せ狼狽えながら更に躙り寄った。
「し、真……? どうしたんだい?」
「いえ……別に、どうもしておりません」
「其れなら、何故顔を背けるんだい?」
益々、焦りを見せて戰は咳き込み、吃りながら、童がおねだりするように真に擦り寄り、言葉を掛けてくる。そんな戰を真は、ちら、と肩越しに覗き見た。
「いえ? 別に、本当に何ともありませんよ? ただ」
「ただ?」
「久し振りに、可愛げのある戰様を見たなあ、と思っただけですよ」
眸を丸くしてぽかん、とした戰だったが、次の瞬間、また馬にやられて唸ってる真に言われたくないよ、と真の頭を小突いていた。
★★★
冗談が言い合えるのは戰と真の間には余裕があるからなのだが、全軍に此の余裕を万遍無く齎すのは難しい。特に、祭国に家族を残している若者ほど、焦りが色濃い。
焦りは迷いに通じる。
迷いは判断力を鈍らせる。
其れを払拭するには、より正確な情報が必要となる。
其の為にも、戰は行軍を緩やかにしたのだった。斥候である草たちの頭目である芙を一旦、『車酔いの真の世話係』から抜け出させる必要があったのである。
果たして、芙は驚くべき情報を携えて戰と真の前に現れた。緊張が張り詰めた頬と額に浮かぶ汗の珠に出ている。戰と真も視線を絡ませた後、軽くうなずきあうと表情を引き締めた。
「露国が驚くべき動きを見せております」
声音には、真の予想が追い付いていなかった事を示す震えがある。其れで事態を悟った戰と真は同時に身を乗り出した。
「若しや、剛国に矛先を向けたのですか?」
「はい」
露国は雄河が生み出す益を求めて東燕に向かうもの、と真は読んでいた。其れが、剛国に向かうとしたのであれば此方も軍編成を大きく変えねばならなくなる。
「露国が東燕ではなく剛国に侵攻する、か……」
「と、なると、留守を守るのは斬殿下ですか?」
「そうです。山脈越えの総大将は王自ら、そして幕臣たちの纏め役として王弟・烈が任に着いている」
「……」
口を噤んだ真は右手で前髪を掻き上げた。頭の中で思考が高速回転しているのだろう、視線だけが鋭い。
「真殿は、露国は本当に剛国を攻めると思っているのか?」
「留守居役の斬殿、彼は剛国王の命令に対して犬のように忠実な人物だ。防守に徹しろと命じられれば籠城戦に持ち込むだろう。露国王とて斬殿の人物評は私と変わらぬだろう。だとすれば、此れから冬期を迎える剛国と露国間で戦を起こす利が無くはないか?」
戰の口調は懐疑的である。芙も隣で深く頷いてみせた。
石橋を叩いただけでは足らず、他人を通過させた後、火矢と石礫を投じても無事に保っていられるかどうかを確かめねば納得しないような人物が、露国王・静という漢だ。
「……矢張りどう考えてみても、露国王が剛国に侵攻する図が思い描けないな」
東燕と禍国とが戦っている隙を突いて、できれば東燕が大敗した其の瞬間を以て大攻勢を仕掛けるのが露国にとって最も損害が少なく益が大きい。
剛国が崑山脈越えを確実としている以上、そして剛国の守りを斬が率い受けている以上、露国に突撃する確率は万に一つもない。背中を急襲される恐れがないのだから、東燕を選ぶのが吉である。此処で剛国を攻め、王弟・斬を討ち果たせるであろうか?
「露国王陛下としては本気半分、格好を付けているだけが半分、といった処でしょうか」
「というと?」
「闘陛下は当初、烈殿下に留守を任せる御積りだったのだと思います」
国境預かる郡王を名乗らせた以上、其れは順当な見方である。また、烈相手であれば簡単に挑発に乗るだろう。籠城させぬ手立ては幾らでもある。
「しかし、剛国王の中で其れを翻す何かがあった、と?」
「烈殿下は血気盛んで短絡的である分、策に容易に引っ掛かり易い。此れは、防守を任せるにはかなり強い不安材料です。ですが、反面、殿下が率いられている郡王軍の戦闘能力は大いに高い。そんな御方に対して、今まで亀の子を貫いて来られた露国王陛下が攻勢に出るとは到底、考えられません。ですから私は、露国は東燕を討つ筈だ、と予想していたのです」
「だが、留守居役は若年で経験も浅い斬殿下だった」
「詰まり、露国王としては斬殿相手であれば剛国を攻め易しと見た」
「はい、ですが此れが闘陛下の罠である可能性も残されている以上、未だ慎重な姿勢を崩す積りはない――と言った処ですね」
「芙、当の剛国の動きはどうだ?」
「は、既に先陣として烈殿下率いる2万騎が出立しております」
「2万、か」
戰の声に暗い影が生じた。地図を、と戰は芙に命じる。芙は静かに戦車の脇に寄せてあった帛書を引き寄せると、床に広げた。横になっている真に代わり、戰が剛国の進路予想図を指で示してみせる。
「真、太尉と杢に剛国……いや、烈殿が立ちはだかりはしないか?」
「充分、有り得ますね」
――と、云うよりも、目を閉じて黙殺して下さる烈殿下の御姿の方が気持ち悪くありませんかね?
真の声に苦味が生じるかと思いきや、すらりと答えられて、芙は訝しげな視線を真に投じた。
「此れは私が甘すぎたのですが、闘陛下ならば先鞭として斬殿下を起用なされると読んでいたのです」
今の剛国に不可欠なのは烈のような狂信的且つ猛火の如き純粋さと忠誠心とで後先を顧みず戦いに身を投じられる功臣である。
が、今後、剛国が領土甲第させた時に必要となってくるのは、斬のような盲目的なまでに従順且つ良心と公平さの美徳を持つ忠臣だ。
然し乍ら斬の美徳は、一度汚濁に塗れてもなお揺るぎ無く動かぬ強さを兼ね備えていると証明されねばならない。
戰に、と云うよりも真に対して傾倒し掛けていると烈や他の異腹兄弟に見られているような脇の甘さを払拭する為にである。
一皮剥ければ斬は漢として武人としてそして剛国王弟として、酸いも甘いも噛み分けた上で爽やかと小気味好さと剛胆さとを良い塩梅で保つ、稀有な存在となるだろう。
其の為には、斬が見知っている優と杢にぶつけるに限る。
怯まず指揮を執れれば良し。慄きを見せれば本隊である闘が到着する時期を逃さず合流して下がればよい訳で、斬が先陣隊に起用された場合は十中が十、後者になるであろうと真は見ていた。
が、王弟・烈が相手となれば話は別である。
「烈殿は、私たちの窮状を良く知っておられますからね。父上と杢殿が率いてるのは2千騎であれども万騎を率いる能力を持つ師将が二人揃って欠けた状態で戦に挑み続ければ、如何なる事態を招くものかをも」
二人が居らずとも、戰の命令があれば兵たちは正しく動くし、勝利を得られるだろう。しかし、ただ、勝てるだけである。優が手塩に掛けて育て上げた禍国軍も、杢が一から鍛え上げた1万騎も、彼らが率いてはじめて辛勝ではなく快勝出来る、其の真価を発揮出来るのだ。
「どうする積りだ、真殿」
珍しく落ち着きのない態度で芙は帛書をたたんでいる。
真の考えと答え――詰まり、如何にして優と杢、そして2千騎を救い出すのを早く聞きたいらしい。彼らを窮地から逃すには自分の助力無くしては為し得ないのは明白である。ならば一瞬でも無駄にすべきではない。
「どうもしません」
けろりと答える真を前に、芙は一瞬、ぐっ、と息を飲み込むようにして口を閉ざして仰け反った。芙の反応を見た真は、此れは、どうも、と苦笑いしながら頭を掻いた。
「言い方が悪かったようです。詰まりですね、此処から私たちが反転したら祭国はどうなりますか?」
「……う、其れは……」
「禍国と東燕と祭国の三つ巴の戦いは混迷を極めるのは必死です。椿姫様や学様をお救い出来なくなります」
「……其れは……そう、だが……」
禍国軍と剛国軍とでは数字が持つ意味が全く異なる。
今の禍国兵など3万だろうと5万だろうと、優と杢は2千騎で撃破するだろう。
しかし、剛国軍相手に其れは不可能だ。剛国兵は一人で2人を斬り倒し3人を槍で串刺しにし馬を駆って弓を放てば5人を一度に屠る。一人で十人力なのである。
十人力の兵士が2万、ということは20万に匹敵する力を備えているのだ。正正堂堂と真っ向勝負だろうが、奇策を弄して不意討ちに奇襲を仕掛けようが、2千騎で太刀打ち出来る訳が無い。
「克殿を救援に向かわせたとして、総軍1万2千。今の禍国軍ならいざ知らず、剛国軍相手ではよくて、善戦したが矢尽き刀折れて遂には倒れる、となるのは必死です。2千騎を助けようとして1万2千騎を失う愚挙を戰様に犯せとは到底言えません」
「……」
「もう一つ、此処で戰様が浮足立てば、露国王はあからさまな態度に出るでしょう。即ち、椿姫様に密議を結ばんと為される筈です。戰様不在の最中、一度盟友となった剛国が攻め込んで来る懸念を払拭するには、他国と手を組み直すしか無く、其の相手として祭国の王室と根幹を同じくする露国ほど適任は無い、と説き伏せに掛かるでしょう。――無論、今の椿姫様が其のような甘言蜜語に心揺らがれる事もありませんし、何よりも虚海様が御許しになられませんから、其の心配は皆無に等しいです。然し乍ら、今、此の時点で、露国からの要求を突っぱねて中ら敵を増やす必要も有りません。露国に付け入らせぬには、繰り返しますが、戰様が先ず、御静まりに為られねば」
「……」
「何より、此処で反転を許せば戰様の足を掬う最も的確で合理的な方法を敵に教える事になります。其れでなくとも、戰様は『甘い』と諸国に知れ渡っています。特に、烈殿下は『句国を見捨てられなかったお甘い戰様』であれば、必ずや、父上と杢殿を救い出さんとするに決まっている、と信じておられるでしょう。敵の図に乗ってやる必要は微塵もありません。そして此の先、無用な戦を減らすには付け入る隙が無いのだと思わせねばなりません。そう、戰様にとって将兵は眸を瞑り無条件に彼らの勝利を信じて頼む存在であり、決して、戰様が全てを掌握せねば何事も成せぬ存在ではないと思わせねばならないのです」
戰と芙は、こんこんと説き伏せる真の迫力に圧され、結局、何も言えなかった。
戦の前に、尽きる、折れる、倒れる、などと不吉な言葉を敢えて口にしてまで救援不必要論を唱える以上、真は真剣なのだ。
「勝てぬ戦ははなからしないに限ります。戦をせねば負けはしませんし、此度の場合、負けではない、は即ち、勝利と同義語です」
「戦わずして、勝つ――か、真」
「はい、戰様」
「懐かしいね」
「同じ、戦わず、であっても意味はまるで違いますが」
戰は静かに微笑をたたえ、真はそんな戰に眸を細めた。
戰の初陣を思い出しているのは明らかであり、唯一、自分が関わり合いになれなかった戦に、芙は微かな心の疼きを覚えていた。
★★★
「つまり、お互いに睨み合ったままの我慢比べを太尉殿と杢殿にはして貰う、と言う事なんだな?」
我慢比べ、と芙の言葉を繰り返しながら真は笑った。
「そうなります」
烈とて、今度こそ兄王・闘の意に沿わぬ戦を積極的に仕掛けられはしないだろう。だが、防御から戦に転じるまでは闘とて咎められはしないだろう、と烈は踏んでいるに違いない。
だが優は、蟄居閉門に等しく自分たちからは手出しはしない。『其の瞬間』が来るまで力を温存するだろう。
「となれば気短な烈殿下は父上と杢殿の進路を妨害し、挑発を繰り返し、二人の方から攻撃を開始するよう仕向けるでしょう」
「数を頼んで力押しにするか、包囲してじわじわと首を絞めるか」
「はい、烈殿下の事ですから、何方かに絞られるでしょう」
「そうなれば、戦闘は避けられぬ」
苦く云う戰に、はい、と真も硬い表情で頷く。
「ですが、戰様」
「なんだい、真」
「一つ大切な事をお忘れになっておられます。父上は禍国で最も戦に通じている勇士です。烈殿下程度の罠に態々囚われに行きはしません。父上が正面からぶつかるとすれば、其れは逃げる瞬間だと思います。そして逃げる以上、必ず逃げ切ってみせるでしょう。そして闘陛下の到着と共に烈殿下は備国に去る。そうなれば、父上と杢殿は私たちと合流出来るでしょう」
暫し、三人の間に沈黙が訪れた。破ったのは、戰だった。
「――真」
「はい、戰様」
「闘殿率いる本隊が合流し、共に太尉と杢とを包囲し殲滅する、とは考えないのかい?」
「当然です。闘陛下の御気性からして其の可能性は充分過ぎる程です。ですが、戰様」
「何だい?」
「可能性は、いいえ、『たら』『れば』『もしも』と言い出せばきりがありません。戰様、此処は、我慢強い者が、何を信じて動かぬのかがはっきりしている者が、時代の勝者になります。私たちが信じるべきなのは、父上と杢殿とが此の窮状を打破して無傷の2千騎の仲間と共に本陣と合流する事であり、烈殿下に脅かされ闘陛下に蹴散らされ、冥府へと落される姿ではありません」
「うん、分かったよ、真」
戰は短く、だが子供のような純粋無垢な笑顔を浮かべて頷いた。
「芙、真の言う通りだよ。私たちは此の侭、祭国を目指そう」
芙は静かに、分かりました、と頭を下げる。
「では戰様。実は、父上と杢殿の処に食糧を届ける算段を時に付けさせてあるのですが、先ずは此れに新たに全員分の軍馬を付け加える事を急がせましょう」
何だ、結局は予想外では無かったんじゃないか、と言いたげに戰は眸を優しく細めた。
「そうだね、では、芙――」
「――は、戰様の処に居てもらわねば困ります」
「分かりました、では、茹に行くように手配させます」
確かに、此の先、大保・受と対峙せねばならない事を思えば、芙は手元に残って居て貰いたい。
其れに、熱くなりやすく猪突猛進し易い薙と、彼を静かに見守ると言うよりは相手にするのが面倒臭い為に勝手にさせている萃に対して、草として動く5人の仲間内の中で年長の茹は諌めるのが上手い。
「宜しく頼みます」
「しかし……」
苦味を含んだ零す戰を前に、真は訝しげに首を傾げる。
「戰様? どうかされたのですか?」
「うん、その……どうもね」
言い淀む戰に、ああ、と真は苦笑してみせた。
「此の1年間、喰べさせる心配ばかりしているような気がしている、と仰りたいのでしょう?」
「……うむ、その、ね……」
言われてみればそうである。
「と言うよりも、戰様。私たちは、祭国郡王を命じられた其の日から、如何に日々喰っていくかの心配ばかりをしているような気が致しませんか?」
「其れは――まあ……確かに、そう……だね」
祭国の城に入って初めての日、皆で難題が記された竹簡木簡の山に埋もれながら握飯を頬張ったのを思い出した三人は明るく笑った。
――あの頃こそ、何も有りませんでした。ですが戰様。あの頃こそが、私を、今の私へと導いて呉れたような気がします。
真は左腕をふと、見遣った。
――其れで此の道を選び取る迄やって来たのです。
あの時、自分は只の奢った青二才であり、五体満足であった。
そして、ただただ、懸命さと一心さがあったのみだった。
必死だった。
必死さが、豊穣を産み、そして次の畝を耕して往く事へと繋がった。
「其れは当然です。人間、喰べる心配が最も重要です。喰べずしてまともな精神を保ち続けるのは至難の業、と言うより不可能です。逆に言えば、飢えと困窮の恐怖を知っている我々は回避する事を恐れません。寧ろ、飢餓を認める事は蹉跌や凋落と同様と思っている禍国軍の方が、直面した時の反応が読めず、私は恐ろしいです」
ほう? と眸を細めながらも戰の顔ばせは朗らかだ。
「真にも、分からない事があるのだね」
「当たり前です。戰様、私を何だと思われて居られるのですか? 只の人の手に握る事が出来る物事などたかが知れておりますよ」
「そうだね。其の、通りだよ」
また、二人を見詰めつつ笑顔を浮かべた戰は改めて、名を呼んだ。
「――真。そして芙」
「はい、戰様」
「はい、陛下」
「真が読み切れぬ程の恐るべき速さで、天帝は運命と戦という両の車輪を回している。だが、其れに遅れたからといって私は微塵も恐れていない。私とともに走って呉れている皆がいれば、私たちの信念で車を引き戻してやれると信じている」
「……戰様……――」
「人の世を創り上げるのは、天帝が定められし運命では無い、と私は思う。天と星々が定めし運命を活かそうとする『人』――だ。であるならば、私たちは、とことんまで足掻き藻掻ける筈だよ。真、芙、君たちも、そう、思うだろう?」
「はい、戰様――」
「恐れ乍ら陛下、私も、同じ思いです」
真と芙は、静謐な泉の如き心で、戰に最礼拝を捧げたのだった。




