1 天旋地転 その1-2
天旋地転 その1-2
笑いを収めるや、もう、何食わぬ顔で執務に戻っている受に青は呆れていた。
受は何事にも、崖から落ちるかのように、すとん、と切り替わるのである。こういう処が不気味さに拍車を掛けて、文官や宦官たちにあらぬことを囁かれるのであるが、無論、受は全く意に介さない。
消えた草の気配を視線で追うような素振りを見せた青を、じろり、と受は見遣る。
「あの男が気になるか?」
一瞬の逡巡の後、青は素直に答える。
「……はい、些か。本当に帰してしまわれて宜しかったのですか?」
「構わん。彼奴程度の小物など、捉えた処で価値などない」
しかし、受は淡々としたものだ。
「それよりも大きな収穫があったのだ。喜ばねばならん」
「……郡王が備国王が後宮を此方に差し出しました事、其程まで評価されるような事でありましょうか?」
「ある」
疑問を口にする青に、受は間髪を容れず答える。
「以前の郡王であれば、彼の後宮を備国に送っておった筈だ」
確かに、と青は眉を顰めつつも認める。
「郡王・戰は甘いも甘い、大甘の男だ」
この事実は彼の為人を多少なりとも知る者共通の認識である。
盟友となる切掛を与えた先々代句国王・番との戦の折にも、彼の王の後宮を保護した位だ。此れを甘いと言わずして何と言う。
況してや、此度、備国王の後宮、貴姬・蜜が胸に抱く王子・路はまだ赤子だ。己が子と同世代の幼子を前にして、冷静で居られる筈が無い。
備国に戻せば其処でまた、彼女は政変に巻き込まれ生命を危うくするだろうが、一縷の望みは繋ぐだろう。
望みがある限り、喩え、此の行為により敵が更に難敵として立ち塞がる未来があろうと、折角手に入れた領土に寇される可能性があろうと、逃す。
「其れが、郡王・戰という漢、我らの知る皇子・戰だ」
だが、彼は貴姬・蜜と王子・路を禍国に送って寄越す。
彼らがどんな困難極まる道を辿るか、想像に難くない。
いや、見えている先は無い。
最早、『死』の一文字しか残されておらぬと言うのに――だ。
「……多少は、世の辛さを身に着けたのでありましょうか?」
「其の方の言う通り、多少に過ぎん。まだまだ甘い」
「……」
ぴしゃりと言い放ちながらも、自ら磨った墨をたっぷり含ませた筆を片手に受は肩を揺らしている。
此の先を剛国と共に往こうと言うのであれば、貴姬と王子は改めて剛国への貢女とすべきだ。
露国と東燕への牽制にもなる彼女らを寄越した郡王に対して、当面、剛国王は手を出すまい。
剛国こそ、備国と因縁が深い。
剛国王・闘であれば、貴姬・蜜を己の後宮に入れ、備国王・弋の王子・路を仮の養嗣子とでもし、堂々と備国内に攻め入る口実とするだろう。
無論、備国を我が物とした後の彼女たちは無用の長物として廃される。其の間、祭国も句国も剛国からの侵略を心配する必要は限りなく無にとなり、富国強兵に没頭する事が出来る。
若しくは、毛烏素砂漠を意識するのであれば、蒙国に寄越すのも一興だろう。
備国内の後継者争いに存分に首を突っ込め、と言う訳だ。
何よりも、深情一往な句国の領民たちの視線を、先句国・玖から完全に引き離す積りなのであれば、貴姬と王子は、より凄絶にして惨憺たる浅ましき姿を晒して遣らねば無理であろう。
「たかが一組の母子の生命を利用するだけで、生まれたばかりの国に住まう幾万もの民が精神的にも救われるのだ。天秤に掛けるようなものではあるまいに、陛下は其れが御出来にならぬ。嘆かわしい」
「――はい」
忌々しさを隠そうともしない青と違い、受の口調も表情も至極愉し気である。
――こんな機嫌が良い大保様は珍しい。
いや、見た事が無い。
大保様が望まれし世界は、郡王・戰が覇王として平原の中央に立つ世界。
喩え半歩であろうと、実現に近付ける為にどれ程我が身と己が魂を削ったとしても、結局、大保様が見ておられる世界に入り込む余地は無いのだ。
分かっている。
分かっている、だが。
――そう、だが、何故。
其の世界に、大保様の居場所は無い。
理不尽ではないか。
何も私は、私こそが大保様のお傍に末まで……などと、不遜な想いを抱いてなど居らぬ……ただ。
郡王・戰が皇帝となる時正当な評価を得、勲一等の功労の臣として共に歴史に名を刻む権利が大保様には在るのだと、気付いて欲しい。
そして、望んで欲しい。
――此の中華平原の歴史に、永遠に消えぬ名を、刻んで残してみせる、と。
「……其れだけ、其れだけだ……」
知らず、下唇を噛む青が気になるのか、其れ共、気に入らぬのか、或いは両方か。目を細めつつ、受は青を見遣る。
「青よ、本当に分かっておるのか?」
「……はい」
思わず、青は俯いた。
★★★
己の胸の内奥深くに秘している感情を、鋭き双眸で射るように見抜かれた様に思え、青の気を知ってか知らずか、機嫌を良くしたまま、受は言葉を続けている。
「一見、陛下は最後の情を掛け、禍国への進物として彼女たちを生かしたかのように見える。だが、此れは皇帝と禍国帝室に対しての通告である」
喉を鳴らしこそしなかったが、受は笑っている。試験対策として勉強してきた箇所が全て図に当たり、小躍り気分を抑えきれぬ若き学士のようだ。
句国王として立った戰を認めるか否か。
認めれば、何れ侵攻したあかつきには、帝室の者に多少なりとも手心を加えよう、しかし認めぬとあらば滅亡もやむ無しと覚えよ、と言って来た。
為政者の甘さとは人民の目には、己らと同じ地に立ち同じ者を見ているように感じさせる。
大いなる勘違いではあるのだが、其れを本能的に苦もなく、そして嫌味無くやってのけられる人物は、何れ本物のように見えてこよう。
全く以て、遣る事成す事、尽く大甘でお可愛らしい御方だ。民に人気が出るのも頷ける。
「最も、踏み切れたのにも其れ相応の理由もあろう」
「……其れは?」
「決まっている。傍に仕えておる者が一皮剥けたのであろう」
重畳、と云いながら受は丹念に筆を選び始めていた。
「真とやらが、腰を据える覚悟をした。此処まで至るのに、陛下の初陣より数えて8年」
筆を安め、ふむ、と受は笑いながら首を捻る。
「今更感は否めぬが、まあ、脱皮できずに朝陽を浴びて死ぬ蝉と比べればまあ幾分ましであろうと褒めて遣るべきか」
硯に筆を戻したっぷりと墨を含ませ、再びさらさらと木簡の上で進ませながら、受はまだ笑っている。青は全身を巡る血が一段、熱くなるのを感じた。
「真とやらが腹を括ったのであれば、私もいよいよ身を入れねばならぬな」
――奴如きの名を、斯様に楽し気に口にされる事など。
書き終わった木簡を、今一度確かめると、つ、と青に向かって差し出した。恭しく受け取った青の前で、受は立ち上がる。
「大言壮語を常日頃放っておるのであれば、貴様、どう出るかやってみせよ、と仰言っておられるも同然だからな。御期待に背く訳にはいかぬだろう」
行くぞ、と云いながら、受は歩き始めた。
受が自ら足を運んだのは、刑部であった。
体格に恵まれているわけでもなく、また殊更、大股に闊歩してるわけでもないと言うのに、此処の処の受には異様な威厳が見られる。
全ては、自信と充足感からの気の波動のようなものだろう。
すれ違う文官どころか武官たちまでもが、礼拝を捧げる袖に隠して息を呑む気配が伝わって来る。
頬が緩み、彼らを見る己の目が蔑視の色となっていると悟っていても、堪えられない。寧ろ、どうだ見よ、と叫ばなかっただけ、褒められても良い位だと青は思っていた。
「刑部尚書は在るか」
資人に姿を変えた青を連れているというのに、受は自身が直接、文官に声をかける。而も、ずかずかと執務室に入り込みながらである。
流石に、お待ちを、と戸口の左右に立つ舎人たちが色を成した。が、じとり、と受の暗い双眸で睨み付けられるや、うっ、と息を止めて後退る。
舎人たちが怯みを見せると、ずいっ、と受は一気に間合いを詰めた。
ひょろりと骨筋張った身体付きと、現皇帝が即位するまで禄に日の目を見なかった日陰者であった立場からは到底、想像も出来ぬ気骨溢れる眼光に、舎人たちがぎょっと眸を剥き悲鳴を上げた。受の手が、ぬぅ、と伸び、舎人たちの丹田の下を其々握り締めていたのである。
発狂した夜啼鳥のような悲鳴を耳にした受は興が削がれたように眉を顰め、ふむ、と呆れ半分の気の抜けた声を出した。
「喧しい。肝も金玉も小さい奴だ。其の様な事で刑部の者だと胸を張る積もりか、馬鹿め」
だらだらと脂汗を流す舎人たちに冷ややかな一瞥を投げ掛けるや、受は、二人を突き飛ばした。
此の細身の身体の何処から斯様な腕力が、と青も目を見張る。茫然自失の体で床に転がる舎人たちの横を、受は平然と横切り執務室に入る。
部屋の奥には、果たして、刑部尚書・平が居た。
人が争う気配を感じ取っていたであろうに、仏頂面で書面に向き合っている。執務中の受も似たようなものであるが、平は其の上を行く。
「刑部尚書、話しがある」
「定時報告で聞く」
間髪を容れず突き放して答える平に、床に突っ伏しながら、おお、と舎人たちは顔を見合わせあった。
――どうだ、見ろ。
――今や最も権勢を誇る大保様だとて、あのざまだ。
――刑部尚書様には敵わぬのだ。
――全く以ていい気味だ、様を見るが良い。
実際、現皇帝の世となってから未だ3年だと言うのに、王都内での重傷者や殺人を伴う凶悪犯罪の比率は右肩上がりであり、喧嘩やすりといった軽犯罪などはもう砂の数よりも多い。
無法地帯と言ってよい。
其れでも、郡王・戰の連勝の報に沸く一瞬は、治安は落ち着きを見せていた。
だが、彼が句国王として即位したとの噂が王都に入るや否や、王都は無法地帯と化した。
犯罪者で溢れ返るというより、義軍義賊を自ら名乗る小集団が彼方此方で出来、代帝・安、前皇帝・景の頃から贈収賄に明け暮れ華美贅沢な生活に現を抜かしていた王侯貴族と、彼らに取り入らんが為とお零れに預かり私腹を肥やすさんが為に、汚職と横領とに身を入れる高官たちの邸宅への討ち入りが激増したのである。
無論、討ち入りの際に手にした財物は領民たちに分配される。其の為、彼らの動向を掴むのは容易ではなく、寧ろ過激化を王都の民が煽っていた。王都の惨状を眸にした郡王、いや、今や句国の王となった戰皇子が、『禍国を救う』為に立ち上がる切掛となるように、とだ。
刑部尚書・平と彼の配下である者たちも心情としては、私利私欲に走った様な奴は討ち入られて路頭に迷え、様を見ろ、と吐き捨てたい。
何より彼らも、義賊たちの行為に、内心で賛同していた。
だが己が執務に誠実であろうとすれば欺瞞となり、かと言って手を抜くなど、歴代々の家門が守ってきた誇りと矜持が許せない。
刑部に所属する者たちは、板挟みにより日々精神的苦痛により疲弊して行くばかりだった。
平の答えに無言で立つ受を、舎人たちはにやにやしながら見遣る。だが受は、眉を寄せもせず親子程も年上の平を平然と虚仮にする。
「机上にのみ視線を落としておるから駄目なのだ、貴様と刑部は。大局を見る眸を持とうとせよ、馬鹿め」
こうまで言われては、平も冷静で居られない。上目遣いで、ぎろり、と睨み据える。
「郡王陛下からの密使が来た」
近所の子供が家の遣いでやって来てな、と世間話をしているかのような気の無い声音であったが、執務室の中には、おお、という熱波の如き呟きと、雹の嵐を前にした時のように息を止める音が同時に起こった。
平も、色を成して立ち上がる。床を引き摺った椅子の脚が、がたがた、と悲鳴を上げた。
「無様だな」
「えぇい、喧しいわ!」
受が遠慮無く口にする前に平は彼の胸倉を掴み上げる。
「定時報告で聞くのではないのか?」
「喧しいと言っておる! 陛下は何と仰られて来た!?」
「戦になる」
「――な、にっ!?」
★★★
逸る心を必死で抑えながら、平は受に椅子を譲る。横柄、という言葉其の侭の態度で、受は今の今まで平が腰掛けていた椅子にゆっくりと座った。
尚書である平が跪いて礼拝を捧げている以上、同じく礼を捧げぬ訳にはいかない。部下たちは、苦々しく思いながらも一斉に平に倣い、跪く。
彼らがどうにか堪えられたのは、受が放った一言、そう、『戦になる』という言葉。真意が見えぬ以上、受を無碍には出来ない。
色めき立つ平たちとは裏腹に、馬鹿を相手に口を開くのは億劫以外の何ものでもない、と受の冷ややかな眸の光りが如実に物語っている。
「大保様、先程の真意は如何に」
珍しく、平の声が上擦っている。此処まで平静を保てない上官など、刑部に務める者は只の一度も見た事がない。
「句国王陛下より上意を賜った」
「だから何と? 陛下は何と仰られておられるのだ。えぇい、勿体ぶらず早く言わんか」
興奮した平は、礼儀も糞も吹き飛んでいる。
「――句国の地に残されておる備国王が残せし王子、及び彼の王が後宮を我が国に送って寄こすとな」
「なっ……にぃっ!?」
年甲斐も無く大声で叫んでいたが、此れ迄経験した事がない気の昂ぶりに、平は気にする余裕も無くしていた。
受の言葉の裏にある真意を汲み取れる者は、実は少ない。
平は尚書という立場上、多くの情報に触れている為、其れが可能である。
が、彼の部下たちは眉を寄せながら、互いの顔を見合わせあうのみだ。意味が分かるか、と探り合うしか無い。常に冷静沈着な平が此処まで取り乱すのだから余程である、而も上意を下されたのは戰皇子なのだから何があろうと泰然とした態度を崩さぬ平が浮足立つのは当然と察せられる、だが其れにしても……、としか思えないのである。
「刑部以外、誰一人として、陛下の御意志をの読み取れておらぬのか。此処はそこそこまともでは思っておったが、其れなりの馬鹿の集団だったか」
しかし受は彼ら如きに期待など微塵もしていない。
要は、平のみが分かっていれば良い、寧ろ理解した積りで勝手に動かれなどしては堪らぬ、上官の命令にのみ従順に動き成果が出せれば問題無い、期待をするだけ馬鹿を見る、と割り切っている。
「お前だけが分かっておれば良い。効率的である」
時間の無駄だ、と断じる受を前に、平は息を止めてわなわなと身震いをする。
此処まで己が尚書を虚仮にされて大人しくしているなど考えられない。
だが、噴火寸前であった平は、急に大きく息を吐き出した。意のままにならぬ詮無き世を堪える術を、平は心得ている。
「……分かった。では、王都内の警備をより強固なものとしよう」
無表情で頷く受に、平も無関心で頷き返す。既に心は、備国の王子と後宮を迎え入れた後、王都に吹き荒れるであろう暴動をどう食い止めるかに飛んでいる。
受は無言で立ち上がり刑部の席を平に譲ると、現れた時と同じく、資人一人を従えてすらりと部屋を後にした。
★★★
受が退室すると、すわ、と部下たちが平の元に駆け寄る。皆一様に熱り立っている。
当然だ。
握り拳を固くし憤慨する彼らを前に、だが平は、渋い顔のまま手を振り、落ち着くよう嗜める。
「我らを見込んでの事だ。堪えよ」
「しかし、刑部尚書様……」
喰い下がる部下たちの若さに任せた熱量に、流石に苦笑しつつ平は立ち上がり、腕を背後に回して組んだ。
「先ず、大保様の意図を其の方らは然と理解しておるのか?」
肩越しに見遣ると、一斉に言葉に詰まる。しかし、ずい、と一歩前に踏み出す者が居た。ほう? と目を細めた先に居たのは、 囚獄・徹だ。
「恐れ乍ら」
「良い、申してみよ」
「大保様は戦になると断ぜられました。つまり」
「うむ、つまり?」
「我が国が手にせし備国王子を巡り、平原に残る各国との衝突は避けられぬと見ておられるのでしょう」
「そうだ。そして其れは正しい」
其処までは、誰にでも容易に想像出来る。皆、頷いてみせた。
「皇帝陛下も積極的に侵攻せよと宣下を下される事でありましょう」
「そうだ」
漸く思い至り、残る部下たちが青褪める中、平は僅かであるが、ほっと目元を緩める。誰一人気が付かぬとあっては、刑部とて立つ瀬が無い。
「備国王子を手に入れた皇帝陛下がどう出るか」
先ず、十中が十、侵攻に頭が回る。其れが何処の国に成るかなんぞどうでもいい、というのが皇帝・建の脳味噌だ。
「戦となった場合、此の十数年、兵部を支えて来た兵部尚書及び彼が育て上げた武辺者が誰一人残されて居らぬ事実、そして此処数年の我が国の勝利に貢献し続けて来た郡王陛下が離叛した事実、此の二つの事実を前にして、誰が総大将になんぞ成るか、だ。兵馬があろうと、其れを運用出来る者が居らねば只の木偶と変わらん。そして其の事実が各国に知れ渡るのに、日はさして掛からん」
平は大きく息を吸い込む。
「問題なのは」
一旦、ぴたりと目蓋を閉じて何かに思いを巡らせるかのような表情をしてみせてから、全身を使った肺の腑が空になるまで吸い込んだものを吐き出した。
「総大将の器を持つ御方が残っておらん事だ」
嘆かわしい、と平は頭を左右に振った。
確かに、と刑部たちはざわめく。
「然し乍ら、刑部尚書様」
「そうだ。順当、と言うべきか、其れさも、当然と言うべきか。地位を見れば総大将と成るべきは大保様だ」
大保・受は兵部尚書・優を牽制せんと皇帝・建により、軍部の最上位官にして三公の一位である大司馬の人に就いている。
「戦となれば、大保様が城を空けられる。此れがどういう事か。……此処まで言えば、流石に其の方らにも分かるであろう」
一気に室内が騒然となる。
「今、王都で闊歩しておる自称、義賊義軍ども。彼らが大保様が城を空けたと知ったらならば、どうなると思う?」
「刑部尚書様、其れは――」
其処此処で、ごくり、と生唾を飲み下す音が上がる。
「大保様という閂が居なくなれば、先ず歯止めが消し飛ぼう。此れまで、頭を押さえ付けられておった貴族どもは、我が世の春を漸く手に入れたとばかりに驕奢淫佚な生活に一気に溺れ、収賄は広まり汚職は深まり無秩序には拍車が掛かろう。民は直情的且つ短絡的だ。義軍は感情に任せて王侯貴族どもの邸宅に討ち入り暴力が横行するだろう。そうなった時、最も冷静且つ沈着に対処出来る大保様が御不在とあれば、闇は王城内にまで充満するぞ」
平の声音は大きくはない。
しかし、一言一言が、部下たちの心の臓奥深くに根ざすように届いた。
「句国王陛下として即位為された戰皇子様が、禍国に凱旋なされた時、王都も城も荒れ果てておっては我らの立つ瀬も面目も無い! 分かるか!?」
はっ! と男たちは一糸乱れぬ動きで平に跪く。彼らの頭上で平は腕を横に振るう。
「兵部の者共だけが国を守っておるのではない! 最も太い支柱である我らの刑部の底力、今こそ見せ付ける時だ!」
「はっ!」
「分かったら、返答をする間も惜しんで行かんか!」
水面から飛び立つ水鳥のように、部下は一斉に部屋から飛び出していく。
――皆、全身が奮い立っている。
頼もしき部下たちを見送った平は、やれやれ……、と呟きつつ、椅子に座り直した。
そして、とん……とん……、と拍子を取りながら指の腹で机の上を叩く。
「陛下が禍国皇帝として立たれる、其れまで国を保たせるのが役目である……か」
言うは易く行うは難し。
人も金も決定的に足らん。
斯くなる上は、句国王陛下に早々に禍国を奪って頂かねば。
平は盛大に溜息を吐いてから居住まいを正すと、再び通常の政務に淡々と戻ったのだった。




