表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
八ノ戦 飛竜乗雲

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

364/369

2 戦地鳴動 その3-1

 2 戦地鳴動 その3-1



 足腰がまともに利かぬまで強かに酒を呑み、而も碌な武器も持たぬ丸腰で逃げ惑う禍国軍は、迫る優と杢の僅か2千騎の兵に瞬く間に討たれていった。

追い遣られた先が隘路であるのは当然ながら優たちの策略であったのだが、気付けるだけの知恵ある者は今の禍国軍に居ない。

 そもそもが、僅かでも智略が働けば、契国の民が易易と近付いて来た時点で胡散臭さから疑念と警戒心を抱く筈である。戦場では懐疑、虚飾、猜疑、疑心、偏向を恐れても油断なく我が物として利用出来た者が勝利を得るのだから。

 優が兵部尚書として禍国軍に残って指揮さえしていれば違うだろう。

 だが、血筋と家門という皇祖に従ったという所詮は過去の栄光にのみ価値を見出し、しがみ付いていた者には優は成上りの粗暴者であり、故に、無碍に追い払うのに良心の呵責など働く筈も無かった。


 禍国兵たちは後悔噬臍する間も与えられない。

 最早、狩場飛び跳ねるばかりの哀れな仔兎宛らであった。

 嘗て、彼らは狩猟場で嘲笑いながら兎を狩り尽くしたものであるが、今、其の兎と同じ立場に立った自分たちを顧みる余裕は無い。ただ泣きながら、舞う剣の餌食として己が生命の瞬きを差し出すばかりだ。

 致し方無い――とも言える。

 当然であろう。

 彼らは皆、産まれて此の方、追い詰められた事などないのだ。

 右の物を左に動かす必要なども無い生活、己の気の向くままに人を顎で使うのに慣れ、努力奮励の言葉とは無縁であり、一つの欲望に倦めばまた別の欲に手を出し続けても誰にも叱責されぬ、微温湯に浸りきった甘い甘い世界――が全てだったのだから。絹と綿に包まれた恵まれた生活しか知らぬ彼らは、真実の生命の遣り取りの場に放り出されるとは如何なる事なのかを、正気を失うのと同時に己の身体全身と魂を以て、思い知らされていた。


 彼方此方で命乞いの声が上がる。

 しかし、翻る句国の軍旗は辛辣な迄に無情であった。次々に、そして淡々と、禍国軍の生命の輝きを消滅させて行く。

 優と杢らにすれば、児戯に等しく戦いとも呼べぬものとなっていた。しかし彼らは手加減は決してしなかった。

「叩きのめせ! 一兵たりとて生きて帰すな!」

 手を合わせ命乞いの姿の兵にも、優は容赦も躊躇も無い。右腕が唸ると同時に眼前の禍国兵は、禍国兵、或いは半瞬前までは生きていた誰か、となっていた。



 ★★★



 展開する血腥い戦闘は優と杢の力量を以てしても、終わりが見えるまでに3時辰近くの時間が掛かった。

 しかし率いた2千騎が1騎も欠ける事無く優の旗印の下に集結した姿を前にすると、その圧倒的な迄の強さに伐たちは感動に言葉無く立ち尽くすしかなかった。


太尉たいい様、全騎、無事、帰還致しました」

「うむ」

 流石に齢も五十を幾つか超えている優は杢たちもっとも油の乗った世代とは違い、息遣いに乱れは無いが全身がだくだくとした汗に塗れている。

 が、其れでも戦意を喪失していようとも万以上の兵を相手に最前線で駆け巡りながら、目に見えた重傷は一つも無く、疲弊感も漂わせてはいない。

 全身に闘志漲らせた優の姿たるや、真夏の竜巻が如しの強烈さであった。

「……すげえ……」

 伐ですら、知らず呟かずには居られなかった。

 愛馬の首筋を優しく撫で摩りながら労を労う優に、契国の男たちは手を合わせる。

 其れは殆ど本能的な行為であった。

 彼らの内なる王は既に戰であり、彼らは王者が広げた庇護と慈愛の傘下に入っていると自覚している。だがしかし、王が王者の務めを果たすには一人では為し得ない。必ずや、彼の思想と信念、そして掲げた理想を現実のものとする強力な翼が必要となる。

 優は、強大且つ巨大な一翼を担っているおとこなのだと、改めて魂と血と肉と骨に彼らは書き記したのであった。


 全騎が揃うと、優は伐たちが禍国から掠め取った戦利品を改め始めた。

 ほう? と優は目を細め、剣や槍を持ち上げる。

ぼんくら(・・・・)共が見栄えばかりを追った品ばかりだ、箸にも棒にも掛かるまいと思っていたが、なかなか良い品もあるではないか」

「はい」

「時の踏ん張りと面目躍如といった処か」

 鞘から抜き放った剣を掲げつつ、珍しく優は笑う。手にしている剣は、明らかに河国かこくから仕入れた品であった。今現在、河国王・しゃくと取り引きが可能なのは戰を除いては商人・時を置いて他はない。

「伊達に太尉様と十年以上付き合っておりませぬ、と時ならば胸を張るでしょう」

「へえ? 此の剣がねえ? そんな良い品なのか?」

まがねの、而も河国王の指揮の下で鍛え上げられた品だ。此処までの品を量産出来るのは、遼国りょうこくの技を以てしか為し得ない」

「へ~え」

 熱い口調の杢であるが、伐たちに剣や槍の出来の善し悪しなど分かりよう筈もない。杢は苦笑する。

「えらく、他人事だが。此の鉄は、契国からの瀝青炭あっての品なのだぞ?」

「へえっ!?」

 途端にを丸くし、どれどれ、と取り囲み始めた伐たちを尻目に、騎馬から降りた兵たちは、凄まじい速度で武具の仕分けを一斉に取り掛かった。

 優たちの背後で伐たちは、見せてくれや、と云いながら、ぞろぞろとついて歩く。

 時折、手元を覗き見ては優と杢の会話に耳を欹ててみるが、が、何かの呪言でも聞いているかのように訳が分からず頭ががくらくらしてくるばかりだ。なので摸るのを止め、素直に彼らから呼ばわれるのを待つ事にした。しかし、待つのは良いが手持ち無沙汰である事此の上ない。


「……」

「……」

 黙々と作業を続ける優たちに声を掛けるのは何となく憚りを感じ、伐たちはやがて、じりじりと後退し始め、仲間内で輪を作って顔を突き合わせた。

「何時までやる気なんだ、よう、おっさん?」

 だが、返答どころか、視線が此方に向く事すら無い。ちっ、と伐は舌打ちしながら頭を掻いた。

「ちっ、ちっ、ちいっ、全く暇でしょうがねえや」

「どうするよ?」

 ぐぅ、と不満の声を上げた腹の虫を撫でて諌めつつ、伐は顎を刳る。

「……飯の用意でもしておくか?」

「いい考え……なのか、そりゃ?」

「ま、あ……なぁ、禍国の陣から奪った品はたんまりある事だし、よ?」

「なら……やるか?」

「おう」


 とは言うものの、優たちが気になって手際は至極悪い。

 おまけに、飯の用意が進めば匂いに釣られて彼らの方から近付いて来るかと思いきや、目も呉れずに作業の手を休める事はない。

 出来上がった料理を前に、伐たちは肩を竦めつつ優たちを待った。

 そしてその時は、料理が完全に冷めきった約1時辰ばかり後にやって来た。やっと優は、ちらり、と横目で無骨な料理を眺める。

「伐よ、居るか」

「おう」

 ぼりぼりと頭を掻きながら、伐は前に出る。

「おっさん、流石に時間が掛かり過ぎだ。暇過ぎ腹減り過ぎで、寝ちまいかけてたぜ」

 腹部を摩りつつ伐が戯ける。

 笑うか怒るかするかと思ったが、だが優は至極生真面目な面持ちで一本の剣を伐に向かって差し出した。おっ、と反射的に仰け反りつつも、伐は腕を伸ばして剣を受け取った。


「武器の選別が終わった」

「お、おう」

「故、此れより我々は急転し、陛下のもとに馳せ参じて戦に加わる」

「お、おぉう、そりゃ……ん? 急転? ちょっと待てよ、何だって? 此れから、急転、だとう!?」

「驚く事はない。其の方らは此処に残る」

「……」

 何故、と伐は声を荒げる事はしなかった。

 此れ迄の彼ならばしていただろう。

 しかし、今の伐には分かっていた。

 禍国はたった二千騎の、而も裏切り者の優に率いられた軍に完膚無きまで叩き伏せられたと知れば、必ずや、雪辱を果たさんと報復の軍を新たに差し向けるであろう。

「禍国軍を迎え討て。そして勝つのだ」

「……」

「我々は最早、此処に留まってはおられぬ。其の方らが戦える法は、此度我らが採った策だ。敵を分断し、そして各個撃破する、此れに尽きる。何も難しく考えるな」

「おっさん……」

 伐の背後で、契国の漢たちがおろおろとし始めた。


「そんな情けない顔をするな。陛下の御前にて、あれ程迄に意気を揚げておったではないか」

「そりゃ、ま、そうだがよ」

「此れだけの物資だ。今の契国にとって大いに力となる」

「……」

 伐たちにも、優が何故、食料は兎も角として武具までも奪えと命じたのかが漸く飲み込めた。禍国の物資でもって禍国から祖国を守るのである。こんな爽快な事があろうか!

「而も、其の方らの力のみで奪ったものだ。胸を張れ」

「へっ! 野盗や押し込みの真似事やって胸張れたぁ、初めて聞いたぜ」

「無礼な、野盗とは何事か」

「じゃあ、何て言やぁ良いんだよ?」

「戦利品と言え、戦利品と」

「おっさん、そう言うのを屁理屈を捏ねる、っつぅんだよ」

 確かに、と優は其処で初めて豪快に笑った。釣られて、伐たちも笑う。久しぶりの、磊落闊達な笑いが漢たちの間に湧き上がった。


「其の方らの胆力が有れば可能だ――だが、戦場いくさばでの経験に乏しさ故に心許なく在るのも理解出来る。其処で、よ」

「は、太尉様、此処に」

 膝を折りながら、す、と前に進み出た薙は、既に自分に課せられた役目を悟っている漢の顔付きになっている。

「いざやの時に備え、其の方は此処に残れ、良いな?」

「は、お任せを」

 早足はやあしの二つ名を持つ芙には及ばないが、彼の仲間は皆、駿足を誇る。

 いざの備えとは、即ち商人・時との繋を求めねばならぬ事態、若しくは句国に助けを求めねばならぬ緊急事態である。薙が残るとなり、伐たちの残っていた僅かな懸念は消えた。憂いが取り払われた彼らの額は、一斉に晴れやかなものとなった。此処が伐たちの可愛気というものであるのだが、馬鹿正直さに、優は苦笑する。


「だが、此度の勝ち戦に味を占めたとばかりに戦を侮ってはならぬぞ」

 勝利という成功体験は人を驕慢にする。

「驕りはやがて慢心を生む。慢心の行き着く先は其の方らが倒した禍国軍である。奴らの情けない顔を決して忘れてはならん。矜持を保て。驕っては為らぬ。が、必要以上に怖れるな。怖れは迷いを生み、視野を曇らせ、意志を弱らせ、動きを鈍らせる」

 優の言葉は、乾いた大地に慈雨が染み込むかの如くに、伐たちの胸に届いた。

 其の証拠に、男たちの双眸が炯炯たる煌きを放ち出していた。弱い存在であると認めた処から出発している彼らにとって、完全勝利とは、句国と共に在り続けながら契国を自立させる事である。

 禍国側から見れば、其れは大いなる野心であろう。

 そして伐たちも野心であると自覚している。

 野心とは、勃勃ぼつぼつと心が燃ゆるものである。燃える心は決して軽慢には為り得ない。

 男たちの間に、感動から来る静寂が訪れた。しかし、其れを盛大に破る者があった。伐の腹の虫である。

 一瞬、息を止めるような音が上がった。次の瞬間、弾けるように爆笑が湧く。


「ああもう、我慢出来ねえ。早く飯にしようぜ」

「確かに。腹が減っては戦は出来ぬと言うからな」

 優もにやりと笑いつつ、腹を擦る。

「ようし! 此の後、まともな食事には暫くありつけんからな! 伐たちの好意に感謝し、有り難く飯を腹に入れろ!」

 杢たち2千騎の男たちは、おお! と腕を振り上げながら呼応した。笑いを噛み殺しながら。


 食事の後、優たちは軽い仮眠をとった。

 休息が可能となったのは、伐たちが彼らの馬の手入れを買って出たお陰である。馬の作法を知る為でもあるのだが、ともあれ、薙とすいに教えを請いながら伐たちは馬具の手入れを突貫で頭に叩き込んで行く。山の作業で馬には慣れているが、地駄曵 《 じだひ 》 きとは根本から違っている。四苦八苦しながら伐たちは薙と萃に喰い付くように学んだ。

 伐たちの踏ん張りの間、強行軍を敢行せねば為らぬ優たちは、文字通り、思いも掛けぬ束の間の心の平安を得たのであった。

 夜明け直前に、優たちはすっかり整えられた愛馬に跨っていた。


「世話になったな」

「いいさ。お互い様って事よ」

 以前の伐であれば、馬上からの声掛けになど反骨心を露わにして答えなどしなかったであろう。

 しかし今の伐は、優の言葉に素直に頷くだけの度量を持ち合わせるようになっていた。

 互いに、互いを漢と認め合う視線をぶつけ合う中、ぶる、と優の愛馬が首を振りながら嘶いた。

 其れを切掛として、優が手綱を引いた。


「ようし! では、此れより我ら2千騎は陛下の御前に馳せ参ぜんが為、祭国に向かう!」

「おお!」

「出立!」

「太尉様に続け!」

 伐たちに見送られながら優たちは出立した。

 一糸乱れぬ馬群は、まだまどろみを誘う朝ぼらけを破る勇ましい馬蹄の音を響かせながら、一路、祭国を目指して駆けていったのだった。



 ★★★



 愛息子が馬上より発した矢が、次々と過たず的に命中していく。

 璃燕りえんは御簾の奥から口元に笑みを浮かべつつ、上機嫌で手を打っていた。家臣たちが感嘆を真似て零しつつ追従するのも、彼女の自尊心を大いに満足させている。

 最後の的を的確に居抜き終えた馬上の少年は、勢いを衰えさせぬまま、御簾の前まで馬を寄せた。璃燕は益々、機嫌をよくし、高らかな笑い声をあげながら、褒美の用意を傍らに控えている業燕ごうえんに命じた。


「本当に、よう、お出来だ」

 璃燕が笑みを湛えたまま手を差し伸べる。少年は鼻息も荒く自ら御簾を掲げて中に入ると、跪いて母の手を取った。

「燕国王を名乗るに相応しく御成だ。母は嬉しい」

「私が燕国えんこくが王、葵燕ぎえんとして、こうして成長して往けるは、全て母上がお力添えのお陰に御座います」

 ほっほほほほ、と璃燕は喉を跳ね上げて、また笑う。

「人の成長は少年時代が最も早いとは申せ、何時の間に、一体どこでそんな御口上を覚えられましたな、ん? まだまだ、可愛気が抜けぬことよ」

 璃燕の手の甲を己の額に軽く当てた後、葵燕は母親の前にすっくと立ち上がった。

「母上、お尋ねしたき儀が御座います」

「何事です、藪から棒に」

 手を膝の上に戻しながら袂を整える璃燕に、葵燕は更に鼻息を荒くして捲し立てた。


「禍国が祭国に侵攻すると、母上は御存知あられるか」

 最近、葵燕は口調が変わってきている。対抗心からの、意識的なものだろう。

「無論です」

 璃燕は、すっ、とを細めた。成長しても可愛いだけの息子で居て呉れれば別にとやこう云う積りは、璃燕には無い。だが、母に対して剥き出しの反骨心を見せるのであれば、話しは別である。

「母は国の大事を差配する大事を担う身なれば」

「では、母上。母上は何故、私にお命じに為られぬ。此れを機会に祭国を背後から討ち、我が領土とせしめよ、と」

 口元をさしはで隠しながら、璃燕は息を漏らした。笑っているのではない。隠した口元には、苦々しさが浮かんでいる。


 ――やれやれ……妾にではなく、祭国の小童王に対して張り合っておるのか。

 葵燕は今年十二歳になった。

 詰まり、少年王と敬意を表して呼ばれている祭国王・がくと同年齢である。

 同じ年の少年が、方や王としての手腕を認められ称えられいるというのに、自分は未だに母親の影から出ていない。実質の王は母である璃燕だ。操り人形が如きであっては、王座に在りながらも王は呼ばれはしない。

 葵燕は其れが、口惜しくてならないのだろう。

 ――対抗意識を持つ事、其れ事態は誤りで無い。必要なのは、己の力を過大評価し相手を侮る事よ。今の葵燕は、祭国ごとき古いばかりで実力の伴わぬ国の王よりも下に観られぬのは我慢為らぬのであろうが。

 其れこそが己が力を過信しているのに他ならないのであるが、心得られぬのが未熟さ故であるとは葵燕は何があろうとも認めはしないであろう。


 ――さて。どうしたものか。

 葵燕は禍国軍との戦いで手薄になるであろう国境線を侵して領土を拡大せよと進言している。

 それ自体は決して間違いではない。

 祭国に郡王として皇子・戰が着任して以降、竜の尾とも呼ばれている雄河おうがの治水工事に力を入れていた。

 雄河は露国に水源を持って発生し、時に祭国を掠めて通りながら燕国を通りながら東北の海へと流れ着いている中華有数の大河の一つである。

 雄河の治水は、祭国と燕国にとってはまるで積年の怨み辛みのように積もり積もっている頭の痛い懸案なのであるが、郡王・戰は此の厄介な難工事を冬枯れの時期に絞って集中的に敢行するという、凄まじい手際を見せたのである。

 お陰で、河口側に位置する東燕は、文字通り漁父の利的な恩恵に与った。此の護岸と治水を兼ね備えた工事の指揮者の一人として、少年王・学が名を連ねているのが葵燕には腹立たしくあるのだろう。


 ――其れこそが己が青臭い餓鬼であり、祭国王に遠く及ばぬと言うておるようなものなのだが。さて、気が付けぬ、そして進言できる者を従えておらぬのであれば、残念ではあるが葵燕は器量は所詮は我が掌の上でのものなのやも知れぬな。

 璃燕の中で、息子である葵燕の王としての能力が見極められた瞬間であった。

 十二歳にしては葵燕は体格も良く剣術馬術体術にも秀でており、また璃燕の教えを忠実に守っており、貪欲な勝利への執着から、正攻法以外の術を躊躇無く採用できる。

 王である以上、勝利こそが正義であるとせねばならず、其の為には汚濁を怖れてはならぬのだが、葵燕は既に其の王者としてのさがを見事に身に付けていると思っていた。穢を一身に浴びてなお輝ける魂を持ちうるであろうと期待していた。

 ――だがどうやら、期待外れであったようだ。

 祭国王如きに執着し、対抗心を燃やすなど、未熟極まる。

 加えて、祭国郡王・戰とよしみを深く結んでいる剛国王・闘の存在が許せぬのであろう。

 葵燕の実父である先々代燕国王・臥煙がえんは剛国王の姦計――無論、璃燕からすれば姦計などではなく只の策略でしかないのであるが――により此の世を去っているのも大いに関係しているであろう。


 広く中華を眺めれば、此度は国力を削る戦に加わらず知らぬ存ぜぬで動かぬが吉であると分かろうものだ。

 其れに、父王・臥煙の死に寄って、逆に無能な家臣共を一掃出来たとも言える。

 少なくとも、葵燕は今の彼に成長は出来ていないと璃燕は断言出来る。

 ――知りつつ憤慨しておるのか。其れ共。気付けずに吠えていやるのか。

 どちらにせよ、此の儘では、葵燕は祭国王への嫉妬心から自滅の道を進むであろう。

 落胆失望の度合いは大きいが、燕国の行く末を思えば耐えられぬようなものではない。

 そもそも比較にするべきではない。

 一人の王を育てきれるかどうか、と云うよりも王としての実績を如何に早く積むかにのみ囚われて躍起になっているような者の為に、国の存亡を天秤に掛けるなど、正気の沙汰ではなかろう。


 ――……だが、はて。どうやって、あやして(・・・・)やったものか……。

 璃燕は首を傾げた。

 璃燕には餓鬼が駄々を捏ねているような振る舞いに見えていたとしても、葵燕が持つ、漢として王としての気概と侠気というものを認めてやらねばならぬのもまた道理の一つでもあるからだ。

 同年代の学が既に少年王と称えられている以上、遅れを取るわけにはゆかぬと焦燥感に駆られるのは分かる、と認めてやれば手っ取り早い。が、果たして其れでよいものかどうか。

 璃燕は自覚せぬ内に、息子に対しては他者と違い、判断に甘さと弱さが出ていた。

「王よ。気が急くままに兵を動かしても、勝利は己がもの(・・)になどなりは致しませぬぞ」

「祭国が禍国のみに気を取られている今こそが千載一遇の機会であると母上こそ誰よりも御承知の筈。奴らが我が国に対して抗戦の構えを築く前に侵攻せねば」

「……簡単に言うでないわ」

 自信満々に言い放つ葵燕に、璃燕は深く息を吐き出した。今の葵燕の態度から、己の考えを後押しされている者の強みを璃燕は目敏く感じ取っていた。


 ――こんな事が出来るのは業燕辺りであろう。

 葵燕が最国王・学に及ばぬのは天命であり、今更どうこう仕様がない。しかし、周囲の者が強く正してやれば最低限、道を誤る事だけはしない。

 ――其れを。全く以て、下らぬ事を耳に吹き込みおって。

 赤く丁寧に紅を指してある唇の端を、璃燕は噛み締めた。

 ――我が子の道を誤らせるような不遜なる輩は、須く誅さねばならぬ。そして息子の誤りは此処で正しておかねばならない、今、此処で。もしも其の誤りを受け容れぬというのであれば――其の時は、璃燕は息子を見限る腹積りを固めた。


「此れから我が国は深く雪に閉ざされる冬を迎える。我が国の冬は平原の其れと比較出来ぬ。此の時期の出兵はあたら兵を無駄死にさせに往くだけである。其れを知りつつも尚、兵を出せ、と?」

「然様に御座います」

 探る様に語尾を持ち上げる母親の態度の変貌に、葵燕は、単純に自分の意見に折れてきたのだと勘違いしたのだろう、胸を張って勢い込む。

「ははっ、どうも、母上は矢張り女性にょしょうであらせられる。肝心要の処で決断がお優しくてあられる」

「……其の方に母が如何様に見えておるかなど問題ではない」

 ぴしゃりと璃燕が言い放つと葵燕は、むっ、とした。負の感情が感情が面に出過ぎるのも、王者として立つに相応しからぬ、と腹の内で嘆息しつつ、よいか、と璃燕は畳み掛けた。

「大事にせねばならぬは、其の方一人(いちにん)の矜持と誇りではない。兵であり馬であり、其れ等を育む国土である。吹雪により氷の衣を纏うが如しの中の行軍を強いてなお、尊崇の念を抱かれるだけの王では、其の方はまだない」

 王として未だ未熟者であると正面から断じられ、葵燕は喰って掛かった。


「如何なる手段を講じようとも、ええ、喩え善後策がどれだけ卑怯千万であろうとも、勝利をこそ手にした者が正義である、と教えて下さったのは他ならぬ、母上では御座いませんか!」

「如何にも」

 息子の語尾に覆い被さるように答えを突き刺す。

「姦計を用いようが悪辣な策だと痛罵されようが狡辛く浅ましいと罵られようが、勝てば良いのは当然である。勝利こそが王者としての務めぞ。勝手相手を平伏させめれば途中がどうであれ関係無い。声高に主張するべき事ではないわ」

 女性とは思えぬ野太い声に、葵燕は反射的に仰け反りかけていた。眼前に在るのは母親でなければ、逃げ出していたかもしれなかった。

「心がはやる(・・・)ままに暴走するは、若者だけが持つ特権である。であるが故に、母は其方を怒りはせぬ。だが、理解せよ。未だ母がこうして国の舵を取り仕切っておるは、我欲が為ではない。国が為よ」

「母上! 私とて、親不孝との誹りを受けようと、国が為に物申しておるのです!」

「母以上に国の行く末を案じておると認めてやれれば幾らでも首を縦に振ってやろう。が、今の其方は己一人(いちにん)の満足が為にのみ、万の兵を氷柱の只中に閉じ込めよと喚いておるに過ぎぬ」

「母上!」

 じろり、と翳越しに息子を睨むと、披帛を打った。下がれ、と命じたのである。


「母は其の方との会話に疲れた故、少々休む」

「母上!!」

「許しがあるまで、目通りは許さぬ」

 葵燕の顔色がどす黒くなった、かと思うと血の気が全く感じられない程青白くなる。

 戦慄く息子に一瞥すら与えず璃燕は立ち上がり、そして去った。

 礼拝を捧げながら垂簾聴政のあるじを見送る家臣たちは皆、蒼白となっている。

 そんな中、唯一、薄っすらと気味悪く北叟笑む者があったが、気に掛ける余裕など誰も持ち合わせていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ