2 戦地鳴動 その2-1
2 戦地鳴動 その2-1
――大司馬・受に告ぐ
総勢4万の軍を与えるものとす
速やかに契国を攻め此れを討滅すべし
皇帝・建よりの号令が正式に発せられた。
出陣までの数日間、華々しい儀式の数々が晴天が復活し季節感を取り戻し始めている禍国の空をまるでまほろばに誘うかのように彩り、綺羅びやかな式典は戦勝祈願の典礼舞において興奮は最高潮に達した。
建は鼻息も荒く、美姫たちが翻す裳裾の動きを追っている。
父帝・景の治世下でさえ行う事は不可能と言われていた、国一番との誉れ高き妓女を筆頭にして国中から美貌で知られる妓女を掻き集めての群舞を、大保・受の反対を押し切って成功させたのだから尚更だった。
「見よ、見よ、見るが良い! かくも壮麗にして典雅な儀礼を行えるだけの力量を備えし皇帝は私以外に居らぬ!」
――そうだとも!! 我はとうとう皇祖を超えたのだ!
「どうじゃ? 選りすぐりの美貌の妓女どもよ。薹が立った婆ばかりの宮妓どもの舞など見ても鼓舞されぬからな」
建の言葉に、だが皆、生返事だった。
貴族高官たちは先ず、此れまで体験した事もない美姫の群舞に度肝を抜かれ、次いで涎を垂らさんばかりなっていたのだ。卑猥極まり無いだらけた笑みを口の端に浮かべ、妓女たちの放つ色香を目で追うのに忙しく聞いてなどいられない。
そんな彼らの、ぼう、とした姿を感じ入ったと捉えている建はまた、酒が進む。
――阿呆らしい。
筆頭演者として金襴豪華な眩い光を散らして舞いながら、白は腹の底で毒づきまくった。
――何様の積りや良い気になって、助平面晒しよってからに。
「運が転がって其の椅子に座っておられるだけあらへんか」
手の動きに合わせて、背後を盗み見る。
彼女の左後ろでは、雅楽に乗せてまるで柳の枝のように靭やかに舞っている、小柄な娘の姿があった。
白が官妓の一員として戦勝祈願の奉納舞いを行うと知るや必死の形相で頼み込んで来た、沫である。
音に遅れを取るまいと喰らいついて来る其の様は、凛として美しい。身体を一回転させながら、皇帝の横に侍る大保の姿を視界の端に認めた白は、また毒づいた。
――大保はん! このいけずはんが! 眸ぇかっぽじって良ぉ見とき! 愛しい男はんを一目見送りたいが為だけに、貴方さん唯一人の為だけに、妓女に身を窶すのも厭わへん女が此の世に居るのや!
しかし、白の呪いに似た願いも虚しく、沫の舞いを嬲るように魅入っているのは皇帝・建と彼の追従者である門閥貴族と高位高官どもだけだ。建の最も傍で群舞に視線を注ぐ大司馬・受は、何処吹く風で、気の無い実に冷ややかな眸で舞いを見ているのか見ておらぬのかすら定かではない。
――こんな小さく身体いっぱいいっぱいで、一生懸命やのに。なんて甲斐が無いのや。
また、くるり、と身体を回転させる。
対の動きを行っている沫の顔が、涙で濡れている。感情を露わにせぬのが芸妓の一歩と叩き込まれたというのに、白は其の教えも何もすっ飛ばして、ああ、と呻いた。
――欲得塗れで戦を起こして威張り散らして好き放題しよって女泣かせて!
「男はんは何ちゅう勝手な生き物なんや!」
――大保はん、良ぉ覚えとき! 此れで生きて帰って来なんだら恨み節で貴方さんの脳天、真上からぶち割ったるからな!
白の怒りを込めた舞いは益々研ぎ澄まされ一つの境地へと迫り、見る者も他の妓女たちをも圧倒していった。
★★★
やっと行軍が行われた。
出陣の時刻は卜占により黃昏の初刻だ。
方角は大門を出ぬが大吉、一旦、東燕に向かうが尚吉である、と亀卜が伝えた為、軍勢は東北東に向かって馬を進めている。晩秋、いや既に初冬と言ってもよい気候だ。風は冷たく、時折、びょうと激しく唸りを上げすらする。
そんな中、馬上の人となっている大保・受は其れなりに見映えのする甲冑に身を包んで、存外に確かな手綱捌きで馬上の人となっている。
が、門閥貴族高位高官の子息たちなどは更に其の上を行く。受など霞んでしまう、豪華な鎧兜に身を包み、胸を反らせて意気揚揚としている。
国の内情を知る者や兵部尚書・優と交友があった者などは、間を置かずの此の出陣の有り様に眉を顰めていた。
「奴ら、やけに金を掛けておるではないか」
「けっ! 在る処にはあると言う事か」
「兵部があれ程苦労しておったというのに」
「全く、巫山戯おって」
たった半年程前、兵部が一丸となり武器や兵站を掻き集めた時に何故もっと、金を捻出してやらなかったのかと冷ややかに睨んでいた。
何処か物見遊山にでも出掛けるような気楽さに、お喋り好きの都雀たちも顔を寄せ合いひそひそと話し合う。誰もが冷たく白けた態度で見送るなか、群衆の中でも目立った美貌の女が舌打ちをした。行軍を彩る為に添えるように配置されている妓女の一団を率いている、白である。
「何やの、あれは」
馬鹿どもたちの虚栄心を満たす為だけのこんな戦に駆り出される立場に在る者たちが、哀れでならない。
「こんな戦に、何の意味がある言うのや」
先頭を行く受を、白は忌々しげに睨む。
――大保はんが大敗けしやはったら、ほら確かに皇子様は楽して城を我が物にされるやろうけど。
ちっ、と吐き捨てた白は、仲間に後を任せて踵を返しかけた――が、出来なかった。
袖を固く掴まれていたからである。
傍らに立っているのは、まだあどけなさの残る頬と額をしており、一見して垢抜けておらぬ様子は明らかに妓館の娘ではない。
其の証拠に、肩に腰や尻、太腿のふくよかさが売りの妓女たちの中にあって、少女は極端に貧相な身体付きだからだ。大きく眸を見張っている少女は、それでも両眼から涙を零す事はなかった。
そっと腕を取って揺する間に、娘の一途さに白の方が泣けてくる。白は態とらしく、ぶるっ、と身震いして涙を振り払う。
「おお、寒い、寒いわぁ。寒うて敵わんわ、なあ?」
「……」
「さ、寒さで身体悪うしてまう前に、早い処、帰りまひょ」
「……」
「沫はん。貴女さんはこんな処に居ったらあきまへん。こんな人混みに居って、またぞろ何ぞ事ありよったら、うちは大保はんに顔向け出来しまへん」
「……」
「なあ、沫はん。酷な事言うようやけど、大保はんは貴女さんの事なんぞ、もう頭の何処にも住まわせてあらしまへん。況してや、見送りに来とって呉れとるなんて、夢とも思っとらしまへんのやえ?」
此れだけきつく言っても、娘――沫は答えない。
ただ一心に受を見詰め、手を合わせて彼の姿を静かに見送っている。白は全身を使って、殊更、且つ態とらしく大きく溜息を吐いた。
「一目で良えから、大保はんと視線絡ませ合いたいいうのんは、分かりますぅ。けどそら、無理難題言うもんや」
白の言う通りだった。忌々しいと云うよりはいっその事、清々しい程に大保は群衆に視線を一度も向けない。
――大保はんはもう、貴女さんだけやない、此の禍国での暮らしなんか、もう眼中にあらしまへんのや。
「男はんの勝手に振り回されるような莫連女に成り下がったる必要なんざ、あらしまへんのやで?」
「……」
「さ、もうあんないけずな旦那はんの事なんか、貴女さんの方から忘れてやんなはれな。そんで、もっと楽しゅう、佳い女になって生きていきまひょ。うちが一から、教えてあげるさかい」
「……」
しかし、白の半分ほどの年齢の沫は、頑ななまでに動こうとしない。沫の顔を覗き込みながら、
「な? なぁ、て。後生や、沫はん。言う事聞いてぇな。な? な?」
媚びるように白は身体を揺すった白は、はっとした。沫の身体は、きん、と冷えきっていた。よく見れば唇まで青白くなり始めているではないか。
「あかん」
白は慌てて抱くようにして無理やり其の場を離れた。
密かに後を付いて来ていた青の配下の者たちが、自分と娘をぐるりと囲み、群衆とぶつかり合うのを防いで呉れた。ほっとしながら、店を目指す。
「悪い事言わしまへん。大保はんの事はとっとと諦めなはれな。な、ほら、お店に帰って温いもんでも頂いて、のんびりしまひょ。若い娘さんがこんな、身体冷やしたらあきまへんえ」
しかし、歩き出してなお、沫は心此処に在らずといった様子で何度も振り返っている。
白は殆ど引き摺るようにして、沫を歩かせる。気持ちの入らぬ人間を連れて行くのは実に骨が折れる作業であるが、白は沫を見捨てる事はしなかった。
見捨てられる訳がなかった。
――大保はん、貴方さん、どんだけ悪癲狂な女泣かせするんや。
こんなんは間違うとる。
こんな犠牲をせな得られへん平和や幸せなんか真さんは、ちぃっとも目指しとらへん。
真さんは皇子様に、堂々と平原を握らせようとしてるんや、大保はんかて、うぅん、大保はん程の御人が知らん訳ないやないの。
「大保はんがしてはるのは、真さんの理想に泥を塗ってはるのも同じや。何で気が付かへんの」
――其れに第一、皇子はんや真さんが望んでもおらへん事やと、なんであの小利口な大保さんが分からへんのや。
知らぬ間に、白は爪を噛んでいた。
ぎちぎちと爪の先が軋んでいく。そのうち血が出そうな勢いで噛み締めていたが、白は痛みなどまるで感じていなかった。
ほんの僅かな身の回りの品だけを手にして、人目を忍んで妓館に駆け込んで来た沫の必死さに、白だけでなく妓館の女たち全員が胸を打たれていた。
戦がどう転ぶのか。
分からないが、禍国一の妓館の意地に神掛けて沫を守り抜いてやろう――と沫の眸を見た瞬間に白も女たちも即座に決心していた。
沫を守らんとしているのは、白と妓館の女たちだけではない。
青も、そして碧に使われている店の男たちも惚れに惚れてしまった。
其れだけに、唐変木も極まれリの大保のつれない態度が腹に据え兼ねる。
「ほんまに小憎たらしい。あのまんま、馬から転げ落ちて蹴られてしまえば良えのや。寝込んだら戦になんざ行けやせんのやし」
白はたまらず、もう視界に捉えるのもやっとという処まで小さくなってしまった大保の背中に、思いきり毒を吐き捨てたのだった。
★★★
出立時刻が黃昏であった為、軍勢は夜闇の中を一刻ほど行軍した後、直ぐに休息を取る旨が伝えられ、天幕が張られた。
殆どの兵は兵部尚書・優の指揮下での戦いしか経験が無い。
大保に果たして如何程の力量があるのか。未知数であるのならばまだ良い。が、過信して暴走されてはたまったものではない、と内心ひやひやしていた者は、安堵すると同時に大保が休息の重要性を理解していた事に驚愕を隠せなかった。
此度の軍勢は大きく二分されている。
一つは、兵部尚書・優に請われて留守居役を任ぜられた者を中心とした一軍である。
もう一つは、皇帝・建の肝煎りで入軍した貴族の子弟たちを中心として編成された一軍だ。
曲者なのは言わずもがな、後者である。
彼らにとって、此の世の全ては想像通りに事が運ぶものであると認識されている。
「斯様に雛な地に逗留して何になる。戦場である契国に一刻も早く入り、彼の国の者共を平伏叩頭させねばならぬというのに」
「然様。実に馬鹿にしておる」
「大保など、幼少の頃より廃太子に仕えて城と屋敷との往復しかしておらんような輩ではないか」
「兵法の何たるかを我らが教えてやらねばならぬのではないか?」
画して、休止に入って間も無く悶着が持ちがあった。大保のもとに、貴族や高官の子弟が徒党を組んで押し掛けたのだ。
「何事か」
しかし天幕に押し入った者たちは、大保が甲冑を着込んだまま休んでいる姿を捉えて動揺を隠せなかった。よもや、彼が戦時の作法に則っているとは思いもしなかったのだ。
「何事か」
大挙して押し寄せられても眉一つ動かさない上に、再び同じ言葉を吐く受の口調は相変わらず冷めており、小憎たらしい。
「……う、ぬ……」
「数を頼みにせねば事も起こせぬような輩は答えもならぬか」
「何だと!?」
「大保よ、今、我らに何と言うたか!?」
「貴様は我らを愚弄するのか!?」
「我らは始祖帝より続く名門の血筋ぞ!?」
家門を誇りとし己の矜持の拠り所としている彼らにとって、烏合の衆呼ばわりされて耐えられるものではなかった。が、まんまと図に乗って来た愚者どもの集団をつまらなさそうな眸で、じろりと見遣る。
「話しもならぬのならば早々に下がれ」
「下がれとは何だ!」
「心身を健やかに保つ事も将兵の仕事の一つである。私は休む」
「……なっ!?」
言いながら、受は本当に寝台の上にごろりと横になった。無論、此れ等はそんな彼らをこそ滅ぼす事を主目的として戦を起こした受の芝居の内なのだが、彼らは見事なまでに受の術中にはまり一気に怒髪天を衝く勢いでぐいぐいと迫った。
「では聞くが良い! 大保! 貴様、布告しておきながら、何だ此れは! 契国を討つ気はあるのか!?」
「卜占にて東燕に一旦向かうが吉と出た。其の方らも場に居合わせたであろう。其れ以上の返答があろうか」
横になったまま間髪入れず答えると、受は其の侭、両眼を閉じる。
「貴様!!」
掴み掛からんばかりとなって男たちは受を取り囲んだ。
「では、い、何時だ! 一体、何時、方向転換する気であるのか、答えよ!」
「然様! 契国は今や死に体である事は誰の目にも明らかだ」
「ぐずぐずしてあたら時を無駄に費やすなど愚の骨頂であるぞ」
「……ほう……?」
薄掛けを剥ぎ取り、胸倉を掴んで無理矢理引き起こされた受は、薄っすらと眸を開けた。
覗く黒目が、ぎろり、と動いて、取り囲む男たちを一人一人睨め付ける。底光りする眼光に、うっ、と後退りし掛けた男の手首を、逆に受は握る。ぎち、と肉が捻られ、男は奇妙に甲高い悲鳴を上げた。
「其の方ららの言い分を要約すると、直ちに契国に向かい此れを討て、と私に進言しに参った、と斯様な仕儀であるか」
「ぐっ……」
貧相な体格の受の一体何処に斯様な力が秘められていたのか。男たちは受の気迫に圧倒されて冷や汗に塗れていた。あぉ、だの、うぅ、だのと意味不明な呻き声を発して身悶えするように、じりじりと膝を摺り合せて身を引く機会を伺うのがやっとの態だ。
「人の貴重な休息を奪ってまでとは、えらくまた殊勝な事であるが実に間抜けておる」
「大保! 貴様!!」
だが、明白に小馬鹿にした受の口調に、男たちは再び暴発した。
胸倉を掴み上げられ、寝台から大きく掲げるように引き摺り出された受は、其れでも動揺を一切見せない。寧ろ、ほほう、と楽しげに眸を細めてみせた。手の甲で、掴まれた腕を軽く払う。
「此れはしたり。あい済まぬ事をした。どうやら其の方らは本気で私に進言しようとしておったらしいな、許せ」
何処までも人を食った言い様だが、落ち着いて話してみよ。言い分に寄っては聞き入れぬでもない、と態度を改められた男たちは、顔を見合わせた。手玉に取られていると感じる暇もなく、男たちは被せるようにして捲し立てる。
曰く、句国の奴らは恐らく、我ら禍国軍が此の侭、東燕に攻め入ると思うておるに違いない。
思い違いをしておる間に、契国を攻めるのだ。
今であれば契国はまだ先に攻め入られた傷が拭えておらぬ上に隣国から救援があろうと気も緩んでおる筈。
句国もまた仮にも皇弟である己に対して弓引くと高を括っておろう。
奴らの甘い認識を破ってやらねばならぬ。
今こそ、鉄槌を食らわせ思い知らせるべし。
怒涛の攻撃は禍国軍の真骨頂であると平原に見せ付けるは今を置いて時は無し。
脂ぎった顔ばせを受は冷笑を以て見詰めているのだが、言い連ねるうちに更に興奮の度合いがいや増している男たちは最早、気にも止めていない。
己の言葉に酔いしれている男たちの言葉が途切れた僅かな隙に、受は手を挙げた。
「成程、其の方らの言い分は最もである。良かろう、では其の方らが言う処の疾風迅雷の攻めとやらを、先ずは示して貰おうではないか」
「な、に?」
はた、と男たちの動きが止まる。
「私は立場上、戦勝祈願の亀卜を反故にする訳にもゆかぬ故、卦の通りに軍を進めねばならぬ。しかし、全軍が卦に従わねばならぬ、などと神官どもは言うてはおらなぬ」
「それは、つまり……」
「其の方らがどう動こうと好きにせよ」
――私は目を瞑る。
受が言わんとする処を読み取った男たちは、各々、にやりと下卑た笑みを口の端に浮かべた。
「何だ、大保殿は存外に話が分かる奴ではないか」
「最初からそう言えば良いのだ」
乗り込んで来た時からは想像も出来ぬ晴れ晴れとした顔付きで、男たちはわいわいと引き上げて行く。男たちの生むざわめきが遠ざかり静寂が天幕内に戻ると、ゆらり、と影が立った。草としての姿に戻った、青である。
「奴らはどうしておるか」
「夜っぴて契国に向け駆け契国王を討つ、歴史に名を残す大業を成すは我らを置いて他ならぬ、と豪語しておりますが」
「阿呆も此処に極まれリだな」
「如何なされますか」
幾ら禍国を滅ぼすのが目的だとはいえ、人も物も資源が枯渇している此の国が、皇子・戰に委ねる前に他国に食い物にされぬという保証は無い。
「放って置け、と言いたい処であるが、奴らは無軌道過ぎる故、此方の思惑の範疇を超える場合があろう。少し騒ぎを起こさせ、対立を深めさせよ、其れから」
「はい」
「私は休む。其の方も部下に任せて休むがよい」
「……は……」
命じつつ、受は軽く手を振る。
青は眉を顰めた。衝突させるのは簡単であるが、彼らはいとも容易く一線を越え一気に暴走せぬとは断言出来ない。何を為出かすか、気掛かりでならぬと言うのに、休めと命じられても青は素直に従えない。
「其の方には此の先、常に働いて貰わねばならぬ、其れに」
「……」
「奴らには其の方を張り付かせるだけの価値はない」
「……大保様っ……!」
言外に、傍に居れと言われたに等しい。
青は、顔色が変わったのを気取られぬよう、はっ、と返答をするのに合わせて頭を下げ、何時もよりも数拍早く受の前から離れた。青が下がると、大保は再び横になり、独り言ちた。
「歴史に名を残す。ふむ、確かに歴史に名を刻み、後世、誰もが知る名となろう」
目を閉じる瞬間、ふっ……、と短く笑う。
「愚者の代名詞として、な」
★★★
真夜中の行軍は、しかし結局は行われなかった。
理由は至って単純明快である。
兵士たち同士で反発しあい、衝突が起こるように青たちが仕向けたからだ。
実際、真夜中の全速力での行軍と言えば聞こえは良いが、危険極まりない。
強行軍は美しい。
と、思えるのは世の苦労を知らぬ甘ったれの戯言でしかないのだが、其れを理解出来る頭脳を持ち合わせていれば、そもそも大保の天幕に乗り込みはしないだろう。
しかし、此の事態はどうにも収拾できなかった。
此れまで騙し騙し躱していた、貴族高官の子弟たちと兵部尚出身組との反目嫉視が表面化してしまった以上、互いに引くに引けなくなったからだ。
結局――
大保が起こされ乗り出す結果となった。
どういう手段を講じたものか、大保は殆ど勢いで乱闘に突入した兵士たちを分断して落ち着かせ、其々に引き下がらせてみせた。貴族高官の子弟たちは此れには度肝を抜かれた。
大保など御飾りの神輿でしかないと思っていたというのに、彼は実力と手腕を鮮やかに披露してみせたのだ。
「不手際であるな」
眉一つ動かさぬ冷静沈着な大保の声音と態度は、しかし彼らの耳には専横其の物に映った。
――契国に乗り込む前に、先ずは此の大保を何とかせねばならない。
――軍の実権を捥ぎ取り己がものとせねばならない。
飢えるように名声を欲している彼らには、大保は自分たちの栄耀栄華を阻む影としか目に映っていない。
実に危険な状況ながら、だがしかし、大保は態度を改めるような事はしない。益々以て拗れる様相を見せ始めるかと思いきや、けりは割合、あっさりと付いた。
「此の際だ。軍を正式に二分する」
何と、大保は軍の実権の一部を貴族たちに正式に譲渡すると申し渡した。
「軍を分かつ、とはまことか?」
「強行軍を物ともせずに契国に至らんとする其の気概、正しく建国時の始祖皇帝を救いし我が禍国軍の栄光の再来となるであろう。斯様な愛国心を見せられては私も黙って身を引くしかなかろう」
受の口から此のような殊勝な言葉が吐かれるなどと終ぞ想像もしていなかった男たちは、予想外の事にぽかん、と阿呆面を晒して立ち尽くした。
「人選は其の方らに一任するとしよう」
しかし此処に来て、事が自分たちの都合の良いように進みすぎていることに疑念を抱く者が現れた。
言われてみれば確かに、と躊躇する。尻込みとまではいかなくとも、猜疑心の光を宿した眸で、大保を睨んでくる。
が、其れも、大保の次なる一言であっさりと消滅した。
「早駆けて契国に至り一番槍の功名の誉れを得る軍か、ふむ、何名の猛者が名乗りを挙げるか。楽しみであるな」
感情の籠もらぬ大保の前で貴族高官の子弟たちの顔ばせは、一斉に青褪める。
そして、誰か抜け駆けするのではないか、そんな事になる位であればいっそ自分が……、と互いの腹を探り合うものに切り替わっていた。




