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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
八ノ戦 飛竜乗雲

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2 戦地鳴動 その1-1

 2 戦地鳴動 その1-1



 備国王・いきの後宮であった貴姬きひみつが、王子・みちを胸に抱いて禍国の城に入城した。

 ただし此の入城は人目を忍んだ、極ひっそりとしたものである。

 彼女を迎え入れる役目を担うのは、当然の事ながら刑部尚書・平だ。背後にはてつに率いられた囚獄ひとやたちがずらりと並んでいる。

 粗末な輿から降り立った蜜は、平たちを視界に入れるなり、むさ苦しい者どもめ、と不快感を滲ませた呟きを洩らした。


「遠路遥々、辛く厳しい思いをさせられながら更に斯様な扱いを受けようとは。男というものは平原に在っても、砂漠に住まう蛮勇の輩どもと変わりはせぬ」

 眉を顰め、受けた屈辱に唇を赤くして怒りに戦慄かせている。

 ――何とも、堂々たる態度である事よ。

 此の点に置いては、平も舌を巻いた。彼女が囚獄内にて虜囚の辱めを受けていた者とは、到底思えない。

「貴女の期待に沿う必要なぞ我らにない」

 しかし彼女を預かっていた囚獄を管理していた徹は、其れでなくとも気難し気な顔に刻まれた皺を一層深くして不快感を示した。すると、蜜は益々眉を寄せる。

「ああ、ああ、臭くてかなわぬわ。鼻が捥げ落ちる」

「何!?」

「虜囚の身であろうとも、わたしは一国の妃嬪であるぞ。妃嬪が下賤の卑しき者どもと直接口をきかねば成らぬとは、此れは如何に。斯様な蛮夷にも劣る扱いを平然とやってのける国が果たして平原一の国であると言えるものか」

「何と!!」

 徹は熱り立つ。

 彼は己の任に酷く忠実なだけである。そして実を言えば忠実過ぎたのだ。相手が誰であろうとも特別扱いなどしない。

 蜜は自身の立場から、最低でも嘗て何処ぞの皇族が使用していた都内の館にでも入るものと楽観していたのだろう。だが、徒や疎かになど扱えまいと考えていたのは彼女だけだったのだ。

 囚獄での生活は今日で5日目なのだが、急に貴姬を獄から出せとの命令が下ったのであるが、でなければ彼女は奴婢よりも下等な扱いを受け続けねばならず、其れは彼女の矜持をずたずたに引き裂くものであった。


 平は徹を筆頭としたいきり立つ部下たちを鎮める為に、自ら彼らと蜜の間に割って入った。

「思い違いをしてはならぬ。其の方らは我が国と句国王の駆け引きの品として此処に居るのだ。和子を生した妃としてかしずかれるのが当然の日々を懐かしむ余裕があるのならば、楚囚南冠そしゅうなんかんの暮らしに我が身と和子を一刻も早く染め、生き抜く知恵を持つ事だ」

 此れは平なりの心遣いであったのだが、『女』の部分を武器として伸し上がってきた生き様をしてきた蜜のような女性を結果的には貶め、卑しめるものであった。そして蜜のように執念深さで生命を繋いできたような女は、蔑んだ者は決して忘れない。己を貶め賤しめた者への復讐心は増悪すれこそ決して薄らぎはしないのだ。死罪を以て償わせるべきである、と臓腑に血でもって書き記して記憶する。

 ――此奴ら、妾に対して何という口の利きようか。

 蜜の瞳の奥に、炎の瞬きに似たちかちか(・・・・)とした輝きが宿る。

「其の方ら、此の妾を侮辱するか」

 蜜のじっとりとした双眸で睨め付けられ、平ほどの男が一瞬怯んだ。疲労から面窶れはしているが、其れが帰って男心を唆り煽っている。

 赤子の泣き声に反応して乳が張っているのだろうか、蜜の胸元が不意にしっとりと薄く黄色く濡れ、甘い匂いが周囲に立ち込め出した。

 こうなると、平だけでなく徹たち動揺を見せ始めた。大の男どもが雁首揃えて平然としておられず、戸惑いから次の一言が口に出来ずにいると、横から大保・受の来訪を告げられた。



 ★★★



「大保様が?」

 ――……其れにしても絶妙な機会を選んで現れる御方だ。

「……何処かで見張っていたのではあるまいな……」


 貴姬・蜜の相手だけでも精根果てるというのに、此の上更に大保の相手などしたくはない。

 げんなりしつつも、心の片隅ではだが何故かほっと安堵している自分が居る事に戸惑いを覚えている平を他所に、刑部尚書程度の男では埒が明かないとでも思っているのだろうか、蜜は顔ばせに喜色を見せている。

「良いでしょう、大保とやらの目通り、特別に許しましょう」

 尊大に蜜が答えるのとほぼ同時に、資人しじんに身を変えた青を従え、大保・受が姿を見せる。

 平を筆頭に一斉に礼を捧げる男たちの中、蜜のみが赤子を抱きながら胸を張っている。

 ほう? と受が眉を上下させた。興味があると云うよりは想定よりも面倒臭い事になりそうだ、と感じている証拠なのだが、蜜はそうは受け取らない。己の美貌に絶対の自信を持つ彼女は、受の『男』の部分を揺さぶったのだと信じて疑っていない。

 ちらり、と青が受を見、そして蜜と路を見る。

 ――滑稽だな。

 蜜は大保が己の容色に執着し、皇帝に引き合わせると踏んでいるのだろう。

 事実、大保は皇帝・建に彼女を会わせる積りでいる。

 しかし其れは、蠱惑的な容貌に受が魅入られたのではなく、彼女がとしてのみしか利用価値の無い女であるからだ。囚獄にて此の国の地獄を見た蜜は、其れを武器として皇帝・建を籠絡するだろう。

 ただ、其れだけの為に大保は蜜に辛酸を舐めさせたのだ。


 ――大保様がお前を皇帝に呉れてやるのは、出世に利用してやろうという目論見からでは無い。禍国を破滅に導くのに適当・・な駒として利用出来るからに過ぎないのだというのに。

 気付かぬ蜜は尊大さだけでなく不遜さをも取り戻し、平たちに対して唾吐く勢いで睨んでいる。

 ――いっそ哀れでもあるが……だが、態々教えてやる義理は私には無いからな。

「備国王が御寵愛高き妃嬪に対して無礼を働きし不遜な輩どもの無礼、此の大保が皇帝に成り代わり陳謝致します」

「……」

「身構えられるのは非礼の数々に対して至極当然であります。何卒、お赦し下さいますよう」

「……ほう……?」

 蜜の頬が、ぴくりと動く。

 反対に、平たちは顔を強張らせた。此の侭では、いい面の皮ではないかと言いたげだ。

 だが誰一人として口にしない。今の禍国では、誰に正しき事を言っても無駄なのだという諦めの空気が平たちを縛っている。そんな平たちを無視して、蜜は機嫌を直したか、幾分弾んだ口調で大保に問う。

「其の方は、妾に非礼を働いたと認めるのであるな?」

「はい」

 蜜の前に跪く受を、蜜は満足気に何度も頷きながら見詰める。

 そして、ぎょろ、と目を剥いて平たちを睨んだ。慌てて跪く平たちに対して、蜜はぎり、と奥歯を噛み締めながら恨みを込めた一言を言い放つ。


「妾を冒涜した其の方らは何があろうとも忘れぬぞ」

「……」

 言葉も無い平たちを余所に、蜜は大保に連れて行くがよい、と命じた。

 青の冷たい視線の先で、思惑通りに大保に恭しく頭を下げられ皇帝への目通りを取り次ぐ旨を伝えられた蜜は有頂天になっている。

 生来が卑しい性根である彼女らしい尻軽な態度なのだが、青は根底から彼女のような女と反り(・・)が合わない自分を自覚した。


「皇帝陛下におかれましては妃嬪様に直接陳謝を述べたいと申しております」

「宜しいでしょう。では、其処まで言うのであれば、特別に許しを与えてやらぬでもありません」

 頭を下げている受に対して彼の頭上から、ふふん、と鼻先でせせら笑いつつ、案内せよと蜜は居丈高に命じている。

 青は、蜜のぬらぬらとした女の成分を発する横っ面を、平手で思い切りぶん殴ってやりたかった。



 ★★★



 蜜との謁見を、当初、建は渋っていた。

 実際に政治臭のする面会など面倒臭いだけであるし、他国の、其れも他人の手垢が付着した処か結実である赤子まで連れている女などよりも、気に入りの後宮との蜜月の方が数万倍も価値在るものだったからだ。

 何よりも怖くて後宮から出られない、出たくない。

「私に何事かあれば、どうする積りなのだ、大保よ。其の方のみで何とかせよ、何とか」

 最後の最後まで、餓鬼のように愚図愚図と言い募り、避け続けた。

 押し切られる形で城に上げた後も、一応の形を整えて蜜を饗応したが、何のかんのと言い訳を添えて直接会わなかった。

 こうして暫くの間、蜜は観賞用の花か何かように極大事に扱われる時が過ぎていった。無碍な皇帝の態度に、青はまた蜜が高慢ちきな態度に出るのではないかと読んでいたのだが、城に上がってしまえば彼女は焦らなかった。


「一度でも良い。目が合えば妾のもの」

 己の姿をにした男は、須らく無視できぬ。

 声を掛けずにいられない。

 一度ひとたび言葉を交わせばもう一度会わずにいられない。

 もう一度会えば彈む会話を途切れさせたくなくなる。

「そうなった時が、妾の勝利」

 ――見ておいで。妾の此の美貌を前にして、躰を前にして、欲に抗い切れる男はおらぬ。

 そして彼女の読みは正しかった。受が青に命じて、女官に紛れさせた蜜と引き合わせると事態は一変する。

「あ、あれが、備国王が妃嬪だというのか?」

 程無くして、建の方から彼女を部屋に呼び出してきた。平服する蜜の頭上を、建の欲望に濡れた声が通り過ぎる。

「其の方が、貴姬・蜜か」

「……」

「何かをして、我を喜ばせてみせよ。我を満足させれば、褒美の一つも取らせようではないか――どうだ?」

 建の弛んだ腕に抱かれていた後宮たちが寝物語に御ねだり(・・・・)したのだろう。自分たちの脅威になりそうなてきは早い段階で叩き潰して思い知らせるのは、古今東西、何処でも変わり無い。

 だが蜜は静かに北叟笑んだ。此れは既に、建が手管に嵌った事を意味していたからだ。

 準備の為と下がった蜜が、再び建の前に現れた時、何と彼女は薄衣一つのみを肩に羽織った姿だった。


「ほ、ほおおお!?」

 建の前に平伏叩頭した後、すっくと立ち上がると薄衣ははらりと床に落ちた。

「ふほおおおっ!!」

 蜜は裸体を惜しげなく曝け出し、艶めかしさに建は青臭い餓鬼のように興奮した。文句を言うべき後宮たちは、というと言葉を無くして息を呑んでいた。首元から手首、胸から腰、尻と太腿から足首にかけて、起伏の激しい肢体は張りが有り、且つまるで羊脂白玉のような滑らかさを持っており、子を産んで間もないとは到底思われない。

 気圧された後宮たちに対して此処ぞとばかりに、にこり、と蜜は嫣然と微笑んでみせた。そしてやにわに彼女らの装身具に手を伸ばして引き千切った。

 悲鳴を上げる後宮たちを尻目に、蜜は手にした装身具を節を付けて打ち鳴らして舞い始める。白い躰は白昼夢のように怪しく、そして蛇のようにうねった。動きが激しくなればなる程、胸元からは甘い乳の香りがくらくらと妖しくたち上る。

 呆然としながら舞を見詰める建に、蜜は流し目をしながら片目を瞬きしてみせた。長い睫毛の先が、蝶々の羽宛らに揺らめくのと同時に、建は蜜という泥沼の奥深くに自ら足を踏み入れ、そして沈んでいったのだった。

 先ずは手始めとして、ある後宮に与えると約束していた宝玉に絹を山と贈る。

 次いで、殿閣まで蜜のものとした。詰まり、彼女を己の後宮の一品として認めた事になる。

 そして極めつけは――何と、敵国の王子である路を手元に置いての養育まで許しを与えたのである。



 ★★★



 青からの報告を面白くもなさそうに聞いていた受だったが、最後に、建からの要望を伝えられて流石に苦笑した。

「あの蜜という備国の後宮を、正式に召し抱える、とのお言葉ですが」

 好きにさせよ、と受は苦笑しながら軽く手を振る。

「其れにしても、だ。たかが50年余であるとはいえ、平原一の大国の末路にしては貧相過ぎるな」

「……は……」

 青が返答に窮していると、恐れ乍ら、と声が掛けられた。

「何用だ」

 貴重な受との二人きりの時間を邪魔されて、むっとしながら青が要件を尋ねると、其れが、と言い淀む。

「兵部で大規模な罷業が起こりまして……」

「ほう? 兵部で? 罷業を?」

 青が遣いに詳しく云うように、と命じるよりも先に、受が興味を示して立ち上がる。

「阿呆どもが早速やりよったか」


 出陣の全権を委ねられているのは大司馬でもある受であるが、兵部では今、主に貴族や高官の子息を中心として軍の再編が成されている真っ最中の筈だ。

 此度の出兵に集った彼ら皆、は此れ迄に只の一度も戦場にたった事が無い者ばかりだ。そんな彼らがしたり顔(・・・・)で扱き下ろしたのだ。

「先に契国に侵攻した際の不手際を看過する訳にはゆかぬ」

「然様、歴戦の勇士との評判の兵部尚書であるが、句国王などと踏ん反り返って言い気になっておる裏切り者の足下に這い蹲った程度の男ではないか」

「斯様な無様な様を見せたる男が鍛えた兵馬なぞと居丈高に言われても、信じられぬわ」

「我らは皇始祖様が禍国を開闢されてよりの高貴な血を引く者である、故に、路傍の石に等しき輩である男に信を置く程、愚かではない」

 優に頭を下げられたからこそ共に戦場へと云う願いを堪えて居残った者たちは、遂に我慢の限界を超えた。

「其処まで言われては我らも腹を括らねばならぬ」

「各々各人各様にて、勝手になされるがよかろう」

「然様、我は手も貸さねば動きもせぬ」

「好きに為されるが良い、我らも好きにする」

 一人が己の任を放棄すると我も我もと皆倣い始め、遂に兵部の存念は此処に有りと意思表明をし、一斉罷業へと突入したのである。

「なかなか、やりよるではないか」

「……はあ」

「小さな衝突は起こるだろうと予測はしていたが、徒党を組んで仕事を放棄するとまでは思いもしなかったぞ」

 其れだけ、兵部尚書・優に人望が在るという証明になるのであるが、受にとって此の騒ぎは禍国を滅亡させるという計画に貢献すれこそ軌道修正を余儀無くされるような支障を来すものではなかった。


「……ふっ……」

「大保様?」

「天帝より見放され終末が見えるとなると、人であれ国であれ滑稽な程、無様なものだ。青よ、そうは思わぬか?」

「……」

 今、禍国は、坂道を遮二無二転がる小石のように加速を付けて、破滅に、滅亡に向かって一直線に脇目も振らずに突き進み始めていた。

 受の望み通りに。



 ★★★



「兵部の面々が業務を放棄しよった、だと?」

「はい、放り出してとんずら(・・・・)を決め込んだそうです」

 仲間からこっそりと耳打ちされた徹は、短く嘆息した。

 正直な話し、後を任せると兵部尚書に言われた彼らが同盟罷業を行うなどと予想もしなかった。しかし、一旦肝を据えると徹底的なのは彼らの師匠である優譲りのようで、譲ろうとしない。

「――と言う事は、既に兵部にはまともな人員は居らぬのか?」

 気を揉みつつ尋ねると、はあ其れが、と仲間は顔を見合わせつつ間抜けた声でまた教えてくれた。

 逆に、五月蝿く云う面倒な奴らが消え失せたとばかりに、皇帝と皇太后の息のかかった者たちが乗り込んで勝手放題にしてまわっているのだという。


「我が物顔の場と化しているらしいですぜ」

「兵部の者たちもあんな奴らの世話からの逃れられて良かったのだし、貴族の馬鹿息子にどら息子どもも好きに出来るのだ。誰も損はしておらぬだろう」

「しかし、のさばらせておいて良いはずが御座いませんぞ?」

暴戻恣雎ぼうれいしきな奴らな事です」

「何れ兵部を冒涜する行いをする日は遠くありませんぞ?」

「我が刑部として、如何に致しましょうや?」

 ぐるりと取り囲んで逃す隙を与えぬようにして唾を飛ばして言い募る仲間たちに、しかし徹は冷たく言い放った。

「放っておけ」

 乗ってくる(・・・・・)と信じていた仲間たちは、揃って、えっ!? と目を丸くすして言葉をなくし、立ち尽くす。

「聞こえなかったのか? 放っておけ」

「放って……いや、その、し、しかし……」

「本当に……その、よ、宜しいのですか?」

「何がだ? 今まで不承不承ながら後始末をして来られた兵部尚書様が居られぬとはいえ、我らが出張るのは越権だ」

「は、あ……」


 素気ない態度の徹に、仲間たちは釈然としない顔付きとなる。

 てっきり徹は、自分たちの言葉に乗せられて(・・・・・)兵部に殴り込みをとばかりに、先頭を切って勇んで呉れる、と思っていたのに、此の張り合いの無さはどうだ。

 所在無げに互いを見遣る仲間を、ちらりと盗み見た徹は、しかし何も言わない。

 今の刑部と兵部は禍国でまともに機能している数少ない部である。言い換えれば何方かの機能が僅かでも滞れば相手を引きずり込んでの共倒れになりかねない。自分たち、刑部の為にも兵部にはしゃっきり(・・・・・)していてもらわねば困るではないか、一言物申さねば、と誰よりも徹が感じている筈であるのに。

「此度、大保様はどら息子(・・・・)どもを戦場に連れて征かれる御積りだ。職務を放棄した兵部の面々に大保様も厳罰を以て処する暇も人的余裕もお有りになられぬ。なれば、投げた石は全て一周回って奴らの背中に突き刺さるだけだ、我らが関わり合う必要は何処にもない」

「……其れは……」

「気に入らぬと言うのならば、ならば腹が立つと言いつつ、態々、奴らの醜態を見に行くな。目を閉じて耳を塞いでおればよい。何があろうとも自業自得だ、構うな、放って置け」

「いや、その、其れは……」

「その、其の通り、ではありますが……」

 真面目くさって徹が答えると仕事仲間たちは微妙な顔付きになった。そして声には、今度は羨望の色が滲んでいる。


 ――羨ましい。

 そう、同じ思いを抱えているのは思うのは徹たち、刑部もだ。

 自分たちは此れから、増長慢心した彼らが都の中で為出かす事態の尻拭いに駆り出される。恐らくは不眠不休になるだろう。

 国が崩壊するの一瞬だとは理解している。

 だが其れも此れも、大保の策略通りなのだと思うとどうにもやりきれぬわ。

 刑部尚書・平が徹に愚痴を零した事があるが、今、徹は上官の言葉を噛み締めていた。

 ――やっていられるか。

 兵部が職務権限を捨てたのであれば、我らも同様にして良いではないか。

 誰もが思い、そして誰もが口に出来ない。ふと徹は、仲間の視線が変わったのに気が付いて胸の内で苦笑する。

 ――私に、自分たちを扇動しろと云うのか。

「気持ちは分からぬではないが、私には其の方らの期待に添えるだけの度胸はない。諦めろ」

「……」

 落胆の色を隠そうともしない仲間たちに、今度は口の端を歪めながら徹は言い放つ。


「若しくは其の方らが雁首揃えて、刑部尚書様御本人に根性を見せてくれ、と嘆願書でも提出するのだな」

「いや、其れは……」

「であれば、刑部尚書様も御一考して下されるやもしれぬ」

「……あ、う……」

「何れにせよ、私に何かしらの期待をしておるのであれば迷惑千万。私は、囚獄としての責務を全うする以外に能の無い男だ。刑部尚書様の腰を上げさせる力などは有りはせん」

 背中を見せながら、下らぬ世間話は仕舞いだ、仕事をするぞ、と徹が腕を振るうと、仲間たちは身体をごそごそしつつの口の中で文句をごにょごにょ唱えつつのしながらも、従った。と言うよりも、徹の背中から上る迫力に気圧されたと言う方が正しい。

 刑部にはどうやら、徹に踏み止まり再考をと迫る意気地が在る男は、居ないらしい。



 ★★★



 然し乍ら、悲鳴を上げているのは刑部だけでは無かった。

 最も割りを食っているのは、戸部と大府寺と司農寺だった。

 此度の冷害は未曾有の災害、大飢饉を引き起こしかねなかった規模だ。其れでも秋を迎えてみれば収穫量は危機的状況を既の所で回避出来ていた。此れでやっと、契国侵攻に最低限必要だった兵站や、何より圧迫していた皇帝・建の遊興と放蕩に湯水のように使われて空になった国庫も一息入れられる、と安堵していた処出会ったの言うのに。


「双六の振り出しに戻るの升目に成ったか、いや、駒を取り上げられ永久に一回休みに入った状態であるな」

 少しでも民から租税を搾り取ろうと戸口を預かる部署は数に追い立てられ、また役人たちの着服などに重罰を与える為に田賦でんぷを記した書類に不備はないかと目を皿のようにして照合と査閲を行う。しかし此れ等の仕事は重複している箇所が多く無駄な事が多かった。だが指摘する者が居ない為、改善も成されず、作業は益々膨大となり遅々として進まない。

 鬱屈が堪りに堪り各部署で陰険な空気が頂点に達した頃に、不意に奇妙な噂話が流れ始めた。いや、噂と言うよりは愚痴に近いようなものだ。

 曰く、数年前、此の事態を予見しているかのような男が大府寺に居た。

 頬骨がまでが浮いた痩せぎす(・・・・)の陰鬱な印象を与える男であった。男は賄賂と横領といった不正行為の横行を正面切って摘発したわけではないのだが、類似する仕事が尚書と寺を行き来する無駄を数値化により指摘し続けた。計算こそが至上の喜びであった男の手に掛かれば、僅かな搾取も数字として可視化してまうのだ。

 収賄が常習化していた大府寺の判官や吏士たちに疎まれ、遂には謂れなき罪を着せられて罷免された。

 もう一人、司農寺にも同じ様に罷免された男がいる。

 此方は逆に、食い頃の子豚のようなころころとした印象の親しみ易い男だった。司農寺に納められる租税の管理を任せれば右に出る者は無しと言われていた。だが此の男に掛かれば、脱税や着服などを誤魔化す為の公文書の偽造などといった、世間の目から瞞着しようとした詐術や欺瞞の形跡が尽く白日の下に晒されてしまう。無邪気なまでに仕事に忠実だった彼も、矢張り免官させられた。


 今思えば、彼らの言動に目と耳とを傾けておれば良かったのだ。そうすれば、もう少しまし(・・)であったかも知れぬ。

 今更ながらに後悔するが、そうなると今度は職を追われた二人が現在、何処でどうしているのかが気に掛かる。

「奴らはどうしている?」

 野垂れ死んだのか、との空気が広がると、何処かで薄ら笑いが上がった。

「何だ、知っているのか?」

「知っているもなにも。奴らは二人とも、戰皇子様が祭国に赴任される際に拾われて、今や祭国王陛下にも認められ彼の国の重臣として取り立てられておるぞ「

 激務の最中、気を紛らわせる為に囁かれていた話し声が、ぴたり、と止まる。やがて、溜息と共に怨嗟の呻き声が其処此処で漏れ出始める。

「そうれ見ろ、やっぱりだ。戰皇子様には先見の明があらせられたのだ」

「我らはこんな、最早、未来さきの見えぬ国の為に、斯様な狭き部屋にすし詰めにされて」

「一体何をやっておるのやら、だ」

「ああ何故、我々は禍国なぞに居残ってしまったのだ」

「そうだ、どうして祭国に知行に往かれる皇子様について行かなかったのか」

「いや、何故に戰皇子様が禍国に残って下されなかったのだ」

「吹けば木っ端となるような小国であった祭国をたった数年で立て直されたのだろう?」

「おう、そうとも、其の御手腕を我が国で示されればどうなると思う」

「言うに及ばずであろうが」

「ええい、もういっそ皇子様に――いや、今や句国王陛下に支配されたものだ」

「ああ、そうさな。そうすれば我らも斯様な苦労など知らずに済むものを」

「全くだ」


 過密日程の中での激務、而も難局と重圧とに神経を擦り減らし続けている男たちの憤懣は渦を巻いていく。

 誰もが究極の一言――句国王陛下のものになればよいのだ、此の、禍国が――を、口にせぬまま愚痴だけがうず高く積もり積もって行く。

 どろりと重い不平不満に聞き入りながら、唯一人、こっそりと北叟笑む者が居た。

 其の者の双眸の奥では不敵な光が暗く瞬いていたのだが、誰も彼も、気が付く余裕など微塵も持ち合わせてなかった。



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