1 天旋地転(てんせんちてん) その1-1
1 天旋地転 その1-1
禍国の城は文字通り、喧騒に包まれていた。
文官、武官、宦官、内官、文字通り百官入り乱れて右往左往している中、常と変わらぬ静かさを保っている人物がいた。そう、大保・受である。
塵一つなく清潔に保たれ、汎ゆる書類が整然と整えられた執務室で、受は眉一つ動かさず淡々と政務を執り行っている。
が、よどみ無く動いていた筆が不意に止まった。執務室の戸口に、文官が立つ気配を感じ取ったからだ。しかし、其れも一瞬の事だった。再び、流れるように筆は動き出す。
文官から言伝を受け取った資人が礼拝を捧げつつ、大保様、と声を掛ける。
何だ、と受は答える事はしない。
資人は心得ているので、無愛想も過ぎた主人に臆さずに告げる。寧ろ、戸口にいる文官の方がはらはらとした面持ちで控えていた。
「大保様、陛下が御前にと思し召しで御座います。何卒」
「執務中だ」
鰾膠も無ければ愛想の欠片も無い受に直接体面しているわけでも無いと言うのに、ひぃっ、と文官は引き摺るような悲鳴を上げた。大保の無感情さに慣れている資人は、主人に負けず劣らぬ淡白な態度を保っている。
文官は、大至急、と言う枕詞を付けて呉れなかった資人の背中に恨みがましい視線を向け、何とか執り成しを続けて呉れ、と両手を合わせて身振りで懇願した。じろ、と一瞬文官を睨め付けた資人は、無駄な事を、と諦めの悪さに僅かばかりの憐憫を見せながら、主人の背に再び礼拝を捧げる。
「大保様、如何致しまするか」
「執務中だ」
繰り返された受の言葉は、先程とは比べ物にならぬ冷え冷えとした鰾膠も無い口調だ。元々、何があろうとも己を崩さず感情を出さぬ受であるが、今日は殊更、冷徹である。
予想通りの答えだったのだろう、資人も眉一つ動かさず三度目の礼拝を主人に捧げ直した。そして静かに、まるで女官のような足捌きで落胆の色を隠しもしない文官の下に戻る。
「御聞き及びになられた通りだ。大保様に置かれましては御多忙中で在らせられる。斯様に伝えられよ」
「皇帝陛下におかれましては至急、いえ、大至急に、との仰せに御座います。どうか何卒、御政務の手を止めて頂けぬかと、今一度、大保様に」
「くどい」
資人の声音は、隠す気などさらさら無い殺気の塊となっていた。
睨まれた文官は、礼拝もそこそこに飛び上がらんばかりの勢いで去っていった。まるで女官のような足捌きをしている癖に、仔栗鼠か仔兎に引けを取らぬ速さだ。
「脱兎の如く、烏兎怱怱などと言うが」
呆れながら息を吐いて大きく肩を上下に揺らすと、資人は姿勢を正して執務室に戻り、改めて大保に尋ねた。
「大保様、先程のお話しですが、本当に放って置いて宜しいのですか?」
「良い。喚き散らしながら同じ言葉を繰り返すしか脳の無い阿呆に付き合う暇は無い」
「然し乍ら」
「何だ?」
資人の言葉に、大保は珍しく顔を上げる。
「大保様が御出座しになられなければ、何れ皇帝の方から此方に参りましょう。そうなれば逆に大保様の御政務に差し障るかと」
ほう? と大保は目を見張った。普段は常に寄り合って深い縦の皺が刻まれている眉間が、驚きに開いている。
「面白い。そうした考え方も在るのだな、成程」
ふむ、と首を捻りながら大保は暫し視線を泳がせた。
「皇帝だけではありません。そもそも城に在る奴らは皆、大保様とは見ている世界が違います。郡王が事を起こすなど当然至極であろう、やっとか、と大保様は呆れる処で御座いますが、奴らにとっては天変地変も同様に御座います」
「確かにな」
「加えて申し上げる事を御許し頂けますのならば」
「何だ?」
「何事か気に食わぬ事がある毎に、ああも遣いを寄越されては、我々も邪魔でなりません」
淡々と告げる資人に、成程、と受は酷く真面目に頷いた。文官たちがわぁわぁと悋気焼きの女性のように喚き立てようが、耳を傾ける気が無い自分は放って置く事が出来る。
が、彼ら資人や士人たちは捲し立てる使者の相手を、仕事を中断させてまで一々(いちいち)せねばならないのだ。いい加減にしろ、とうんざり(・・・・)していて当然であろうに、珍しく受ともあろう者が気が付けなかった。
「済まぬ、此れは私が迂闊であった。成程、至極最もだ。いい迷惑なのは其方らの方であるな。分かった、阿呆な奴の機嫌を取るなど不愉快極まりないが、其方らの為にも一度赴くとしよう」
「は、恐縮です」
よい、と受は軽く手を払ってみせた。
「今、決済している書類はあと3刻余りで終わる。青よ、終わり次第出向く故、茶でも飲んで待っておれとでも、皇帝に言っておいてやれ」
「御意」
青が頭を下げるとほぼ同時に、大保は手元の木簡に再び視線を落とした。
★★★
受の意向を伝えると、文官はまるで両親の命の恩人であるかのように、資人の姿に身を変えている青に縋って感謝の言葉を並べ立てて去っていった。心做しか、肩がうきうきと上下しているようにも見える。今日に始まった事ではないが、余りの現金さに毒気を抜かれ青は口をへの字に曲げる。
郡王・戰からの連戦連勝の報は、城内のみならず王都も大いに沸かせた。特に皇帝・建は、彼の戦利を己が功労のように胸を張ったものだった。
「見よ! 我が帝国の威は遍く天地に広がったぞ! 何れ時を置かず全ての国の宝物を鹵獲し完全に併呑して呉れようぞ!」
天帝の加護を受けし誉れ高き、負け知らずの禍国軍を創り上げて来たのは、実に彼の曽祖父から父の代、そして近年は兵部尚書・優、此の数年に限って言えば異腹弟である郡王・戰であるのだが、建はまるで己の戦功でもあるかのように振る舞い、宴を開いては美酒佳肴に酔いしれていた。
だが、最後の最後に齎された一報に、禍国の王城は激震に襲われた。
報を受け取った時、皇帝・建は午睡開けだった。而も場所は後宮である。しどけない姿で凭れ掛かる新しく手を付けた女官の細い腰から尻にかけてを、太短い指を蛞蝓のように這いずり回らせながら、何事だ、と建は鷹揚に構えてみせる余裕が、此の時はまだあった。
「へ、陛下! お、お、恐れ乍ら、も、ももも、もう、もう、申し上げます……!」
額を床に打ち付けながら息も絶え絶えに叫ぶ宦官に、建は侍らせている女官と共に冷笑を浴びせた。
「そぅれまた、其の様に大げさな」
嘲笑を浴びせられかけた宦官であったが、構わず叫ぶ。
「さ、祭国郡王陛下が!」
「んん~? 戰の奴がどうかしよったのか?」
「句国の地にて備国を討ち破られ!」
自分を尊大に見せる為には努力を惜しまぬ男である建は、ほっほぅ、とぞんざいな笑みを浮かべてゆっくりと反り返る。両手に其々、別の女官を掻き抱き、乳房や秘所を弄って卑猥な行為を続けているのは、余裕を演出している積りなのだった。
「とうとう遣りおったか、其れはまた、重畳。我が異腹弟を、褒めてやらねばならんなあ」
敢えて建は、『戰』とではなく『異腹弟』と呼ぶ。此の辺りにも、己の血統の高貴さ、地位の優劣の差を見せつける必死さが見え隠れする。常であれば、抱かれている女たちも部屋の隅に控える宦官たちも、失笑を隠すのに一苦労せねばならない処だが、今回は其んな心配は必要なかった。
宦官が、唾の泡を飛ばしながら叫んだ次の言葉の御蔭である。
「彼の地にて、句国王の名乗りを上げられた由に御座います!」
「何だとおっ!?」
此の一言を聞いた建は、女官を突き飛ばしながら、寝台から転がり落ちたのだった。
以後の建はどうしたかといえば、大保よ、何とかせよ、の命令を残して、城の最も奥、詰まり後宮から一歩も出る事無く日々を過ごしている。
此れまでは偶に気まぐれ程度とは言え内廷に顔を出して政務の真似事を行う日もあったのだが、そんなものは幻であったのだろう、と刑部尚書・平などは手厳しい。
加えて、この頃の建は己が居場所こそ禁中である、などと口走るようになってきている。
「あの阿呆丸出しの為体こそが奴の本性であったか。私もまだまだ甘い」
平然と、受が嘯いてみせたのは、言うまでも無い。
★★★
きっちり3刻で手元の書類を決済し終えた受は、青を従えて後宮に足を踏み入れた。
後宮内に入る事が許されている男性は基本的に宦官のみなのであるが、既に気に入りの妃の棟が内廷と化して久しい。後宮に立ち入れぬなどとほざいていては政務が立ち行かぬ為、宦官に守られた状態であればと言う条件下で受を始め各尚書は後宮への立ち入りを許されるようになっていた。
すわ、と群がる宦官たちに押されるようにして後宮に入る。新たに気に入りとなったらしい女官に与えた一室に通された受は、建の前でありながら明白に眉を顰めた。
空気が淫らな色に淀んでいる。句国王となった戰が何時攻め入って来るかと怯える建は、格子戸や組子の戸に無粋な板を張り巡らせて決して開けさせないでいたのだから、当然だった。
――其れにしても。
此れが国を預かる皇帝の姿か。
たかが女一人の頬をほころばせる為に、ほんの数日で此処までの増築を行うなど戯けにも程が有る。
受の姿を認めた建は、がばっ、と寝台から飛び起きた。殆ど裸身に近い無様な姿を晒しながら倒けつ転びつ駆け寄って来ると、受の手をしっかりと握り締める。
「おお、おお、大保よ、漸く来おったか。どれ程待っておったか、分かるまい」
大酒を呑み、酩酊して恐怖から逃れようとしている建の眸は真っ赤に充血しており、涎が口の端から幾筋も垂れている。
――理解する気など毛頭無いわ、馬鹿めが。
鬱陶しそうに片方の眉尻を持ち上げた受は心の中では建を虚仮にしつつも、此度は何事か、と応じる。
しかし、感情の起伏が全く無い声音であり、塵でも払い除けるように建の手を引き剥がす辺りに、容赦の無さは如実に現れていた。が、其れでも、建は一向に構わないようだった。とろける直前の豚の脂肪のような腹をぶつけるようにしながら、受に迫る。
「ほれ、また其の様な顔をするな」
「要件を言え」
「決まっておろうが! ――戰だ! 戰の奴めをどうする気だ!?」
「恐れ乍ら、陛下の存念を先ずは御伺いしたいものですな」
冷たく言い放つ受に、おお、聞いて呉れるか!? と建は眸を輝かせた。
「こうなれば、他国と手を組むしかあるまい」
「ほう? では、何処と同盟を組むと言われるのですかな」
「馬鹿め、決まっておろう」
――ほう? 言えるものならば言ってみせよ。どうせ碌なものではあるまい。
敬語を使う気も真面目に取り合う気も疾うに失せた受に対して、建は熱く答える。
「露国だ、露国と手を結ぶ」
「――ふむ?」
一瞬、息を止めながら、受は眸を見開き、皇帝・建を凝視した。
猪豚宛らの建は、どうだ、と言わんばかりに肩を怒らせている。が、露国と答えはしたが、此の先の策が在るか言えば、無論ない。
――ふむ、成程。
阿呆の思い付きも一周回ればまともになる、と言う事か。
只の思いつきに過ぎないが正鵠を射ている。
此奴の口からよもや正論を聞く日があろうとは予想もしなかった。
私もまだまだ先学者と成るには遠い。
細めた双眸に氷柱のような瞬きを浮かべつつ、受は己の過ちを素直に認めた。
「珍しくも私と同じ答えだ」
「そうであろう、そうであろう」
自慢気に、ぬふん、と鼻の穴を膨らませつつ建は胸を張る。
「戰のような甘い理想に浸るしか能が無い男にも、そろそろ引導を渡して遣らねば、な」
――瞬く間に調子に乗る、そうした振舞いが己を貶めるのだ、馬鹿め。
河国と那国は此の世から姿を消したは良いが、事もあろうに、彼の地は郡王と共に戦った遼国王・灼と陽国王・來世とが聯合して侵犯しているような輩だ、締約国に相応しからぬ。
契国も国が根本から瓦解土崩しており、到底、同盟を締結するに足りぬ。
最も国力があり戰を討つ国力戦力を備えている剛国はどうかと言えば、相手の好き勝手に交渉を進められ妥結を押し切られるに決っている。
東燕は、今、実質国を牛耳っているのは垂簾聴政を行っている王妃・璃燕だ。国主を女が務めるような国などと連立など有り得ない。
と、なると、此こまでの間、只の一度も戦火を交える事無く国体を傷つけられる事もなく過ごして来た露国が結盟国として妥当だろう――という消去法によるものだが、建なりに利害得喪を突き詰め、一番、戦力となり有益性が高い国を探っただけなのであるが、実は一つの正解であり、そして此れ上の得策は無い。
露国は戰の正妃である椿姫が露国王・静とは個人的に縁がある上に、露国王妃・梔姫とも濃い血縁関係にある。また、元々、祭国と露国とは古くからの因縁が深い間柄でもある。
加えて、郡王妃である椿姫は血縁者に甘い。散々に迷惑を掛けられ泣きを見させられた実父を、其れでも最後の最後まで見放す事が出来なかった彼女が、梔姫と露国王とまともに戦えるのか。
郡王妃として留守中の全権を委ねられている椿姫を籠絡するが、此の際、手っ取り早いのは確かだ。
郡王・戰の師父である虚海の進言が入るだろうが、果たして聞く耳を持つかどうか。
――実際に露国との同盟が成れば、面白くはなる。……最も、容易く締結はされぬがな。
此の半年、激戦を繰り返して来た皇子・戰と彼が辿った各国の国力は目に見えて衰えている。
討つなら今だ。
今を置いて他はない。
此処まで、兵を挙げずに堪える甲斐性を持ち合わせている露国王が、利用価値の薄い我が国と手を結ぶ確率は相当に低い。
そもそも、未だに禍国が平原一の大帝国であると信じているのは、貴様と母后と其の後ろに群がる諸侯くらいなものだ。
勿論、仕向けたのは受である。
受は、禍国の現帝室と己が家門の衰亡と没落を強く望んでいる。
民の為に存在し得ぬ国主など無用の長物であり、毒以下の存在である。
世に存在する意義と意味を失なった以上は、淘汰されるのは自然の摂理である。
そして禍国帝室の滅亡は皇子・戰の栄耀への飛翔の原動力となり、中華平原を統べる覇王となる一歩となるのは理の当然なのだ。
建と彼の母后である淑妃・合が、不埒極まる受の願望を知れば発狂するだろう。
しかし、残念至極なのか。
其れ共、幸いと言うべきか。
ともあれ、建は受の腹の中を探り当てられる慧眼を持ち合わせてはいなかった。
揚揚としている建を前に、受は鼻で嘲笑する。
――理想主義者とは即ち、甘い夢想家という意味では無い。
自ら叶えようとせぬ夢を唱えて酔う暇ばかりの者を指すのではない、現状を打破する現実的な術を手に入れる努力をする者こそが理想主義者と言うのだ。
――そう言う意味では戰皇子こそ唯一無二の理想主義者であるのだ、馬鹿め。
★★★
受と同じ策であったのが余程自信に繋がったのだろう。皇帝・建の機嫌はあっという間に戻り、殆ど尻を蹴らんばかりの勢いで彼らを部屋から追い出した。執務室に戻った受は、そこで漸く、資人姿の青の気配が消えている事に気が付く。
何処へ行ったか、などと気にする受では無い。
青は故無くして己の任を放り出したりはしない。傍を離れると言う事は、其れだけの理由があるのだと知っている受は、相変わらず眉一つ動かさず無言のまま淡々と執務に戻る。
暫しの間、木簡の書き付けを読み耽っていたが、徐に筆に手をのばした。が、ふむ? と首を捻ると伸ばした手を引っ込める。硯に墨が磨っていなかったのである。
「……遣り難い……」
ぼそりと呟き、受は水滴を手元に引き寄せ、硯の上に水を落として墨を磨り始めた。
青は受の草として仕えており、土蜘蛛とも名乗る女だ。
3年前の政変以後は屋敷で受の側室となった沫の離れ屋の統括も兼任している。
実質、嫉妬にかられて突発的発作的に何を為出かすか分からぬ染から沫を護る、言わば警衛である。
だが、青の本来の仕事にも、沫の護衛役は大いに役立っていた。間諜を行う者がよもや素顔を晒して童女上がりの妾に仕えるなど、誰も思いもしない。青は堂々と、受の邸宅の一角を王都での拠点の一つにしていた。
しかし句国での動きがきな臭いものになりつつあった頃から、青は沫の世話は仲間に委ねて資人に身を変えて城に上がるようになっていた。
今ではもう、彼女無しでは受は職務に差し障りを出すようになっている。
何しろ此処最近、子供が駄々を捏ねるように呼び出しをする皇帝・建の真似事でもしているのか、どの尚書も寺も、些末な事柄でも彼に決を仰ごうとする。
浮足立っておらぬのは、兵部と刑部くらいなものだった。逆に言えば、浮足立つ暇もない程の激務であると言えよう。
兎も角、玉石混淆の情報が城内を飛び交っているのであるが、何故か『玉』である程、受の手元に届かぬ事が多い。無論、他者にとって『屑石』あろうとも、受にとっては無駄にはならない。
――潤沢な情報収集こそが最大の武器にして攻撃力に成ると理解していない輩が多すぎる。
訳が分からぬから全て私に依存してしまえと思っているのならば、余計な詮索などせず余さず丸投げして寄越さぬか。
「……馬鹿は伝染するのか……」
苦々しく思っているのか珍しく腹立たしさを口にした受であるが、青が資人として傍に控える様になってからは滞りがちであった仕事が効率良く回るようになっていた。青は時に草として闇の間を音も無く跳び、常はまるで尚書右丞が如くに受の右腕としての役割をこなしているのである。
磨りたての墨の馥郁たる香りが、受の周囲で漂い出して2刻ほど経過した頃、姿を消していた青が不意に戻った。しかし資人としての姿ではなく、草としてである。
「大保様、御耳に入れたき儀が御座います」
視線を上げた受の眼前に、青とは違う、草が控えていた。
「郡王陛下と真に仕えている草だな」
事実確認であるにも係わらず、受の声音はまるで首を取りに来た剣のように鋭い。草は無言を以て是、と答えた。
「句国王陛下の影走りとして参ったか――手短に申せ」
筆を置いて手を止め、座り直した受は、奇妙に忙しなく先を促す。其の顔ばせが、心なしか楽しげに輝いているように思え、青は思わず目を見張った。
――此の様な大保様を見るのは珍しい。
半歩下がって跪いている郡王が草を、ちらりと盗み見る。
此方の漢も、心なしか誇ったような笑みを口の端に浮かべている。
――大保様といい、此奴といい。
戰皇子が動いたのが、其処まで嬉しいのか。
漢としての大保を尊敬し敬慕しているが、こうした処だけは、どうにも分からない。
青は気取られぬよう、首を左右に振った。
★★★
大保の部屋に忍んで来た草は、胸元から握り拳大の小さな塊を取り出し、床の上に置いて平伏した後、其の侭の姿で数歩分、下がる。
塊は、泥で封印された竹簡だった。
受が顎を刳ると、青は頭を下げて泥で封じられいる竹簡を持ち上げた。短刀の柄を使って泥の封印を解き、受に差し出す。
受け取った竹簡に受は滑らかに視線を通した。
視線が微かに上下しつつ横にずれていくにつれて、口の端がどんどんと上に上がっていく。読み終えると共に、遂に受は大声で笑い出した。
唖然とする青を前に、受はまだ、楽しくて堪らぬ、と言いたげに喉を鳴らして笑い転げている。
一頻り笑い続けた受であったが、笑いを収めると同時に青に竹簡を押し付けた。そして立ち上がると、ぎろ、と仄暗い光を湛えた双眸で平伏する草を睨む。
「受けよう。そう伝えるがいい」
答えを受け取ると、草は一瞬で其の場から姿を消していた。
草が消えると、再び、受は喉を鳴らして笑い出した。低く独特な笑い声が響く中、青は押し付けられた竹簡に素早く目を通す。
読み終えた青は、驚き、眸を剥いた。
「……此れは……!」
要約すると竹簡には、句国にて捕虜とした備国王・弋が後宮の貴姬・蜜と彼女が産んだ王子・路を禍国にて引き取るようにとの要請が書かれていた。
「面白いと思わぬか? あのお甘い陛下が」
受はまだ、くっくっく、と喉の奥で音を立てて笑っている。
「信じられるか? あの郡王陛下が、だぞ? 備国王は一の後宮と王子を禍国に呉れてやろう、と言って来たのだぞ? とうとう、覇王として平原を統一せんと、祖国である禍国に牙を剥くと、腹を括られたのだ。愉快だ、実に愉快だ」
草が此の竹簡を始末せず残していったと言う事は、此の事実を広め、禍国内を大いに混乱に落とせ、との意を含んでいる。
極力、力を振るわぬ様にと縮こまり畏まっていた嘗ての皇子・戰からは考えられない。
「己の望みが叶うとは斯くも心躍るものであるのか。冷めた眸でしか物を言えず斜に構えてしか世を見れぬ、私のような男が――だぞ。してみると、存外、私も甘い男となるな」
受は笑い続けた。




