2 戦地鳴動 その2-2
2 戦地鳴動 その2-2
「おっ? 帰って来やがったな?」
戻って来た薙と萃の腕をとらんばかりに身を乗り出した伐は、まるで悪童のようにわくわくした面持ちだ。既に一端気取りであるのだが、此の男は厭味に映らない。何にしても、全てが己が国の為、契国愛しの発露であるからであろう。
「どうだ? なあ、どうだったんだよ?」
「ちょっと待て。水くらい飲ませろ」
些か苦笑混じりに、薙が水を満たした竹筒を傾ける。
芙が率いる5人の仲間の中では最も若い薙は、年齢的に感情の表し方や感覚が伐に近い。其れに気性も似ている。だからか何かと馬が合う。太尉となった優が率いる2千騎に選抜された二人であるが、此の処、何かと連むようになっていた。
薙が喉仏を激しく上下させて水を飲む間に、萃は帛書と墨を用意させていた。萃は一度見た地形を違えず脳裏に焼き付け、而も其れを地図に起こす特殊な能力がある。奇襲戦の難しさを知る優が、たっての望みで彼を自軍に引き入れた所以である。
「敵の様子はどうだ?」
杢を率いて現れた優は、萃が帛書に筆を滑らせ始めていると知って口を噤んだ。
犬がじゃれ合っているかのようだった薙と伐も、大人しくなる。皆が手元を注視している中、萃は迷いなく筆を走らせている。
地図が描き上がると、萃は筆を変えて、丸やら点やらを書き足しだした。どうやら、此れが禍国軍であるらしい。
「総勢は分かるか?」
「大凡、1万5千程であるかと」
「1万5千か」
ふむ、と優は腕を組んだ。
当初の見立てより大幅に多い。
「へっ! 多けりゃ良いってもんじゃねえだろうが」
「言えるだけの実力が備えて居る者だけが吐ける言葉だ、其れは」
気合い充分な伐を、優は落ち着き払った声であっさり抑える。優の武人としての凄みを見てきている伐は、むっ、としつつも素直に引き下がった。下手に言い募って、邪魔だ帰れ、などと今更言われては堪らない。
そもそも、伐が率いる契国の男たちは、直接の戦闘に加わらない。
其の辺りを考慮すると実質10倍の敵と戦う事になる。
「予想以上ではあったが想定外ではない」
初陣から此の方、もっと酷い戦場に身を投じた事など幾らでもある。
優に恐れなど微塵もない。
其れに何より、此度は手ずから育て上げた部下と信頼の置ける仲間を率いている。
此れで勝てぬ訳がない――という絶対の自信が優にはあった。理由など無い。眸の前に居るのは信じるに足る男たちばかりである。其れだけで充分過ぎた。
萃が丸を描き終え、筆を置く。口の中で何やらぶつぶつと呟きながら、指で丸と点の上をぐるぐるとなぞっていた優だったが、ぬう、と一声漏らすと、萃よ、と声を掛けつつ腕を組んだ。
「契国を討つ為に分かたれた此方の軍の本隊はどれだ」
「本隊は在りません」
「本隊が無い――? 其れはどういう事だ?」
流石に杢も眉を顰めた。
本隊が無いなど、古今東西聞いた事が無い。伐も呆れて肩を大きく上下させた。
「んな馬鹿な話しがあってたまるかよ。俺ぁ戦はど素人の男だがよ、大将が引き連れる本隊が無けりゃお話しになんねえ、って事位、分からぁ。なあ?」
「俺に言われても困るんだが」
苦笑しきりの萃に、まあ、待て、先ずは其の方も休め、と優は労いの言葉を掛ける。
「そんな馬鹿な話しが存在出来るのが今の禍国なのだ。何しろ奴らは想像以上の馬鹿どもの集まりだからな」
「太尉様は、お分かりになられるのですか?」
「なに、至極簡単で単純明快な話しだ。奴ら、大将は自分こそが相応しい、己が指揮を取り、軍を率い、戦を勝利に導くべきである、と思って居るのだ――全員が、一人余さず、な」
「其れは」
杢が絶句し、伐はきょとんとした後、腹を抱えて笑い転げる。
「成程な、どいつもこいつも、全員が全員、俺様が御大将だ、つっていたんじゃあ本隊なんざ無えや、そりゃ。一体、何処からそんな自信が湧いて来るんだか聞いてみてぇな、なあ、旦那」
「……」
ひいひい言っている伐の横で、しかし杢は複雑な表情をしている。
落ちぶれたとはいえ、仮にも、禍国は祖国である。
自らを鍛え、育んで呉れた国である事実は揺るがないし消えない。
幾ら句国王と成った戰に忠誠を誓っているとはいえ、己が根幹である国が凋落していく姿を笑ってみていられる程、杢は単純ではない。
押し黙った嘗ての教え子の肩を、優は軽く叩いた。はっ、と顔を上げた杢に、優は力強く頷いてみせる。
「気持ちは分かる、とは言わん。だが切り替えよ」
「はい」
杢は素直に答えた。
天涯孤独の身である自分は、禍国対して気遣いする必要は、もう何もない。
だが、何処でどうなろうとどうしようと、一切後腐れの無い自分と違い、優は禍国において軍の最高官位に在り、正室の妙と息子の鷲と隼の二人を残している。
皇帝・建の性格からして残された家門一同がどのような目に遭っているのか、想像に難くない。
愛情は疾うの昔に側室の好と愛娘の娃に移ってしまっているとはいえ、最も逼迫した激動の数年間を過ごし、次々に息子を産んだ妙に感謝をし、成長する息子に感動を覚えた、『家族』であるのだ。
――太尉様は其の事実を忘れるような御方ではない。
自分が萎れていては、太尉様こそ罪悪感を持たれてしまわれる。
杢は表情を引き締めた。
「太尉様、禍国軍を叩く策は、既に練られておられるのですか」
「無論だ。生命を脅かされる恐怖を知らず安穏と搾取する事が当然と構えて居るような奴ばらに、とことんまで教えてやろうではないか」
杢の気遣いを知ってか知らずか、優は常と変わらぬ態度で萃が帛書に描いた地図の上に手を置いた。
「戦とは如何なるものかを」
★★★
戦勝祈願の筮いで一旦、東燕に向かうべしとの卦が出たというのに貴族高官の子弟たちは大保――いや此の場合は大司馬と言うべきだろう――の前に徒党を組んで押し掛け異論を唱えた。
「建前は立派だが功名心に駆られての大言壮語、稚拙な綺語だな」
「へっ! 平たく言っちまえば、ちんたらしていないで、とっとと契国を討て、って事じゃねえか」
「……伐」
「馬鹿にしてやがる! 俺たち程度の国を掠め盗るなんざ、戦の内にも入りゃしねえってか!」
怒髪天を衝く表情で伐は吐き捨てる。まあ、落ち着け、と報告途中の萃が伐を諌める。
「其処までは良いとして、だ。実は」
「大保の事だ。殊勝な態度も一瞬で彼方に置き去りにしたのであろう」
優が被せるように先んじて答えると、薙が肩を竦めた。御明察です、と言うのも馬鹿らしいのだろう。
「息を巻いて喧伝して回った手前、進軍はしておるようですが。遅々として進んでおりません」
「ああ、報告せんでも眸に見えるわ」
優が野良犬を追い払うように手を振ると、薙も苦笑した。
「奴らの行軍がまともだったのは2日です」
つまり、実質は1日半という事である。
「三日坊主にもならんのか」
「ではもう、契国に向かう禍国軍の統率は既に無きに等しいな」
「先頭は何処まで来ておるか……何だと、まだこんな処をうろちょろとしておるのか」
「はい、何しろ奴らの行軍速度は、今や1日1里にもなりませんので」
「何ぃ? 1里にもならんだと?」
確かに、到達地点と出立してからの日数を逆算すればそうなる。馬鹿な、と優は半ば呆然とする。
「たった1里が行けぬ……だと? 其処まで落ちぶれたか」
「更に付け加えて申し上げますが、既に軍は、先頭と殿の距離は2里半近くまで伸び切っております」
「先頭と殿の差が2里以上……」
優は最早、呆れきって声も出ない。腕を組んで天を仰ぐのが精一杯だった。
「此方の、私が書き加えました点と丸が禍国軍で御座いますが」
帛書に手を伸ばした萃に、其の先はもう言わんでも良い、と杢が目配せする。そして、気の毒そうに敬愛する上官を見遣った。優はまだ、腕を組んで顰面をしている。
「凋落も極まれリだな」
戦に勝利するには、戦をする前に勝利を確実にすべし、敵を圧倒する兵力で以て挑め、という持論を優は持っている。
然し乍ら戦に至る前、詰まり行軍中、最も気を遣うべきであるものとして、優は先頭と殿との距離をあげていた。
多くの兵馬を率いれば率いる程、先頭から殿までの距離が長くなるのは道理である。開きすぎては伝達もままらなぬし横から奇襲を受けた場合、総崩れとなる確率が高くなる。
其れ故、基本的に優は隊列は伍長を左に置いて横五人として歩かせ、1万人の歩兵で先頭から殿までの距離が半里内で収まるよう編成し、而も崩す事は決してなかった。そして通常の行軍は最も速度の遅い歩兵に速度を合わせる為、距離を稼げたとしても一日平均4里が精々で、いっても5里半だ。
其処を優によって鍛え抜かれた禍国軍は最長で一日平均7里近くの距離を稼ぐ。
出会い頭的に戦闘状態に陥った場合を考えて、歩兵に無理はさせるべきではない。だが、優はやってのけるのである。これがどれだけ凄まじく人知を超えた軍の力であるか、理解出来る者は少ない。しかし知る者は優を味方に付けた事を天帝に感謝し、敵を憐れまずにいられないのだ。
加えて、統率の取れている軍隊はまだ良いのだが、実は衛生面を預かる部隊や兵站部隊などを遅らせず指示を確実に行き渡らせて、鍛え抜かれた兵馬と同様の速度で動かす事が一番難しい。
真は何かと言うと、父親の絶対勝利について敵を圧倒する軍勢を揃えての出陣を常に挙げていたが、第二条件を挙げよと言われれば間髪を容れず、此の行軍速度と編成維持能力を挙げただろう。
「まあ、そんな小難しい面してんじゃねえや。敵が自分の力を過信して油断しきっちまってるってなあ、言ってみりゃ、何処からでも攻め放題やり放題、って事なんだろ? 良いじゃねえか、楽に片付けちまえそうで」
「……楽、か」
励ましている積もりなのだろう、伐が殊更、大声を上げて優の背中をぶっ叩いた。伐は優の全身が前後左右に揺れる程の馬力で殴った積りだったが、しかし微動だにしない。ぎょ、となって思わず後退りする伐を、ぎろ、と優は睨む。
「今、確かに言うたな?」
「……へあっ? いや、言ったって、何を?」
「何処からでも攻め放題、やり放題、とな」
「はあ? あ、ああ、まあ、言いはしたけどよ……」
ようし、と優は伐の肩を強く叩いた。
「では、其の方らに策を授ける。必ずや、我が策の通りに動くな?」
「何でえ、回りくどいな。当たり前だろうが。とっとと、やれ、って命令してくれりゃあいいんだよ、命令してくれりゃあ」
「言ったな? 男に二言は無いな?」
「ああ、糞、くどくど煩えぜ、おっさん。いいから早く言いなって」
にや、と不敵な笑みを浮かべた伐に、ようし、と優も笑い返した。
★★★
「ちっ、しかし本当にしけた国だな、契国という国は」
「ああ、全くだ。此処まで鄙びておるとは思わなかったぞ」
「鄙びておると言うより萎びておるぞ」
「おお、上手い事を言うではないか」
「いや正しく其の通り」
疾うの昔に馬から降りて天幕にしけこんだ男たちは、何度も溜息を吐いた。
見てくれだけは実に立派に着飾っているが、実際に彼らのぼやきの理由は長く馬上に在った為、尻が痛くて敵わないのも然る事乍ら、契国に至るまでの道程が此処まで単調で退屈極まりないものであるとは思ってもいなかったのだ。
彼らの予想――というよりも夢想と言うべきなのだが――では、行く先々で契国の抵抗勢力と衝突を繰り返すであろ、其の度に侵攻を阻止せんと足掻く契国軍を蹴散らし、略取した城で美酒佳肴を味わいながらの響宴にふける腹積りであったのだ。
だが、予想は風に吹かれて崩れ落ちる砂の塔よりも脆く砕けた。
禍国の錦衣玉食の生活しか知らぬ彼らにとって、契国の逼迫した内政事情、粗衣粗食がやっとの暮らし向きなど想像も出来ないものだった。
「枯れた土地とは言え、人間が住むのだ。もう少しまともな食物があると思っておったが」
「何が御大層に契国などと大見得を張った名を名乗っておるのか」
「いっその事、萎国とでも名を変えれば良いわ」
「全く全く……おい! 誰か居らぬか!」
「酒膳の用意をせぬか、気の利かぬ奴らめ!」
ぼやきながら、誰が命令する。すると、仲間が肩を竦めて首を振った。
「止めろ止めろ、期待するだけ無駄だ無駄」
「しかしな、王都から苦労続きで此処まで来ておきながら、何も無いでは」
舌打ちしつつ口惜しそうにしている。
「こんな事であるのならば、大保の陣に残った方がまだましで在ったかも知れぬ」
「此の萎国は絞っても水も漏れ出ぬ、衣のようなものだな」
乾いた笑いが上がった。
「こんな時に上手い事を言うではないか」
形容し難い笑いが空気に揺れる中、伝令が足早にやって来た。
「恐れ乍ら申し上げます」
「何事だ」
思う様にならず鬱憤が大いに溜まって為、誰も彼も気が短くなっており、声に険がある。伝令は、些かむっとした表情を隠しもせず続けた。
「契国の住民どもが、献物品を朝さんと面会を求め来ておるのですが……」
「何? 萎……いや、契国の者めらが?」
「我らに幣物を持ってきおったとな?」
「如何致しましょうや?」
男たちは顔を見合わせあった。
「ははっ、いよいよ我らに恐れをなして、取り入ろうという訳か」
「はっははは、馬鹿正直さが愛いではないか」
「おう、虚礼だとしても、かわゆげがあるな」
一転して、場に満ちていた笑いが権高なものへと調子が変わる。
「何を献上しようというのか、聞いておるか?」
「はっ――その、美酒佳肴を先ずは、と申しておりますが」
美酒佳肴、と聞いた男たちはまた目の色を変える。ごくり、と喉仏が激しく上下した。
「良かろう、可愛気のある折角の申し出だ、受けてやろうではないか」
「運ばせるがよい」
既に酒に酔ったような声で申し出に許しを与える男たちの心は、既に放歌高吟の宴の世界に飛んでいる。だから誰一人として気が付けなかった。跪きながら、頭を垂れる伝令の双眸が、強い光を放っているのに。
運び込まれた歓待の膳の品々に、貴族高官の子弟たちは眸を丸くした。
「ほ、お、お、おおおっ!?」
「なかなかどうして、此れは」
出陣してから此の方、初めてまともな宴の席を目の当たりにし、既に頬と口元は緩んでいる。
こうして、贅を尽くした饗膳と珍しい酒が揃い、思わぬ宴が始まった。
「萎国の癖に、なかなか遣りおるではないか」
「ふむ、まあまあといった処だな」
一汁一菜の簡素で地味な食事ばかりに飽いていた彼らにとって、山海珍味は五臓六腑に染み入る旨さだった。
酒を満たした瓶子は傾ける先から空になり、次々に新たな酒が振る舞われる。
膳も気が付けば皿が追加されており、箸が止まらない。腹が満ち足りたとなればもう一方の欲望を満たしたくなるのは男として自然の摂理である。
となれば期待するのは、そう、『女』がいつ振る舞われるのか、という一点となる。酒が回った汗の玉が浮いた赤ら顔で、男たちは今か今か、と忙しなく膝を揺する。
男たちの期待は裏切られなかった。
程無く、するすると入口の垂幕が巻き上げられ、しずしずと数人の娘たちが姿を現したのだ。
娘たちは皆、緊張で頬を固くし顔色を青褪めさせている。一見して、そこらの邑から掻き集めてきたと思しき、素人娘であると分かる。一張羅を引っ張り出してきたのだろう、着慣れぬ着物で懸命に着飾っているからだ。
男たちの口元に、下卑た笑いが浮かんだ。
禍国では手練手管に長けた玄人女ばかりを相手にしてきた。が、たまには全く畑違いの初でかたい未通娘も乙なものだと舌舐めずりせんばかりとなっている。
「ようし、此方に来い」
「どれ、可愛がってやろうではないか」
鼻息も荒く、自分たちの膝の傍らを叩きながら娘たちを呼び付ける。娘たちたちは小さく肩を窄めながら、おずおずと近寄って来た。無遠慮に明け透けな色仕掛をしてくる女とは違い、自分たちの身分を恐れ敬う様子が其処には見て取れる。
此れまで味わった事がない興奮を男たちは覚えた。
「座れ、は、早く此処に」
「此処だ、此処」
「は、早ようせよ、早よう」
ばんばんと激しく地面を叩かれ、怯えながらも娘たちは一人一人の傍に腰を下ろした。
そんな娘たちの身体を舐め回すようにじっとりとした眸をしながら、男たちは盃を差し出す。瓶子を取り上げて酌をし始めた娘たちは、やはり、鷹か蛇にでも睨まれた小動物のように小刻みに震えている。
一気に欲情を煽られた男たちは、上機嫌で酌を受け、注がれるまま普段では有り得ない速さで酒杯を重ねていく。
「其の方らは運が良いぞ。禍国の男の強さというものをとっくりと教えて貰えるのだからな」
男たちは、ほんの3刻程の間に、すっかり出来上がってしまっていた。
★★★
軽く叩いた仲間たちの背中は、見張り番という慣れぬ仕事による極度の緊張感からか固くなっていた。
「交代だ」
「おう、伐か」
「もうそんな時間かよ、早えな」
「集中していると時間が経つのは早く感じるもんさ」
振り返った男は相手が伐だと知るや、くしゃ、と泣きそうな顔になり、ほう、と長い息を吐く。伐は隣に腰を下ろした。
「様子はどうだ?」
眸を細めて先を睨む伐の横で、仲間たちは呆れきった顔になると顎を刳り、闇夜に浮かぶ煌々と輝く光の羅列を示した。
「酒が入ってからもう直ぐ1時辰になろうってのに、まだ騒ぎは止まねえよ」
「そうか」
「全くよ、よくもあれだけ騒げるもんだぜ」
「馬鹿騒ぎの天才って奴なんだろうよ」
「へっ、違えねえや」
「だが1時辰経ったって事ぁ、いつ何時、萃と薙から連絡が入るか知れねえんだ」
「ああ、気は抜けねえ」
交代を告げたと言うのに、伐の横から男たちは動こうとしない。自分たちが戦の趨勢を左右するのかと思うと、興奮からなかなか離れ難いらしいのかと思いきや、不意に、何か心配気にすり寄ってきた。
「しっかしよ、なあ、伐」
「何だ」
「信じてねえ訳じゃあねえがよ、本当に、こんな策が通用するのか?」
「さあな」
聞きたい事は此れだったか、と思いながら、伐は手の平で庇を作りつつ伐は禍国軍が放つ光を一つ一つ、確かめて行く。
「まあ、気持ちは分からんでもねえがよ」
優の策とはこうだ。
先ずは禍国軍の隊列を更に間延びさせる。
元々、各部隊で伝令を走らせ連絡を取りあってなどいない。
途切れ途切れとなれば、当然、孤立する。
「其処を私と杢が其々千騎を率いて各個撃破する」
相手が総勢1万5千であろうと、2~3千騎にまで分散されてしまえば各個撃破出来る。そう、優と杢の部隊ならば出来る。
「ちょっと待てよ。小間切れにとか、そんな上手い事行くのかよ」
「行かせる様、努めるのが其の方らの仕事だ」
此処に至り、伐が流石に弱気を見せた。責任重大処か、戦の鍵を握る立場に押し上げられるとは。だが、背筋にはぞくぞくとした者が這い上がって止まらない。此れが戦場に居る者だけが味わう恍惚感なのか、と身震いしつつ実感した。
「そして間延びさせただけでは足りん。確実に勝利を我らがものにするには、更にもう一押しせねばならなぬ」
「と、云うと?」
「奴らを逃げ場のない場所に逗まらせねばならん」
「其の方法は?」
「其れは至って簡単だ」
にやり、と優は笑ってみせた。
門閥貴族と高位高官の子弟たちは自分本位で傍若無人で而も放蕩三昧な生活こそが自分たちの生きる場であると信じ切っている。其れ故、何の遊興もなくただ疲弊が蓄積していくだけの行軍など直ぐに投げ出したくなるに決まっている。
「そんな奴らには望むままの餌を与えてやれば良い」
「具体的には?」
「酒と女を与えてやるのだ。奴らは飛び付いて離れん。後は勝手に自滅する」
「おい待てよ、酒は兎も角、女は……」
盗みを行うのは兎も角として、女とは。
自分の娘や姉や妹たちを生贄として差し出せ、と言っているのに等しい。
怒りを顕に熱り立つ仲間を抑えながら、伐も険しい顔となる。予想していたのだろう、ああ案ずるな、と優は手を挙げた。
「其処は心配するな。萃が何の為に飛んだと思っておる」
「あん?」
「禍国に残してある奴らの仲間に協力を求め、此方に向かわせるよう手筈は整えてある」
「……」
此処まで言われてもまだ、伐は眉を寄せて不信を顕にする。
「腐っても鯛、って云うだろう? 幾ら落ちぶれたとは言え、平原一を誇る禍国軍何だぜ? そんな単純な手に引っ掛かるもんか?」
「心配するな、と云うよりも奴らをそう過大評価してやるな。彼奴らには捻った策を見抜くだけの能は無い。単純で無くてはならんのだ」
「……」
そんなもんかね、とまだ不信感を拭えぬ伐に、買い被ると馬鹿を見るだけだぞ、と優は豪快に笑ってみせたのだった。
「本当に大丈夫なのかって聞きてぇのは俺の方だよ、馬鹿野郎」
などとは口が裂けても言えない。
だが自分が信じねば、仲間はもっと、禍国兵部尚書であった優を信じない。
「此処が契国の正念場なんだ、俺もいい加減で腹を括りやがれってんだ」
腹の底で、己自身を叱咤激励するが、どうしても不安は拭えない。
戰を見るように無条件で優を信じるまでには、伐たち契国の民はまだ至っていないのだ。




