1 天旋地転 その3-2
1 天旋地転 その3-2
其のまま直ちに、契国に向かう兵の選定が行われる事となった。
4万に迫る大軍がどう動くかによるが、如何に対するべきか。
真っ向勝負、正攻法で迎え討つのか。
其れ共、奇策を以て征するのか。
先ずは、大将となる優の意見が求められた。
「陛下、此度は少数精鋭を率いて参ります」
「うん、と言うと……」
戰は優の傍に控えている杢に視線を巡らせる。
「杢を連れて行くつもりかい?」
「はい。……いえ、杢はお借りするお許しは頂きたいのですが、5千も必要ありません」
「何?」
「配下の者より更に選抜を行い、2千騎。此れで以て大保の軍を迎え討ちます」
禍国軍、と言わず大保の軍、とした処に、優が疾うの昔に腹を括っている、自分は兎も角として郷に残してある一族郎党を思い揺らいでいる部下たちの心情を慮っているのが感じられた。
幾ら、皇子・戰が立った場に居合わせたと血湧き肉躍っていようとも、再び契国を目指して来る軍内に己の家族や知己が含まれていないとは限らない。寧ろ其の確率の方が高い。
しかし、と戰は眉を顰める。
――2千とは。余りにも少ない、少なすぎる。
「杢に加えて、せめて大保の軍勢の半数の2万は必要だろう」
「いえ、2千あれば充分で御座います」
今度は、杢が訝しげに優を見上げた。
杢は、優が己が引退した後に兵部尚を継がせる積りで育て上げた秘蔵子だ。誰よりも、そう真よりも深く、戦場での優の判断基準と決断に至るまでの優の思考癖を熟知している。
万の兵を2千騎で壊滅せしめる、と言えば聞こえは良い。
実際、此れまでの真が打ち立てた策は基本的に此の奇策の類である。
弱が強を破る姿は胸が空くものであり、痛快である。が、其れが通用するのは逆に、奇策を押し通せるだけの実力と確証とが伴う場合だけである。
奇策により得る勝利を常とする将は何時か必ず己が策により自身も軍も破滅に向かう。況してや、追い詰められた末の決行など言葉にする必要もない――というのが優の持論だ。
幾ら指揮官が居らず弱体化としていようとは言え、数は力だ。
此れは戦場に置いて勝利を確定するものとして絶対条件である。
此の絶対条件により、当事者である兵士たちも自分たちの勝利を信じられる。
「勝利を信じぬ将に率いられた兵が、どうして一枚岩となり勝利に向かい邁進できるか」
敵を凌駕する圧倒的な力の差を先ずは示す、話しは其れからだ、と知る優の言葉とは思えない。
優が一介の武人から兵部尚書にまで伸し上がって来られたのは、偏に此の勝利の理論に徹底して従ったからだというのに。
「大保が率いる軍を烏合の衆、所詮は寄せ集めとと侮るっておる訳ではありません。兵は兎も角として軍馬は兵部の管轄下にあり我らが育て上げたものです。契国に到着するまでの間に軍馬に慣れた兵たちが実力を出し切った場合の強さ、恐ろしさは如何程となるか。私が一番良く理解しております」
ならば何故、と戰が問う前に優は片手を上げた。
「然し乍ら陛下。私は禍国で、いや此の中華平原の誰よりも多くの場数を踏んでおると自負しております。大保が我が息子と同類の策士であるとしても、其れを凌駕するだけの経験値が私には御座います」
我が息子、と言う言葉に、真は思わず顔を上げた。まじまじと優の顔を見詰める。しかし、父親の表情は常の通りに厳しく至極真面目なものだった。
「何より」
「何より?」
何と声を掛けるべきかと倦ねている真を、ちらり、と優が見た。視線が合った真は、やれやれ、と肩を竦める。
「戰様も、予想しておられる通りです。契国に侵攻したとしても、大保様は私たちに勝利する気は有りません。必要がありませんからね、どかんさえ手に入れられれば良いのですから。大保様の狙いは精々、祭国、露国、東燕を引っ掻き回して皇帝を糠喜びさせた挙げ句、大敗北を喫して兵を引き上げつつ、戰様を皇帝にと云う機運を上昇させる事です」
「……露国と東燕、か」
「はい、大保は東燕を戦へと動かします。必ず。――しかし戰様」
「……ん?」
「よく御考え下さい。大保様は東燕の領地を掠める事も目論んでおられると思われます。そうなると、果たして、契国からどかんを奪って東燕と露国と対峙するのは、些か要領が悪いとは思われませんか?」
「と、云うと、つまり?」
「戰様の御想像通りです。大保様の契国侵攻は隠れ蓑。何れかの地点で軍を割いて取って返し、祭国に在るどかんを強奪する。此れこそが大保様の真実の目的です。ですから、父上は自ら率いる兵は極力抑えるべきとの存念なのです」
真の説明に、然様、と優は重々しく頷いた。
★★★
「どかんを奪われ大保に利用されるかどうかは、此の際、別問題として。東燕は兎も角として、此処まで一向に動こうとしなかった露国王・静が、果たして動くだろうか?」
「さて、其れはどうでしょうか。ですが露国が動くと確信しておられる大保様は、時期が何時であるかは然程重要視してはおられないと思います。結局、最終的には動かざるを得なくなるのだから遅いか早いかは王たる者であるかなしかを示すもの、恥をかくのは露国王だ、と位のご認識でしょう」
「真殿、そりゃどういう事だ?」
「究極の漁夫の利を目論む露国が大保様如きの甘言蜜語に乗るなどと大保様御自身が思っておられないでしょうから、動かぬが当然、動けば勿怪の幸い、東燕と祭国の戦で動くか其れ共禍国が交わってから後に動くか、どの時点を選ぶかで露国王を評価してやる、とまあ、そんな処ですよ」
事も無げに、けろりと真に答えられた克は頭を抱えた。大保の考えもついて行けないが、其れを読める真にもついて行けない。
「では露国が動くとすれば、其れは何時、どんな条件下だと真は見ているんだい?」
「やはり、東燕が大敗を喫した時でしょう」
すらりと、淀みも迷いも無く真は答えると、ううむ、と克は天を仰ぎながら呻く。
「軍が機能していない禍国軍が東燕を完膚無きまでに破るには、どかんが必要――か」
「そしてもう一つ」
「其れは?」
「……大保様は、学様を廃そうとされておられます」
祭国からどかんを手に入れるとなると、其れは当然の状況だろう。
大保の視線では、妃として戰の後継となる皇子を二人も産んだ椿姫はまだ利用価値を認められるが、義理の甥でしかない学はお荷物以外の何者でもない。
大保・受は、契国ではなく祭国からどかんと共に学の王位をも奪う。
此の一言に克だけでなく冷静な杢までもが色めき立つ。
「やはり、大保は学の簒弑を狙っているか」
「はい。学様を失えば戰様は禍国を討つ方便がたちますし、其れに」
「其れに?」
「大保様は、戰様が門閥を持たれる事を良しとしておられません」
禍国がたった50年で母体が腐ったのには幾つか理由が絡み合っているが、一つに血族関係で高官を占拠した事にある。
其の点、戰の場合は、各国の王と血縁でないのに同等の同盟を組んでいる。
だが、祭国国王・学は違う。
此の後、戰が皇帝となれば椿姫は皇后となる。皇后の甥であり祭国国王でもある学が、新生禍国の内政に深く関わるのは自然な流れと言えよう。
だが、其れでは嘗ての禍国と同じ轍を踏むと自ら宣言しているようなものだ。
禍国皇帝・戰の治世には汚点という染みは一つも許してはならない。
憂いは目に見える形となる前に断たねばならぬ。
故に、祭国王・学は討たれねばならない――
恐るべき三段論法だが、もっと恐ろしいのは大保・受は大真面目に粛々と取り組む気であるのだ。
「いよいよ、祭国が戦場となります」
断言する真の横で、優は微妙な顔付きで目を閉じ、佇んでいる。そんな父親の姿を、今度は真が溜息を吐きつつ見遣った。
★★★
戰が腕を組んだ。
動きをある程度予測はしていても心の何処かで、果たしてそうか、という疑念がわいていたらしいが、真と同意見と知り気を強く持ったらしい。
「真」
「はい、戰様」
「東燕と露国と禍国は、大保の思惑通りに動くと思うかい?」
「はい、概ね、ですが」
東燕の現国王はまだ年端の行かぬ少年である葵燕だが、彼を背後で操っているのは、垂簾聴政を行っている女傑と名高い母、王太后・璃燕である。
烈女だの猛女だのと堂々と囁かれている璃燕であるが、彼女の判断は果断で而も的確だ。
機を見て逃さぬ判断力と其れを実行に移す際の迅速さは、なまじの男など足元にも及ばないのは、璃燕が実権を握るまでの道程と以後の東燕の推移を見れば明らかである以上、剛国が崑山脈を超えて備国に向かい、我々句国と祭国は禍国と真っ向から睨み合っている最中――となれば、祭国と共同で整備した雄河を源流から我が物とするにきまっている。
「今こそ、祭国と露国を我が手にしてやろう、と東燕は動き出すでしょう」
「此の絶好の好機を逃しはしない、我が物となれ……か、なかなか、熱烈な求愛だな」
戰が苦笑する。
「だが、禍国が動くとなれば祭国に残してある軍備で一体何処まで持ち堪えられるか」
「戰様、祭国を寝取られる可能性が高いのは今は寧ろ、何となくで動いている禍国などよりも本気の塊である東燕の方です。で、ある以上、祭国に向けての援軍により重きを置くべきです。父が2千で良い、と申し上げているのならば、2千で事足りるのだと信じて首を立てにお振り下さい。そして、椿姫様と星殿下に輪殿下が待っておられる祭国を守る戦に重きをお置き下さい」
「……うん、分かった」
真に畳み掛けられた戰は、優を手招いた。
「では、兵部尚書――いや……」
「陛下?」
「……いや、うん……」
「何か気に掛かる事でも?」
「うん、その……」
急に、眉を寄せつつ戰が首を捻り出す。やる気に満ちていた優や克たちの間にも戰の戸惑いのようなものが伝播し、微妙な雰囲気となる。
ただ一人、戰の内心を汲み取っていた真が、くすり、と小さく笑い声を漏らすと、むっ、としつつ優が息子を振り返って睨む。
「いい加減、何時までも父上を、兵部尚書、と呼ぶわけにもいかないが、さて如何にすべきだろうね、と戰様は仰りたいのですよ」
久々に唸りを上げた父親の鉄拳を、おっと、と身を翻して躱しながら真が言うと、漸く、あっ!? と云う空気が男たちの間に流れた。
★★★
確かに、そうだった。
戰が句国王として即位した後、施政及び外交辞令の案件を虱潰しにする事に忙殺されていたが、国政を引っ張る人事についての考察が皆無であった。人事に掛ける時間すら惜しいのもあるが、適才適処とあれば即断即決で人材を突っ込んでこれたせいでもある。祭国時代からの役割分担が其の侭、無言のまま引き継がれていたのも大きい。
然し乍ら、国として成り立つには国内だけでなく国外に向けて対面を保つのも立派な仕事の一つだ。
「流石にもう、此の侭、という訳には参りません。暫定的なものであったとしても、国の高官だけでも句国王として、戰様の名で任命しておくべきです。先ずは、武官の方々だけで宜しいでしょう。句国、祭国、両国の領民にも、新しき国の将としての名を見聞きすれば意気も上がるというものです」
「そうだね」
そうなると、句国祭国を見渡した場合、優が軍部の最高位に任ぜられるのは当然であるが、其の名称が重要となってくる。
最も相応しいのは丞相か。
若しくは相国か。
或いは宰相か。
――といった官位が優の年齢的にみて妥当であるだろう。
が、此等はより深く国政をも担う職務である。優は根っからの武人であり武官として生きてこそ輝く漢であると認識されているし、だからこそ庶民派として民に慕われてきた経緯がある。
そんな優が、此れらのどの高官位を与えられたとしても政治に手を出すかという視線と反感を抱かれるだろう。
何れ、年齢的にも経験的にも優が内政にも意見する立場にならねばならなくなるのは必然であるが、現時点では其れは得策ではない。
かといって大将軍という地位では、大司馬を兼任する大保に対して、些か見劣りがする。
将軍職務は克や杢たち、優が周知され始めた年齢と同じ若い世代に委ね、其の将軍をも統括する最高責任者に相応しい官位を授けるべきである。
「真は何かもう、良い案があるんだね?」
「はい」
即答しつつ、真は厳かに礼を捧げる。
「太尉が相応しいかと存じ上げます」
――太尉。
其の昔の国々には、丞相や相国に相当する品位の地位として置かれていたと知られているが、禍国では大司馬が置かれていた為、常設されなかった。
「成程、太尉か――うん、良い考えだ」
流石だね、真、と笑い掛ける戰に、恐れ乍ら、と真は更に一段、深く頭を下げる。
「戰様」
「うん、何だい?」
「我が父・優の官位が定まった処で、杢殿と克殿もまた、、戰様の両翼、双璧を成す将軍であると知らしめる為にも、新たに官位を授かるべきであると思いますが」
更に、杢も名目上は禍国で上将軍の官位を得ている。
彼もまた優と共に名実一体、戰のもとに馳せ参じたと覚えさせねばならない。となると、優に次ぐ身として、二人の官位は如何にするべきか?
「では、真。杢と克にはどんな官職を与えれば良いと考えているんだい?」
「はい。防守戦に秀でておられる冷静沈着な杢殿には驃騎将軍が、疾風迅雷の攻めで知られておられる克殿には車騎将軍が、相応しいかと」
驃騎将軍も車騎将軍も禍国においては開闢と共に消えた地位の一つであるが、其々、騎兵を率いる大将軍に次ぐ地位として古き国々には置かれていた官位である。
「太尉・優に、驃騎将軍・杢に、車騎将軍・克、か。いいね、実にしっくり来るじゃないか。よし、其れでいくとしよう」
真の進言に戰はまるで童のように無邪気に手を打って喜んでみせると、優、杢、克の三名は戰の前に揃って片膝を付いたのだった。
★★★
優が率いる2千騎の選抜が始まった。
筆頭として従うのは、嘗ての右腕であり驃騎将軍を拝命したばかりの杢であり、彼が祭国から率いてきた5千騎の内から2千騎を選びぬいた。中には、芙の配下にある薙と萃の名が挙げられている。特に萃は、一度見た地形を忘れないという特技により杢から芙に頼み込まれた。其れから、優たっての人選であるが伐の名が加えられた。
「まさか、父上が伐を求められるとは思ってもいませんでした」
殊更大仰に態とらしく目を丸くしてみせる真を、優は鬱陶しそうに睨んでみせた。
「奴は小煩く動きよるからな。先のように勝手に戦場に顔を出される位であれば、連れて行った方が確実だ。一応、人望らしきものもありよるのも――」
「ですね、大きいですね」
褒めているのか貶しているのか実に分かり難い口調であるが、此れが、優が伐を欲した理由である。
が、本当の処は馬搬の技術、契国風に云うのであれば地駄曵きを利用しての活躍を目の当たりにしていからであり、そして伐たち、契国の民自身に国を守る為に立ち上がらせたい、というのが理由であった。
しかし伐を呼び出した優は、何と、協力を求める際に頭を下げた。
「其の方らに助力を頼みたい。陛下の御為に引き受けると言って呉れ」
何事かある毎に衝突していた優の此の姿を見せつけられた伐は、物怪か妖怪か何かを目の前にしたかのような表情で突っ立つしか無い。
まじまじ、と見詰めた後、へっ、と息を吐きつつ肩を竦める。
「俺らみたいなのに、兵部尚書にまで出世したあんたみたいな立派な御仁が頭を下げるたぁなあ」
真摯な態度の優に、既に伐は毒気を抜かれている。顳かみの辺りを指で引っ掻きながら、いいぜ、伐は溜息混じりに答えた。
「幾ら相手が素寒貧だろうと、こうも立て続けにやって来られたんじゃあ、いよいよ契国もおっ倒れちまうだろう。契国の為に句国くんだりまで出張ってきたせいで国が不味い状況に陥っているってえのに、指を咥えて見ている訳にゃいかねえからな」
伐は優に手を差し出す。
「……では、頼まれて呉れるのだな?」
「へっ! 俺らの方から宜しく頼みてぇぜ。ちゃんと使って呉れよ! 陛下の役に立つ処か、何たら云う奴に荒らされて迷惑千万なお荷物になっちまいたくはねえからな」
云うなり、伐は豪快にからからと笑ったのだった。
殆どの者が自ら2千騎の決死隊に志願してきたので逆に難しい作業となってしまったが、喧々諤々の騒動の末に、選抜も無事に終わった。
選ばれた者は、以下の通りだ。
身寄りの無い者。
若い妻や幼子が居らぬ者。
妻帯者であったとしても祭国に在り周囲に郎党が多い者。
禍国に家門一族を残してきたとしても国の責めから逃げられぬような老境にある者が居らぬ者。
――などなどである。
此れ等の条件を満たす者は意外と少なくなかった。
杢や克の部隊は屯田兵が大多数であるが、中心は元々は優にしごかれた兵士たちで成立している。つまり、将である杢と克と同様に、部下たちもまた若い。克もそうであるが年齢的に妻帯し始めている者が圧倒的多数派だったのだ。
基本条件が身寄り無く独り身である事、との必須要点が提示されると両親への絶縁状や妻への離縁状を密かに認める者が続出した。
「馬鹿者が。そんな事をしてまで従軍して陛下がお喜びになると思っておるのか、戯け者らが」
「ですが兵部尚書――いえ、太尉様」
怒る優を前にしても、彼らは悪びれる処か5千人全員でぐいぐいと迫ってくる。
「我らの総大将となられる太尉様こそ、妻帯なされて禍国に残されておられるではありませんか」
「そうです、御大将自ら禁を破っておられるというのに」
「我らだけ話しを聞けというのは無理というもの」
「どうかお許しを」
「我らも共にお連れ下さい兵部尚書様、いえ、太尉様」
「えぇい、喧しいわ! どいつもこいつも屁理屈を捏ねおって!」
優の一喝はどんな猛者であろうとも縮み上がる威力がある。
しかし此度はどんなに怒鳴られても、兵たちは一向に引こうとしない。
寧ろ益々涙ながらに言い募り、切々と懇願する。寄せる潮のように連れて行け、と迫り来る兵たちを前に、武将として生きてきて最大の誉れを感じつつも、いい加減にせんか! と優は一喝した。
「私が禍国に在る妻と離縁もしておらねば子らと絶縁もしておらんだと!? 我が子らは既に成人し殿上人となるべく精進するまでの年齢に達しておるわ! 妻とて兵部の最高位に登った男の姿を何十年も見てきておるのだ! 覚悟の程が違うわ、馬鹿者どもめ!」
「……えっ、いや、あの、お言葉ではありますが太尉様……」
「いい歳した御子息様方も、未だに太尉様の脛を噛じる気満々であらせられますし……」
「其れを言われるのでしたら太尉様のご無事とご武運をお祈り申し上げ続け宅を御守り続けておられたのは、ご正妻の妙様ではなく側室の好様ですし……」
どすどすと足音を響かせて下がった優の背中に、兵たちのごにょごにょ呟かれる不満たらたらの声は届いていたのか居なかったのか、さてどうであっただろう。
★★★
些か性急で慌ただしい出陣ではあるが、明朝に契国に出立すると決定した夜。
優は執務室兼居室として宛てがわれている部屋で、一人静かに酒を呑んでいた。
視線の先にあるのは、長らく戦場を共に駆けた『兵部尚書』の軍旗と、『優』の名が刺繍された軍旗である。
「……考えてみれば、お前たちとは殆ど全ての戦場を駆けておる。長い付き合いだ」
往生際が悪いと嘲笑されるような敗戦濃厚な戦況であっても、冥府の入り口が垣間見えるような際疾い局面であっても、執念で活路を求めて喰らいつき、最後には戦況を打開し、結局勝利を収めて来られた、此の数十年余。
――軍旗よ、何もかも、お前たちが我が頭上で翻っていて呉れた御蔭だ。
「礼を云おう。よくぞ、私と共に居て呉れた」
酒杯を掲げながら口元を緩める優の耳に、来訪者を告げる声が上がった。
「誰だ? こんな夜更けに訪れる無礼者は」
「其れがその……息子君です」
「ふむ」
句国王となった戰が最も信頼を置く者を、真殿、と気安く名を呼べるものではない。
かといって、官位役職を得ているわけでもない。若手の、特に句国出身者は、息子の呼び名に苦心しているを優は感じ取った。
「通せ」
「……はっ……」
許しを与えると、ゆっくりと戸が引かれ、左腕で恭しく礼拝を捧げる真の姿が現れた。右手には、何かを下げ持っている。
「入れ」
「……」
無言のまま、もう一度礼を捧げてから静かに入室した真は、戸が閉められるや否や、呆れかえった声で言い放つ。
「父上、明日は出立だというのに、御酒を召し上がっておられるのですか?」
息子が手にしている物を、優はちらりと盗み見てから、ふん、と頭を振った。真は水盃の用意をしてきていた。
「水なんぞでは別離を楽しめんからな」
「……」
何方と別れを、と言いかけて、立て掛けてある2つの軍旗を前に、ああ、と真は口を噤んだ。
名を冠した軍旗は真の母親である好が刺繍したものであるし、兵部尚書の軍旗は戰の父親である禍国皇帝・景から賜ったものであるが優という武人の歴史其のものと言っても過言では無い。
――『惜しまれておられるのですか?』
問おうとして、何となくであるが真は止めた。すると、息子の心の内を察したかのように、優は笑った。珍しく、其の笑顔が優しいのに、真はどきりとする。
「惜しんでおるわけでは無い、ただ、労っておるのだ。此のものどもは、優と云う漢と共に誰よりも長く戦場を駆けて呉れた勇者だ。賜ったのが禍国の先皇・景であったからといって、憚る必要など無い。歴史とは人が寄り集まって紡がれるものだ。私という武人を綴った布に禍国という太き糸があった。其れは事実であるし、私は、此の兵部尚書の軍旗と共に生きた己を誇りに思っている」
「……はい」
此の先、戰が禍国皇帝の座に就いたとして、最も逆風を喰らうのは実は真ではなく優だ。
多くの国々から戰は好かれてはいるが、其れは戦の経験が優より圧倒的に少ないからだ。
優が兵部尚書として矢面に立った実績はほぼ、自分の年齢に等しい。
つまり、国の重鎮、王侯貴族だけでなく、領民たちの間で古老や長老と呼ばれて慕われ敬われている人々の中では、戦鬼のように恐れられ嫌われ憎まれている率が高い。
生ける猛将伝である優の存在は、敵だけでなく味方からも恐れられている。
――戰様の御世となった時、槍玉に挙げられるとすれば父上でしょう。
其の時、どうすべきか。
――……考えたくはありませんが、考える必要がありますね……。
悶々と考え出した真は、処で、と横から尋ねられ慌てて頭を上げる。
「はい?」
「其れは別離の盃だろう」
「えっ……? あ、はい、まあ――そうです」
「押しかけておいて、何が、まあ、だ、何が」
呆れつつも、優はまだ突っ立っている真に戻れ、と手を振った。
「とっと部屋に戻って身体を休めろ。大将に准ずる役目を担う者が、己の身体の管理は己の責任で行うものだ」
「……しかし、父上……」
「大体だ。下戸のお前相手では酒を楽しむ事も儘ならん。役に立たん者と共に居ても時間の無駄だ」
「……しかし……」
「私はお前と涙ながらに夜っぴて語り、別れの寂寥感に浸る積りはない、と言っておるのだ。下がれ。そして休め。お前が私の為に出来る事があるとすれば、其れだけだ。素直に従え」
「……分かりました」
真は用意してきた別れの水盃を抱え直すと、一礼し、優の部屋を下がっていった。
靴音が、ゆっくりと遠ざかる。注意せねば聞こえぬ位にか細くなると、優は立ち上がり、部屋の戸を開けた。廊下の先に、既に真の姿は見えなくなっている。どうやら珍しく、素直に部屋に戻ったらしい。
ふむ、と首を捻った優は酒杯を手にしたままだった事に気が付く。何事か、と目を丸くする見張りの武官たちにまだ濡れている杯を押し付ける。
「陛下の御許に参る」
「――はっ? え、ええっ……?」
「あの、太尉様……?」
真が去った方向とは逆に向かって歩き出す優を、武官たちは何と反応して良いか分からず、結局呆然と見送るしか無かった。
★★★
明朝。
久方振りの晴れ間を空は見せて呉れた。
もう、句国では初冬の冷え込みを肌で感じられるようになり、明け方となれば微かに息が白くなる程だ。寒さに鼻を赤くしながらも、出陣の準備を整えた兵士たちの顔は、誰も彼も晴れ晴れとしていた。
犇めき合うそんな兵士たちの前に戰が現れると、蒼天も破れよとばかりに歓声が上がる。
「句国王陛下万歳!」
「新王に栄えあれ!」
「新たな句国に天帝の加護あれかし!」
万歳の声に戰が片手を上げて応じると、歓声が怒号へと変化する。
が、戰が王専用の曲彔に深く腰掛けると、虫の羽音すら感じられる程の静寂が訪れる。冬の静謐な空気と緊張に、頬をひりひりとさせている将兵と、戰は一人一人、視線を交わしていく。
「人物が未熟ながら句国王として立った私に、よく付いて来て呉れている。礼を言う――皆、有り難う」
戰の声が、静かに響いていく。
「よくよく考えてみれば、我が軍は軍と呼べぬかも知れない。何しろ、祭国、句国、禍国、契国の寄り合い所帯だからね」
押し殺した笑い声が漣のように遠慮勝ちに立つ。
しかし、戰自身が笑みを浮かべているせいか、はたまた、将軍である克が大っぴらに吹き出したからか、次第に遠慮のない笑い声となった。
「だが、私は、私の軍を誇りに思う。私の前に居てくれる兵の皆を大切に思っている。だから、此れより出立する皆と、再び再会する時は互いの無事と勝利を喜び、噛み締め合いたい」
うおおおっ! と再び大歓声が沸き起こる。
「連戦に次ぐ連戦に、皆、疲弊している事は分かっている。だが、堪え、どうか私を助けて欲しい」
歓声は更に大津波となり、戰の言葉に感動している事を伝えた。
「此度の出陣に合わせ軍の編成を行った。同時に、新たに位を授ける事とする」
戰が手を振ると同時に、優・杢・克、3歩下がって竹と趙が続き、更に数歩下がって各人の軍旗を掲げさせながら真が現れた。
「禍国兵部尚書であった将軍・優には、新たに、太尉の地位を与える」
戰の宣言と共に真が、軍旗を! と命じると、優の前に軍旗が高々と掲げられ、太尉様万歳! の声が地も破れよちばかりに上がる。
「同じく、禍国上軍大将であった将軍・杢に驃騎将軍の地位を。祭国万騎将軍であった将軍・克には車騎将軍の地位を与えるもとする」
杢と克の前にも軍旗が掲げられ、最早万歳の声は津波の宛らとなる。
「また、先句国王・玖と大将軍・姜を失った句国軍を大いに助け、獅子奮迅の働きであった百人隊長・趙を衛将軍に任じる」
衛将軍とは禁軍を指揮する権限を与えられた将、つまり宮殿と王都を守護する役目を担う職務だ。
「し、信じられぬ……わ、私が、私に、斯様な……」
呟く趙の顔ばせが興奮に赤くなり、双眸からは熱い涙が滝のように流れ出した。
同時に句国兵の間からは歔欷の声が漏れる。名だたる将を失った句国軍であったが、趙は若く経験が浅いながらも残存軍をよく指揮して率いた。特に、句国王の大軍旗を守り通した彼の功績は後世に伝え続けねばならない。働きを認められての大抜擢に感動して身震いをせずにはいられない趙を中心にして、隣り合う者同士抱き合い、涙の輪が出来上がる。
「同じく万騎将軍・克の片腕としてよく務めを果たした竹を、輔国将軍に任ずる。此れからより一層、克を支えてやって欲しい」
「――へっ!? お、俺!? 俺まで将軍にっ!?」
「やったぜ兄ぃ! 格好いいぜ!」
ぎょっ、と目を剥く竹の背中に陸が抱き付くと其れを切掛として仲間が次々と竹に襲いかかった。
照れ笑いを浮かべる竹は、肩を叩く頭を叩く頬を拳で押す腹だの膝裏だの尻だのに蹴りを見舞われもみくちゃにされる。
「大任であるが、各人、其々の職務を全うする能力がある! 自信を持って命を受け、そして励んで欲しい!」
5人の傍らに軍旗が翻り、句国王陛下万歳! と唱和が幾度も上がる。
笑みを湛えながら戰が曲彔から立ち上がると、待ち構えていたかのように優が態とらしい咳払いを何度もする。真は、怪訝そうな表情を浮かべた。
――戰様? 父上も?
予定では此の後、優と杢と克らに軍勢を与え、出陣の号令を発する手筈だった。なのに、何を愚図愚図しているのか。感動の余韻に浸り涙を流すにしても時と場合による。
――一体、何をなされようとしておられるのですか?
今は一刻一瞬も惜しいのだと誰よりも知る二人が、揃って間を伸ばそうとしている事に不審を抱く真に、戰は悪戯小僧のような笑みをしてみせた。
いよいよ不審が深まる真に、戰は明るい声で宣言する。
「そしてもう一人。我が軍に、いや、私にとってなくてはならぬ者に官位を与えたい」
訝しげに眉を顰めてみせる真をよそに、戰は涼しい顔で続ける。
「皆、良く知っていると思うが、初陣から私を支え続けて呉れている真にも、此度、官位を与えたいと思う」
★★★
しん、と水を打ったように万の軍勢が静まり返る。
誰一人として僅かも身動ぎしない。慌てふためいているのは、真だけだ。
「――せ、戰様!?」
「真の軍旗を此れへ!」
戰は腕を上げる。
すると、一兵卒に姿を替えた芙が、真の軍旗を掲げながら現れた。みっともない程に周章狼狽する真を、戰は優しく手招く。
「真、私の傍に」
「……せ、戰様、此れは一体……一体、何を……」
「真、傍に、と私は言っているよ?」
心慌意乱とは今の真の様子を指すのだろう、視線を右に左に慌ただしく動かし、優や杢や克たちの表情を探っている。
命じられているのに動こうとしない真に業を煮やしたのか克と杢が背後に周り左右から背中をたたき、優が腕を取って投げるように前に押し出す。
そして立ち上がった戰も真に歩み寄る。
後退りしかける真の肩に戰は手を掛け、真っ直ぐに見詰めてくる。
「……戰様……」
「真」
「……はい……」
「私が最も信頼を寄せる君に」
「……」
「常に王たる私の傍に従えるように」
「……」
「太傅の任を与えるものとする」
「えっ……――!?」
傅とは常に傍に従う者を意味し、太傅とは古代、王位に在る者が善政を敷くよう助言を与え導く者に与えられる最も地位の高い官職の一つだ。
「せ、せ、せん、戰様、い、今、今何と仰いましたか?」
目を見張り、わなわなと震える真を、戰は抱き寄せる。
「真、君は太傅となった。此れで名実共に私の右腕だ」
「戰様、わ、わたし、私は、私は……」
「真。人として生きたいのならば。私の宿星の行方を見届けたいのならば」
「……私には、そんな……」
「真、首を縦に振るんだ」
「……私は……」
「真。謹んで拝命致します、だ」
「……」
「言ってくれ、真! 私と共に! 人として生きるのだと! 今! 此処で!」
掴んだ肩を激しく揺さぶりながら、真! と戰は声を荒らげ、仲間たちは固唾を呑んで見守る。
やがて、俯いていた真の目元から、ぽとり……、と水滴が地面に向かって落ちていった。
「真」
「――……い……せ……さ……ま……」
「聞こえない、真」
「――……は……い……せん、……さ・ま……」
「もっと大きな声でだ! 真! 私だけでなく! 皆にも真の心の声が魂の声が聞こえるように!」
「――はい……はい、戰様! 一の家臣、真。太傅職を、謹んで……拝命、致します……!」
感極まり声を時折途切れさせながらも拝命した真を、歓喜の表情で戰が抱き締める。
狂気に近い喝采が、そんな二人を更に包み込んだ。
此の日。
此の瞬間。
中華平原に名を轟かせし覇王・戰の戦勝の傍らに常に此の人の姿ありき――と後世、史書に記される真に。
遂に『人』としての身分が加えられる事となった。




