終章 新句国王・戰 その5
終章 新句国王・戰 その5
「生きたいのであれば! 人として堂々と歩みたいならば! 何としてでも人として生き抜いてみようとしてみせんか! 此の腰抜けめが!」
「……父上」
「同じ境遇の者を此れ以上作りたくないのであれば、先ずは自分が、其処から脱する道程を示してみせんか! 己の不遇に我慢ならぬと云うのであれば自ら立って戦わんか! ただ悔しいと泣くだけで終わるつもりではないのであろう!? 誰からも認められたいと願うのならば、認めさせてやろうと己の足で立って征かんか!」
獰猛な野獣のような鼻息の優と目を見開いたまま固まっている親子の間を、朗らかな笑い声が抜けて行く。
「真。此れはどう見ても、真の負けだね」
「……戰様」
愉快で堪らない、と言いたげに戰は膝を打って笑い転げている。
「意外だな。真は誰にも負けないと思っていたが、そうか、兵部尚書に負かされるとはね。息子は何時か父を超えると言うが、兵部尚書はまだまだ勝ちを譲る気は無い、といった処かな」
「戰様、茶化さないで下さい。と、云うよりも、迂闊に父上を持ち上げないで下さい。下手をすると私は一生、此れをねたに茶化され続けます」
渋い顔をする真に対して、戰はまだ笑ったままだ。
「だけどね、真、兵部尚書の云う通りだと私も思うよ」
「戰様……」
「自らの望みを叶えるのに恐れを抱いてはいけないよ、真」
「……戰様、ですが……」
渋い顔で、口の中で反芻するようにもごもごと文句を呟く真に、いいかい、真、と戰は珍しく強い声を出す。
「真の事だ。言わないだけで、先々を見据え、才能に恵まれながら同じ境遇に在るが為に頭角を現せずに居る人物を、世に送り出す制度を彼是と抜かり無く考えているのだろう?」
「……」
「けれどね、良く考えてみて欲しい。生まれついた家門で、持って産まれた星で人を見るのではない、努力して得た技能で一生を切り拓く世が来たのだ、と口で言うのは容易い事だ。だが、一体どれだけの人が、信じて呉れるだろう?」
「……其れは……」
「口車に乗せる、と云うと聞こえは悪いかな? だけどね、彼らに一歩を踏み出す勇気を与えるには、どうしても先ずは先駆者が必要だよ。成功者という、良き希望となる実例――がね」
「戰様は……其れに、私がなれ――と仰られるのですか?」
「そうだ」
間髪を容れずに戰が断言する。いや、命じると言った方がよい、強い口調だった。
「真が成さずして、誰が成すと云うんだい?」
「……」
「手を伸ばす前から諦めていた自分に、手に入らないならと目を背けていた過去に決別したいというのなら。真、逃げていては駄目だ」
「……戰様」
「欲しいと思うのなら、自ら立ち上がって進み、やってみたいと声を出せばいい。失敗してもいいじゃないか。成功するまで、私が傍に居るよ」
「……」
「此れまで、何があっても私と共に居てくれたように、今度は私が、真の傍に居たい、と願う番が来たのだよ」
「……」
「いけない、いや、私には無理です、駄目です、などとは、絶対に言わせないぞ、真」
「……」
楽しそうに笑う戰に釣られて、まず克が腹を抱えて笑い出し、次いで芙が含み笑いをし、最後に杢までもが顔を背けながら短く笑い出す。ふん、と鼻息荒く胸を張って勝ち誇る優を見上げながら、はぁ、と真は全身を使って大きく溜息を吐いた。
「酷いですねえ、皆さん。人を笑い者にして、何が楽しいのですか、全く……」
「何だ、文句だけは一丁前になりおって。何時まで甘ったれが通用する小僧の気で居るつもりだ、馬鹿者めが」
優の叱責と共に右腕が、ぶん、と唸りを上げる。が、癖の強い伸び放題で手入れが全くされていない前髪をくしゃくしゃと掻き上げながら、ひょい、と真は父親の豪腕を避けてみせる。まるで道下たちの演目のような絶妙さに、克は笑いを堪えるのに必死だった。
「戰様まで、私が此れまで一度も負けた事がないだとか、どうにも認識違いをなさっておいでですから、まあ、仕方無いのかもしれませんが」
「むぅ?」
「私が負け無しだとか、大きな誤解ですよ。此の数年、私は私の家内で勝った例がありませんからね。小さな妻に頭が上がらぬ私の為体を、戰様は一番近い処でたっぷりとご覧だったでしょうに」
首を捻っていた戰だったが、ああ、と気が付き、同時にぷっ、と吹き出した。
――確かに結婚してからというもの、真が薔に勝った試しを見た事が無いかもしれない。
戰に続いて得心がいった克たちも、遠慮なく吹き出して笑い転げ出す。言った後で、言うのではなかったですねえ、と照れた様子を見せながら、首筋を掻いていた真は、岩より硬いと評判の父親の握り拳で後頭部を力任せに殴り倒される。
「何を勝ち誇って、而もお前如きが惚気るだと? 此の大躻が、百年早いわ。せめて10年以上添ってから惚気んか」
「また、容赦の無い事ですねえ。少しは虚弱な息子を思い遣って下さい」
「何をほざくか。一人前になってから物を言え、此の阿呆めが」
ぼやく真と更に嵩に掛かって怒鳴る優に、戰は苦笑しながら手を振った。
「親子喧嘩は其処までにしておいて呉れないかな、真、兵部尚書」
戰にこうまで言われても、まだ真を睨む事を優はやめない。
「兵部尚書」
「……ぬぅ……」
重ねて嗜められて、渋々、優が引き下がると、入れ替わる様に戰は立ち上がった。
「さて、真」
「はい、戰様」
「改めて、問いたい。真、君はどうしたい? 私が征く王道を、共に歩みたいのならば」
「其れは勿論、戰様と」
戰の言葉を遮りながら、真は礼拝を捧げる。
「何処までも共に。何時までも参ります」
「そうか――では、真」
「はい、戰様」
「勝ちに征こう。見せてやろうじゃないか。剛国に、私たちの姿を」
「はい、戰様」
「そして思い知らせてやろうじゃないか。私たちが目指す世界とは、一体、如何なるものであるのかを」
「はい、戰様」
「其処には、真、君は居なくてはならない存在だという事を」
真は大きく息を吸い、そして静かに戰に最礼拝を捧げる。
「はい――全て、戰様が望むままに。戰様が望みは、私の望みです」
「そうか……」
そう言って呉れるのだね、と戰は笑う。
「だけどね、真」
「はい、戰様」
「真自身が表に立ち、勝ち続けるのは、私を勝たせ続けるよりも辛いかもしれないよ?」
「はい」
「其れでも、良いのかい?」
「はい――覚悟の上です」
戰の問いに、其れでも、と真は間髪入れずに答える。
「私は、戰様と共に参ります」
「そうか……」
「はい。私は――私は、戰様と共に征く道を拓かんが為、私自身の勝利を求めます」
「うん……分かった。有難う、真」
もう、躊躇も迷いも曇りもない、真っさらな決意が込められている真の声音に、戰は満面の笑みで頷く。
此の日此の瞬間。
真は真実、表舞台に立ったのだった。
★★★
「夜明けまで、あと半時辰程か」
彼は誰時の空気は、如何に天候が不順な年であろうとも静謐さを感じさせる。馬上の人となっている烈は腹の底から息を吐き出し、そして吸い込んだ。
句国王都の前に広がる平原からは、祖国には遠く及ばないがぴんと張り詰めた青葉の匂いが鼻孔を擽るのが何とも言えない。騎馬の民にとっては切っても切れないものであり、母の腕の中に在るかのような、言葉に出来ぬ心地良さを感じさせる。
烈は馬の嘶きの先を見上げた。
最後の守護たる城の城壁が、夜明け前の空気の中にある。
烈も、そして斬も知らぬ事実であるが、此の平原は嘗て、戰と当時は廃太子として庶子扱いの立場であった玖が相見え、激戦を繰り広げた因縁浅からぬ地なのだ。
右隣から、馬の嘶きが追って来た。
異腹弟の斬がやはり馬に乗って必死の表情で追い縋って来ている。誇らしげであり、そして何処か嬉しげだ。
「何をしておいでなのですか、兄上」
烈は盛大に舌打ちした。
異腹弟・斬の、見事なまでの一本気質さが、恨めしさを通り越して泣けて来る。
――馬鹿野郎めが、何処まで能天気な奴なのだ貴様は。そんな頓馬な浮かれ具合で、あの男と対等に遣り合えると本気で思っているのか、此の間抜けめ。
――貴様のような甘ったれた坊主など、郡王の相手になるものか。忽ちの内に取り込まれ、兄上に不利な状況に知らず知らず追い遣られてしまうに違い無いのだ。
闘に祭国郡王・戰を迎え入れる役目を担うよう命令された異腹弟に、結局、烈は付いて来てしまった。
此れが後に闘に知れた場合、どの様な叱責を喰らうか、もしかすれば降格とまで行かなくとも今までのように傍に侍る権利を剥奪されるかも知れない。
其れでも、斬にすべてを任せておくなど、烈には考えられなかった。
ふんわりとした掴み処の無い表情と態度の癖に、抜け目無く立ち回る小狡いあの男――
――そう、あの、真と云う男に、斬のような甘い男が太刀打ち出来る筈がない。
あの男に、真に、兄上は甘い。
俺はどう思われようが、見捨てられようがもう構わん。
だが、あの男の良い様に事を運ばせるなど、業腹だ。
泣いて悔しがる姿を此の眸で一度は確かめねば気が済まない。
句国の王城に入る前に、あの真という男には、脳天を打ち砕く勢いで思い知らせてやらねばならないのだ。此の中華平原を統べるのは、兄上只御一人。
――郡王程度の男が出しゃばる余地は無いのだと、此の俺が思い知らせてやらねばならん。
烈の決意を知ってか知らずか、斬は明るい表情で、兄上、此方でしたか、と馬を寄せる。
気が立っている主人の気配が伝わっているのだろう、烈の愛馬は斬の馬に対して、厳しい嘶きを発し蹄を鳴らして拒否の態度を見せている。
「そろそろ平旦を迎えます。兄上、夜が明けます」
「……そうだな」
喧しい、と怒鳴り散らせればどんなに気楽だろうか。
しかし、斬の指揮下に入るから連れて行けと自ら申し出た手前、年上面も出来ない。
感情の入っていない平坦な声で応えるのが精一杯だったが、斬は兄弟仲を修復出来たとでも思っているのだろうか、底抜けに明るい笑顔を浮かべている。
――斬、貴様は気楽に構え過ぎ、気を抜き過ぎだ。
郡王がどの様に此方を出し抜く気でいるのか知れないのだぞ。
我らの出迎えの態度で、句国は郡王に呉れてやる、然し乍ら此の平原は何れ剛国の『所有物』となるのだ、と思い知らせてやらねば成らぬのだ――
と、脳天を殴りながら教えてやれればどんなにか楽か、と烈は舌打ちをする。
闘に認められた自信がそうさせているのか、斬はもう、烈に対して対等にであるという意識を隠そうともしていない。
其れが、どうにもこうにも腹立たしく、臓腑が煮え繰り返る。
――貴様には分からんのか。
陛下に寛大なる御言葉を下されようと認められようと、貴様は私と比ぶれば力量遠く及ばぬ未熟者であるのだと。
陛下が此度の大役に貴様を抜擢されたのは、偏に、貴様と真とやらの間の浅からぬ因縁のせいだ。
真とやらと縁深き貴様に対して郡王は判断を鈍らせる、と陛下は見ておられるのだ。
しかし、あの奇策士の真とやらは、郡王を飛び越えて付け入って来るに相違無いのだ。
貴様一人では郡王に出し抜かれてしまう恐れが在るから、私は貴様の風下に立つのもよしとしてまで、ついて来たのだ――
呑気に愛馬の首筋を撫でてやっている斬を舐める様に見てから、烈は三度、舌打ちをする。
――陛下が如何に広き御心を示されようとも、斬如きに任せてなどおられん。此の句国と言う地は陛下にとって今後の鍵となる大切な地だ。
きっ、と烈は平原の向こうを睨んだ。
「郡王如きにほれと犬に骨を呉れてやるように、投げ与えてやるわけにはいかん」
兄上の御為ならば、私は来世など要らぬ。
どの様な非道に落とされようとも構わん。必ずや、郡王を仕留めてみせ、平原に兄上の御名を知らしめるのだ。
ふと、火打ち石で火を散らしたかのような光りが、地平線の彼方に灯った。
「……ん?」
――あれ……は、何だ……?
烈は目を眇めて独り言ちる。斬も、首を傾げてみせた。
「朝日が登ったのか……?」
「いえ、兄上、夜明けまではまだ3刻程余裕があります。陽光が空を染めるにしても早過ぎです」
「……分かっておる」
出しゃばる斬に対して眉を顰めながらも、烈はまじまじと光を見詰める。
――では、あの火は一体何だと云うのか。
それにそもそも、あの輝き方は陽光などではない。
朝日は薄く淡く透明で、空と雲だけでなく空気までをも、まるで羽衣で包むように慈愛の色に染め上げる。
然し乍らあの光は、地上から天蓋を求めて走っているような――
そうまるで、石切の楔のように天に刺さらんとする確固たる信念があったように思えるのだ。
一瞬の瞬きを、誤認であったかと自分で自分を納得させようとした、其の時。
再び、火が駆ける。
今度は、しっかりとした灯火として、視界に入る。
最早、勘違いであるとか思い過ごしであるとかという、其れこそ言い訳めいたまやかし言葉で打ち消し出来ない。
――何だ!?
あれは何だ!? 何なのだ!?
糞めが、気なる、気になる!!
煌々とした灯火は、まるで燐が燃えているかのようにも見える。烈と斬がぐん、と一気に瞬きを伸ばした。
「うお、おおぉっ!?」
「な、何だあぁっ!?」
烈と斬は同時に叫ぶ。
そうこうする間に、瞬きは更に綺羅を増やしていく。
大瀑布のような灯火の道筋が此方にぐんぐんと迫って来る、と烈と斬が理解すると同時に、見張り台の方でも凄まじい輝きの道に気がついたのか、城内が一気に騒然となる。
既に燃え盛る炎が散らす火の粉が見え、木が割れる際に放つ破裂音が空気を叩くのも感じられる位置にまで、灯火の道は城に迫って来ている。
そして燦然と灯る道の中央を、悠然と歩む一軍の姿が現れた。
威風凜然たる様で其の先頭に立っているのは、巨躯を誇る黒馬、そして其れに跨がる美丈夫である。
「祭国郡王――」
茫然自失の体で、斬は呟いた。
手綱を握り締めている処から、ぽたぽたと汗が滴っているのにも気が付けない失態を晒している異腹弟を、常であれば烈は許せない。
だが、烈自身も我を失っていた。
★★★
赫赫とした陽光が、遂に姿を見せた。
其の清澄な輝きが天帝の御心の現れとするのであれば、句国の領民たちが手に手に松明を掲げて王都まで誘わんとする光りの道は、彼らの息吹と魂の脈動である、といえるかも知れない。
そう、祭国郡王・戰は、正しく句国の領民たちの生命其の物を辿り、此方に向かって来ている。
玲瓏な宝玉のような美顔の王である郡王・戰が朝日を背に受け火の花道を征く姿は、玲瓏たる光輝を発する太陽の神が御稜威の中から人の世に具現化したかのようであり、此の世の者とは到底思われない。
然し乍ら、普段は静かな湖面のように優しげな双眸が、大きく睜られ炯炯とした瞬きを放っている。
「出迎え御苦労」
郡王からの直接の声掛けを許していまう位置まで、烈と斬は身動き一つ取れないでいた。
恐怖に、身体が竦み、魂が縮み上がってしまっていた。
郡王・戰の声に、恐怖したのではなかった。
彼の声音は、労りだけでなく、慈愛すら感じさせるものだった。
常日頃の己であれば、鼻でせせら笑う其の感情を、すんなりと受け入れている自分の極端な変貌に、烈は恐怖していた。仲間から見捨てられた羚羊のように震えているのにも気が付けずにいる烈の脳裏に、唐突に、一つの言葉が浮かび上がった。
――覇王の宿星。
と同時に、其れは彼の身体を支配する。
――郡王・戰が生まれながらにして持つと言われている星、天帝より授けられし宿星……!
炎天下に数日縛り付けて放置されたかのように、喉が乾いて痛んでいるというのに、烈は此の猛烈な痛みにすがった。
そうでなければ、自分自身が足元からぐずぐずと崩れていってしまうのでは、という錯覚に陥っていた。
なんと、翻る郡王旗に、我知らず礼拝を捧げそうになっていたのだ!
考えられなかった。
自分にとって、高遠で壮大な理想を実現するのは、剛国でなければならない筈だ。
至高の人物として君臨するために天帝の許しを得て世に遣わされたのは、兄王・闘でなければならない筈だ。
此れまで、蔑み、下の存在として嘲り笑ってきた郡王・戰に、何故自分は、こうも怖畏の念を覚えるのか。
出立前に兄王・闘と異腹弟・斬の会話を耳にしていたから、萎縮震慄してしまうのだ、という論法などでは片付かない。此れは本能以前の問題だ。
――負けた……のか……?
いや……いや、違う……違うっ……!
烈は豁然と悟った。
悟らされた、と云う方が正しいかも知れない。
何故ならば、此の感覚を知っているからだ。
――兄上が剛国を我が物とすると語られた時に前身を駆け巡ったもの、あの感覚だ……!
感動、そして感銘、あるいは感佩、胸に迫り心を打ち賛嘆に奮い起つ、得も言われぬあの感覚と同じだった。
――負けた、負けた、負けた……!
だが……俺が……俺だけが負けたのでは、ない……!
俺だけでなく……我が剛国が……兄上が負けた……!
兄王・闘こそが平原の覇者となるに相応しい。
其の思いは揺るぎ無いと言うのに、郡王へ自然と頭を垂れる己が居る。
此れまでなら、恐怖から膝を屈するなど言語道断と叱責する処であるのもを、失態すら真綿で包み庇護するかのようにしながら、郡王を見上げるのは自然な事だと受け入れている自分が居る。
――兄上には……出来ない……出来ないっ……!
郡王・戰から感じられるのは、兄王・闘から受けたものと比較にならない。
桁が違う、次元が違う、世界が違う。
自分一人を虜とした兄と違い、郡王・戰は句国を須く、懐に抱いてしまった。
――郡王のように、兄上はなれぬ……!
理屈や観念など、机上の空論だと散々言ってきた此の俺が、其れに捉えられている。
郡王をこそ認めねばならぬのは、自然の哲理なのだと、何かが魂の横で囁いて止まない。
――祭国に赴た時にも、真を傍に置いて会っていた此の数ヶ月の間も、こうした心持ちにはならなかったと云うのに。
だが、何故。
何故、今、今なのだ。
此の時機、此の瞬間なのだ!?
「有り得ぬ! 兄上こそが平原の覇者たるに相応しい!」
嘗てのように、断言出来ぬ自分が恐ろしい。
――今更、目覚めるように郡王に膝を屈する位ならば、単純に憎悪し続けていた数瞬先の自分に戻りたい。
堂々巡りのどうにもならぬ思考を断つ手段は只一つ。
答えを、口にしてしまう事だ。
理屈や哲理や機序など、こういう全てを超越した存在の前には無意味。
兄王・闘が最も優れた人物であるという絶対の心の拠り所を、今、目の前に居る郡王・戰は姿を見せただけで断ち切って見せた。
真と言う男を配下に迎えられなかった兄王・闘には、如何に足掻こうとも、未来永劫、今の自分のように真実、他者を平伏させる日は訪れない。
だが、分かっていても、其れも出来ない――
――天帝の命令により此の世が郡王の『所有物』となったとしても。
剛国すらも、兄の王位すら奪われようとも。
たった一人となったとしても、俺は兄上の家臣で居続ける。
居続けねばならぬ。
――俺だけは兄上のもので在り続けねばならん!
何があろうともだ! ……ああ、なのに……なのに……!
指の先毛の先にまで巡っている感情、いや執念は、痺れとなって烈を縛る。
がくがくと膝が笑い、手綱を握ってもいられない。
息遣いは荒れ、鼓動は跳ね、視界は目蓋の内側にまで入り込んだ汗によりじわりと滲む。
――心に定めていたというのに……兄上の背中を追うと決めてたあの日から。
……出来る気が、しないっ……!
俺に、俺に出来るのか……? ……否!
郡王・戰を拒めるのか……? ……否!
――……出来ない……出来ない、出来ない、出来ない……!
こんな感情が、忽然と俺の中に逆巻くのだ!?
俺は何故こうまで郡王を讃仰賛美したくなっているのだ!?
烈は追い詰められていた。
飢えのような孤独に急激に襲われ、恐怖していた。
眸にも映ってる。
肌に気配も感じている。
なのに、自分以外、誰も此の世に存在して居ないかのような錯覚に苛まされる。
――俺は、もう……俺にはもう、出来ぬ、出来ぬ……! 歯向かえぬ……!
あわよくば、斬の目を盗んで郡王・戰を亡き者とせん、と目論んでいた自分は、何処まで浅慮で短絡で間抜けだったのか。
瘧に罹ったかのように、がたがたと震え出した烈の前に、ふらふらしながら馬を御していた男が近付いて来た。
常の烈であれば、不快感を隠そうともせず、剛国国王の異腹弟にして郡王である己の前に立つか、と威を見せて怒鳴り散らしたであろう。
が、今の烈は許した。
眸の前に居る男に、自分では口に出来ぬ一言を発して貰い、楽になりたかった。
「戰様を、恐れておいでですか、烈殿下」
「……真……」
「どんなに己が主君であらせられる闘陛下以外を否定していたとしても――惹かれてしまう。烈殿下におかれましては、戸惑っておいででしょう。ですが」
「……ですが……何だ?」
「恐れる事も、ましてや、恥じ入る事もありません。恐れ乍ら、私にも経験があるので殿下のお気持ちは痛い程、理解出来ます」
「……な、にぃ……?」
「私もそうでした。戰様に初めて出会った時。真、と声を掛けて下さった戰様を前に、抗う術など見付けられませんでした。ああ、此の方は――そう、思ってしまった。殿下にとって、私の其の時が今だった、只其れだけの事なのです」
「……な、なに、を、云うか、貴様……貴様如きが、なにを……私、私は、兄上を……!」
「殿下、身を捨てて闘陛下に尽くされる殿下の赤誠は、天晴と讃えられ、世の家臣となる者の倣いとなるべきでしょう」
「……」
「殿下の熱誠、紛う事なきもの。ですが人と云うものは、他の大いなる存在を受け入れてしまう瞬間があるのです」
「……」
「差し込む朝日から逃れられぬように、月の静かな輝きから目が離せぬように」
「……理屈など……言葉など……何も要らない……必要がない……」
呻く烈に、そうです、と真は微笑んだ。
「殿下。御自らに課せられた宿命に生きると決意なされた覇王の宿星の為せる御業の前に、殿下が膝を屈しようとも、何らの不思議はないのです。――魂に、天帝が命じておられるのですから。戰様を仰ぎ見よ、と。人は、其れに抗えません。殿下、何人も殿下を痴れ者よと蔑む事は致しません。寧ろ、殿下程の御方も認めたか、称えられる事でしょう」
真の声となって答えは烈の全身を巡る。
空に高々と掲げられている郡王旗の真上で、鵟が甲高い鳴き声を発しながら舞っていた。




