2 戦地鳴動 その2-3
2 戦地鳴動 その2-3
飲めや食えや歌えや踊れの大騒ぎは、夜半の終を迎えてもなお、延々と続いた。
特に彼らが執拗なまでに行ったのが、瓶子を兵士に見立てて蹴り倒す遊びだ。
語呂合わせのこうした遊びは洒脱な男の規範として備えておかねばならぬ一つでもある。おまけに、契国は先に兵部尚書・優が攻め入っている。彼らにとって、叩き上げでありながら武人として最も誉れ高い地位を得た優は憎き敵だ。
「ほうれほれ、どうだ、また一つ倒したぞ」
「何を、我の方が倒した数は多いぞ」
「いやいや、我の方が……」
「おう、此奴にはまだ中身が入っておるではないか」
「ほっほほ、なぁに、酒は血潮になるというではないか。此れは血よ。奴らの血よ」
「然り、然り」
まだ空になっていない瓶子までも蹴り倒され、周辺は酒の気で満ちて行く。ようやく静まりを見せ始めたのは鶏鳴の正刻を少々過ぎた頃だった。
「伐、誰か来たぜ?」
「おう」
伐の処に、仲間が小走りにやって来て程無く、甲冑が擦れ合う金属音が幾つか連なって近づいてくるのが聞こえてきた。敵に見つからぬよう、小さな灯も灯さずに居る為、月明かりが届かねば誰であるか判別は難しい。
が、伐にはもう分かっていた。優と杢である。
「どうだ?」
「自分で見てみなよ」
静けさを取り戻した野の先には、松明の炎が途切れがちに浮かんでいる。
「ようし、計算通りだな」
「……」
平然としている優と杢は違い、伐は舌舐めずりが止まらないし、仲間たちは一様に鼻息も荒くそわそわと身体を揺すっている。じっとしていられないのだ。
――おっさんらは流石に場馴れしてやがんな。
そう思うと、自分も負けていられねえ、とますます興奮してくる。こんな獰猛な気分になるとは、自分でも信じられない。
「もう一度、策を確認しておくぞ。其の方らは今から1時辰以内に禍国軍に接近し、陽動を行う」
「おう」
喉がいがらっぽく、声が罅割れた怖気づいたかと笑われるかと身を張ったが、しかし優は淡々としている。
夜明け前、深酒をして寝入った奴らは記憶に障害が起こる。
此処が何処であるのか、今が何時であるのかも、直ぐには思い出せまい。
そんな時、人間とは通常の何倍も動きが緩慢になる。
瞬時の判断と瞬発的な行動が取れなくなる。
「其の方らはとことんまで、禍国軍を掻き乱せ。奴らを混乱させるのだ。未だ酒の気が抜けぬ奴らは忽ちのうちに千鳥足から腰にきて其の場にへたり込むだろう」
「……」
「其処を、我らが完膚無きまで叩く」
「……」
「此の作戦の成否は」
優は一旦言葉を切ると、ぐるりと伐たちを見回した。
「いや此度の戦の趨勢が如何に傾くかは、全て、其の方らの動き如何に掛かっておる。夜の闇に紛れて奴らを撹乱し、そして逃げ切るには地の利を良く知る者が居らずして成しえぬからな」
伐の身震いが伝播していた。契国の男たちは、今や興奮の坩堝の只中にある。
――俺たちが国の行く末を左右する。
こう言われて、武者震いが起きぬ方がどうかしている。
「任せろよ。必ず、遣り遂げてみせらぁ。なあ!?」
伐が握り拳を天に向かって突き上げると、おお! と皆が呼応する。爛々と輝く双眸に熱い決意が宿っている。頼もしい男たちを前に、優も満足気に頷く。
「私も其の方らの協力を得られて心強い。だが、一つ良いか」
珍しく、低い声音の優に、ん? と伐たちは目配せをしあった。
「何でえ?」
「もう此処で死んでもよい、勝利を得られるのならば、自分など死んでも構わん、などと阿呆な事を考えるなよ」
ぽかん、とした顔になって、伐たちは棒立ちになる。そして次の瞬間、慌てて喰って掛かった。
「おい、おっさん、ちょっと待てよ」
「俺たちゃ国の為になるなら、とことんまで遣りてえんだよ、陛下の御為になりてえんだよ」
「そうだ、其の為にだったら、死んだって構わねえって奴らばかりなんだぜ?」
「だから、此処に居んだよ。俺たちを連れて来て呉れたおっさんなら分かんだろ?」
「分かる」
殆ど泣きそうになった悪童の群れとなった伐たちに、優は腕を伸ばす。
「だが其の方らが、彼奴らの前に倒れてやる必要は何処にも無い、一切無い」
「いや、だけどよ」
「其の方らは、陛下の御世に生きるのだ。生きて生命を繋げ」
「……」
「死ぬ気の決死隊などを気取って勝手に動くなよ」
底光りする鉄のように重い声の優に、伐たちは気圧された。訳も分からず後退りそうになるのを堪え、ごくり、と唾と息を呑み下してしまいそうになるのを耐えるのがやっとだった。
「其の方らは良いかも知れぬが残された者はどうする? 戦の経験者の無い者だけを乱世に放り投げて残し置く積りか? 其の方らはそんな手前勝手極まり無い阿呆なのか?」
優に諭されるとは思っても居なかった伐たちは、うっ……、と言葉に詰まった。
優ならば、血気に逸る自分たちを何だかんだと言いながらも結局は、よし、ならば付いて来い、と率いて呉れるものと期待を寄せていたからだ。
「良いか、漢が生命を賭して仕えるべしという僥倖を得たならば、必ずや此の御方の御世の行く末を共に見届けんと石に齧り付いてでも生き延びようとするものだ」
「……」
「其の方らは漢だ。国と平原の未来の為に声を上げた本物の漢たちだ。一廉の漢ならば、私が言いたい事はもう分かるな?」
「ちぇっ……分かった、分かった。大恩人のおっさんにそうまで言われちまったら、何が何でも生きるしかねえじゃねえかよ、なあ?」
伐が間が悪い、と言いたげな苦笑を浮かべながら頭を掻いた。
「では、手筈通りに。任せたぞ」
「おうよ! 任せろぃ!」
ずび、と鼻を啜り上げた伐は、ばん! と胸を叩いた後、高く腕を振り上げた。
「よぉっしゃあ! 行くぜ手前ら! あいつらに見せ付けてやろうぜ! 契国の底力がどれ程のものかってよ!」
★★★
闇に紛れて、こそこそと鼠のように動き回る影がある。影は辺りを伺いながら、しかし迷いなく禍国軍に近付いていく。ある程度の距離にまで詰め寄ると、其処で先頭の影が止まった。
「此れから行動を開始するぞ」
此の影は、伐たちである。優の策を受けて命懸けで禍国軍に潜入したのだ。
「お前ら、覚悟はいいな?」
「待ってましただぜ、任せろぃ」
「おうよ、腕がなるぜ」
「当然だ、俺たちを誰だと思ってるんだ」
「奴らに目に物見せてやろうぜ」
「ようし」
男たちは目配せで合図をし合う。決意が、ぎらりと其々の双眸の中で凶暴な輝きを放った。
「なら、手筈通りに行くぜ!」
そして伐たちは目的の天幕を探し出すべく、散っていった。
流石に闇雲に動く訳にはいかないが、幾つかの天幕をこっそりと覗き見る者もあった。
酒の糖分がべたべたと纏わり付いているかのように、湿っぽかった。
おまけに、何処か饐えたような臭いまでしている。
何しろ、全員が全員、前後不覚になるまで呑み明かしたのであるから、天幕の端に走り、こっそりと吐く者が居ても当然であった。
大凡見て回った後、一旦、集結し伐たちは其々報告し合った。そして、互いに見てきたものに呆れ返る。
「けっ! いい気なもんだぜ」
「精々、甘ったるい良い夢見とけってな」
「そうそう、もう直、尻の穴の毛まで毟り取られちまうんだからよ」
「尻毛なんざ誰が毟るんだよ、俺ぁ嫌だぜ」
「俺も嫌だぜ、なんで奴らの尻の毛の責任取ってやらなきゃいけねえんだ」
「尻の言い出しっぺは誰だ、言い出しっぺは」
「伐だ」
「じゃあ、伐が尻毛取り決定だな」
「煩えよ! お前らいい加減で尻毛から離れろ!」
流石に、敵陣に乗り込むとなると軽口を叩かねばやっていられない。緊張から失態は犯せないと、伐たちは毒付きながらも必死だった。
「此処までは順調だ、よし、今度は実際に動くぞ」
「おうよ」
互いに確認し合った伐たちは、再び、闇に紛れてまた方方に消えていった。
今や禍国軍は、上から下まで、野獣の咆哮のような鼾と、噎せ返る酒食の臭いに支配されていた。
そんな禍国軍の中で、まるで野鼠のように、伐たちは影其の物となってこそこそと俊敏な動きを見せている。
酔い潰れている禍国軍に侵入するのは、特別な訓練を重ねて来た草である薙や萃の力を借りずとも実に容易かった。
其れだけ、見張りが用を成していないのだが、伐たちも其れなりに場数を踏んでいる。特に度胸というか肝の据わり様は憖の者では太刀打ち出来ない程である。
目立たぬよう暗い色目の衣服に身を包み天幕から天幕へと闇を味方にして動き回るうちに恐怖にも慣れて来たのか、其れ共緊張を我が物として飼い慣らすのに成功したのか。そのうちに、まるで楽しんでいるかのようにも伺えた。
伐たちに課せられている任は、馬具や武具、甲冑といった装備一切合切を盗み出す事だ。
加えて、それらが終われば敵襲を知らせながら縦横無尽に禍国軍を駆ける。
兵士たちが起き出した処を更に決められた地点にまで誘導していく。
其処を優たちが叩く、という寸法だ。
禍国軍は最早軍として機能しておらず盗みを働くのは容易だ。
が、禍国軍内に留まる刻限は固く定められていた。
禍国軍を敗走せしめるだけでは足らない。
完膚無きまでに叩き潰しておかねばならないのだ。
加えて優たちは、此の戦が終われば祭国へと大返しを行わねばならない。
味方の損傷箇所は最大に抑え、且つ最高の戦果を得なくてはならず、加えて残る契国の民に再び禍国軍が侵攻するかという不安感を与えてはならない。伐たちに課せられた仕事は、実に重要かつ重大だった。
互いに合図となる言葉を言い交わして仲間であると確かめあった後、守備を確認し合う。
周囲に注意を払いながら、己に与えられた任を果たしたとこそこそと報告し合うと、最後に合図などしても居ないのに同時に深く頷いた。
「よし。此処から先は一刻刻みの動きになる」
「分かってらあ」
「遅れるなよ?」
「煩えよ、分かってるって言ってるじゃねえか」
小声で最後の確認を取る伐の前に、男たちは静かに握り拳を差し出した。
「生きて、おっさんたちに会おうぜ」
「おう」
「俺たちのおかげで勝った、って言わせてやろう」
にっ、と笑いながら、伐は全ての握り拳と自分の握り拳とを、とんとんと打ち付けて行く。そして最後の一人の拳と打ち合った途端、くるり、と背中を向けた。
「行くぜ! 下手こいておっさんらの馬に蹴られちまうんじゃねえぞ!」
★★★
「敵襲だあ!」
其の叫び声は、闇夜を切り裂いた。
惰眠を貪っている禍国軍の耳に、敵だ、敵が攻めて来たぞお! という切羽詰まった叫び声が届く。
「うぅむ……何、何と申した? ……敵? 敵、だとぉ……?」
「……契国が攻めて来たとでも云うのか?」
「はっははは、いやまさか、契国如きに然様な胆力はあるまいて……」
「然様、然様……」
ほんの半時辰程前まで浴びるように呑んでいたのだ。
酔はまだ深く彼らの体内に根を張っている。
殆ど酒其の物の臭い息を塊で吐き出しながら、男たちはのっそりと起き出した。が、脚が縺れまともに歩けない。
ふらふらと千鳥足で、進んでいるのか後退しているのか分からない足取りである。惚けた顔で、二重三重にぼやけて焦点の定まらぬ視線を、彼方此方に彷徨わせる。
「……ぶ……武具……武具は、どうした、武具は……おう、こ、此処か」
「こら、貴様、何処を探っておるか」
「ぬ、此れはしたり……済まぬ、済まぬ……」
甲冑に手を伸ばしている積りで、仲間の尻や腰を弄っているような有様だった。
此の時に、彼らは気が付くべきだったのだ。共に寝所にしけこんだ女たちが全員、綺麗に姿を消していた事に。
「おい、一体どうなってやがるんだ、こりゃ」
敵襲だ、と声を上げながら駆けまくったと言うのに、一向に動きがない。伐たちは苛々し始めていた。
「なあ伐、こうなりゃ、おっさんらが来るのを待つまでもねえや」
「そうよ、俺たちでやっちまおうぜ」
血気に逸る仲間たちは、言うなり、軍に舞い戻らんと飛び出し掛けている。何時もであれば、先頭に立ち率先して彼らを焚き付ける側である伐は、腹の中で畜生、と毒付きながらも、まあ待て、と仲間を止めた。
「俺たちが下手な動きをしたら、おっさんらが逆に負けちまう場合もある」
「けどよ、伐」
「俺たちは任せられた動きを確実にこなした。其れだけでいい」
「……う」
「けどなあ……」
仲間たちはまだ不平不満たらたらだ。伐も、煽りたくなるのを必死になって堪えていた。此処が我慢のしどころだと自分に言い聞かせる。
「俺たちにゃ、まだ言いつけられた仕事が残っているんだ。最後の仕上げをするおっさんたちの迷惑にならねえようにするのが、俺たちが取るべき上策ってもんだ。そうだろ?」
「……う」
「ぐ、うぅ……」
低い呻き声を発しながら、仲間が身悶えしている。
其れはそうだろう、自分たちの国の趨勢を他人に委ねるしか無いなど、こんなに切ない事があろうか。
伐は殊更明るい笑顔を作ると、ばん! と勢いよく仲間たちの背中を叩いて回る。
「堪えろ。そして任せる事に慣れるんだ。陛下が統べる世に俺たちゃ生きる。そう決意したんなら、陛下の気持ちに従わなきゃならねえ」
訴える伐の姿に、仲間も漸く、はっとなった。
誰よりも、飛び出して行きたいのは契国を飛び出す時に旗印となった伐自身に決まっている。
しかし、彼は今、唇の端を噛み締めて耐えているではないか。
伐の背中を見、そして仲間同士で顔を見合わせあい、小さく頷きあう。そして、身を寄せ合いながら、此の先の顛末を息を呑みながら待った。
★★★
「おい、此れは一体どういう事だ!?」
「あぁ~ん、何がだ」
深く悪酔いしている禍国兵たちは、仲間の青褪めた声にも呑気な返答をしていた。
「何を寝ぼけておる! 見よ、見よ、此れを見よ!」
「ああ、ああ、何をそんなに切羽詰まった声を出しておる……」
「然り、然り、酒気の残った頭に響くではないか……」
「良いから見ろ!」
首根っこを押さえ付けられた男は、流石にむっ、とした顔をしたが、直ぐに現状を理解した。
「ぶ、武器が!?」
「武器がない!?」
武具を納めていた天幕が、空になっているではないか。
「ど、ど、どういう……」
「何故、一体どういう事だ!?」
慌てふためき、手足をばたつかせる。まるで岸辺に打ち上げられた魚のようだ。酔が一気に冷めたはよいが、今度は自分たちが置かれた状況に背筋を凍らせた。
「敵……敵が来た、のに……」
「……武器が、ない……だ、と……?」
ごくり、と何処かで生唾を飲み下す音が響いた。
「敵だ!」
「敵襲だぞぉ!」
再び、敵の襲来を告げる切羽詰まった声が夜の闇の中を走り出す。禍国兵たちは声を耳にした途端、一斉に、わっ! と駆け出していた。
「に、逃げよ! 逃げるのだ!」
「走れ! 厩まで走れ!」
「馬を! 馬を!」
わあわあと仲間を押し退け、我先に厩へと走る。
だが彼らは馬糞臭さを嫌って厩はかなり遠方に備えさせた為、走っても走っても、一向に厩が見えて来ない。
走るだけの体力もない彼らは、あっと言う間に地面にへたり込む。ひぃひぃと言いながら、殆ど這いずる様に進む。余りと言えば余りの無様さだが、もう互いの格好を構う余裕すらない。
「どうなっておる! 何故、厩に着かぬ!」
暗闇の中、獣宛らの息遣いを聞きながら這い進むのは心を恐怖に啄まれていくのは当然ではあるが、着かぬも糞も、20間も走っていないのだから着くわけがない。しかしそんな事に目が向きもしない程、禍国兵たちは追い詰められていた。
何処かで悲鳴が上がった。
其れが益々、恐怖心を煽る。
「何処だ!? 奴ら、何処まで迫って来ておる!?」
「近くに迫っておるのか、どうなのだ!?」
「ああ糞が! 馬は!? 馬は何処だあ!」
其処に、馬の嘶きと蹄が力強く地面を削るが聞こえてきた。
おお! と喝采を挙げんばかりになりながら、禍国兵は視線を集中させる。
そして馬の形が朧げに浮かんでいるのを眸にした途端、弾かれた様に我先にと走り出した。
「私の馬が!? な、ない!?」
「買い求めた最高の馬だぞ!? 其れがおらぬ!」
「えぇ、喧しい! どの馬でも構わん! 先ずは私を乗せろお!」
「何を!? 私が先だ!」
「煩い! 私の父は爵位を有しておるのだぞ、控えよ!」
「何を言うか! 我が父は3品の地位にあるぞ! 私が先だ!」
「其れを言うならば我が家門は皇帝陛下の家門に連なっておる! 私が先に決まっておろうが!」
「其の方など系図の端にも載らぬ身ではないか!」
「何だと私を誰だと覚えおるか! 私の血筋は皇祖より続くものぞ! 私に馬を寄越せ!」
「我が家門こそは帝国開闢以来の名門であるぞ! 馬は私のものだ!」
互いを押し遣り蹴り倒し痛罵しながら馬を求めて腕を伸ばす。
手綱も無ければ鞍もない、満足な装備など何一つないが、次々に馬に飛び付く。馬着の上に無理矢理乗った禍国兵たちは、今度は何方の方向に向かえば良いのか分からず、混乱の極みとなった。
まだ夜は明けていない。
此の暗闇に乗じれば逃れ切れる。
だが闇夜の最中を先導も無しに走り切れる程、彼らは地図を脳裏に叩き込んでいない。そうなれば攻めて一条の光が空に灯るまで待たねばならない。
だが朝日が登れば、敵も自分たちを見付け易くなる。瞬く間に追い付かれてしまうだろう。其処へ、天啓のように響き渡る声が上がった。
「皆様、此方に」
「おお!」
「良い処に!」
「早よう、早よう我らを逃がせ!」
「どうぞお慌てにならず」
殆ど泣かんばかりの態になりながら、いやもう、顔面を涙と涎と鼻水でぐっしょりと濡らして禍国兵たちは導かれるままに馬を走らせた。
先導する者に、何者であるかという誰何をしようなどという気を回す事すらなく。
★★★
何処をどの様に走らせたのか。
理解している者は一人も居ない。
手綱がないので鬣にしがみ付くしか無く、鞍がないので馬が一駆けする度に尻を酷く打ち付ける。
おまけに、女たちを遊び呆けたままの寝入り、其の姿のまま飛び出してきていた。
此の季節では考えられぬ薄着なのだ。夜明け前の静謐な空気は、否応無しに禍国兵の肌を深々と突き刺してくる。棘のように一度刺されば抜けぬ冷気に苛まされながら、禍国兵たちは蛭のように馬の背に張り付いていた。
「よ、夜明はまだか!?」
「朝日は、ひ、光はまだ見えぬのか!?」
恐怖に追い立てられながら走り続けている彼らには、時間の感覚すら疾うに失われている。
おまけに、光は極僅かしか無い。
先導者の手元に在る松明の炎、其れのみだ。只管に、松明を見詰めながら馬を走らせる。
まるで亡霊が浮かべる人魂のようにぬらぬらと輝く松明を見ていると、此れは若しや冥府へと誘われているのではないかというまた別の疑念が沸き起こり、疑念は恐怖へと直結して男たちを捉えて離さなくなる。
馬蹄の音と、己が吐く息の音、そして鼓動ばかりがやたらと耳孔と体内で響き渡る。わんわんと反響する三つ巴の音に目眩を起こしたのか、一人、また一人と馬から転げ落ち出した。
「皆様、どうぞしっかりなさって下さりませ」
「何を言うか! 貴様が無理をして走らせ過ぎておるのではないか!」
「そうだ! 責任を取れ責任を!」
「だ、だいたいが斯様な強行軍を行わずとも逃げ延びられたのだ!」
「そうだとも! 我らに斯様な無理を押し付けた其の罪、万死に値するぞ!」
恐怖に押し潰される寸前の魂は、遂に先導者を糾弾する事で其れ等の痛みを消し去ろうとする愚挙に出た。
一人が喚き散らしだすと、我も我もと乗っかって騒ぎたて始める。非難囂囂の最中、先導者が、……ふっ、と短く口の端に皮肉めいた笑みを浮かべた。
「……馬鹿だ馬鹿と思っておったが、此処まで馬鹿であったとは……」
「ああ!? 貴様、何と言うたか!」
「万死に値する、だと?」
おかしくて堪らぬ、と男が身を捩りながら哄笑する。
「其れは貴様たちの方だ」
言うなり、男の姿がまるで煙のように掻き消えた。
鬣を握っていた者や辛うじてしがみ付いていた者を除いて、馬も嘶きを発して四方へと散っていく。
ほぼ丸裸の状態で取り残された、と実感するまで一瞬の間を要した。そして半瞬の後、禍国兵たちは恐怖の雄叫びを上げた。
まだ開けきらぬ空は深い藍色を留めており、月明かりすら微かでは隣の者の顔すら定かではない。
「ど、何処だ!? 此処は何処だぁ!」
「助けよ! 我らを助けよ!」
「誰でもよい、助けよ、助け……助けてくれぇ!」
恐怖に囚われた禍国軍は、今や、無秩序極まり無い、恐慌状態の大混乱となっていた。
★★★
「太尉様、彼処を」
「うむ」
杢が指し示す先に、弧を描く灯りがある。
馬上の優は、深く頷いた。
ほぼ、予想通りの刻限に予定通りの場所に禍国軍を誘き寄せて呉れた薙と萃たち草の力量と、そして正規軍相手に尻込み一つせずに任を遂行した伐たちの胆力に舌を巻きながら、優は不敵な笑みを浮かべた。
「遣りおったか、奴らめ」
泥酔させた禍国兵たちは、更に散り散りになるよう薙と萃たちにより手引きされている。
喩え全軍は1万超えであろうとも、一点を見れば3千にも満たない。
而も、武器一つ持っていない文字通りの丸裸である。
精鋭2千騎対裸ん坊の赤子の如き3千の兵。
何方が優位であるか、天帝は何方を愛して勝利を与えるか。考えるべくもない。
「軍旗を掲げよ!」
優の指示により杢が腕を振り上げる。
「太尉様の軍旗を! 我らが句国の軍旗を!」
待っていた、と言わんばかりに軍旗が掲げられる。
無論、こんな短期で太尉の軍旗は用意出来ない。城に残されていた僅かばかりの句国の軍旗を引っ掻き集めたものだ。
其れに『優』の名を入れた軍旗を添わせる。初めて旗持ちを許された日から使い続けている愛着のあるものだ。
句国の軍旗と『優』の軍旗に続いて、『杢』の軍旗がまだ明けを知らぬ空に掲げられる。
「者共、聞け!」
馬上の優の声が、響き渡る。
「此れは只の戦に在らず! 陛下が御世を明るく照らす為の大掃除だ! よって奴らに情けは無用! 徹底して叩きのめせ! 一兵たりとて逃すでないぞ!」
「おおおおおおお!」
優が剣を抜き放ちながら命令すると、兵たちは興奮気味に呼応する。
冷静沈着な杢ですら、眸の端を赤く染めている。己の我儘に付き合って呉れる酔狂な部下たちへの熱い感謝の意を込めつつ優は吠えた。
「行くぞ!」
先頭を切って、優が愛馬を駆けさせる。杢が背後にぴたりと付けて続いて駆ける。
「太尉様に続けえっ!」
「おおっ!」
「遅れるなぁ!」
「うおおっ!」
闇をものともせず勇躍する二人に鼓舞されるように、2千騎が一斉に疾駆する。
津波のような馬蹄の音を轟かせながら、優と杢、そして2千騎は禍国軍目指して突撃を開始した。
徘徊する禍国軍は正に捨て子の群れのようであった。
親と大帝国いう庇護者を求めて泣き止まぬ赤子のように、安全な場所を探して彷徨っていた禍国軍は、地面から伝わる不気味な振動に気が付いた。
残っていた馬が、敏感に異変を察知して泣き喚き、首を激しく振り、尻込みを繰り返す。
「どうした、何があった?」
恐怖に首まで浸かっている彼らは微かな異変でも怖気立ち益々、挙措を失う。
「落ち着け、こら、落ち着けと言うに!」
鞭で従わせようとしても、手にしていない。誰かが堪らず悲鳴を上げた。狂乱、否、発狂だ。
「喧しい! 喚くな! 鬱陶しい!」
怒鳴り散らす声は、だが途中で遮られた。
馬を御しきれずに放り出されたか、と見た男は、隣に居た男の顔が闇夜と同じ色になっているのに気が付くまで少々の時を有した。
「ひ、ひぃぃ!?」
自分の叫び声を聞いたのが、其の男のまた生命の最後であった。男は、目の前にいた仲間と同じく首から上が闇と同質となっていたのだ。
「ぎゃああああ!」
叫び声があがる。絶叫だ。
「敵、敵だあ!?」
「敵だとう!?」
「誰だ!? どいつの旗だ!」
誰もが思った。
敵とは何者を指すのか。
契国に、此処まで豪胆な強者が潜んでいたのか?
恐れ、そして叫び声のは祈りのような、生命を惜しむ断末魔が、問いに答えた。
「く、くこく……のっ!?」
「……句国、だ、と?」
禍国軍に再び恐怖の大渦が起こる。
「では、敵は――」
「皇子・戰、なのか!?」
「えぇ、糞、旗は!?」
「旗印は――」
答える声は、一閃した剣の煌めきに根刮ぎ刈り取られていた。
「旗は誰の物であるか!」
「答んか、馬鹿ものど――」
再び答えを促す怒号もまた、途中で刈られる。
阿鼻叫喚の地獄絵図。
正に、文字が現すが如くの世界が一方的に展開されていた。




