1 天旋地転 その2-1
1 天旋地転 その2-1
「――祭国も久しぶりだ」
領地に入った途端に、芙は身体も心も緩んだように芙には思えた。脚を止め、周囲をぐるりと見回す。
留守にしていた期間は初夏から晩秋に掛けての、僅か四ヶ月程でしか無い。だが今回の連戦につぐ連戦は、既に4~5年も時が流れたのではないかと、芙ほどの歴戦の勇士であっても精神に圧迫感を感じ、錯覚してしまう程であった。
――だが、此処は、祭国は違う
確かに冷害の影響は出ている。城に来るまでの間に見られた穂仁王やはぜ掛けから察するに、昨年までと比べるまでもなく、収穫量は激減しているだろう。
――石高は恐らく、半分近くにまで落ち込んでいるか……
だが其れでも、生命を脅かされている悲愴感というか逼迫した様子は見受けられない。
実は此れは、芙には意外だった。
出陣前、真が散々っぱら脅していたのだから飢饉とまでは行かずとも疲弊しきった領民たちに出会すのではないか、と内心で戦々恐々としていたのだ。
其れが――どうだ。
重苦しさは感じられるものの、人々は『人が人として生きる為の営み』、つまり希望をを捨てていない。
「嬉しい誤算だな」
――陛下も、真殿も、喜ばれるだろう。
御二人が、そして通や類、那谷や虚海殿たちが祭国に来てから積み上げて来た五年間の成果が、確実に出始めているのだ。
いざという時の食料を手に入れ易くなるよう山の手入れを積極的に行い、加えて同時に河川を整えて灌漑を行った上での開墾の奨励と米と麦との二毛作、蕎麦の栽培の積極的指導など。
無論、此度の冷害では山の実りは期待するような量はないだろう。が、其れでも領民たちの心を怯えさせまではしていない。
戰と学を王として、彼らと共に国造りをしているのだという自負が、其の儘、祭国で生きているという安心感に繋がっている。此れは、何よりも大きい心の支えだ。
「そうとも」
――祭国は最早、弱小国などではない。平原の中央に在りはしないが、れっきとした心の大国なのだ。
胸に高鳴りを覚えながら、芙は祭国の城に入っていった。
★★★
そろそろ目立ち始めた腹を摩りながら、椿姫は学、虚海と蔦、そして類と通たちと今年の出来高について、そして今後について如何にするべきかの朝議を開いていた。
「王妃様。全ての県からの報告が出揃いまして、此れに寄りますと、今年の米の生産高は陛下が統治をされた此の5年の中で最も低い値となっております」
そう……、と椿姫は軽く目蓋を伏せた。
「通、類、数値として正確に知りたいのだけど」
「はい、王妃様。此方に纏めて御座います」
差し出された木簡を受け取った椿姫は一目見るなり絶句した。暫く、息を止めて木簡を見詰めた後、深い溜池を吐きながら、一行一行を読み込んで行く。
「姉上?」
「此れ程にまで、減少していたなんて……」
椿姫の表情は、まるで曇天宛らとなった。
其れはそうだろう。
今年の米の総収穫量の見積もりは、ざっと100万石弱。昨年度が200万石に迫るかという大豊作であっただけに、半分近くにまで落ち込んだ事になる。
「……そんなに……」
手渡された木簡に目を通しながら、学も愕然とした表情となる。
戰が郡王として着任してより5年。
此の間に祭国は一気に豊かになり、其の施政の恩徳を皆が共受出来た。
どんな逆境にも打ち勝ち、常に祭国に光明を指し示してきた。
だから祭国の民は信じている――と云うよりも錯覚を起こしている。
此の乱世の、辛く苦しい生活が当然の世にあって、開かれ安寧秩序の元に束ねられるなど、なかなか有るものではないのに、しかし其れが永遠に続くもの、と。
もっと端的に言ってしまえば、豊かで平和な状態こそが正常であるという幻想の世界に皆で住んでいた事になる。
そう思わせるだけの力量が戰の治世にあったからであるのだが、だからこそ、人々が此の減収減益を知ればどう思うだろうか。
椿姫の父王・順の治世の頃は表向きの総石高120万石強。
実際の総石高は年によりばらつきがあるが90~80万石弱、宗主国・禍国への職貢品として其処から大凡10から20万石を朝貢しており、実質は60万石強程度の国力だった。
だから、100万石でも充分であり満足に足る出来高であろう、という言い訳は通用しない。
きっ、と学は目尻を上げながら虚海を見遣る。
――今は非常の時です。其れだけはどうあっても阻止せねばなりません。
「お師匠様、民への救済措置として年貢を軽減し、且つ、此の5年間の備蓄米を放出すべきしょうか?」
「いんや」
学の問いに、虚海はのんびりと答える。
「まんだまんだ、大丈夫や。其処までする必要はあらへんて」
「ですが……」
学が気に病んでいるのは、何も祭国内の食事情だけでな無い。
主食の生産高は其の儘、兵士を養う力、国力其の物であり、民の飢えへの恐怖は士気の低下、ひいては軍の瓦解へ直結する。
今、戰と真が留まっている句国も先に戦った契国も同様に食糧難は必至の情勢である。平原にあって比較的温暖な気候で知られる那国は、一年に二度米の収穫が見込めるが、此の那国を手中にした遼国王・灼からの援助を待つ余裕が果たしてあるのか。
現実は、其処まで逼迫しているのだ。
祭国から救いの手を差し伸べたいのは山々であるが、自国民ですら満足に養っていけぬような事態である。
――共倒れとなるしか、無いのですか、お師様。
学が静かに下唇を噛むと、虚海が目を細める。
「なんや、ぼっちゃん。大事な事忘れてとらへんかな、ん?」
「……」
虚海の口調は優しい。
が、視線は鋭い。
学を子供ではなく為政者の一人として認める以上、当然であるが其れにしても、大の男であっても怯まずにはいられぬ程の眼光だ。
学は暫く俯いて考えこんでいたが、やがて、首を左右に振った。
「……無理です。我が国が開墾を続け、石高を上げていると禍国も承知しております。穀物の石高を把握されている以上、職貢の品としての米を……」
其処まで言って、はっとなった学は、眸を輝かせながら虚海を見遣る。
「お師匠様! 職貢品です! 職貢品を忘れておりました」
「そうや、ぼっちゃん。よお、気付いたな。褒めたるで」
虚海は、にやり、と口元を上げ、瓢箪型の徳利を傾ける。
「禍国に朝貢せえへんかったら良いだけの話しや」
禍国へ行う進貢は主に絹物、其の他には薬草類に宝玉等、小麦、蕎麦、そして米で行われている。
蕎麦に注目が集まってはいるが、特に米が重要な品である事は変わり無い。
昨年は書面上の数値と商人・時を通しての交易の場の数値で、実に25万石に迫ろうかという値である。
今、祭国は戰が率いてきた禍国からの屯田兵たちに加えて他国からの流民たちも加わり人口は右肩上がり、そして戰の政策が図に当たり石高も鰻登りだ。
だが、其れにして4倍近い国力差があった禍国と同等であるなどと、肩を並べられる筈がない。
そんな祭国が、安全を買う為に収入源である米から、例年、禍国に朝貢していた20万石の米。此の、朝貢を取り止めれば良いだけの話しだ。
「其れやったら、まるっと20万石が浮く勘定になる。備蓄に手ぇ出さんでも、今年は乗り切れる」
「はい、我が国だけではありません。句国も、そして契国もです。一国だけで担うのは難しくとも、遼国王陛下の助けが有れば」
学の中で何かが音を立てながら傾いたのが、周囲に居る者には見て取れた。
「坊っちゃんよ、先に言うとくがな」
「は? は、はい?」
「此の20万石のせいで禍国が飢えるやないかとか、要らん気ぃ使う事はあらへんで? 20万石は、どっちみち、禍国の民の口になんぞ入らへんのやでな?」
「は、はい……」
虚海の言葉は事実だ。
では、祭国から進貢された米がどうなるのかというと、此れは実に可笑しな話し――という寄りははっきりと商売の話しになってしまうのある。
崑山脈以西、毛烏素砂漠に広がる諸国とは一触即発状態が続いている癖に交易だけは其の横で白々と続いている。
特に引き合いが強いのが米なのは、当然其れが貴重な品であり金になるからだ。
祭国からの米は其の儘、右から左へと流れて、禍国の民の口に入る事はない。
金へと姿を変えて後宮に住まう禍国皇帝・建の驕奢淫逸極まるの生活と、母后・合らの暖衣に一向に飽きず活計歓楽に耽る日々を支える重要な品となっているのである。
だが、其れを無くす、と祭国から宣言するとは、如何なる事となるか。
「お師匠様」
「そうや、坊っちゃん。先んずれば何とやら、言うやろがな。皇子さんが平原の覇者として立ったるわ、ゆうて決意したんや。わしら祭国も付いて行くで、意思表示するんは、今、此処しかあらへん」
「はい!」
戰の失態に対して、禍国は祭国側、正妃である椿姫と傀儡の積りである国王・学が揃って震え上がり、事を穏便に収束させんと平身低頭、胡麻粒の様に小さくなって諂いながら朝貢してくるであろうと思っている。
「此方が下出に出る、ちゅうて思うのは向こうさんの勝手や」
「はい、其の通りに動かねばならぬ義理は有りません」
態々、此方の貴重な食料を分け与えてやる必要も、禍国の思惑通りに祭国が生きねば成らぬ道理も、何処にも無い――
きゅ、と唇を引き締め、決意を漲らせている学に、おっ? と虚海は眸を見張る。
そして其の儘暫く、王としての顔付きになった少年をじっくり、頼もしそうに眺めていたが、やがて、ぐび、と音をたてて酒を景気良く飲み干した。
ぷはっ、と息継ぎしつつ濡れた口元を手の甲で拭うと、よう言うた! と叫びざま、空になった瓢箪型の徳利を放り投げる。
「坊っちゃんの気持ちが固まった処で、もう一遍言わせて貰うで? 皇子さんが句国王さんとして即位したった、ちゅう一報は、もう禍国に届いとる。10日以上はが経っとるやろ。禍国帝室では今頃、皇子さんへの処罰をどないしたろか、ちゅうてで朝議が紛糾しとる処やろ。どうやって、わしら祭国を虐めたろかいな、ゆうてな。弄られるの待っとる必要なんかあらへんわい。出鼻、挫いたるでぇ!」
「はい、お師匠様」
「どのみち、皇子様と句国の今後の出方如何に寄っては此の祭国もどうなるものか、知れたものではありませぬゆえ。ならば、先手必勝は戦の常套手段に御座いますれば」
「ほやで、蔦さん。あの大保さんがまともな出方なんぞする訳あらへんからな。其れやったら、こっちも大保さんを転がす積りで動いたろやないか、なあ、坊っちゃん」
「はい!」
すっかり遣る気を漲らせている学を前に、ええ子や、ええ子や、と虚海は何度も頷く。そして新しい徳利を引き寄せ傾けながら、虚海はまた、にやりと笑った。
「処でな、坊っちゃんよ、さっきの話しに戻るがな」
「はい、お師匠様」
「米と麦はともかくとしてや。まんだ、秋蕎麦の収穫は終わっとらんのやろ?」
「は? は、はい」
虚海の指摘した通りだった。
今や、祭国全土に広がった蕎麦の栽培は、狭い領土内でも北から南に掛けて時期をずらして行われ、天候や害虫の被害が極力少なくなるようにしてある。
最後の収穫地となっているのは、以前、学が母である准后・苑と隠れ暮らしていた邑から以北、東燕と露国の国境に近い地域となっている。
「最終的にどれだけの収穫高になるんかは分からんけどな、幾らかの足しには確実になる。禍国に朝貢する・せえへん、の話しは横に置いといてもや。ぎりぎり、今年の収穫で喰ってはいける筈や。此の先に控えとる戦の事考えたら、備蓄米にゃ出来るだけ手ぇつけたらあかん、分かったかいな?」
不意に学は、姿勢を正すと真っ直ぐに虚海を見詰め、声を落として問うた。
★★★
「お師匠様」
「急に改まって、なんやいな?」
「私はまだ、『本当の戦』というものを、初陣を経験しておりません。なのに――私のような若輩者が、此の大局を、果たして乗り切れるのでしょうか?」
「出来る。当たり前や」
幾分、沈んだ声音で問う学に、間髪を容れず虚海は強い口調で言い返す。
「坊っちゃんと祭国を必ず勝たしたる。心配せんでええ。其の為に、わしゃ、此処に残っとるんや」
「…………」
「ええか? 誰にかて最初の一歩はある。其れが上手い事行くかどうか、なんちゅうのは周りの大人次第ちゅうこっちゃ。詰まり、坊っちゃんの成功は儂ら大人の責任なんや。お前らよう気張って儂を勝たせたらんかい、ちゅうて、どーん、と構えとったらええんや、どーんと」
「……」
「坊っちゃんよ、いんや、王様よ」
黙り込む学を虚海は下から、ぎろ、と睨む。
「王様の役割ちゅうのはな、皆がもうあかん、もう仕舞いや、もう敵わん、もう駄目や、ちゅう瀬戸際の処でやな、こんなもん何でもあらへんわい、わしを見てみい、何でもあらへんやろうが、ゆうて、一番の笑顔ではったりかましたれるかどうかや」
「私に、出来るでしょうか?」
「出来る」
にや、と虚海は笑う。
「其れにゃ、どんだけきつぅ腹を括れるかに掛かっとる。そやけど、ま、坊っちゃんは皇子さんや真さん、杢っさんや克っさんの遣り様を一番間近で見てきとる。こんな贅沢三昧しとる生徒さんは、平原中ぐるっと見回しても、坊っちゃん以外に居らへんで? 其の坊っちゃんに、出来へんわけなんざあるかい」
「――はい!」
自信満々な虚海に釣られて、沈みかけていた学の表情も戻る。そんでええ、と虚海は徳利を振るう。ぽちゃぽちゃと中身が音をたてた。
「見とれや、坊っちゃん。此の冬から来春に掛けて、平原中の国のぶつかり合いになるでえ。いよいよや。平原の勢力図が、がらっ、と変わりよる。歴史の境界線に、わしらは立ち会うんや。目ン玉ひん剥いてよお見とかななあ」
徳利を抱え直した虚海は、のほっのほっのほっ、と独特な笑い声をあげる。
「平原に打って出て平原を統べるに覇王になる、ちゅうて覚悟を決めよった皇子さんだけやあらへん。此処はな、坊っちゃん。坊っちゃんと祭国にとっても正念場や。坊っちゃんも一人前の王さんとして一人で祭国を切り盛りしたる、ゆうて、気合い入れて貰わんとあかんでえ」
「はい、お師匠様!」
少年らしく、不安と高揚からくる気分の上下は激しいが、すっかりやる気を取り戻した学は興奮に頬を赤くしながら頷いた。
「さぁてさてさて、ほんなら、坊っちゃん。早速、王さんとしてのお仕事して貰おかいな。先ずは、軍備みたいなもんを開こうやないか。ん?」
「はい、勿論、望む処です!」
と、急に虚海は姿勢を崩した。
其の昔、宮刑と同時に酷い折檻をも受けた虚海は、長時間、背筋を伸ばした姿勢で居られないのだ。
直様、蔦が虚海が楽な姿勢を取り易いように凭れ掛かる布団を用意すると、すんまへんなぁ、と云いながら、虚海はだらりと横になった。
★★★
横になり、さて、と虚海は学を手招きする。素直に傍に膝を揃えて座る学を、蔦は柔らかく微笑みながら見守っている。
「剛国が句国から引き下がったはええが。孤立無援状態になっとるんは、実は句国におる皇子さんらやのうて、わしらの方やでな? 坊っちゃんよ、先んず、其処ん処、間違うたらあかんで?」
「はい」
句国の南には契国があり、紅河を使い遼国との連携も可能だ。
然し乍ら祭国は、西に剛国、北に露国、東に東燕、そして南に禍国が在る状態、まさに為す術無しの苦境にある。
句国の援軍、と言うべきだろうか、ともあれ、戰と真たちが帰国するまで国をどう保つのか。
「皇子さんも真さんも、わしらの事も心配しとるやろうが、句国を立て直す目処が立つまでは、どうにもこうにも動かれへん。祭国に戻って来れるまで、まんだぎょうさん時間が掛かる筈や。此の間に、禍国としては祭国を平伏させんと面目が立たん」
「……」
「しかし、や。此の5年の勝ち戦の立役者なんは皇子さん、其れ以前の戦勝の功労者の兵部尚書さん、此の双璧が禍国に揃って居らへん」
皺に塗れた額を、べちっ、と虚海は叩いてみせる。
「禍国一国で祭国を掠め取るにゃ、ちと荷が重いわな」
「では、お師匠様は、禍国は何処かと同盟を組む腹積もりでいると――いえ、大保殿は企てている、と御考えなのですか?」
学の答えに、虚海は小さく手を打ち鳴らしながら、ほうやほうや、よう出来たで、と笑う。
「相手はあの大保さんや。孤立無援なんざ糞とも屁とも思うとらん。甘う見たらあかん。大保さんは碌でも無い御人やでな、一人の方が気楽に好き勝手に動ける云うて、とんでもない策を弄して来よると見て間違いあらへん」
「確かに、あの御仁を舐めたら其処で負けに御座りましょうな」
「ほうや、大保さんのこっちゃでな、もうとっくの昔に何ぞ事仕掛けに動いとる」
頭を掻く虚海の横で、蔦は平原の地図を広げる。
「王さんが大保さんやったら、何処と組んだら一番、楽に祭国を落とせると思うや、ん?」
「一番、楽に?」
「そうや。祭国如きに軍費を削がれるなんざ、けちん坊の皇帝さんと業突く張りな皇太后さんが首を縦に振らへんやろ。口先だけで相手を納得させられそうな国を上げてみ?」
「……」
学は暫くの間、書かれた国名を一つ、一つ、順を追ってじっくりと眺めていたが、迷いなく地図に腕を伸ばした。
指が指し示す先の国名は『露国』とある。
のっほっほ、と笑いながら、虚海は手を打ち合わせた。
「よう出来た、よう出来た、ご正答やで」
「しかしお師匠様、露国は禍国の思惑通りに動くでしょうか?」
「動く訳あるかいな」
ぺちっ、と虚海は額を叩く。
「お綺麗な顔しとって、どうしてどうして、露国王さんも相当、業突く張りの面の皮突っ張らかった御人や。究極の『上前撥ね』を狙っとる。指先一つ動かさへんで、どんだけ甘い汁を吸いとったれるか、平原を喰えるか。虎視眈眈と狙っとる、厭らしい性格の御人や。そんな御人である以上、動くと見せかけるだけに決まっとるでえ?」
「と、云うと其れは詰まり……」
「そや、他の国にはそうは思わせん。隙をつく千載一遇の絶好の好機、ちゅうて操る積りでおるやろ」
「……其の国は」
「何処やと思う?」
「もしかして……東燕――です、か?」
むっ……、と考え込んだ後、恐る恐る、答えた学に、御明察、と虚海は徳利を掲げる。
「ええ読みや。流石、ええお師匠に囲まれて揉まれとるだけの事はあるでえ」
のっほっほ、と虚海は笑う。
「なあ、王さんよ」
「……は? は、はい」
「祭国王さんとしての、最初の本気の御役目や。気張りぃや、ん?」
「――……はいっ!」
少年王の急成長に、眩しそうに眸を細めている虚海の横で、椿姫は目の縁に影を落とした不安そうな表情で腹を撫でていた。
★★★
椿姫の沈んだ眸の色に気が付いた虚海は、慌てて取り繕い始めた。
「ま、ま、王さんよ。気張りぃ、とは言うたけどな、そう肩に力入れてばっかでおる必要はあらへん。さっきも言うたが、王さんにゃ、わしら皆がついとる。王さんを勝たせるのがわしらの御役目や。何とでもなるし何とでもしたるわい。胸張って、どーんと構えて踏ん反り返っとってくれたらええん」
「はい」
徳利を傾ける動作が、大きくなった。どうやら、2本目も、もう残りが少なくなったらしい。
口元の括れを持って左右に振るが、果たして、余り景気の良い音はしない。眉と肩を同時に落として、些か不貞腐れた面持ちになりながら、虚海は溜息を吐いた。
「虚海様」
「何やいな」
「露国がそうなると、大保殿であれば既に読んでおられるでしょう。であれば、大保様ならば更にどのように出られると、お師匠様は読まれておいでですか?」
茶の用意を終えた蔦が、新しい徳利を差し出と、ごろん、と不貞腐れた虚海は至極現金に、がば、と飛び起きた。
「大保さんのこっちゃでな。皇帝さんに攻める云うた先とは違う、東燕を討ちに行こうとする手筈でも整えとるんと違うかいな? ま、後は」
「後は?」
「今頃、皇帝さんを焚き付けとるんやないか?」
「焚き付ける、とは?」
学が首を捻ると、坊っちゃんみたいなまともな王さんにゃ分からへんわなあ、と酒をがぶ飲みしつつ呟く。
「何れ皇子さんが禍国に凱旋した時、王都の民が暴動を起こすように、ま、失策を積み重ねさせたっとる真っ最中やろ、ちゅう事やわ」
王都の民が怒りの儘に暴動を起こすとなれば、理由は幾つか考えられるが最たるものとして挙げれられるとすれば、敗戦だろう。
特に、初陣から此の方、負け知らずの皇子・戰と、皇子が戦場に立つ迄の間、国の戦を勝利に導いてきた兵部尚書・優、彼らの華麗なる戦歴が常識となっている禍国にとって、敗戦など愚人であると自ら申請しているようなものである。
肩を上下させながら、けっけけけ、と虚海は奇妙な笑い声を立てると、其れでは、と蔦が珍しく身を乗り出した。
「虚海殿、大保が露国と同盟した後に兵馬を東燕に動かすとして、彼の御仁は目眩ましの先として何処を狙われるでしょう?」
確かに、今最も国が弱体化している。
然し乍ら、此れまで接点が余り無い東燕を叩くと言っても皇帝・建では理解出来まい。
分かりやすく、郡王の地位を得ておりながら句国王を名乗った戰と直接対峙すると奏上するか。
若しくは見せしめとして祭国に攻め入り血祭りにあげるべきである、と進言するか。
二者択一のうち、兵士の心情を慮れば祭国を討つと号令するのが至極真っ当であるが、師匠である虚海が居る祭国を討つとも考え難い。思わぬ抵抗に合うのは考えるまでもないからだ。
視野を広げてみて、河国王となった遼国王・灼を討ちに走る、と言う可能性も有り得えなくもない。此の先の食糧事情により河国に併呑された那国を得ようとするのであれば、考えられなくも無いからだ。
しかし、あの大保が果たして、通り一遍な行動をするなどとどうしても思え無いーーと言うのが共通の認識であった。
皆の視線が虚海に集中する。
「十中が十、契国やな」
類と通が顔を見合わせあい、学が不思議そうに首を傾げる。
「お師匠様、大保様でしたら、その」
「祭国以上に契国が禄でも無い事になっとるのは大保さんも百も承知の上やわな」
見せしめとしての侵攻であれば、先の兵部尚書・優との戦闘で充分過ぎる打撃を与えられただろう。句国王となった戰に傾倒しているから、甘ちゃんとして知られている戰に精神的打撃を与えられはするであろう。
が、食糧難もさることながら現在の契国には最早、大金を投じて国を挙げて軍備を整えなけなしの国庫を投じて進軍を行う魅力に乏しい。
領土を広げた処で厄介者を抱えるだけでしか無い。
残っている酒を飲み干そうと徳利を殆ど縦に傾けつつ、にやりと笑う虚海に、類と通は身を乗り出した。
「でしたら、何故?」
「そんなもん、決まっとるやろが」
「決っている? 何が?」
「皇帝さんを粘っこく苛めたる為に決まっとるやろが。あの大保さんのこっちゃ。嫌らしい位に、とことん嬲り倒す気ぃやでえ」
瓢箪を抱えつつ、げらげらと虚海は笑い転げた。




