終幕 王 その2
終幕 王 その2
玉座に腰を下ろす皇太后・安の出で立ちに、集められた皇子たちは一様に驚きを隠しきれず、眼を剥き、息を飲んだ。
皇太后・安は、その頭上に皇帝の証である冕冠を、十二本の旒が、正しく垂れて揺らめいてる至尊の冠を抱いているのだ。更に、猩々緋の地布に太陽、月、北天七星、峰、炎、龍章などの紋十二章を金糸で施された、初代皇帝伝来の袞冕を身に纏っていたのだ。
「皇太后安陛下、今一度、御言葉を頂戴しても宜しいでしょうか」
皇太子・天の声が震えている。――怒りの為に。
「何度でも云うてやろう。私は、皇太子・天を次代の皇帝と認めぬ」
「皇太后陛下!」
「いや、天のみならず。今、この場におる、どのような皇子たちの頭上にも、この至尊の冠を抱くに足る人物はおらぬ。故に、私は、どの皇子の頭上にも、新たなる皇帝としての冠を与えぬ」
厳かに申し伝える皇太后・安の言葉を、怒りの為にがくがくと震えながら、天は聞いていた。
何をこの、なんの権威の後ろ盾もないくたばり損ないの婆あが、ふざけた戯言を! とっとと皇太子であるこの私に、全てを寄越せ!
皇太子・天の思惑を知ってか知らずか、皇太后・安は、ふふん……と鼻で嗤う。老境に入った皺枯れた女の嘲笑は見事に醜悪に歪み、化粧など申し訳程度の意味すら、なくしている。
「私は此処に宣言する。この先、三回忌の喪が明ける迄、妾が代帝としてこの座に座る。その間に、次期皇帝となるに足る皇子を、見定めるつもりじゃ。じっくりと、の」
「それは皇太后……いえ、代帝陛下、完全な喪が開けた後に、新たに選定の為の詮議を成す、という御意思に御座いましょうや?」
別種の興奮を抑えられず、皇子・乱が口を挟む。
天は血走った眸の更に目尻を裂いて、ぎろりと異腹弟皇子・乱を睨むが、乱だけではない、全ての異腹弟皇子に睨み返される。思いもよらぬ反抗を受け、天は怯んで姿勢を崩し、無様極まりなく尻餅を着いた。
――ふん、なんと不様で不格好な奴だ。
此れまでであれば、乱は一歩下がって皇太子である天をたて、見ない振りを決込んで無表情を貫いたものだ。
だが――そう、最早、取り繕う必要はないのだ!
ただ、ほんの1年ばかり先に生まれたという事実のみで、頂点に立つ事許された無能な男を、敬う必要はないのだ!
この先、爪を噛む事もなくなるのだと思うと、胸がすく思いに身体が宙に浮くように、乱には思われた。
積年の鬱憤を存分に含め、乱は思う様、醜態を晒す天をせせら笑う。
「代帝陛下、私・皇子乱は間違っておりますでしょうか?」
「いいや、乱よ。其方は正しい。正にそういう事じゃ」
皇帝として正装した老女は、浮かれた乱の言葉に、大仰に頷く。
天と乱が、いや全ての皇子が、眼前で火花を散らし合うのが楽しくて堪らないとでも言うように、優雅に袖を捌いて口元を覆い隠した。
「だが、其方ら、心するが良い」
「は――?」
「皇帝として、この平原の一大帝国・禍の、至尊の冠を抱こうという気概があるのであれば。初代皇帝よりの武光に恥じぬ、立派な武勲を先ずは誇らねば……のう?」
「は、はは?」
「其方らの中で、誰ぞ一人でも、戦場に出張り、武勇を誇り、手柄を打ち立てた者があろうかのう? 母妃の背後に立つ勢力に守られて、皆、膝で丸うなって眠る猫が如きにぬくぬくとし、砂糖菓子を舐めくさっておったからのう」
天の顔がどす赤黒くなり、乱の顔が青褪める。
膝で丸くなる猫、というのは怠惰の象徴であり、砂糖菓子を舐める、とは女性と戯れるという事の比喩だ。
これを否定する事ができる皇子は、今ここには、一人もいない。
「さて、其方らは、皆一律に横並びの状態であるが、只一人、この場に来る事の叶わぬ兄弟が、おるのう」
唯一、この場に居合わせぬ兄弟皇子――郡王として祭国に赴いた、戰だ。
「数多おる皇子の中で、最も輝かしい戦歴を持つのは、其者だけじゃ。そして3年前の戦、其者が初陣を強く押したのは、誰じゃと心得るか? そう、この私じゃ。それが、如何様な意味を持つものであるのか、其方らの猫のように小んまい頭であろうと、分かりおろう?」
ほーっほほほほほ、ほーっほほほほほほほ!
隠された袖の下で、皇太后・安は、高笑いを響かせる。確実に、目も当てられぬ醜悪奸邪に歪んだ顔をしているだろう。にたにたと眸を弓形に拉げさせながら、皇太后・安が勝ち誇って続ける。
天と乱を始め、皇子たちは歯噛みしつつ握り拳を硬く白くしつつも、それを止める術を持たない。
「其の方らには、各々の母妃が後ろ盾となり、それぞれの一族が後見となっておる。しかし、あの者は母妃を亡くし、確たる地場がない。それは余りにも不公平と言うもの。故に」
皇太后・安は袖で顔を隠したまま、立ち上がった。
「皇太后・安、いや、この代帝・安が、祭国郡王となりし麗美人の腹出である皇子・戰の後見となる」
厳かに申し伝える皇太后・安の低い声が、天と乱、そして平伏す皇子たちの心の臓を引き裂く。
「以後、皇子・戰は、この私のものじゃ。故のう、如何なる傷が付いたとて、その責を果てまでも問われるものと、心得よ」
此れまで、皇帝となる道に手を挙げる事すら叶わぬ儚い身分であった筈の、皇子・戰。
それが今や、代帝・安という、最も強く確かな後ろ盾を手にして、何者の手出しも叶わぬ位置に、一気に駆け登った瞬間であった。
★★★
或者は屈辱に、或者は怒りに、そして或者は絶望感に襲われ、震えるばかりだ。
「皆の者、この禍国の為に然と働くが良い。私の覚えが、皇子……いや、祭国郡王・戰よりも良うなれば、皇太子の座、考えぬでもない」
宮女たちが手にする、大きな孔雀羽製の扇から送られる涼やかな風に身を浸しながら、代帝・安は、皇子たちの気も狂わんばかりの哀れな様子に満足し、にんまりと笑う。
「じゃが、其方らに、戰を見事出し抜く程の力量が、果たしてあろうかのう? 女の腹の上に乗るのは、奴よりも得意そうであるがの、のう、おっほほほほほほほ」
此れまで、自分は故なく不遇であった。
皇女・染一人きりしか産めずにいただけで、皇后の地位にありながらも、不当に扱われ続けてきた。
しかし今、漸くその忌まわしい過去を栄光の踏み台とする事が出来た。
戰よ。
私の為に、然と働いて、この忌々しい皇太子を始めとする馬鹿で愚鈍で梼昧な皇子どもを、此の世から一掃してたもれ。
天と乱とを討ち果たし、寧と明どもを、共に此の世の底に突き落としてやっておくれ。
決して這い上がれぬ、暗い、くらぁい闇に堕としてやっておくれ。
然と、然とじゃぞ。
最も。
その後に、お前も首り殺してやるがのう……。
戰よ。お前の母・麗美人が、この私に働いた積年の恨みを存分に込めて、の。
おーほほほ、おーっほほほほほほほほほ!
愉快で堪らない。
笑いが止まらない。
いや、止めるつもりもない。
代帝・安は玉座より、皇帝の姿のまま足下の皇子たちを見下して、笑い転げ続けた。
★★★
呆れてものが言えない。
としか、皆、思えなかった。
よもや、皇后陛下までをも、利用していたとは!
確かに皇太后・安は、確かに己の地位を守る為に、3年前の戦に、戰を引っ張り出した。彼に戦勝を立てさせ、それに導いたのはこの私であると、恩を売るためだ。
しかしそれは、失敗に終わっていた。
戰に上手く恩を着せるどころか、繋ぎをつける迄にすら、及ばなかったのだ。皇帝・景が、戰が連れてきた未だ少女の身の上の椿姫を、亡くした麗美人に良く似た姫君を寝所に求めた時に、彼が誕生した所以を思い出し、怒りを優先させてしまったのだ。
あの様な下賤なるもの者に、縋ってたまるものか。
安は、己の胸の内でふつふつと沸く怒りを、抑えきる事が出来なかった。
お陰で、再び長く不遇を託つ事となった。しかし、誰にも見向きもされぬ暗い日々に、気も狂わんばかりになりかけた頃に、あの楼国陥落の事変が起こった。
そしてその事変は、皇子・戰との繋がりを代帝・安の元にもたらしたのだ。
兵部尚書にして宰相である優が、当時皇后であった安に謁見を求め、提案してきたのだ。
「今、此処で、私に御恩を売ってさえ下されば、皇子・戰様との繋がりを、兵部尚書にして宰相の名において、この優、責任をもっておとりなし致します」
その言葉を信じ、いや縋り、皇后・安の名の元に、兵部尚書・優が言うままに各尚書に兵部尚書の味方をするよう、内示を認めた。
力が弱まっているとはいえ、各尚書においては、皇后直筆の内示書の威力は絶大であった。優が宰相の地位にあるとは言え、禍国内において、其処まで大司徒・充や大令・中に拮抗しうる程の、絶対的政治勢力を有していた訳ではない。
であるのに、あの時、実にあっさりと各尚書が優の傘下に入ったのは、当時皇后であった安の力が、裏で上手く威光を発揮して良い働きをしたらばこそだったのである。
「そう言う訳でして。あの折に、随分色々な尚書が味方について下さった絡繰は、こういう訳があったのですよ」
真は、ぺちぺちと首筋辺りを、手の平で叩いた。
「お陰で、父の首の皮が繋がりました。その節は、本当に杢殿のお世話になりました」
ぺこりと頭を下げる真に、いや……、と杢が短く首を振った。
よもや、自分の解任の裏にそのような話が隠されていたとは、思ってもみなかった。
いや。想像できる人物が、果たして此の世の中の何処にいるのだろうか?
「しかし、真殿」
「何ですか?」
冷や汗たらたらで、再び克が嘴を挟んで来た。
「その……余りにも、不敬で不遜な事ではないか?」
「何が不敬で不遜なのですか?」
「いやその、つまりだな、皇太后陛下を利用するなどと……」
ああ、と真は頭をかく。
「そんな瑣末な事を、気になさっておいでだったのですか?」
「そ、そんな事!? さ、瑣末!?」
「克殿、それでは貴方は、黙って利用されるだけ利用され尽くせとでも?」
「そんな事は言ってはおらん! ただ、その、身分ある御方にだな……」
「身分?」
真は肩を揺らして笑った。
「先程も言いましたが、身分ある御方が皆こぞって聖人君子であらせられるのであれば、我々は今此処に、こうして集ってなどいませんよ。」
うっ……と、克が喉を詰まらせる。
「なに、そんなに難しく考える必要なんてないですよ? 自分達の住みやすい国を作りたい、が・如何せん、理想ばかりで金も権力も勢力も迫力もない。仕方ない、何だって利用してやろう、位に思って下さっていれば、よろしいのです」
渋面しきりの克をちらちら盗み見ながら、珊が、顔を背けつつ堪えきれない忍び笑いを、うっくっく・と零している。これ、と窘めつつ蔦も、時も、そして残る皆も、笑いを堪えるために顔を背けて、身悶える。
仲間である甲斐のない仲間に囲まれて、克もぶるぶると震えだした。
「それにどうせ彼方だって、此方を悪意ある利用をしようとしているのですしね。此方が、どのように出たところで文句は言えないでしょう? 悪党で卑怯で外道で非拠であってくれて、ああ良かった、自責の念にかられずに済む、とまあ、本当にそれくらいゆったり構えて居て下されば、よいのですよ」
のんびりと欠伸をする真に向かって、出来るか! と克は吠え叫んでいた。
★★★
学と話し込むうちに、ふと気が付けば、戰が姿を消している事に、椿姫は気がついた。
一緒に居た筈なのに・と、慌てて姿を消した戰を探して回る。県令の城宅内をうろうろしていた椿姫は、迷う寸前に彼の姿を発見する事ができて、正直、ほっとした。
戰は、見張り用の一段高い作りになっている楼閣に居た。窓枠に腰を掛けて、ぼんやりと夜空を見上げている。立て膝にした脚の上に腕を置き、手にした龍笛を所在無げに弄んでいた。
椿姫は、何をしているのかと訝しんで小首を傾げたが、やはり何処か気落ちして寂しげな様子の戰に、胸がちくりと痛む。
「戰様……」
小さく声をかけると、ちらりと視線だけを此方に向けてきた。
「義理妹の為に、父上を葬送る笛をと思ったのだけどね」
くるくると、掌の中で龍笛をまわしつつ、視線を楼閣下へと落とす戰の眸の色が、優しくなった。
あ……、と椿姫は声を飲み込む。
夜、笛を吹くことは禁忌とされている。それは、死を司る鬼を無闇に引き寄せるからだ。しかし、死者の出た弔事中の家は、逆に夜中の間、笛を奏でる。悪鬼に死者の魂が喰われてしまわぬよう、鬼を呼んで霊界に正しく導いて貰う為だ。
龍笛を手にしていたのは、亡き父、皇帝・景への弔いの為にと用意したのだろう。
「こういう時はもう、義理兄などは、より傍に居る人に敵わないようだよ」
言葉を受けて、窓辺に寄り、下を覗き込む。すると、月明かりと松明でほの赤く照らされている庭に、二つの人影を認める事ができた。
真と、薔姫だ。
真の首筋に縋っている幼い姫は、きっと泣いているのだろう。抱き上げている背中を、真が撫でている様子が、上からでもはっきりとわかった。
「けれど私は、椿の兄上に、きっと叱られるだろうね」
「え?」
「こんな為体を晒す、情けないばかりの男に、何を大切な妹を任せる事など出来るものか・と」
そんな事、と椿姫は言葉少なに答えかけたが、それすら全てを口にする事が出来なかった。伸びてきた戰の手が自分の手首をとって、ぐっと引き寄せてられたからだ。
「椿の兄上と比べたら、自分が恥ずかしくなる」
「そんな……」
「いや。情けなくて、堪らないんだ。同じ男として」
女である椿姫には、よく分からない。
しかし、戰が自身の兄・覺が、苑ただ一人だけを大切に想い、彼女以外に誰にも心を動かされず、また国益の為だけに形ばかりの妃を娶ろうともしなかった事に対して、何処か悔しさと敗北感のようなものを感じているのだけは、何となくだが感じていた。
そして、戰がそんな気持ちを持ってくれた事に、密かに、深く熱い喜びを抱いていた。
「椿」
「はい」
「真が言ってくれたように、露国側がこの百ヶ日を見越して初姫との話を取り下げたとしても、皇太后陛下が私の後ろ盾となったと知れば、再びどう出てくるかなど、分からない」
「……はい」
「――いや、違う、こんな事を言いたいのではないんだ、その」
「はい?」
「私の都合など、どうでも構わない。此れは全く私の我儘で」
「え?」
強く抱きしめられて、お互いの鼓動が痛いほど響く熱い胸の中で、ああ、どうして私は真のように、上手く言葉が出てこないのだろうな、という戰のぼやきがうっすらと耳に届く。
「つまり、その、つまりだ」
「は、はい」
「つまり、椿を誰にも渡したくない」
「えっ……?」
「露国王だけじゃない。此の世の、どんな男の手にも触れさせたくない」
「戰・さま……」
「椿を、私だけのものにしたい」
「せ、せん……」
「私は、まだ理想だけが先走る、情けない王だ。だからどれだけ偉そうな事を言っても格好だけで、自信が持てない。椿は私のものだと言い出せないのは、そのためだと思っていた。けれど違うな、そんなものは言い訳に過ぎない。私は逃げていたんだ。兄上のように堂々と、好きなのは椿だけだ、と言いきる度胸がなかった。それだけだ」
「戰……」
椿姫は、静かに目蓋を閉じた。
「まだ何一つ、満足に何事も成し遂げていない。私は、男としても王としても、情けさの極まる人間だ。だけど、椿」
「はい」
そして、戰の硬い肩の上に、ことり・と額を寄せる。
「離したくないから、離さない。傍に居て欲しいから、何処にも行かせない」
戰の首筋にかかる髪から、しっとりとした汗のにおいが漂ってきた。先に、自分を守って戦ってくれた折のものだ。身を清めて着替えをしても、髪はまだそのままであった為、あの時の熱っぽさを保っていた。
「椿を好きな気持ちは、誰にも負けない。欲しいのは椿だけだ」
「……はい」
「私の妃になるのは、椿だ」
「……はい」
椿姫の答えが、涙で潤んで霞んでいる。
二人の頭上を、ぴぃー! と高い音が駆け抜けて行った。
★★★
――遅くまで一室に閉じ込められた状態だったから、息苦しいでしょう、外の空気を吸いませんか?
言われるままに頷いて、薔姫は真と共に庭先に出た。
冷え込みが激しい祭国では、秋の夜長を彩る虫の音も、微かになりつつあるが、それも趣のある寂寥感を感じさせる。
「あのね、我が君」
「何ですか?」
「私、悪い子かもしれないわ」
「どうして、そんな風に思われるのですか?」
一箇所だけ、手入れが及んでいない草深い庭を見つけると、真は喜び勇んでその中に飛び込んだ。呆気にとられる薔姫をおいて、何かを探すようにガサガサと物色しながら歩き回りつつ、言葉に答えている。
「だって、お父上様が身罷られたのに、ちっとも悲しくないの」
屈んで、草を一枚一枚物色しながら、真がちらりと薔姫を見た。
「お兄上様がお父上様の御崩御のお話をされても、寂しいとも感じなかったの」
真に手を握られて、涙が溢れそうになったのは、そんな自分を見破られてはいないかと、怖くなったからだった。
心の冷たい姫だと思われたくなかった。
父親が皇帝であるというのは、薔姫にとって『事実である』という以外の意味を持たない。
朝賀や参礼の折に、遠くから姿を眺めるだけ。
知っているのは、長く垂れる冕冠の旒から覗く、皺深い厳しい横顔だけ。
優しい言葉を、かけられた事もない。
愛おしさを込めて、抱き上げられた事もない。
なのに。
どうして、父親だと慕えるだろう?
だから、母親である蓮才人との間にある濃密な親子の情を持てる筈もなく、亡くなったと聞かされても、遠い異国の物語のように聞こえてしまっていた。
実の親が亡くなったと言うのに、何にも感じないなんて。
私、何て冷たい子なの?
こんな自分、大っ嫌い。
我が君が知ったら、きっと、嫌な子だって思うわ。
けれども、ずっとずっと、真は静かに手を握り続けてくれた。
大きくて、暖かなその手で、ずっと。
だから余計に、本当の意味で泣きそうにならなかった自分が、悲しくなった。
それなのに。
ねえ、どうして我が君は、いつも私に優しくしてくれるの?
背中を丸めて、まだがさがさと草の中を徘徊している真に、薔姫は苛立ちをぶつけた。
「ねえ、我が君、聞いているの?」
「ええ、聞いていますよ」
がさがさと草の中を物色し続けていた真は、目当ての物を見つける事が出来たらしく、あったあった! と、まるで子供のような、喜色に飛んだ声を張り上げる。
真が手にしている物を、見せて? と覗き込むと、掌に収まる位の長さの青臭い草葉があった。
「葉っぱ? これで、何するの?」
「こうするんですよ」
くい、と顎を上げて空に顔を向け、手にした葉を真は唇に当てた。
ぴぃー!
甲高い、澄んだ笛の音が、闇を震わせて秋の夜空を裂く。
死者を弔う家が、夜、笛を吹く事くらい、知っている。
薔姫を見詰める真の眸が、優しい弓形を引いている。そして、何度もその葉から、高く澄んだ笛の音が奏でられる。
真が奏でる草笛の音を聞いた途端、硬くこちこちに凝り固まっていた心の何処かが、氷のように、ぱりん・と音をたてて砕けたような気がした。
薔姫が、小さな手を裳を握り締め、きゅ・と唇を噛んだ。
その手を、真はそっと取ると、夜空を見上げるように、目で促してきた。
つられて、首を上げてみると、一気に溢れ落ちてきそうな星の瞬きの海が、天上を埋め尽くしていた。
星は、地上で生きる人びとと同じ数だけ、光あるのだと言われている。流れ星が不吉だとされるのは、星が消えるという事は人の命が消えるのと同じ意味を持つからだ。
薔姫は、自分の宿星が『男殺し』であると自覚しだしてから、夜空の星を喜んで見上げた事がない。月見の席は好きだが、それは皆と楽しい時間を過ごせるから。
自分の『男殺し』の星が其処に輝いているのを見つけたら、きっと、石を投げつけて、夜空から落としてやりたくなるに決まっている。
だから、星の輝く夜空は大嫌いだった。
けれど今、真に手を繋いで貰って見上げる星々は、とても美しいと思えた。
人の命の数あるだけ、 煌めき、耀き、瞬く星の海。
あの中には、自分のものだけじゃない。
義理兄である戰のものも、椿姫のものも、時や、蔦や、珊、皆の輝きがあるのだ。
そう、真の星の輝きも。
そうして、父親である皇帝・景の輝きは、もう、ない。
真の草笛は、一定の間隔を開けながら、ぴぃー! ぴぃー! と、澄んだ音を宙に向け、奏で続けている。
「……ね、我が君。わ、私ね……、変な子かも……おかしな子かも、しれない……」
「どうしてですか?」
「……悲しく、なんてね、なかった、は、筈なのに、さ……寂しく・なんて、な、なかった筈……な、なのに・ね……」
何かが、じわじわとせり上がってくる感覚が怖くて、薔姫は、ぐ・と息を止めた。
気が付いた真が、一旦、草笛を吹く手を休め、静かに薔姫の真正面に立った。そして、手を広げると、よっ・と掛け声を掛けて、薔姫を抱き上げる。予測不可能だった行為に、薔姫が驚いて固まっていると、真が笑った。
「ちっとも変じゃありませんよ」
「え?」
「姫はね、びっくりし過ぎていただけなんですよ。びっくりし過ぎて、泣き方を、ちょっと忘れてしまっていただけなんです」
ぽんぽん、と真の掌が薔姫の背中をあやすように叩く。
「姫は、悪い子なんかじゃありませんよ。私が一番、良く知っています」
優しく背中を撫でさすりつつ叩かれて、せり上がってきたものは、悲しさと寂しさとそして涙なのだと分かり、薔姫は真の首筋に縋り付いた。
「我儘ばかりで勝手な私を、許してく笑ってくれる、優しい子です。落ち込んでいる私に、いつも美味しいお菓子で元気付けてくれる、明るい子です。昂奮して気分が高ぶっている私に、気が付かない振りをしてくれる、良い子ですよ」
「わ、我が君……」
「良い子がどんなに泣いても、誰も笑いませんよ。安心して、いっぱい泣いて下さい」
くしゃ、と薔姫の顔が歪んだ。
――うわああああああん!
真の首に回した腕に力を込めて、大きな声を上げ、薔姫は泣きに泣く。しゃくり上げ、流れる涙でべっとり濡れた頬を押し付けられても、真は穏やかに笑う。
身体を揺らして薔姫をあやしながら、真は再び青草を唇に当てた。
――ぴぃぃぃーっ!
草笛の音は、夜空を彩る星の煌きを目指し、高く高く、飛んでいった。
★★★
中華平原の一大強国として名を馳せる、禍国皇帝・景が病没した
享年・七十
その治世は実に四十年以上を数え
その間に征服した郡・侯・国家は数知れず
広げた領土は本来の国土を倍するに値した
正に、巨星落つと言わしめるに相応しい皇帝・景の死
同時にそれは、近年勢力が拮抗し、小競り合いを繰り返すのみで小康状態を保っていた中華平原を、再び大乱への世へと押し戻す、禁断の扉の鍵を解き放ったのである
――そして真の戦いは、今、此れより、はじまる――
覇王の走狗 三ノ戦 皇帝崩御 了 ―― 第一部・終 ――
此れにて覇王の走狗、【 三ノ戦 皇帝崩御 】は了となります。
最終一行、【真】を『まこと』と読むのか、それとも『しん』と読むのかで、物語の結びの意味は、がらりと変わってまいります。
判断は、読者の方にお任せしたいと思います。皆様は、どちらの意味で、とらえられたでしょうか?
そして三ノ戦をもって― 第一部・終 ―となります。
第一部を表す言葉として的確なものをあげよと言われば、【 周星編 】とでも表しましょうか?
意味合いとしては、周がかけることなく満ちさせる、交わっている、星は、この話でよく出てくる「宿星」に絡み、イコール人という意味として作者は捉えています。
真風に、簡単に言うと【 人集め編 】ですかね?(⇒なら最初からそう言え!
次章はできれば週末辺りに再開できるようにしていきたいと思っていますが、未だ章題が決まらず・・・
誰だよ!
漢字四文字で、章題進めていこう、カッコいいじゃん! なんて思ったの!
(⇒アンタだアンタ!




