2 戦地鳴動 その1-2
2 戦地鳴動 その1-2
祭国では戦の備えが猛烈な勢いで進められていた。
「急げ! 早くしろ!」
「喧しい! 怒鳴らずとも聞こえておるわ!」
先ずは禍国と東燕との国境付近に在る邑から女子どもを避難させる処から始まった。
今年産まれた赤子たちは特に大事にされ、いの一番に移動用に急場拵えで改造した荷車に乗せられる。
火急の事態を赤ん坊だからこそ過敏に感じ取っているのだろう、鳴き声は大合唱となっている。だが其れも、馬の嘶きと共に揺られながら遠ざかっていった。
妻に、母に、赤ん坊が優しく抱かれてあやされている姿を目蓋に思い浮かべつつ、男たちはほっ……、と見送った。
「赤ん坊は逃した! 次だ次ぃ!」
続いて年頃の女性たち、陸と同世代の少年たち、そして年寄りの順に移動の準備が押し進めるられる。
「荷物は最小限にしろ、いいか!?」
「種籾と食い物中心、最低限度の生活が出来りゃあいい!」
「欲張るんじゃあねえ! 帰って来た時の片付けが大変になるだけだぞ!」
大抵の者は特に大事無く避難を受け入れたが、困るのは年寄り連中の扱いだった。邑に残ると言って聞かない者が続出したのだ。
「どういう積りだ?」
凄まれて、折曲がった腰を更に潰して殆ど二つ折り状態になりながらも老人たちは引かない。
「陛下と椿妃殿下は信じておるがの……」
「此の年じゃからのぅ……逃げろと言われてもの……」
「爺さん!」
「阿呆! ぐだぐだ言ってねえで逃げるんだよ!」
「負けるのが嫌なのか? 怖いのか? 陛下が負けるなんて有り得ねぇよ!」
「そうとも、万が一の時に備えて避難するだけなんだぜ?」
「おうよ、何が嫌だってんだ?」
男衆たちの迫力に押されても、老人たちはちんまりと座り込んで動く気配を見せない。
「生まれ育った場所を離れたくないんじゃよ……」
「もしも、って事があるなら尚更じゃての……」
「陛下と妃殿下の御蔭で長う生きて来とって、今が一番、良い時じゃ」
「じゃから、離れとうないんじゃ」
年寄りたちの言い分に男たちは仰け反った。
「爺さん、婆さん、そいつぁねえぜ」
気持ちは分からないでもないが、一々聞き入れていては埒が明かない。梃子でも動かない老人たちに男衆たちは業を煮やし、最終的にはほぼ拉致に近い形での避難となった。
「ちっちっちっ! 此れじゃあどっちが悪者か、分かりゃしねえじゃねえかよ」
「ああ全くだ、ああ、やり切れねえったらねえ」
「胸くそ悪いぜ、本当によ」
男衆たちは大いにぼやいた。
が、何とかこうして、邑に残るのは健康な、そして屈強さで知られる男たちのみとなった。
彼らは殆どが兵となるべく志願してきた。が、当然ながら此処でも厳しい選抜が行われた。
年齢制限が当然設けられ、例えどんなに身体つきが立派であろとも18歳以下は兵役に就かせない、と通達されると、此れに対して少年たちから相当な抵抗があがった。特に陸の故郷では、彼が克に従い軍属していると知れ渡っている。
血の気が多い若者たちが納得出来る筈がなかった。
「おい。こら、こいつぁ一体どういうこったよ」
「そうともよ。戦についていってやがる陸の奴ぁ、国王陛下と同じ頃の筈だぜ?」
「おうおうおう! そもそも陛下が12歳で先陣を切られるって話しなのによ、其れより年上の俺たちが何で許されねえんだよ、おかしいだろうが」
「そうだそうだ! 18歳以下ってぇんなら、陛下も城の奥に居て貰わなきゃなんねえだろうぜ!」
役人たちにやいのやいののと言い募りながら迫る。
愛国心から来ている為、役人たちも強く出られず場が騒然となった。下手をすると一触即発、仲間内でありながら事がおころうか、という熱狂の最中、其れをぶち破る怒声が
「糞喧しい! 黙って言う事を聞きやがれってんだ、此の糞餓鬼どもが!」
陸の父親であり農民たちの頭的存在である重が、悪童たちの脳天に容赦無く拳を打ち込む。痛え痛え、酷え酷え、とのた打ち回る少年たちの前で、重は仁王立ちになった。
「いい加減にしやがれ! てめえら」
「し、重……いやでもよう……」
「いやもでもも芋もあるか! 手前勝手な事ばっかりぬかしやがって、ちっとは恥ずかしいとは思わねえのか、ああっ!?」
「けどよう……」
其れでも食い下がる少年たちに、糞馬鹿餓鬼どもが! と重は更に鉄拳を振るおうとすると、横槍が入った。
「其処らへんにしといてやんなよ。こいつらも悪気はねえんだからよ」
「おっさん!」
「悪気ねえですめば、お役人は要らねえよ。なあ?」
ぼやく重を突き飛ばしながら、少年たちがわらわらと横から声を掛けた男に群がる。
重の背後から肩を叩いた男は、大工棟梁である琢だった。3年前のどかんによる堤切り以来、定期的に通っては新しく考案された農機具――今は専ら水揚車だが――を設置したり使い方や故障時の対応、修理の仕方などを伝授している。
決まり悪そうに睨んでくる重を、しかし琢はお調子者らしくにやにやしながら受け流す。少年たちはというと、自分たちを庇って呉れたのならばもしかして、という一縷の望みに懸けたのか、ぐるりと琢を取り囲む。
お、おお? と後退る琢を逃さじと、ずい、と少年たちは反対に迫った。
「なあ、おっさん、おっさんからも言ってやって呉んねえかな?」
「俺たちだって一人前に戦えらあっ、てよ」
「そうだよな、おっさん、良い所に来てくれたぜ、王様とも肩叩いて飲み食いする仲なんだろ?」
「命令した王様にも言ってやって呉れよ、戦いてえ奴は褒めてとらす! 存分に戦に出て勲功を上げろ! ってな」
優が耳にすれば、大馬鹿どもが雁首揃えて何を言うか! 不埒千万! 其処に直れ! 躾し直してやる! と熱り立ちそうな不遜な口を少年たちは叩く。
が、其れも琢という男の人柄を良く知っていればこそだ。
誰であろうとも垣根無く接する琢だからこそ、自分たちの味方になって呉れるに違いない、と少年たちは信じ切っているのだ。
「ん、ん~……」
呟きながらぼりぼりと爪を立てて頭を引っ掻いていた琢は、顎を撚る。
「俺っちをそうも買い被って呉れんのは嬉しいんだがよ。聞いてやれる程、俺ぁ偉くも何ともねえんだなぁ、此れがよ」
お調子者で通り、何時も軽口を叩いている琢にしんみりした口調で言われると、奇妙な説得力がある。途端に少年たちの目が落胆の色に染まった。悄気かえる少年たちの哀れな姿に、ま、ま、そう気ぃ落とすなや、と琢は慌てる。
「此処に居なけりゃあ戦の役に立たねえって訳じゃねえんだ。疎開してった先じゃ武器を作るのにも何をするのにも人手が要るんだ。お前らにゃ其れを手伝って呉んねえと。でなけりゃ、学陛下の初陣が勝ち戦で飾れねえだろ?」
「えっ……!?」
現金なもので、『武器を作る』『学陛下の初陣を勝ち戦に』の一言に、其れまでしょぼ暮れて力を無くしていた少年たちの双眸に、きらん! と力が宿る。
「お、おっさん! 今、何て言った!?」
「は?」
「俺たち王様のお役にたてる、つったよな!?」
「お? お、おう……」
「俺たちが武器作るって、なぁ、本当かよ!?」
「何作るんだ!? 槍か!? 弓矢か!? 馬具か!?
「俺たちゃ何だってやってやるぜ!」
「ちっくしょう、そうならそうと早く言えってんだ!」
「さあ、とっとと連れてって呉れよ!」
「ちょ、ちょ、ちょっと待て、ちょっと待て、お前ら待てって……」
喜び勇む少年たちにぐんぐん迫られた琢は、どうせ迫られるのならお色気むんむん胸ぼよん尻たぷん太腿むっちりの姉ちゃんがいい! ――と本心をぶち撒けかけるのを辛うじて飲み込んだ御蔭で、少年たちに対する威厳を失墜せずに済んだのだった。
★★★
一方、禍国でも出陣の準備は押し進められていた。
ただし、順調とも粛々とも言い難い。
ただ、武具類の調達は僅かではあるが流れを見せ始めている。商人・時が仲介人となるのを大保・受から正式な許しを取り付けて出入りし、関与し始めたからだ。
「あんな、何処の馬の骨とも知れぬ下賤の者を城に入れるとは」
当初、貴族たちは我が物顔で闊歩する時たちを見て憚る事なく顔を顰めてみせた。
何しろ時は、戰がまだ皇子と呼ばれていた当初、初陣の頃から陰になり日向になり尽力してきた彼の財布だ。そんな時が大保・受に取り入ったのだ。警戒心を抱かない方がどうかしているだろう。
しかし時は、此の程度の嫌味など蚊に刺された程も感じない。ほうほう、と相変わらず、鯰の触覚のように伸びた髭を紙縒りながら笑い、そして的確な指示を出している。余裕綽々な老人の態度には当然ながら理由がある。
――さて、此処にござらっしゃるは少しでも目立つ他人が居らば、蹴落とし出し抜かずにおられぬ御人ばかり。私どもが扱う品を見て血相を変えぬ訳がない。
「慌てる必要は無いですな。必ず、擦り寄って来られる。我らは其れまで、慌てず騒がず待っておれば良いので」
ほっほっほ、と梟のように笑う時の予見は正しかった。
子息たちは嫌悪感を顕にし舌打ちしながらも、時が大保の為に特別に用意したという品が揃うと一目見ようとこそこそと徘徊し始めた。
そして、大司馬の武器や装身具を目にするや、心奪われ在る者は立ち尽くし、在る者は呆然とした。
「お、おおお!?」
「何というっ……!?」
「こ、此れは、此れはっ!」
四方に輝きを発する黄金色の鎧は兜共々素晴らしい意匠を凝らされている。
のみならず剣も、柄や鞘に惜しげなく装飾が施されており、馬具は見目好く派手に設えられている。
其れだけではない。
戦及ぶ際に着用する錦衣は目にも綾な絢爛たる刺繍を施され、肩に羽織る長衣などはまるで宝玉が流れているかのような美しさ。そして何と言っても極めつけは金糸銀糸に縁取られた華麗に煌めく大保の戦旗だ。下手をすると、いや各自に皇帝旗を上回る設えに目にしたものは息を呑まずにいられない。
「素晴らしいっ……実に素晴らしい!!」
此の悪趣味に近い満艦飾に、誰も彼もが度肝を抜かれ心奪われ、自失した。
大保の私生活は地味で地味なものではないが、優雅や典雅とは程遠く、華々しさや瀟洒とも無縁のものと思われていたから余計である。時折、離れに囲っている側室を楽しませる為に芸妓を手配するのが精々の大保が見繕う品など、高が知れていると皆見下して嘲笑していたというのに此の為体であるが、誰一人として仲間を責めなかった。大保の前にずらりと並べられた品々は其れだけの衝撃を与える価値がある逸品揃いであり、彼らが抱いていた受という漢の先入観を根底から覆した。
程無くして、時の予想通りに門閥貴族や高位官僚どもは時の前でおべっかを使い始めた。
当初はこそこそとしたものであったが、一人が抜け駆けたと周知されるや、我も我もとなった。
今はもう、皇子・戰が放った鼠であろうと時を揶揄する者は一人も居ない。時が用意する大保の戦備えの品を更に上回る美麗荘厳な品々に、彼らは心と魂を奪われていた。
やがて、可笑しな現象が起こり始めた。
門閥貴族や高位官僚たちのどら息子たちが時を仲介してせっせと武器其の他諸々を手に入れ始めると同時に、国庫が動き出し兵部に対して資金が下り始めたのだ。
「どういう事だ?」
当初、兵部の者たちは訝しみ、首を傾げた。しかしやがて、彼ら兵部限定で奇妙な噂話が流れ始めた。
――曰く。
大保様は軍を二分される御積りだ。一つは契国にもう一つは東燕に対して仕掛ける腹積りでおられるらしい。
「成程」
「さもあらん、だな」
兵部の者たちは一様に呆れ、ある者は肩を竦めある者は首を振った。兵部に金が流れだしたのは軍用金の中で多くを占めていた圧迫、即ちどら息子たちの我儘三昧に付き合わされて閊えていた部分が消えたからだ。
正確には、先を争って人より抜きん出よう、度肝を抜こうと華美を競う事に奔走し出した子弟どもに、商人・時が華麗な品々を無償で貸与――と言う名の献上を気前良く行っているからだった。
沼の様な色合いの武骨一辺な武具にしか縋れぬ哀れな輩に金を回してやろうではないか――
という有り難いお心遣いという訳である。
「馬鹿にしてやがる」
噴飯遣る方ない怒りを抱き伸し歩く兵部の漢たちだったが、此の噂を耳にした者には後日、密かに接触して来る者が現れた。
★★★
商人・時との密談を終えた受が邸宅に帰宅したのは、夜半の初刻まであと一刻もない頃だった。
此の数日、やっと晴れ間が見えるようになったからか、逆に日が落ちてからの冷え込みは心身に厳しいものとなっている。
――何故帰って来たのか。
受は己を訝しむ。対屋で待ち続ける娘には、帰宅が夜分遅くになる為、先に休むようにと命じてある。
――此の侭、姿を消してしまえばよい。分かっている筈ではないか。主人が帰宅せぬまま屋敷を放棄されれば側妾の立場は弱く脆く、危うい。託してある妓館に渋々ながらも匿われるだろう。
「いや……」
沫という娘は鋭く敏い。此れが受の本意であると直ぐに悟り、移り住むだろう。
「其れでよい……筈ではないか」
暫しの間、身分を窶して生きねばならぬだろうが、沫はまだ、若く美しい。
後の世の混乱を利用して身元を綺麗に洗えってしまえば、新皇帝・戰の御世のもと、幾らでもやり直せる。
「そう仕向ける為にも、最早、私は帰ってはならぬ――なのに何故だ」
――分からぬ。
自分にも人間らしい感情があったのか?
別れを直に告げたかったのか。
其れ共、娘を惜しんでいるのか。
ふむ、と受は首を捻る。
――成程、此れが未練というものか。
「人の存念とは厄介なものだな」
首を捻りながら、息が白くなっているのに気が付いた受は、ふと、空を見上げた。
星が作り上げている美しい河の瞬きが頭上から注がれているのを見ても、だが受は、世の絶景に只一人のものとしている贅沢にも心動かされる様子を見せない。
実に此の男、受らしかった。
馬から降りた受は馬番に手綱を預けると、何時も通り対屋へ足を進める。既に皆寝静まっており、下男や門番や見張りといった受の予定を知る者以外、人が起きている気配はない。最も、常に定刻に帰宅する受の帰りを、此の家の主婦たる染姫はまともに出迎えた事など無いのだが。
主人の帰宅を伝えに下男が回ろうとするのを、手を振って受は止めた。
其の侭、今帰った、とも言わず受は対屋に入る。
脚を清める盥の用意がまだ出来ずにいる下男がおろおろしていると、対屋全体に仄かな明かりが灯され、奥からいそいそと娘が出迎えに出てきた。背後には女童たちを連れて、手水用の湯を用意させている。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「何故寝ておらぬ」
沫の笑顔の出迎えに、だが受は不機嫌そうにしている。
「先に休んでおれと申し付けておいた筈だ」
「青様よりご伝言は頂戴しております。休ませて頂いておりました。今、起きたばかりに御座います」
「……」
仄かな明かりの下、受の前に畏まりつつ沫は言い訳をする間も惜しんで、女童たちに指示を出している。
対屋の女主人らしくなってきた沫の首筋を無言で眺めていた受だったが、突然、ぬっ、と手を伸ばした。
何事かと、びくり、と身体を引き攣らせる沫の頬に、受は真面目くさって手の平を当てた。何をしようとしているのか見当もつかないが、女童たちの前で堂々と身体を弄られた沫は全身を赤く染め上げ、大いに狼狽した。
「だ、旦那……さ、ま?」
恥じらう沫に構わず、受は其のまま暫くの間、彼女の頬の膨らみを撫でていたが、やがて、するすると頤、首筋、鎖骨に手を這わせた。そして着物の襟合わせから手を侵入させると、貝殻骨にも指先を忍ばせ、最後にまだ細い肩の上に抱くように手を置いた。娘の肩にじわじわと男の体温が移っていく。沫は俯いた。
「……」
受は無言のままだが、敏い沫は其れで何もかも御見通しなのだと悟った。
沫の顔も背中も肩も、外から帰って湯を得ていない受りも冷えていた。就寝していたのであれば、もっと温かい筈だ。帰宅直後の冷えた男の身体を慰める、温石代わり位には。
「……」
あっさりと嘘がばれ、沫は下唇を噛み締めながら益々俯く。女童たちは、自分たちの主となったまだ少女とも言える年齢の沫が、主人である受に叱責されはしないかと、もう殆ど泣きそうになっている。
沫を女童を一人一人、順に睨め付けるように見ていった受は、最後に沫に視線を戻すと大きく溜息を吐く。
――どす……。
「……えっ……?」
勢いをつけて重い物を床に置かれた音に沫は驚き、思わず声を漏らして面を上げた。
目の前には、三和土に座った受の背中がある。
習慣とは恐ろしい。背中を見た途端に、『あ』も、『う』も無く、反射的に沫は受の足元に膝を折り、彼の脚を清めに掛かっていた。脚を清めつつ、沫は女童たちに視線を送った。心得ている女童たちは奥へと消えていく。
暗い土間にゆらりと棚引く白い湯気のみが、二人の間にある。手拭いで丁寧に足の指先まで滴を拭き取られる頃になると、女童の一人が明かりを用意してきた。
「湯殿の御用意が整いまして御座います」
女童に案内されて受が湯殿に行くと、沫はすっ、と立ち上がる。
湯で身体を温めただけでは、受には足りないのだ。
受は床につくと直ぐに寝入るが其の分、眠りが浅い。だから寝起きが良いとも言えるのであるが、最近は下手をすると数刻で目覚めてしまう。何とか良い眠りを受に与えたいと、沫はあの手この手を尽くしたので割合早くに気が付いた。
――体の深部、胃の腑から安らげれば、大保様は深くお眠りになられる。
だから、何時帰ってきたとしても直ぐに温かい食事が出せるように準備してある。受が湯から上がる丁度の頃に食事を饗せられるよう、沫は女童たちを連れて厨に向かった。
★★★
湯から上がった受が座る瞬間にぴたり、と合わせて、沫は膳を用意し終えていた。
時との密談は、芸妓・白の座敷を借り上げて行うのが常である。当然、酒食も饗される。其れも、贅を凝らした美酒佳肴ばかりだ。
受は毒殺を恐れて宮廷料理と見紛う料理を前に生唾を飲み込むばかりといった我慢をする男ではないので、酒食は綺麗に平らげてくるのであるが、こうした馳走というのは濃い味付け事が多く、満腹感が得られるものの心の安心感は薄い。おまけに、夜分遅くにまであまり食べ過ぎては確かに胃がもたれるが、さりとて食べた満足感がなさすぎても翌日は朝から気分が優れなくなる。
沫は其れを見越しているので用意した品書きは、重くどい味付けは避けながらも、それでいて小腹を満足させ、且つ翌日に胃もたれ感を残さぬ料理ばかりだ。
卵粥に刻んだ大根の漬物を甘辛く煮つけた物を添え、鯉を焼いて解した物には其の鯉の骨を炙ってとった出汁に葛でとろみつけた物をかけてある。
受が好きな里芋は皮ごと焼いて食べる直前に剥いて、焼味噌をつけて食べられるようにし、豚肉と蕪の汁物には刻んだ柚子を乗せて香りよく仕上げてあり食欲をそそるようにしてある。
既に呑んで来ているので酒は1合と少なめにしたが、塩抜きした梅干しを蜂蜜に漬けた物は容器ごと湯で温めて、酒と共に食べられるように用意した。
丁度良い塩梅の量の食事を前に、受は何時ものように先ずは酒杯を手にして差し出した。
梅の蜂蜜漬けが入った酒杯に、沫は半分ほど、酒を注ぎ入れる。指先に伝わる酒の熱に、受は一瞬、驚いた様に目を見張り、ちらりと沫を見た。
「ほう……?」
受は目を細くする。
本来の受は味と香りを楽しむ為、ぬるめに温めた酒を好む。が、其れでは当然、量が進んでしまい食事の妨げになる。そこで沫は受の好みよりも若干、熱めに酒を燗して少しずつしか呑めぬようにしていた。
彼女の心遣いを直ぐに理解した受は、何も言わない。……ふっ……、と唇の端を持ち上げて微笑むと酒杯を軽く目の前に掲げてから、口をつけた。ちびり、と舐めるように酒を口に含んだ受は、もう一度、笑う。
「うむ、旨い」
「……はい」
「身体に沁み入る」
応じるように微笑んだ沫は粥が入った土鍋の蓋を取り、小振りの椀によそう。
「どうぞ」
「うむ」
ゆっくりと、味わいながら受は粥を口に運ぶ。匙を口に含みかけた受は、手にした椀を膝元に下ろした。小首を傾げる沫に、其の方も食べよ、と受は命じる。
「一人で食べても味気ない」
普段の沫であれば、ですが……、と遠慮したであろう。一人分の膳を二人で分け合いながら食べるなど、作法どころか婦女の礼儀にも夫婦の道理にも悖る。
だが、今日の沫は違った。
予感があったのだろう、ほんのりと頬を赤くしながら、こくりと頷くと受の椀より一回り程小さい椀に、粥をよそった。
★★★
無愛想な面のままであるが、此れは味わい深い、此れは良い味付けをしている、と受は沫の仕事を褒めながら食べ進める。
最も、感情を込めるも糞もへったくれもない口調で言われているので、聞く者によっては沫は不当に蔑まれているのではないかと勘ぐらずにはいられないだろう。
だが、受の前でゆっくりと匙を口に運ぶ沫は、幸せそうな笑みを浮かべている。
「粥ばかりでなく、皿にも手を付けよ」
「……はい……」
「其の方は痩せ過ぎておる。もう少し太っておった方が身体には良い」
「……」
身体に良いから太れ、と言われた沫は、ぎくり、と一瞬、身体を強張らせた。
そして静かに椀を戻すと、不安気に、目の縁に涙を薄っすらと貯めて受を見詰める。何の気なしに放った一言が、思いも依らぬ威力を発揮した事に、受の方こそ戸惑った顔をしてみせた。
最低でも、何を泣く、位の言葉を掛けられる男であれば、まだ可愛気があろうものだ。
が、生憎と受は世の中の全ての可愛気から最も縁遠い処に居る。
人は其れを鈍感、或いは朴念仁、又は唐変木と言うのであるが。
受が箸を置くと、沫も倣って箸を置いた。
「……」
「……」
暫し、受と沫の間に無言のまま時間が流れる。
聞こえるのは、屋外に流れる風の音と血がゴロ増えた野犬や野良猫が餌を取り合って威嚇し合う吠え声や鳴き声だ。
どのくらいの時間が流れたか。恐らく3刻はくだるまい。軽く目を伏せて座り続ける沫に向かって、受が口を開いた。
「明日、出陣する」
「はい」
突然告げられたにも関わらず、思いの外、思い切り良く沫は答えた。受はそんな沫に対して、やはり眉一つ動かさない。
「私が屋敷を出た後、荷物を纏めて速やかに屋敷を出よ」
「はい」
「後事は須く白に任せてある故、何も心配は要らぬ。心置きなく頼るがよい」
「はい」
「遠からず禍国は大敗し、此の平原上より消え去るであろう――私のせいでな」
「はい」
「私は禍国を一敗地に塗れさせる大罪人となる」
「はい」
「人々に蛇蝎の如く忌まれておる私は碌な死に方をせぬ」
「……はい」
淡々とした受を前に、沫も平素のように答え続ける。
「沫よ」
「……はい」
「此れより先は、姿を変え、名を変え、立場を変え、生きては呉れぬか」
「……」
素直に返答をしてきた沫だったが、受の突然の申し出に、口を噤んだ。
そして、きっ、と受を睨むように見詰める。
「其れは」
「うむ?」
「旦那様を忘れて、と云う意味で御座いますか?」
「そうだ」
「此の屋敷での私の全てを忘れ、旦那様の全てを忘れ、何もかもを新たにして生きて往け、と云う意味で御座いますか?」
「そうだ」
受も、間髪を容れず答える。
沫は答えない。
答えられなかった。
はい、とも、嫌です、とも。
口にした途端、其の何方も、嘘になるからだ。
生きよ、と命じられれば、はい、と答えられた。
生きてゆけ、と願われば、一人では嫌です、と答えられた。
――でも……生きては呉れぬか……だ、なんて……。
受に囲われてからこの方、乞われた事がない。
初めての懇願が、生きてくれぬか、なのだ。
沫は無言で受を見詰めるしか無い。
「本当は」
返答に窮している沫を前に、受はにこりともせず続ける。
「今日は帰宅する予定はなかった」
詰まり、会わずに出陣する積りだったのだ、と告白する受に、沫は衝撃を受けた。
「だが何故か、脚を此方に向けてしまった」
訳が分からぬ、大いに謎だ、理解に苦しむ、と受は大真面目に、心底不思議がっている。
奇妙な可愛気を見せている受の姿に、沫はどうしてか、胸の奥が、ずんと音を立てて軋むのを感じて、ああ、と短く呻いた。
――私という存在が、大保様の御心を僅かでも動かしたのだ。
名は体を現すと言うが、正しく、自分は飛沫のような、物の足しにもならぬ小さな粟粒の如き存在だ。
そんな自分が、大保という、此の禍国に無くてはならぬ大柱の如き男の魂を揺さぶりを掛けたのだ。
世の中を斜に構えて捉え、而も上からの目線で斬るように断じ、決断を顧みぬ男を戸惑わせたのだ。
――大保様の御心に、私は居た、本当に住んでいた、証を頂けた。
其れだけで、もう……充分……。
そう、思えた。
すると、すとん、と沫は彼の言葉を受け入れよう、と納得がいってしまった。
そして同時に、受の言葉にただ恭順するだけでは終わるまい、との決意を瞬く間に固めていた。
「女にも、矜持はありますのえ」
芸事の師匠である白の凛とした魂の筋が入った言葉が脳裏に浮かぶ。
今こそ、此の言葉の真実の重みが自分の身体に走っていくのが、沫には分かった。
――私の矜持は――生きる、事。
ふとした瞬間、吐かれる息の優しい熱さも、指先の温もりも。
私を抱き締めて下さる時の濡れた眸も、其れを縁取る睫毛の揺れる様も。
もう、呼んで下さるのは貴方様だけの、私の名前も。
貴方様の、声も、姿も、何もかも、私は心に仕舞って生きて往く。
生きて、生きて、生きて、生きてみせる――貴方様の分まで。
貴方様が誰からも忘れ去られたとしても。
私だけは、貴方を忘れずに生きているのです。
貴方の全てを、細大漏らさず伝える為に。
魂に懸けて、天帝に誓って――遣り遂げて、みせる。
――此れが、私の、女としての矜持。
勇気が、ふつふつと湧き上がって来る。
身体が芯から熱くなっていくのを感じながら、沫は答えていた。
「生きて、みせます」




