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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
八ノ戦 飛竜乗雲

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1 天旋地転 その2-2

 天旋地転てんせんちてん その2-2



 妊娠中である椿姫の体調を気遣い、一旦、朝議は此処までとする事になった。

 苑に呼び寄せられたでんに寄り掛かかる様にして、椿姫は自室へと下がって行く。

 第一子であるしゅん王子の時の経過と比べれば不調は少ない方ではあるが、矢張り小柄な椿姫にとって連続しての妊娠は身体に負担を掛けるものであるのは明白であった。


 椿姫が下がると、学は当然の事、類と通も各々の仕事場へと向かう。残されたのは、虚海ただ一人となった。

「お疲れ様に御座いまするな」

 盆を手にした蔦が、嫣然と微笑んでいる。

「はっは~ん、気遣い無用やで、蔦さんよ。こんなもん、屁でもあらへんわ」

「其れは其れは、無作法んも失礼をば申し上げました」

 笑みを絶やさず、嫋やかな所作で蔦は茶を点て始める。

 美貌の人に己の為だけに茶を点てられる贅沢に、虚海は年甲斐も無く照れのような感情を抱いた。


 全く、男と分かっていても頬を赤らめ動揺せずにはいられない、盛りを誇る芍薬が匂うが如き容貌をしている。

 おまけに、容姿に僅かの陰りすら出ない。此れはかなり稀な事象であるのだが、祭国の指導者層は他国に比べて圧倒的に若者で占められている。

 が、戰も真も椿姫も薔姫も、身体だけでなく精神にも皆均等に5年分の月日が経過している。

 少女であった椿姫は子供を産んで母となり、子供だった学は加冠の年齢を迎え、薔姫は身体的にも大人になった。

 克も珊と所帯を持ち、類は那谷を娘婿として孫まで得た。

 戰が郡王として此の地に訪れてからの仲間たちは、皆、其々に人生という刻を刻んで前に進んでいる。

 だが、蔦だけは一人、老いを知らずに居る。芙や珊たちは幼少期に一座に入り特に珊は赤子の時分に拾われている。其の一座の記録から数えると、芙たちは克や杢と同世代であり珊の年齢は椿姫と同様に二十そこそこである以上、蔦の年齢は優や刑部尚書・平たちと同世代の筈だ。

 然し乍ら蔦の見た目は、芙らとまるで差がない、遜色がない。


「全く、蔦さんのお色気を目にした日にゃあ、枯れ木のような爺も元気になりよるで、本当ほんまに」

「さてさて、冗談はさて置く事に致しましょう」

 ちらり、と蔦が視線を横に流す。釣られて虚海も視線を流すと、其の先に、すっ……、と片膝を着いて控えている影が立った。

「お久しぶりに御座いまするな」

「はい、ぬし様」

「ま、ま、積もる話しは芙さんもあるやろうが、先ずは句国と大保さんの様子を聞かせて貰おかいな」

「はい」

 土地柄的に祭国よりも気候の厳しさが激しいとはいえ、句国で目下の案件である食料事情の深刻さは虚海と蔦の想像以上だった。蔦ほどの人物でも、眉を顰める。


「……そら、ちぃっとばかしきつい(・・・)わなあ」

 べちっ、と虚海は額を叩く。おどけているかのような仕草であるが、眼光は鋭い。

 今、虚海の頭の中ではどうすべきであるのか、ぶんぶんと唸りを上げて案が飛び交差しているのに違いなかった。虚海が思案する方に没頭し始めたので、蔦が芙に尋ねる。

「其れで、陛下と真殿は如何に為される御積りであられると?」

「はい、取り敢えずの処は契国経由で手に入れる那国からの救援物資で凌ぐ御積りですが」

 珍しく一気に報告せず、芙が言葉を切った。蔦が微かに眉を持ち上げてどういう事か、と問う前に虚海が横から口を出した。

「禍国で大保さんがもう動き出しとるんやろ」

「はい」

「……其れは」

 今度は蔦が言葉を飲み込む。予測していたとは言え、如何にも早い。

「驚く事なんざあらへんで? 大保さんは儂の教え子なんやで? 此の程度、出来でけて当たり前や」

「……」

 ――そうかも知れないが、自慢そうに胸を張られても返答に困る。

 押し黙る芙に、これ、と蔦は悪戯っ子を嗜めるような目付きをしつつ虚海との間に入る。

「大保の目的は、契国に運び込まれる支援物資なのでありましょうや?」

「其れもあるんやろうけどなあ」

 徳利を引き寄せた虚海は、しかし蓋を開けようとはしなかった。其の侭、口に挿してある小さな蓋をいじいじと指先で弄りながら、蔦を見、芙を見た。順に見詰められた二人は、互いに戸惑いの表情を浮かべる。


 紅河を経由して運び込まれる食料を狙うのであれば、学にも言ったように本家本元である遼国を狙う方が手っ取り早い。

 何よりも遼国は、まがねの産する技術を駆使して戰に大量の剣を提供しているのだ。

 食料と武器。

 此の2つを枯渇させれば、どうなるかなど火を見るよりも明らかだ。

 飢えた人間が素手で巨大な敵にどう戦いを挑むというのか、生き延びられるというのか。

 戰の勢力は文字通りに泡と消えるだろう。

 然し乍ら、遼国王・しゃくは海路を独自に開拓しつつある陽国王・來世こよと手を組んでいる。

 海からの援助がある遼国は手強い。

 優が不在で尚書として全く機能してない兵部省に、冷めた目で計算し尽くす徹底した現実主義者であるあの()大保が其処までの期待を寄せるとは考えられない。


「大保さんの一番の狙いはやな、食料なんかやあらへん」

「では、一体何であると?」

 領土でも無ければ食料でも無い。

 其れならば、此の時期に何を目的としているであろうか。

 大保という漢はとことん無駄を嫌う。

 そんな漢のに、契国が最重要点として映る要因は一体何であるのか。

「虚海殿」

 思わせ振りにしておきながら、なかなか答えを口にしない虚海に焦れた芙が、遂に責めたてる。肩を上下させ、はあ、と大仰に溜息を吐き芝居掛かった様子で虚海は眼を閉じ、顎を上げた。


「大保さんの狙いはやな……」

「大保の狙いは?」

「……」

「虚海殿」

「…………どかん(・・・)や」


 虚海の答えを聞いた芙は、大きく目を見張った。

 力河の堤切り(・・・)の詳細を、あの大保が得ていない筈がない。

 だとすれば、祭国を預かっている虚海が、攻めて来た禍国に対して圧倒的な兵力差を埋めるべくどかん(・・・)を使用すると大保は危ぶむだろう。

 そして大保が対抗措置を取らぬ訳がない。同等以上の力を得ようとするのであれば、本家本元の契国のどかん(・・・)に目が向けるのは自然の理だ。


ぐだぐだ(・・・・)の禍国が、戦に労せずして確実に勝てる確証を得るにゃ、切り札が――どかん(・・・)が必要や」


 珍しく、ごくり、と芙の喉が鳴った。



 ★★★

 

 

ぬしさまぁ!? ねえ、ちょっと、主さまってばあ!」

 元気の良い叫び声と共に、ばたばたという足音が近付いて来る。

 祭国の城内でこんな事を為出かす者は一人しか居ない。今まさに名前を呼ばれた相手と、おやおやまあまあ、芙と虚海は顔を見合わせあうと唇を綻ばせる。


「んっとにもうっ! 一体、何処に居るんだよぅ! 返事くらいしてくれたって良いじゃないのさ!」

「……此れは」

「ま、一人しか居らんわな」

「仕方の無い御人ですなあ」

 息せき切って駆け込んできたのは彼らの予想通り、珊だった。

「主さま、ってば! もう、返事してって言ってるのにぃ!」

 部屋に突撃してきた珊は、顔の覆面を外しつつ苦笑する男の顔を見て、あっ! となる。

「珊、お前、もう直ぐ母親になろうって言うのに、まだそんな調子なのか」

「わっ!? わ、うわわわ? ふう!? 芙ぅっ!? 芙なの!?」

 そうだ、と答える間を芙に与えるよりも先に、珊は数ヶ月ぶりに顔を見た兄貴分に飛び付いた。少女、いや子供の頃からまるで変わっていない珊を受け止めつつ芙は苦い顔をする。

「芙!? 芙なんだよね!?」

「おい、こら、珊」

「芙、芙、芙だ! 本当に本物の芙なんだね! 芙、ふうぅぅぅぅ~!!」

 身体全体を乗せ掛かけるようにしてギュウギュウと抱き付く珊に、辟易しつつも芙は優しく妹分を引き離そうとする。


「珊、こういう事をするのは惚れた男(だんな)だけにしておけ」

「だってぇ……だって、だって、だってさ、だってさ!」

 椿姫と比べて目立つ腹をしているというのに、珊は平気でぴょんぴょん飛び跳ねる。

 いい加減にしろ、と芙に頭を小突かれつつ嗜められても、珊はなかなかきつく絡ませた腕を離そうとしない。其れ処か、ぐずぐずと鼻を鳴らして泣き始めてしまう。此れには、流石の芙も慌てる。

「おい、珊」

「だってさぁ」

「だって、じゃない」

「芙さん、そらぁ殺生やで? いっくら親になるっちゅうても、生まれた時からずっと一緒やった芙さんらがいっぺんにのうなってしもたんや。嬢ちゃんかって、ちぃっとばかし、寂しかったんや。なあ?」

「……しかし……」

「嬢ちゃん相手に仕方あらへんて、芙さん。約得位に思うて、大人しく抱きつかれたっとき」

「嬢ちゃん、と呼ばれる可愛げのある年齢なんかでは、もうないだろうが」

「……芙や」

「は?」

年齢の話し(それ)女性にょしょうの前で言うはならぬ一言に御座いまするぞ?」

 苦笑しつつ指を指す蔦の方を、は? と振り返りかけた瞬間、って何よ! と芙の頬に珊の平手打ちが盛大に見舞われたのだった。



 ★★★



 引っ叩かれた頬を無で摩りながら、芙は頭を下げる。腕を組んでぷりぷりしつつも、珊は久方振りの再会である兄貴分を許してやった。

「もう、良いからさ。あたいより、姫様に会いに行ってあげてよ」

「姫様がどうかなされたのか?」

 姫様、というのはそう、薔姫の事である。

「主様、我らが留守中に何があったのですか?」

「暫くの間は気を張って居られたのですけれども……」

 真剣な眼差しとなった芙に、云い出した側の癖に珊は口籠り、もぞもぞと身体を揺らした。ちらちらと覗かれた蔦が、ほぅ、と溜息を吐きつつ説明を買って出た。


 薔姫の普段の生活は、本当に変わりなかった。

 珊を気遣い真の妹のあいの舞の師匠役の代打も行い、施薬院で働く女たちの子供のお守りをとよと共にしたりと何かと忙しくなった部分はあれども、常の生活を送るように努めていた。

「皆様と芙たちが出立してより、一ヶ月程……後、の事……でありましたでしょうか……」

 以前、祭国を襲った赤斑瘡あかもがさが、再び流行の兆しを見せたのだ。

「赤斑瘡がっ……!?」

 芙は絶句し、ごくりと喉を鳴らして生唾を飲み込んだ。顔色が悪くなっている。

「其れで?」

「……はい、其れですが……」

 赤斑瘡は別名、『命定めの病』とまで言われ、罹患した患者の死亡率が凄まじく高い病であり、而も感染力が強く猛烈な勢いで流行を見せる伝染病である。

 発病した場合はもう対処療法を行うしか無いのだが、祭国では流行を抑える手立ては3年前にある程度知識として広まっている為、大事に至るまでの大流行になる前に喰い止められた。


「命令をされる学陛下の凛々しいお姿。皇子様方にも見せて差し上げてたかったものです」

「ほうや、そらぁ、堂々としたもんやったでなあ」

 息を止めて聞き入っていた芙は、緊張が解けると同時に珍しく崩れるように座り込んだ。

「其れならば、何を気にすると?」

「……あいちゃんがね」

「娃殿が?」

 まさか!? と眼光を鋭くした芙に、違う違う、と珊は慌てて手を振る。

「違うってば、あ、違わないか、え? あれ、違わないのが違うのかな?」

「どうだっていい、兎に角話せ」

 勢い込む芙の迫力に押され、う……ん、ともじもじした後、珊はぽつぽつと話し始める。

「其の、娃ちゃんはね、赤斑瘡に罹りはしたんだけど、酷い事にならずに済んでね、今はもう元気なの」

「……で、何がいかんのだ?」

「ん……その、あの、さ……」

「其の、あの、が、何だ」

「つまり、お寂しゅうなってしまわれたのですよ、姫様は」

「……さびしい?」

 何がどういう意味なのか全く分からない芙は、眉根を寄せる。

「つまりやな、真さんに甲斐甲斐しゅう世話して貰ろた事やら何やら思い出してまったんやな、姫さんは」


 ――……我が君……どうして、こういう時に……おそばに……居て、くれない……の……


 姑のこうと共に娃の看病を交代で行っていた時、ぽつり、と呟やかれた薔姫の本音を、偶然、耳にしたのは蔦だった。

「今までは、直ぐに真様は帰って来てくだされる、と信じられる事で御自身の御心を守っておられたので御座いましょう」

「……」

「なれど、真様が御不在の折の大事に、今まで見ないようにして来られた姫様の不安と虞れと心騒ぎが、一気いちどきに表に出てしまわれたので御座りまするよ」

 幸いにも赤斑瘡の終息は早く、全く一過性のもので終わった。

 元気を取り戻した娃たちとまた、施薬院を手伝って過ごしており、薔姫は、表向きはまるで変わり無い。

 優しく悧発で、情が深くて気丈な、人情味があり皆に慕われる姫奥様だ。しかし、こっそり影で浮かない表情を浮かべる回数が増えて来ているように思われるのだった。


「椿姫様も気にしててさ」

「――芙や」

「は? は、はい」

「お前様が祭国ここに来たからには、真様より何事か言付かっておるのでありましょう?」

 流石に蔦は鋭かった。

 実を言えば、真から、こっそりと薔姫にあてた手紙を預かって来ている。

 芙的には、えらく(・・・)まめ(・・)だが、まあ手紙魔の真殿と姫奥様だからな、程度の認識だった。

「お前様には分かり難いやもしれませぬが、男と女の仲は余人には計り知れぬ深淵があるので御座りまするよ」

「……」

 蔦にねっとりとした言い回しで言われると、深淵と言うよりは底無しの泥沼なのではと思えてしまうのが怖い処であるが、芙は言わずにおいた。

 ――しかし冷静になれば、な……。


『甲斐甲斐しくも、しっかり者の姫奥様』


 というのが薔姫の大方の評価だった。

 だが、薔姫は未だ13歳の少女なのだ。

 親掛かりで暮らしている深窓の姫君も多く居る年齢なのに、真のさいとして奥内の一切を取り仕切っている。

 甘えたい盛りの幼い身で真に嫁いでから明るい笑顔しか見せて来なかったし、先の出兵時にも義理姉の椿姫を真っ先に支えていた。

 禍国にて異腹兄・鷹の非道により生死の境を彷徨った時にも気丈に振る舞っていたから、皆、彼女は泣き言も言わねば暗く落ち込みもしない、と誰も彼もが思っていたのだ。

 と云うよりも、彼女に明るく振る舞う役割を押し付けて居たのかも知れない。

 誰だって、悪い方向に悪い方向に気持ちが傾いてしまう不安しか無く、誰かに精神的にも肉体的にも寄り掛からずには居られない此の状況下で、健気な彼女の姿に縋ってしまっていた――詰まり、人身御供も同然にしていた訳だ。


 ――甘えていたのは実は、俺たちの方だったのか。

 何かあったとしても、笑顔をみせて安心させて呉れる薔姫が居る。

 彼女の笑顔を拠り所にして、皆、堪えて呉れる。

 しかし其れだと、当の薔姫自身は何を拠り所にすれば良いというのか。


 ――成程、俺はまだまだ詰めが甘い。

 ぷりぷりと頬を膨らませている珊に、素直に頭を下げて謝る芙の脳裏には、何故か再会した契国相国が娘・てるの俯いている姿が浮かんでいた。



 ★★★



 真の部屋の掃除を終えた薔姫は、いつも真が座っている座に座る。

 そして、ぐるりと部屋の中を見回すと満足そうに微笑んだ。

 ……がしかし、直ぐにその笑みに陰りが差す。暫く無言で詰まらなさそうにしていた薔姫だったが、不意に立ち上がった。そして、衣桁に掛けられている、いつも真が夜着の上に羽織代わりに肩に掛けている薄掛け布団の前に立つ。

 衣桁から薄掛けを下ろして手に取ると、ぎゅっ……、と胸に抱く。すると、陽向の匂いと共に真が好んで使っている香の残り香が、ふわり、と立ち上って鼻腔を擽った。


 ――我が君の、匂いがする……。

 いつ、真が帰って来ても良いように貴重な晴れ間と見るや、すわ、とばかりに御衣みぞ掛けから外して夜着や掛け布を大洗濯しては干して清潔を保っているのだが、此の羽織り代わりの薄掛けだけは、何故か、どうしても、洗濯出来ず日干しするのが精一杯だった。

 ――……自分でも、どうして良いか分からないの、我が君……。

 元気を無くしつつある自分の姿を、母の蓮才人も義理姉の椿姫も、虚海や那谷、通や類、珊や豊や福たちも心配しているのは分かっている。

 分かっている。

 が、其れでもどうしても気持ちが沈んでいってしまうのが止められない。誰も何も言わない。だから余計に心苦しい。最近では、ふとした折に、自分は以前、どうやって笑っていたのかしら――と思う。笑い方を、思い出せない事がある。

 先の戦の時とは全く質が異なる不安感に、目の前がぐるぐると回転して酔いそうな気分だった。とはいえ、無邪気に父親の優がまた家に帰って来る日を待ち、兄の真が約束した人形を買って来て呉れると信じている娃や丸たちといった、自分よりも小さな子供たちを不安にさせる訳にはいかない。だが、そう思えば思うほど、頬が強張り心が軋む。


 ――句国や契国、河国と戦った時だって、大丈夫だったじゃない。

 寧ろ、自分は身重だった姑の好や椿姫を助けて立派にやって来た。

 今も、椿姫はまたも懐妊中であるし珊も初めての子を宿している。自分だけが大変なのではない。確かに以前と違い、文の遣り取りが出来ないでいるが、其れは自分だけの話しでは無いのだ。

 ――私なんて、まだまだ恵まれているじゃない……。

 隣国と戦火を交えている最中だというのに、実母に穏やかな姑に義理姉、多くの仲間に囲まれていると言うのに。

 何が不満なのだ、何を甘えている、と誹られて当然だ。


 ふぅっ……、と深い溜息を吐くと、薔姫は胸に抱いていた薄掛けを衣桁に掛け直して表面を丁寧に整えた。

 折角、皺を伸ばした薄掛けだったが、薔姫はまた直ぐに額を寄せる。

 そんな事を幾度も繰り返していると、かた……、と部屋の隅で何かが動く気配が立った。

 驚いて振り返った薔姫の視線の先には、片膝をついて跪いている男の姿があった。

 ――……えっ……!?

 目を見張る。まじまじと見詰めてみるが、男の姿は幻でも変化でも怪異でもなかった。

「ふ、う、なの?」

「はい、姫様」

 一歩踏み出した積りだったのに、よろ、と身体が傾ぐ。

 薄掛けに身体を預けるような形になり、ふわり、とまた香りが薔姫を包み込んだ。


 傾いだ身体を何とか踏み止まらせた薔姫に、芙は胸元から小さな束を取り出した。

 差し出された其れを、薔姫は無言で受け取る。何も言われなくとも、真からの書である事は明白だった。

 縒ってある細い組紐に指を掛けて解こうとするのだが、指先に力が入らない。思わず、息を詰めて集中して結び目を解く。苦労の甲斐あって組が解かれると、薔姫はもどかしそうに木簡を広げる。


 姫、息災で居て呉れてますか?

 毎日どう過ごされて居ますか?

 私などは、芙たちが大活躍の最中で私などに構ってなど居られない状況なのと、後は何と言っても姫のお小言が無いお陰でしょうか。

 すっかりものぐさ(・・・・)ぐうたら(・・・・)になってしまいましたよ。

 祭国に戻ってから、姫にあれやこれやとどやされる(・・・・・)のかと思うと少々、いえかなり、いえいえ相当に怖い処なのですが、まあ折角ですから、姫を室に迎える前のぐうたら生活を思い出して楽しんでいる最中です。


 ――我が君の、字……。

 男にしては、細い文字を書く真だが、何時にもましてひょろひょろとした字が踊っている。

 ――きっと、片腕で書をするのが大変なのね。

 何も言わずとも手助けが入る状況でなければ、真は助けを求めようとはしない。背中を丸めて文机に向かい、四苦八苦しながら墨をすり、木簡を広げて筆を取っている姿がありありと目に浮かぶ。

 ……ふふっ……、と薔姫は小さく笑みを浮かべた。


 姫はいつも頑張る私には勿体無い良きさいです。

 ですが姫。

 頑張るのはとても良い事なのですが、頑張るとは我を張る、つまり欲張るのと同じ事ですなのですよ。

 欲張り屋を見ているのは、誰だって良い気持ちはしないものです。

 姫も、私の世話をしなくて良いのですから、少し位、いえ思い切って堂々と怠けた生活を堪能して下さい。


 相変わらず、真らしい、戯けてはいるが歳の離れた妻を気遣う文字が連なっている。

 木簡を、そっと撫でながら夢中で読み耽っている薔姫は、何時の間にか芙が姿を消しているのに気が付かなかった。


 私が帰って来たら、きっと、あああの暇過ぎる生活は何処に行ってしまったのか、貪っていた怠惰な日々が懐かしい、と嘆くこと請け合いですからね。

 今のうち、本当に今のうちですよ?


 ――もう、我が君ったら……。


 姫が伸び伸び過ごすのに飽きた位に、多分、私は帰って参ります。

 其れまで、どうか、息災無事にお過ごし下さい。

 返事は、帰宅の際に得られる貴女の笑顔一つで充分ですので無用にて――


 我が

 心優しき妻へ


 怠け者の夫君、真より


 ……くすっ、と笑い声が溢れると同時に、薔姫は、頬が濡れるのを、そして胸の奥がじんわりと温もりを持ち、あんなにも張り詰めて居たものが柔らかくなっていくのを感じていた。

 真が自分をこんなにまで気遣う。

 という事は恐らく、祭国に未曾有の危機が押し寄せるからだろう。

 其れもきっと、此の先そう遠くないうちに。


 ――戦場いくさばになるのね。

 此の、祭国が……。

 でも。

 それでも。

 それでも、今は。

 今だけは……――


 薔姫は、真の優しさに包まれて、幸せに包まれていたかった。

 


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