1 新しい朝
1 新しい朝
大きな松の枝の門を潜り抜け、家の玄関目指して、二つの影が駆けていく。
「お早う御座います、お師様」
「真、姫様ぁ! お早うだよぅ!」
まだ声変わりを果たしていない、幼児期特有の高い声を、学が張り上げる。はあはあと息が上がっている。学の後ろで、ぴょんぴょんと飛び跳ねているのは、勿論、珊だ。
「お早う御座います、学様、珊。今日は早いのね」
奥からひょっこりと顔を出した薔姫が、にっこりと笑う。
「あれ? 真から聞いてない? 今日は何か知らないけど新しく作ったとかいう、妙ちくりんなものを試したいから、早く城に行くって。姫様も、一緒に行くんでしょ?」
「聞いているわよ?」
くすくす笑いながら、薔姫が奥を伺うふりをしてみせた。
小首を傾げる珊の耳に、ずどどどどど! と埃を巻き上げて、牛馬のように突進してくる男が現れた。珊の名を呼び、いや怒鳴りながら、大きく両手を広げている。珊を抱き竦めようと、一直線に走り寄ってくるのは、大工の棟梁である、琢だ。
「さぁーんっ!」
「ぎゃあ、出たあ!?」
「さ~ん! さんっ! 珊! 俺っ、俺、今日は俺っちも一緒に城に行くんだぜ!? どうだ、嬉しいだろ! な、嬉しいだろ!?」
「知らないよ、そんなの。相変わらず、五月蝿い奴だったら、もう!」
しっ! しっ! と蠅を追い払うかのように、珊は琢に向かって手をひらひらさせる。
「そうか、そうかぁ! 誤魔化したくなるくらい、嬉しいかあ! 可愛いなあ、珊! いやあ俺っち、男冥利につきるぜ!」
「どうやったら、そんな風にとれるんだよう!」
「可愛いなあ、珊、うん、可愛いぜ! 俺っちの珊!」
「いつあたいが、あんたのもんになったんだよぅ!」
遂に腕に抱き捉えた珊に向けて、む~ん! と琢は唇を尖らせてきた。じたばたと暴れていた珊は、琢の顎に向けて、硬く握り締めた拳をお見舞いする。顎の下に滑り込ませた拳を、怒りのままに、容赦なく振り上げて打ち抜く。
「このど変態の色情狂野郎っ!」
――ごっ!
かなり低くて、しかもとてもいい音が、周囲に響く。
乱れた衣服を整えつつ、家の奥に居る仲間のもとにむかいながら、ああ、気色悪いったら! と珊はぷりぷりと頬を膨らませている。
真の右手側に薔姫が、左手側に学が、それぞれ、たたたっ・と小走りに寄ってきた
「ねえ、我が君?」
「あの、お師様」
「どうされましたか?」
「ど変態って、何?」
「色情狂とは、如何なるものを指す言葉なのですか?」
「えっ……」
「ねえ、我が君、教えて?」
「お師様、教えて下さい」
少年と少女に、ねえねえ、どういう意味なの? と綺羅々とした無垢なる瞳を向けられる。
「ま、まあ、姫と学様が、もう少し、大人になったら……ね、ね?」
説明に困った真は、う~ん……と唸るしかない。
「もう、また、大人になったら!? 本当に意地悪なんだから」
「そ、そんな……ひ、酷いです、お師様、お願いです、教えて下さい」
不満げに頬を膨らませる薔姫と、落胆して泣きそうな顔をしている学の二人の足元で、琢が大の字になって伸びている。
「さ~ん……き、効いたぜぇ……さぁっすが、俺っちの珊だぜぇ……」
と、幸せそうに呻きながら。
★★★
禍国の皇帝・景の突然の崩御により、行幸は続けられなくなった。
戰が、喪に服さねばならなくなった為だ。行幸を行う予定地の県令には、急ぎ早馬が駆けてゆき、事態を告げる。
宗主国である禍国同様、祭国も喪に服すとしたのは、椿姫の決定だった。
これにより、露国側よりの戰への申し出を、より撤回させやすくなればという狙いでもあるし、露国王・静の椿姫への思惑を、少しでも遠ざけたいとする願いもあったし、露国王・静に、自分自身の意思を見せたいという思いもあった。
祭国は最早、露国とではなく禍国と――正確には、郡王・戰と共に歩んでいくのだと、示したかったのだ。
さて、一同がそのような漫ろな状態で帰城した直後に、琢の一目惚れ事変は起こったのだった。
真の家の小さな庭先で、ふっふ~ん、ふっふ~ん、と下手くそな鼻歌を歌いながら物干し台と物干し竿を組み立てていた琢の耳に、薔姫のものではない、甲高い元気な声が聞こえてきた。
「真! ねえ、真ってば! ねえ、いるぅ!?」
表にまわって、ひょい・と頭を突き出すと、男物の胡服を纏った少女が立っていた。細身の身体で、時折ずり落ちそうになる大きな麻袋を、よいしょ・と重たそうに抱き抱えている。小さな唇に対して、大きな黒い瞳が印象的だ。
「ああ珊。どうしたのですか? 何かありましたか?」
「ん~ん、おつかいだよぅ。これ、猪肉。今日の狩りで獲ってきた奴のだよ」
「おや、こんなに頂いて、宜しいのですか?」
「うん。うちの一座の奴とか、時とかも呼んでやればいいじゃないって、姫様が。折角だから、貰っとけば?」
「では、遠慮なく。この時期の猪の肉は、美味しいですからね」
「だよね。じゃ、あたいは城に戻るよ。今日は、苑さんが坊ちゃんと一緒にお城に来る日だからさ、これからお迎えに行くんだ」
「そうでしたね、よろしくお願いします」
「まっかせといてよ、じゃあね!」
くるくると大きな黒い瞳を回しながら、同時に表情もころころと変える。けらけらと屈託笑う様は、明るい陽光が転がっているように思える。そう、正しく太陽の眩しさを振りまく、笑顔だった。
少女は大きく手を振りながら、来た時と同じように「真、またね!」と元気な声を残して去っていく。手にした木槌をぽろりと取り落としても気が付かない程、琢は、その場に凝り固まってしまっていた。
抱き抱えた肉の重さに、ほくほくと頬を染めている真が、ぼーっと突っ立っている琢に気が付いた。
「おや、琢。まだ居たのですか? ちょうど良かった、呼びに行く手間が省けましたよ。どうですか、今夜……」
話しかけた真に向かって、うおおおおおおおおおおお! と雄叫びをあげながら、琢が突っ込んできた。
「た、たたたたたたた、たいしょーうっ!」
「は、はいっ! な、何ですかっ!?」
「あ、あの娘っ子! あの、あの、さっき来ていた、えれぇ別嬪の娘っ子は、何処の誰なんでえ!?」
「別嬪の娘っ子? あ、ああ、珊の事ですか?」
「さん? さん・って言うのか? くうぅ~! 名前まで別嬪じゃねえか! どんな字を書くんでい?」
「え? ああ、珊瑚という宝玉の頭の一文字をとってですね」
「あ、いけねえ! 俺っち、字が読めねえんだった! 聞いてもわかんねえや!」
「……」
「いやでもよ、宝玉の字が似合う位、別嬪ってこった! 惚れた、うん、惚れたぞ! 俺っちは珊に惚れたぞおおぉっ!」
余りの急展開について行けず、はあ、と真が気のない返事を漏らす。琢はといえば、一人で勝手に大盛り上がりで、両腕を空に向かって突き出している。
「うおおおおおおおおお、さーんっ! お前の笑顔に、俺は惚れたぞおおおお!」
派手に吠えに吠えている様子は、発情した野良犬ようだ。一頻り、雄叫びをあげまくっているかと思ったら急に、くるり、と真の方に向き直った。ぎろりと睨んでくる目が、昂奮し過ぎて充血している。思わず、真は仰け反りつつ後退る。
「大将ぉ……そういやぁ、やけに珊と仲良さげだったがよおぉ……一体全体、どういう関係なんでえ?」
「は? いや、どういうもこういうも、珊は城で女王様に護衛として仕えている宮女の一人ですから、顔も良く合わせるだけですが?」
真の説明に、がっ! と肩を掴んでくる。
肩をがくがくと激しく揺さぶりながら、興奮しきりで鼻息も荒く真にがんがん迫ってくる。
「宮女様!? 女王様御付の宮女様だってのか!? くはぁ~、別嬪なだけじゃなく、頭もいいんかよ! さっすが、珊! 俺っちが惚れるだけの事はあるぜ!」
「……」
「いい女だなあ、可愛いぜ、珊! 決めたぞ、俺っちは決めたぞ! 珊、絶対お前を俺っちの上さんにするぞおおおおお!」
一人昂奮して勝手に盛り上がり続ける琢に、もう真は付いていく気もわかない。寄ってきた蔦の一座の早足の芙に、受け取った猪肉の塊を手渡すと、やれやれと後頭部をかきつつ、縁側を引き下がり部屋に戻ろうとする。
その衿首を、背後から琢がぐい! と引っ張って引き寄せる。
「おわっ!?」
「おい、大将! 俺っ! 俺っちも、城で雇ってくれねえか!?」
「はいっ!?」
「頼むよ、大将! これ、この通り! お、俺、少しでも長く、珊の傍に居てえんだ!」
……はあ、と真は呆れて溜息を付く。それを了解の返事と受け取った琢は、再び空に向かって、両手を高く突き上げる。
「うおおおおおおおおお! さーんっ! 俺っちも、明日から一緒に城勤めだぞおおおおお!」
一体なんの騒ぎ? と薔姫が覗きに来ると、真が頭を抱えてしゃがみこんでいた。
★★★
「では、行きますか、姫」
「うん、我が君」
薔姫が用意してくれた風呂敷包みを受け取ると、真はいつものように、家を出る。
ただ、今日は自分一人ではない。
彼に寄り添うように、かぽかぽと蹄の音を鳴らしている馬がいる。その馬に跨って轡をうまく捌いているのは、薔姫だ。
更に、椿姫の甥にあたる、つまり亡くなった兄王子の御子である学と、彼の護衛に回っている珊、そして気分上々で荷物を乗せた荷車をごとごとと引いている琢と、蔦の一座の早足の芙を始め、皆が一緒だ。
筵を被せてある、何やら怪しげな雰囲気を醸している物が、珊曰く『妙ちくりんなもの』であるらしい。
行幸から帰って直ぐに、真に頼まれて琢が一緒に作り続けていたものなのだが、実は、薔姫もその正体は良く知らない。
だが、真と琢と二人して、庭の畑でごちゃごちゃと話あっては盛り上がり、かと思えば勝手に落ち込んで、そのくせ突然やる気の塊となって、猛烈と木を弄り回して組立作業に入っては楽しげに笑い転げと、見ている分には面白い日々だった。
珊も、一度、二人の作業の合間のおやつの時間に邪魔をした事があるから、知っている。
その時に、例の蕎麦粉のお菓子を手に、ふんふんと興奮して鼻を鳴らしては寄りかかり、べたべたと身体を触ってくる琢を追い払うべく、珊が琢に嫌味を言ったのだった。
「大体さ、大工の棟梁って言うんなら、今は一番の稼ぎ時なんじゃないの?」
今は、真の口利きで、椿姫直々の仕事を別口に請け負っているが、それまでは確かに休業状態だった。戰が禍国より人を引き連れてきたのだから、新しい家屋の普請で忙しくしていて当然の時期だ。しかし、琢は至極のんびりと構えている。よっぽど腕が不確かで、仕事の口がなかったんだろうと、珍しく珊が嫌味を口にしたのだ。
しかし琢は、けけけ、と楽しそうに笑う。
「そりゃ、珊、お前も仕事を持ってるんなら分かるだろ? この世界、義理と仁義に悖る行いは、するもんじゃねえんだよ」
確かに人が増えれば家を建てねばならない。
しかし、それはこの王都ではない。いや、王都にも真や通や類といった城勤めの士官も多くいるが、屯田兵たちの比ではないだろう。
邑にはその土地を仕切る棟梁の組合があり、寺や楼閣などの特別普請の請負以外は、基本的にその土地の大工がこなすのだ。今回のような一度に大量の普請は前例のない事とはいえ、受け持ちの土地を侵してまで仕事を取るような事は、大工の世界の仁義に悖る。だが、当然、手が足りないのは目に見えているので、緊急に人手不足を補って欲しいと申し出があれば、そこは義理を欠く事なく助け合わねばならない。
琢はこの王都に与する棟梁の一派にいる。
仕事を頼まれれば出向くが、なるべく今回は、若衆を送り出しているのだという。
「数を熟さねえと、腕は熟れねえ」
作業は、徹底した繰り返しで身に染みて行く。
これは琢の持論らしい。これを実行する、こんな良い機会はない。棟梁候補たちを中心に、若衆や下端衆を組ませて働かせている為、自分は暇だったのだと、琢は胸を張った。
だが、仕事のさせ過ぎも絶対にしないのだという。
琢の父親も棟梁として相当に羽振りが良かったらしいのだが、大工の仕事というのは一極集中するきらいがどうしてもある。それに、人の住まいというものは、人間の生き死に直結する場合もある。琢の父親は余りにも根を詰め過ぎて、疲れからくる不注意による仕事中の事故で、亡くなったのだという。
「だからよ、俺っちは無理矢理にでも、休みは取らせるのよ」
杢が、真に対して率先して休めと言った事と、意味あいは同じだ。
好きな仕事だからこそ熱中出来るのであろうが、仕事には責任が付きまとう。
貫徹してこそ仕事は完成するが、その過程において誰かが傷ついた場合は、上にたつものの責任なのだ。身体を休める事も立派な仕事のうちなのだと、教えるのも仕事なのだ。
責任の取り所を間違うな、と教えるのが、一番難しいんだぜ、と、琢が笑った。
珍しく、と言うより始めて真面に答える琢に、珊はふーん……と戸惑った返事を返したものだった。しかし以後、仕事ぶりについて何も嫌味を言うことはなくなったので、珊なりに、少しは琢を認めたのだろう。
堂々と胸を触りに来る琢の腹に、鉄拳を打ち込みはしていたが。
そういう訳で、大工の仕事と並行して、真と共にああでもないこうでもないと、取っ組み合いをするように打ち込んできた、道具とやらが、完成をみたというのだ。
今日はその、お披露目をするという。
琢は、得意満面でちらちらと珊の様子を伺っている。
が、珊はつんつんした顔付きで、全くの無視を決め込んでいる。しかし、それすらも、琢には『恥ずかしがっている可愛い俺っちの珊』としか、見えていないようだ。目尻がだらしなく下がり、口元は蕩けるように、にやにやしっぱなしだ。
恋は盲目というが、琢は相当に度が過ぎている。しかし珊と琢を知る周囲の者は、目下取り敢えず今のところは、微笑ましく思いながらも遠巻きに、静かに静かに応援している。
……下手に近寄って、頑張れよ・とでも口にしようものなら、琢がまたぞろ騒がしくなり、収集がつかなくなると身に染み過ぎているからであった。
★★★
もうすぐ正月を迎える空は、青く澄んで、そして高い。
季節は完全に秋から冬に切り替わった。年明けまでは雪が少ないという話は本当で、湿気の多い凍てつく寒風の割には小雪が舞う程度で、大きな積雪は未だないのが、寒がりの真にとっては、救いといえば救いだった。
学の歩調に合わせて歩く為、速度はかなり緩やかだ。
ごとごとと鳴る荷車の車輪の音は、更にのんびりとした和みの風をまとう。
真はこう見えて普段、歩く速度は早かったりする。城に向かう時にのんびりと行くのは、考え事をしている事が多いせいであるし、風景や鳥の声や虫の音などを目と耳で確かめて楽しみたいというのもある。基本的に早足であるのは、何かあれば、急いで部屋に戻って調べ物に勤しみたいという行動原理の成せる技から来ているので、ここ最近は封印されている事実なのだった。
ちらり、と真は、隣を歩く学の横顔に視線を走らせた。
数えれば出会いの日から一ヶ月半近く経つ事になる。
この間に、学は半寸近く、身長が伸びた。
少年の成長は、目にも鮮やかに著しい。身体的なものだけでなく、受け入れる知識その他の物事を、素直に己の糧にしていけるのは、この時期だからであろう。
喜ばしい事であるが、真にとっては困ったというよりも、全く想定外の事が起こった。行幸先から戻って直ぐに、苑と椿姫から、何よりも学本人から、『是非とも師匠となって欲しい』と頼み込まれたのだ。
無論のこと、真は間髪を容れずに断った。
「私では、務まりません。というよりも、はっきりと申し上げて、適任ではありません。他の御方をお探し下さい」
解らない、となれば自身で全てを調べ上げる事が常であったし、何よりも真は、戰と出会うまで、ほぼひとりきりの世界で生きてきた。
その為、他者が何を不思議と思い、何をどの様に知り得たい・教えて欲しいと思うのか、それを見抜き教えきる力が欠落している。とまでは言わなくとも、弱い、とそう真は自分を評している。
克と出会って、真は痛烈に思い知らされている。
彼に分かり易く教えるのは、そして納得して貰うのは、本当に難しい。
だから、学が知りたいと思う事を、学に知って欲しいと思う事を、過たず伝える事が出来るとは、到底思えないのだった。
「私は、全くの独学で、人に師事した事がありません。その為、『人に教える』という事が如何様なものなのか、わからないのです」
「そのような事を、仰らないで下さい。私は、この日誌を見て頂いた折の言葉が、忘れられないのです」
訝しむ真に、学が続けた。
「父様の意思を継ぐ事が出来るのは幸せな事だと、仰って下さいました」
ああ、と真は項の辺りの後れ毛をかき上げる。
それは正直な気持ちだった。
兵部尚書であり、武辺者である父・優は正室である妙の子に全く後を継げる器であるなどと、期待を持っていなかった。勿論、自分にもだ。ある程度、この頭脳を認めはじめてはくれている。
だが父が求めている『我が子』は、あくまでも『己の心血誠意を注いだ武辺を継いでくれる同じく者』なのだ。そうでなければ、杢にあそこまで入れ込みはすまい、と思っている。
それについて、父が悪いとは思わないし、己に非があるとも思ってはいない。
が、この件に関して母親である好が淋しく思っているを知る真には、堪えることだった。
だから、父親の遺志を素直に継いでいる学と、それを傍で見守る事が出来る苑の親子関係が純粋に素晴らしく、また羨ましいと思えた。
だからこそ、あの言葉が出た。
しかし。
「そのような事だけで、人を正しいか否かを、見定めてしまってはいけませんよ、学様」
「いいえ。人の心を正しく揺さぶる事が出来る人は、正しい人だと父様が仰っていたと、以前、母様に教えて頂きました。だから、お師様は正しい人だと、私は思うのです」
「お師様?」
真はますます眉を顰める。
「簡単に人に師事すると定めてしまってはいけませんよ、学様」
傍に座って聞いていた薔姫が、くすくす笑いだした。
「いいじゃない、我が君。どうせお蕎麦の育て方は、学様に聞かなくてはいけないのでしょう? それじゃあ、いつも一緒に居る事になるのだもの、呼び方くらい、学様の好きにさせて差し上げたら?」
幼い妻に同世代の少年の方の味方をされて、真は今にも泣きそうな情けない顔つきをし、学はと言えば、ぱっと頬を喜びの色にそめたのだった。
そんな訳で、今や真は、椿女王の名の元に兄王子の遺児と認められた、祭国王太子・学の『師匠』としての名目も、手にしている。
しかし実のところ真は、未だに戰の『目付』としての名目だけで動いているのだ。
然とした、官位も爵位も職位も、戰からは未だ下されてはいない。
口にはしなくとも、戰は、真がそんなものを望んでなどいないと、知っているからだ。
それなのに、何やら立場だけは段々と立派な厚みを帯びたものになっていく。
正直、学に「お師様」と呼ばれる度に、真は肩を竦めて首筋をばりばりと掻きたくなってくるのだ。
こそばゆいから、やめて欲しい。
心底、思うのだった。
★★★
遂に我慢が出来なくなったのか、琢が珊にちょっかいをかけ始めた。相変わらず、しっしっ! と蠅を追い払うかのように、手をひらひらさせている珊を、琢ははふはふと仔犬のような鼻息でまだ追いかけている。
学が、馬上の薔姫を見上げて、子供らしい明るい笑い声を一緒に上げている。少年と少女の屈託のなさに、大人たちも釣られて笑っている。
同じように笑いながら、真は、ふと、目を眇めた。
――戰の御代が落ち着けば、自分はないものとなる。
そうでなくてはならないと、心密かに定めている。
だからこうして周囲との関わりが深くなっていくのは、どうにも心が騒めくばかりで、いっその事、今、逃げ出したくなる。
自信がなくなっているからだ。
その時が来た時に。
果たして、自分は本当に、手放す事ができるのか、と。
この、暖かな時間を。
自分の居場所を。




