23 合従連衡 その9-3
※ 注意 ※
今回、残酷描写がございます
苦手なお方はブラウザーバックでお願いいたします
23 合従連衡 その9-3
ただ只管に山の奥へ奥へ、と主人を乗せて健気に駆け続けていた愛馬が、不意に身体をよろめかせた。
口からぶくぶくと泡を吹き出した、かと思うと、ひぃ、と衣を裂くような悲鳴を上げる。
続いて、膝を使って太い枯れ木を圧し折ったような、ばきり、という音が響き、ぐらり、と愛馬は身体をよろめかせる。
そして其のまま、どう、と横倒しになった。
うひひひぃ、とまるで赤子の夜泣きのような耳障りな嘶きが、愛馬の喉の奥から発せられた。
「ぬおっ!?」
叫びつつ、弋は愛馬の背を蹴って宙を飛んだ。
そして、手にしていた換えの馬の背に飛び移る。
急に、どすり、と背中に荷を負った馬は弋の興奮が伝播したのだろう、蹄を荒々しく鳴らしている。
手綱を引いてなだめつつ地面に倒れた愛馬を見やると、口から白い泡を吹いて目を血走らせ、びくびくと痙攣を起こしていた。
「脚を折ったか……換えの馬を用意しておいて正解だったな」
ちいっ、と舌打ちをして弋は呟いた。
土の上でのた打ち回る愛馬は、助けを求めて激しく身体をくねらせながら、ひんひんと鳴き続けている。
まるで塩を掛けられた蛞蝓のような醜態を晒す愛馬を弋は冷たく、蔑みを込めた眸で見下ろした。
「備国の馬が、何たる惰弱な。此の程度が限界だとは」
何度手綱を絞っても、新しい馬はガチガチと激しく蹄を鳴らしている。
まるで、自分の行末を見せ付けられた事にたいして不平不満を申し立てて居るようにも見えた。
ふん、と弋は鼻でせせら笑う。
「馬風情が、一丁前に、此の備国王に向かって不満を申しておるのか。畜生如きが生意気な」
弋は構わずに馬の腹に蹴りを入れた。
首を上げて一際高い嘶きを発すると馬は備国目指して走り出す。
――例え僅かな距離でも良い。祭国軍から逃れねばならぬ。
追手の喚声はまだ聞こえて来ないが、ひしひしと気配は感じている。得体の知れぬ圧力が、ずんずんと背中にかぶさろうと迫ってくるのだ。
――うろうろしている暇は無い。
兎も角、一心に逃げるしか手段はない。
山道を抜けた後の事まで考える余裕はなかった。
ただ、馬を走らせる。
王の愛馬と比べるのは酷というものであろうが、家臣から奪った馬は然程良い足を見せなかった。
じりじりと焦れながら、弋は馬を駆けさせ続ける。
ふと、狭い谷間の道の向こうに何かが立っているのに、弋は気が付いた。
人影だ。
まるで黒い染みのように、見えるが、確かに人影だった。
「――あれは」
声に出して呟いた途端、弋はその影が何者であるのかを理解し、そして怒りが一気に沸点を越え、体内を巡っている血液や体液、ありとあらゆる水分が煮え滾るのを感じていた。
「貴様、祭国の!」
腰に帯びていた剣を抜き放つと、弋は吠えながら影目掛けて馬を突撃させた。
「貴様は祭国の愚王めだな、そうだなっ!?」
★★★
「愚王め! よくぞ、我が前に姿を現したな! 褒めてやるぞ!」
弋は影を脳天か真っ二つに割ってやるとばかりに、剣を握り締め腕を大きく振り翳した。
此の間に、目の前に立つ影が完全に人の形となるまでに急速に接近した。
見事な細工が施された甲冑を纏った鼈甲色の髪の色をした其の男は、途轍もない巨躯を誇っていた。
弋も大柄な方であるが、軽く其の上を行く。
恐らく、7寸近い差があるだろう。
肩幅も胸の厚みも、弋など玩具程度にしか映らない。
無言で佇んでいるというのに、此の迫力はどうだ。身に纏う殺気のみで、弋の首を締め上げてくる。
馬が怯えを見せて、ヒィヒィと鳴き始めた。
しかし、弋は無理矢理走らせ続ける。
眼の前の相手は、無言のまま腰にしていた剣に手を伸ばし、抜き放った。
そして刀身を真っ直ぐに目の前に立てると、弋が迫って来るというのに、静かに目蓋を閉じた。
まるで何かに祈りを捧げているかのような仕草に、弋は益々激昂する。
「きっさまぁ!」
丸太のように太い弋の腕が、男の脳天を目掛けて振り下ろされた瞬間、ぼそり、と男が呟いた。
「……愚王、と言ったか、此の、私を……」
ぎら、と男が手にした剣が黒黒とした怪しい光を放った。
と思うや、弋の剣が脳天に到達する直前に、男の腕が翻り、受け止めていた。
きぃん、と鼓膜を突き抜ける高い金属音が谷間に響く。
男が手にしてる剣は、句国兵たちが手にしていた其れと同じ質の品であると、弋は直様理解した。
――つまり、今の私は、奴と同じ剣を手にしている、という事だ。
武器で力負けはせん。
武器で劣っておらぬ以上、一対一の勝負で此の備国王が負けるなど有り得ぬ!
殊更に、弋は意気がって見せた。
目を細めて、若造が一人前を気取り、何を吐かすか! と男に向かって吐き捨てる。
「愚王と呼ばれるのが不服か!?」
「私が愚王ならば、貴様は何だ!? 卑怯王と名乗るか!」
「吐かせっ、小僧!」
硬い音が火花と共に周囲に飛び散った。
相手が技も何もへったくれも無く、ただ力技で此方を叩き伏せに来ている。
怒りに我を忘れて、只の子供のように闇雲に突進しているに過ぎないのだと、其のたった一合の打ち合いで理解した弋は、顔を赤黒くしながら態と相手を激昂させるような言葉を吐いた。
「貴様如き、寝小便垂れの童と変わらぬ奴に、此の私が討たれるものか! 愚王め! 臭国王と共に野犬の腹に収まるがいいぞ!」
ふん、と鼻息荒く弋が力を込めると、めり、もり、と板が軋むような音を立てて腕が一回り大きくなった。
――愚王め!
貴様が力技でくるというのであれば、良いだろう、此方も力で相対してやる!
捻じ伏せてやる! とくと思い知れ!
目を血走らせ、前のめりになりながら、弋はぐいぐいと渾身の力を込める。
しかし受け身に回っている男は、頭に血が上って居るように見えながらも、冷静差を失ってはいなかった。
剣と同じく、ぎらり、と目を輝かせると、ふん、と腹の底に気合を入れる。
と、同時に弋の上体が跳ね飛ばされる。均衡を崩した弋は、慌てて、手綱を握り締めた。
「ぬおおっ!?」
ぎろ、と目玉を剥いて弋は男を睨む。
と、相手は、めらめらと輝く怒りを目の玉に棲まわせておりながら、呼吸は全く乱れて居ない。
「――ぬぅ?」
其処でやっと、弋は相手が言葉で煽るだけではいかぬと理解した。
深く呼吸を入れて冷静さを取り戻さんと務める弋を前に、漢が手綱を握り直した。
「己を信じて従って来た兵馬を見捨てて、一人、国へ帰るというのか、卑怯王よ」
弋は、軽く仰け反った。
男が何を言っているのか、意味がまるで分からなかったからだ。
そしてやっと、意味する処を理解すると、何を戯けた事を、と顎を跳ね上げて大笑いした。
「糞真面目な顔をして何を言うのかと思えば、何処まで尻の青い事を吐かすのか」
澱んだ空気を捏ねるように身を捩って笑い続ける弋を、男は無言で見据えている。
「王が居るからこそ、国は国として成り立つ。王と国は一体、だからこそ王は玉体と称せられるのだ。玉を守りきれぬ者を捨て置くのは当然であろう」
「……」
「此れだけ言っても、分からんのか? だからこそ、王の血統が潰えた句国は滅んだのだと、誰もが認めたのだ」
「…………」
「最も、他国に容易く尻振って靡くような男が王となるような程度の民度の低い国柄では、戦の勝敗に限らず、何れ滅ぶが定められた行末であったろう」
「……貴様……」
「貴様は臭国王と誼を通じ合っておったらしいが……成程な、甘ったれた尻の青い夢想家と御追従が上滑りしておるおべっか遣いが手を組んでおったのか、其れはなかなかに面白い絵面だな。見てみたかったぞ」
「……許さん……」
「何だ? おい、愚王、何と行った?」
低く、そして力の篭った声音で、男が呻いた。
「貴様のその戯言! 天帝が目溢ししようとも、祭国郡王である此の戰が断じて許さん!」
男――戰が怒号を発すると、背後の空気まで竜巻と為ったかのように、轟々と音をたてて震えた。
合わせるように、戰がまたがっている巨大な黒馬が、がふっ、ごふっ、と荒い息を吐き出す。
途端に、弋が乗っている馬が、ひぎっ! と悲鳴のような嘶を発した。
黒馬の気に怯えて忙しなく脚を動かし、ガッガッ、と土を削る。
黒馬の荒い息に漲っている殺気に完全に飲み込
まれていた。
弋は舌打ちしつつ馬を静めようとするが、全く上手く行かない。
黒馬の方はと言えば、自分が弋の馬よりも上位に在ると悟っているのだろう、益々これ見よがしに、ギロギロと目玉を光らせて睨んで来る。
黒馬の気に、とうとう耐えられなくなったのか、弋の馬が棒立ちになって背中の上の騎手を振り落としに掛かった。
「ぬおぅっ!」
叫びつつ、弋は自ら飛び降りた。
無理に手綱を引き締めた処で、此の先も馬は暴れ回るばかりで言う事を聞くとは思えなかった。
其れ位ならば、いっその事、飛び降りた方が此方に被害が及ばない。
――こうなれば、奴の馬を奪ってやるまでよ!
★★★
膝を着きながら地面に降りた弋は、上目遣いをしながら戰が跨る黒馬を見上げた。
剥き出しになった歯はまるで鋸のようにギラギラと輝き、鬣は雷雲のように黒々と逆巻き、筋肉の張りは最大限にまで引き絞った弓の弦のような緊張感を発している。
此程までの見事な、惚れ惚れと魅入らずにはいられぬ体躯を誇る駿馬を、弋は知らない。
同時に、砂漠を駆ける騎馬の民を自認する自国に、此の黒馬のような軍馬を産せなかった悔しさに唇の端を硬く噛まずにはいられなかった。
――奪ってやる。
そうとも、奴から奪ってやる。
甘い汁に浸った平原の奴から、何もかも、全てを奪って我らの物にしてやる。
肩を怒らせる弋の横を、馬は駆けて行く。
黒馬の殺気から、喩え一寸でも良いから遠くに離れたくて仕方が無いのだろう。
舞うように、ひらり、と戰が黒馬から降りる。そして、横腹を軽く叩いて命じた。
「行け、千段!」
高い嘶きを発すると、黒馬は逃げて行く馬を追って勢い良く駆け出した。
まるで、黒い稲光のような鋭い脚力を見せ付けて、黒馬は瞬く間に弋の馬に並ぶ。
黒馬は並走する馬に向けて、ぐわ! と目を見開くと、身を捩り、後ろ脚を使って立ち上がった。
宙を目指してもくもくと上がる雷雲のようなその勇ましい姿に、弋の馬は立ち竦む。
完全に動きを封じられた馬の首の付根目掛けて、黒馬の前脚が斧のように振り下ろされた。
ごきゃ、と不気味な音が血飛沫と共に四方に広がった。
どう、と倒れた馬は、断末魔の悲鳴を上げる代わりに、ぴく……ぴくり、びく……びくり……、と小刻みに痙攣をしている。
黒馬は容赦無く再び前脚を振り上げると今度は馬の脳天目掛けて打ち下ろした。
ぐしゃり、と馬の頭が砕け、目玉が長い尾のようなものを引き摺りながら飛び出て、何回か地面の上で跳ねた後、べちょ、と自重で潰れて静まった。
己の戦果に満足したか、黒馬は一~二度、大きく身震いすると首を擡げて大きな嘶きを発した。
「ふん、勝利の雄叫び、といった処か」
弋は眸を眇めたまま、ふん……、と笑った。
精一杯の虚勢だった。
まさか、黒馬があのような力を見せるとは思ってもみなかった。
――何だ、あれは!? あれが、馬か!?
あれではまるで、冥府の戦鬼ではないか!?
己の力を最大限に活かして戦う事を、あの黒馬は経験から学習しているのだろう。
尚且つ、其れを最も有効に行使する術をも知っている。
――なまじの、其処らの兵士などよりも余程胆力がある。
じっとりと嫌な汗が流れ、背中が濡れてくるのを感じた弋は、一~二度激しく頭を振ると大きく息を吸い込んで呼吸を整えた。
そんな弋を前にして、戰は冷静さを失わず、ぎらりと剣の切先を燦かせながら構え直す。
「卑怯王、此れで貴様の逃れる道は全て絶たれたぞ」
戰の言い方が如何にも癪に障ったのだろう、弋は肩を竦めた後、べっ、と勢い良く唾を吐き捨てた。
「吐かせ、愚王如きが一端に。此の程度で私を追い詰めたと思っているのであれば、実に目出度い頭の持ち主だな、貴様は」
「……」
「此の場を離れるなぞ、造作無い。愚王よ、貴様を討ち取り、其の黒馬を奪えば良い」
「貴様如きに、千段は手綱を取る事を許しはせん」
「ほ~お?」
くつくつと喉を鳴らして肩を戦慄かせたかと思うと、弋は背を仰け反らせて呵々と嘲笑った。
「良くぞ言ったものだ。ようし、試してやろう――貴様の其の大言壮語が真かどうかを、な」
ぬら、と黒目を濡らし、全身から殺気を漲らせながら弋は剣を構える。
戰も、剣の柄を握る腕に、ぐ、と力を込めた。
「行くぞぉ!」
弋は、地面を蹴って戰に向かって突進した。
★★★
大きく腕を振り上げた弋は、戰の肩口を目掛けて剣を打ち下ろした。
ぎゅうん、と空を切る音が戰の頬を撫でて行く。
しかし、大柄な身体に似合わず戰はひらり、と身軽に弋の剣を躱した。
姿勢を低くし、ぐんっ、と身体を回転させると、其のまま、まるで舞踏を踏むかのようのな軽やかな身のこなしで戰は弋の脚を払いに掛かる。
「ぬっ!?」
剣による反撃をしてくるものである、と身構えていた弋は、よもや戰が足払いを仕掛けて来るとは思っても居なかった。
しかし、慌てる事無くきっちり半歩分の余裕を持たせて背後に飛び退る。
だが戰は、弋が着地すると同時に、腹を真っ二つにせんとばかりに剣を横薙ぎに払った。
「うぬっ!」
再び弋は叫び、今度は冷や汗と共にぎりぎりで戰の剣の先から逃れる。
よろり、と上体がぐらついた。
身体の均衡を崩してしまった弋だったが、戰が嵩に懸かってとどめを刺しに来るのを待った。
相手の息の根を止めんとする瞬間は、人間が最も油断する一瞬である事が多い。
――愚王め、油断大敵という言葉を身を以て知るがいい!
にや、と北叟笑む弋の目の前に、だが戰は、ぐぐん! と一気に迫って来た。
想像の範疇を大きく越える速度に、弋は目を見開いた。
「うおっ!?」
叫びつつ、弋は闇雲に剣を振った。
間合いを詰めさせては確実に生命を取られる、と察知した本能がそうさせていた。
しかし、体勢を整える前に剣を振っても、所詮は腰の入っていない、力のない刃に過ぎない。
狙いも何もない動きを躱すなど、戰には苦にもならない。
ひらり、ひらり、と風に乗って踊る雪のような身のこなしで切先から逃れ続ける。
「えぇい、猪口才な!」
野獣の如きに吠えるや、弋は無理矢理両足を広げて踏ん張った。
狙いも定めずにいては駄目だ、と悟った弋は気合で腰を据えると、ふん、と気合を入れて戰に一撃を繰り出す。
「うおうっ!」
だが、腹に力を込めた必中を狙った剣の先からも、戰は巨躯を巧みに動かして回避してしまう。
――いかんっ!
渾身の一撃をさらりと躱された弋は、何時の間にか自分の息遣いが大きく乱れている事に気が付いた。
気が付くと、どっと疲れが全身を襲った。
分厚い雲のような疲労感が全身を隈無く覆い、根刮ぎ力が奪われていく。
だが、眼前に立つ戰は、実に涼しい顔付きをしているではないか。
呼吸も乱れておらず、汗も掻いていない。
まるで城の中にある中庭を散策しているかのように、戦いの最中であるという必死さがない。
だというのに、眼光に漲る殺気は、轟々と爆音を音を立てて天に迫る砂嵐のような凄まじさがある。
弋は生まれて初めて、心底から震え上がり、知らぬ間に身震いをしていた。
――……恐ろしい……!
恐怖――そう、其れは弋が初めて知った恐怖だった。
★★★
圧倒的な力を持つものが発する気に飲み込まれる恐怖。
己程度では毛筋ほども反撃もならぬと悟らされた恐怖。
何を以てしても自分では一切太刀打ち出来ぬと明白な実力差を見せ付けられた恐怖。
王という立場無くし漢として向き合った時、実に些末な身であると心身に刻み込まれた恐怖。
其れらは弋の身体から自由を奪い、硬直させた。
狼の腹に収まる定めであると悟った仔兎のように慄き、がちがちと歯の根が合わぬ音を漂わせる恥すら、今の弋にはどうでも良い事だった。
――いかぬ!
だが、だらり、と腕から力が抜けて膝を屈し掛ける瞬間、弋はぐわ! と目を見開いた。
がり、と強く歯を噛み締めると、奥歯がばきりと砕けるのを感じが、しかし弋は痛みを受け入れた。
――愚王如きに飲み込まれて堪るか!
「喰らえぇいっ!」
おおおっ! と雄叫びを上げて弋は再び戰に向かって剣を振るう。
が、心身を、否、魂を縛り上げる程の恐怖は、自分で思っている程、容易く払えるものでは無かった。
腕には力も篭もらず、剣には勢いが無い。絶対的な、埋め切らぬ力量差を自認しておりながら其れでも尚、立ち向かう勇気は賞賛に値するであろうが、短慮で片付けられるような無謀な行いでしかなかった。
仁王立ちをして弋の突撃を待ち構えていた戰の眸が、ぎょろり、と動く。
次の瞬間、ぐん! と戰の腕が回転した。
黒い剣は、まるで竜巻のような旋回を見せる。
「うおおっ!?」
再び弋の身体を恐怖が戦慄となって突き抜ける。
――キンッ! と硬い音が手元で上がると同時に、弋は手元に灼熱感を感じ取った。
「ぐうあっ!」
火の粉を浴びたかのような、チリチリとした痛みと熱さの正体は手から剣が奪われた証拠だった。
「おのれ!」
弋の手元を離れた剣は、大きく弧を描いて宙を舞い、どすり、と地面に落下した。
飛び付いて取り戻そうとした弋だったが、其れは成し得なかった。
「うぐぁっ!?」
何故、自分が悲鳴を上げているのか、弋には理解出来なかった。
先程、灼熱感を感じた指先から、今度は火箸を押し付けられたかのような猛烈な痛みが脳天まで突っ走っている。
ぶるぶると震えながら指先を確かめると、指の第二関節辺りから全ての指が切り落とされているではないか。
「ぎゃあああっ!」
次に、ごき、ごきゃ、と左右の肩が鳴った途端に猛烈な痛みが指をなくした掌まで抜けていく。
剣が肩に喰い込んだのは感じたが、其れは肉を切る為ではなく骨を断つ為に振り下ろされたものだった。
ぐら、と蹌踉めいた弋は、今度は背中に灼熱感を感じた。
「ごふぅっ!?」
腹から息を吐き出さずには居られなかった。
剣の柄を使って、腰を打たれ骨が砕かれたのだ。
前のめりになって地面に崩れ落ちる。手を使って支えようにも、肩の骨を断たれ指も失くしてしまっている今の身体では、どうしようもない。
顔面を強打しつつ倒れるに任せるしかなかった。
「ぐぎゃ!」
今度は、脛と足首に痛みが走った。
剣を鉈のように振り下ろされ、脚の筋と腱を断たれた。
こうなるともう、体を持ち上げられない。
地面を這いずる芋虫のように、弋は地面をのた打ち回るしかなかった。
「う、ぐぐ、ぎぎぎっ……!」
必死で首を擡げると、ざ、と脚元の落ち葉を踏み締めながら立つ戰の影に入っているのだと気が付いた。
弋の全身から血の気が引いていく。無言で見下ろす戰は、ぴたり、と剣を弋の頬に添えた。
剣は戰の冷たい殺意其のものだ、と感じ取った弋の顔面が蒼白になる。
「ぎっ、ぎぎぎっ……ふぐっ、ぎるるっ……」
――何かを言わねば。
だが何を?
猛烈な痛みに全身を支配された弋の喉は、唸り声しか搾り出せない。
――死ぬのか!?
私は、こんな糞虫のような姿を晒して死ぬのか!?
暫くの間、戰は弋の醜態を無言で見下ろしていた。が、不意に視線を逸らせたかと思うと、千段! と声を上げて黒馬を呼んだ。
鋭い嘶きを発した巨体を誇る黒馬は、蹄の音を響かせながら主人である戰の元に駆け寄った。首を下げて頬擦りするような仕草をみせた黒馬の首筋を、戰は軽く叩いてやる。
そして、じろり、と弋に一瞥を呉れると戰はひらりと黒馬に跨った。
「ぐ、ぐぎ、ぎう、うぐぐっ……!」
何処へ行く! 私をどうするつもりだ! と怒鳴ったつもりが、激痛と恐怖で唇と舌が強張り言葉が出ない。
やっと、戰が視線を変えた。
其れまでの底無しの殺意が消え、憐れむような色合いの物になる。
其れで弋は全て理解した。
郡王・戰は、此の地に自分を捨て置くつもりなのだ。
「卑怯王よ、運が良ければ、生き延びるだろう」
「ぎぎぎっ! ぐ、うぐ! ぐぎぎっ!」
今度は、また別の恐怖が伸し掛かって来た。
こんな処に放り出されたのでは、山に棲む獣たちの餌になれと言っているようなものだ。
しかも今年は餌となる実りが少なく、獣たちは腹を空かせて気が立って凶暴化している。
容赦無く、自分を喰い殺すだろう。
獣に喰われずとも、また日が暮れて谷間に冷気が落ちて来れば、体力を失った自分は、確実に衰弱死する。
――し、死ねぬ!
し、死ねるか!
こんな処で襤褸屑のように死ぬものか!
必死になって見をくねらせ、弋は自分を連れて行くように主張した。
何れ何処かで処刑されるのであろうが、其れにしても、生きながらにして獣の腹に収まるよりはましだった。
「……た、たすけっ……!」
やっと、声が絞り出される。
しかし戰は、馬上から目を細めて見下ろすばかりで、まるで聞こえていないかのように表情を変えない。
「兵を裏切り、民を見捨て、王都に残して来た者を無いものとして扱った王が最後など、私は見届ける価値を感じぬ」
冷たく言い放つと、戰は黒馬の手綱を軽く打つようにする。
高々と、勝ち誇るように嘶きを発した黒馬は、素晴らしい脚力を見せて句国方面へと走り去って行く。
其の背中に追いつけぬ、弋の悲痛な命乞いの呻き声が谷間に漂っていた。




