23 合従連衡 その9-2
23 合従連衡 その9-2
左右から備国軍を挟み撃ちにした祭国軍は、其のまま前方を塞ぐ陣形と取って兵馬の行く手を阻んだ。
一糸乱れぬ祭国軍の統制の取れた人馬の動きは、宛ら、脈動する一枚の絵の如き完成された美が在った。そして魅入らずにはいられない其の美しさは、祭国軍の天井知らずの戦意とも一体だった。
谷間を埋め尽くす祭国軍の、岩をも揺るがす気迫に備国軍側の軍馬は尽く慄いた。
悲鳴を上げて、前脚立ちになる馬が続出する。
下手をすると身体を捩って主人を振りとして山中に逃げ込む馬もあった。幾ら馬が殺気に敏い臆病な動物だと言えども、鍛えられている筈の軍馬にあるまじき行動だ。
だが馬を惰弱にも逃げに走らせたのは、偏に人間側の、つまり鍛錬を怠った備国兵たちの落ち度だ。彼らの小胆さの現れでしかない。
備国軍は取り乱して暴れ回る馬の制御どころか、兵士たちの統制すら出来ないような為体だった。
馬に逃げられ身動きが取れなくなった備国兵たちは、徐々に後方へと押され始めた。
一旦、脚が後退りをすると、後は早い。
備国兵は、わあ! という悲鳴を上げると、一気にもと来た道を辿って三三五五に逃げ出した。釣り込まれて、興奮のままに備国兵の背中を追う仲間に、杢の叱責が飛ぶ。
「待て! 奴らを深く追う必要はない! 眼の前に居る敵を確実に仕留める事にのみ集中せよ!」
足並みを揃えとよ強調する杢の命令を聞いていた克が、おうりゃ! と威勢の良い掛け声と共に梢子棍を振るい、杢に飛び掛かろうとしていた備国兵の頭部を一撃で砕いた。
そして克の背後で、同じ武器を振り回していた竹に向かって怒鳴る。
「いいか! 此の場から逃走した奴らの逃げ道は閉ざされているんだ! 追おうとするんじゃない! 隊を乱すんじゃねえぞ!」
「分かってますって!」
答えざま、竹も備国兵の一人を屠った。
数の上でも3倍以上と圧倒しており、而も士気も戦の流れも此方に分がある。
確実に勝利を掴める戦であり、そして克と杢が率いる祭国軍は、驕りや油断などとは無縁だった。
眼前の敵を、歯向かう実に倒す事にのみ集中する祭国軍を前位にして、備国兵たちは付け入る隙を見出す間も与えられぬまま、阿鼻叫喚地獄に叩き落とされていた。
淡々と、だが着実に、祭国軍は生命を刈り取りに来る。
文字通り、這う這うの態で逃げ出した備国兵たちは追手の影が無い事を幾度も確認しなければ安心出来なかった。
追手の影は無いのだとやっと納得出来た時、備国兵たちは腰砕けになり其の場にへなへなと座り込んだ。
ぜいぜいと喉を鳴らしつつ、自分たちは逃げ延びたのだ、生命を掬ったのだ、と互いに喜びに浸っていた備国兵たちの耳朶を、ふと、何かが撫でて通り過ぎた。
「……うぅっ……」
「おい……泣くな、泣くなよ、おい……」
顔を見合わせた後、皆殆ど同時に口元を抑えて、迫り上がって来る嘔吐のように迫り上がって来る嗚咽を必死に堪える。
耳に届いたのは、谺となって谷間を抜けてくる自国の兵馬の、見捨てた仲間たちの断末魔の悲鳴だったのだ。
悲鳴は、まるで隙間風が鳴いているかのようにも聞こえる。だが、細々と聞こえてくるあの谺が途切れた先には、仲間が血反吐を吐いて地面に転がっているのだ。
鬼籍に入った仲間の顔や姿を想像して顰め、両手で耳を塞いでも、隙間風のような泣き声は、指を擦り抜けて心の臓に牙と爪を立てて切り裂いていく。
「な、なあ……こ、此れで……此れで、いいんだ、よ……なあ?」
誰かが、ぼそり、と口にする。
確かめねば、誰かにそうだ、と肯定して貰わねば、不安で不安で生きた心地がしないのだ。
何しろ、本来ならば兵を纏め上げ士気を高めて守らねばならぬ立場の国王・弋が、或ろうことか、戦場となったあの場から唯一人にて遁走してしまった。
指揮をとるべき将兵が不在だったのだ。
すべての判断を己がせねばならなかったのだ。
ならば、生き延びる事を最優先事項としても誰にも責められまい――
しかし命令も無しに遁走した彼らは傍から見れば、祭国軍に恐れをなして背中を向けた臆病者であり、仲間を見捨てた只の裏切り者であり、武人にあるまじき敗走をしでかした卑怯者でしか無い。
「此れで……此れでいいんだ……此れで……助かるんだ……」
何度も何度も頷きながら、零す。
萎れていた彼らだったが、やがてゆっくりと立ち上がると、軍を編成し直し始めた。
先ずは、王都に戻らねばならない。
もう国王・弋には頼れない。
国王が不在であろうが、いやかえって好都合とばかりに祭国軍と禍国軍は王都を目指すに違いない。
そうなれば王城に残された兵は、本国から国王・弋が援軍を率いて戻ってくる事を一縷の望みとして籠城戦を行うしかない。
自分たちはもう、谷間を抜けて毛烏素砂漠へ抜けられない。
ならば、王都に逃げ込むしかない。
城門が締め切られる前に辿り着かねば折角拾った生命なのだ、こんな処で消える訳にはいかない。
「王都へ戻るぞ」
「そうだ、死んでたまるか」
兵士たちは励ましの言葉を掛けながら、肩を貸しあい立ち上がる。
「どうする? 此の谷間を戻るのは些か危険ではないか?」
戻る気はさらさら無いが、下手をすると、仲間を全て討った祭国軍が背後から再び追い立てて来ないとも限らない。
押しに押されてもと来た道を逆走させられ河口にまで押し戻されてしまえば、此方の死は確実なものとなってしまう。
「うむ、確かに」
「……ぬう……では、山中を越えて行くしかないか……」
「そうだな……仕方ない……」
喩えどんなに鍛えられた騎馬が相手であろうとも、山中に逃げ込めば彼らをまく事が出来るかも知れない。
備国兵たちは、最後の賭けに出た。
無言のまま、軍律も何もなくし備国兵は山中に分け入ると闇雲に王都の方角を目指し始めた。
ぞろぞろと、ただ只管に歩く備国兵の姿は、まるで襤褸布が風に引き摺られているようにも見え、哀れを誘うものだった。
★★★
落ち葉に足を取られながら、備国兵たちは王都を目指して黙々と歩いていた。
王都周辺では、艶やかに染まった落ち葉は、乾いた音を奏でて風に舞って目を楽しませて呉れたものだった。
何しろ、砂漠では広い葉も色が変わる木々も少ない。
備国の領内でも山脈寄りの地域は別だが、紅葉を愛でるのは王族など一部の高貴な身分な者に与えられた特権だった。
其れが平原では、どうだ。
奴婢ですら、当然のように紅葉を目に出来る。今年は冷夏で紅葉がまともでない、と句国の民が嘆く横で、備国兵たちは此れが平原の四季か、と勝利と共に味わい酔ったものだ。
だが今、目を楽しませ浮かれさせた其の紅葉が、彼らを苦しめ続ける。
此の山の中の葉は何処までも湿って重い。
そしてやはり、ぬるぬると滑り、体勢を崩しに掛かる。
一度転べば置いてけぼりを喰らう、置いていかれれば祭国軍に追いつかれずとも獣どもの歯牙に掛かるだろう。
其れでなくとも、例年ならば獣たちの腹を満たしてくれる椎の実や栗、茸の類が天候の影響で今年は異常に少なく、此れ等を常食にしている小動物が飢えにより軒並み姿を消した。
租庸として、収穫を根刮ぎ奪われた句国の民らがこっそりと山に入り、飢餓から逃れる為に狩りを行った影響も大きかった。
そして彼ら小動物を喰らっている獣たちは、常に腹を空かしている状態となっていた。
弱りきった人間など、旨そうな餌が転がって居る、程度にしか認識されないだろう。
王都までの距離は、徒歩ではかなり厳しいものがある。
体力を温存していかねば確実に倒れてしまうし、一番近い邑に立ち寄り食料を調達するにしても、今の軍勢で其処まで無事に辿り着くかどうか、怪しいものだ。
行き倒れを極力避ける為に、少しずつ休憩を取るべきであると言うのに、こうした恐怖心から備国兵は休み無くあるき続けた。
すると直ぐに、無理が効かず歩き続けらぬ脱落者が出始めた。
足を滑らせたまま斜面を転がり、立ち木に激突する者が現れたのだ。
空きっ腹は疾うの昔に限界を超えているのだから、間を置かず動きが鈍くなるのは当然だった。
そして僅かに気力と体力が勝っている者にも、痛みに悶絶している仲間に構う余裕はない。
まるで葬列のように連なる備国兵たちの脚が止まった。
力尽きた兵士たちを気に病んだのではなく、地鳴りが届いたからだ。
「ま、まさか……」
誰かが、ごくっ、と喉を鳴らして呟いた。
既に唾を飲み込めるだけの水分は体内に残されておらず、乾いた音が響く。
と、同時に、山中が大きく揺れた。
鬨の声が上がったのだ。騎馬が滾滾と流れる濁流のように押し寄せて来る。
掲げられた軍旗が、彼らが句国の兵だと知らしめている。
彼らの先頭に立ち、雄々しく舞っているのは、句国王・玖の大軍旗と大将軍・姜の軍旗だ。
「うおおっ!?」
「うわあぁ!?」
「ぎゃああっ!」
「うぎゃあ!!」
恐怖に引き攣った悲鳴が備国兵から上がる。
刻み込まれた深い皺が、青くなった顔面をより一層悲痛なものとしていた。
「行くぞ! 陛下の御無念、今こそ晴らす刻なり!」
怒号を発して、姜は狭い木々の間を事も無げに走り抜け、ぐん、と一気に備国兵に迫る。
黒々とした剣は空に向けて翳され、ぎらり、と切先が妖しく瞬いた。冥府へ誘う悪鬼の目玉を思わせる、危険極まり無い光だ。
「一兵も残すな! 虜を取ろうなどと思わず、討て! 討て!」
「姜将軍に続けぇ! 陛下の御無念を晴らすぞぉ!」
山間に、もう一つ、阿鼻叫喚地獄が発生した。
逃走してきた備国兵を討ち取るのに、さしたる時間は掛からなかった。
戦意が喪失したという単純な理由だが、其処に加えた自分たちが仲間を見捨てて逃げてきた立場である以上、援軍は望めないという事実もまた大きかった。
句国兵たちに討たれ順番が多少早くなるかどうか、今はもう、其の程度の違いしか無かったのだ。
此れまで散々に痛めつけてきた句国兵が追手であるというのも、備国兵たちに打撃を与えた。
たった2千騎余りであるが、報復される立場に回った備国兵たちの恐怖心を煽るには充分過ぎた。
霧の湿度により湿っていた落ち葉は、備国兵たちが流す血を吸い上げて一気に臭気を帯びて行く。
姜を中心にして、澱んだ空気が山を埋め尽くす。
「どうだ? 逃した兵はおらんな?」
姜が腕を振るうと、びゅぅ、と剣が音をたてた。
こびり着いていた血糊は、地面倒れ伏している備国兵の上にぼたぼたと降り注ぐ。
「はい、姜将軍。備国兵は一兵も逃さしておりません」
頬を紅潮させた兵の答えに、うむ、と優は満足して頷くと剣を鞘に戻した。
てぃん、と金属が触れ合う音が姜の手元で小さく谺する。
「よし! 此れより先に馬を進めつつ、祭国軍と合流する!」
「おう!」
「討つ! 陛下の御無念を晴らす為、備国王・弋を我らが討つのだ!」
姜の命令に、待っていた、とばかりに句国兵たちは歓喜の声で答えた。
★★★
先ずは盆地にて備国王・弋の撤退についていけなかった兵士たち、そして河で相討ちを演じた兵士たちを、蚤を潰す時のように探し出して倒して行く掃討戦は、正直な処、気分の良いものではなかった。
殆ど戦意を喪失している兵が相手だ、虐殺の一歩手前と言えるだろう。
だがしかし、備国王・弋を戰に討ち取らせ、常勝の皇子としての名を禍国本土に知らしめる為には、誰かが割りを喰う汚れ役を背負わねばならない。
だとすれば此処は最年長者であり、兵部尚書にして宰相である優が担うべきだろう。
優はもう功名を挙げており、勇名を知らぬ者は居ない。
此の先の戰の治世を思えば、生え抜きの将軍として育ちつつある克と杢とに名誉ある、そして誰も目にも清々しい功績は譲るべきであるし、何よりも、本国の大保・受からの要らぬ差し出口を挟ませぬようにする為、そして彼を利用する為には仕方が無い。
「――と、当然、父上は御理解して下さっているものと思っております」
優にのみ密かに手渡された書簡の最後には、そう結ばれていた。
「えぇい! 分かっておるわ糞戯けが! 此の私を誰だと思っておるか! 相も変わらずしたり顔で、いちいち癇に障る言い方をしおって、此の大馬鹿息子めが!」
読み終わったら速やかに木簡を燃やして処分し、戰の目に触れぬように、と諄い程念押しされていたが、火に焼べるまでもなかった。
優は怒鳴り声を上げると同時に、木簡を地面に叩き付けて木端微塵にしてしまったのだ。然し乍ら優は、真の策の正しさを最も認めてもいた。
――確かに。
備国王の首級を上げるのは当然ではあるが、大保の奴を牽制する意味でも備国兵をより多く討たねばならん。
追撃戦よりも掃討戦の方が作業的に地味で地道な戦だが、多くの兵を倒した事実は、禍国本土でのらくらと怠惰な生活に溺れている皇帝・建に衝撃を与えられよう。
禍国には戰と優以外に、事態を収める力量を持っている人物は居ない。
面倒事を何とかしろ、と押し付けるには二人をおいて居ないのであるが、事が収まった後の事にまで想像の翼をひろげられない――皇帝・建という男だった。
「大保様は、戰様と父上が全ての戦に勝利した事実を利用して、皇帝陛下の御心に揺さぶりを掛ける――いえ、毒を仕込むお積もりです」
連戦連勝の此の戦果は、郡王・戰が指揮し兵を率いたからこそ成し得たもの。
だからこそ、此れだけの力量を持つ者が何時までも他のどんな皇子よりも格下の郡王の地位に甘んじているとは思えぬ、と大保・受は忠義面して皇帝・建の耳に注ぎ込むだろう。
――念押しされずとも、分かっておるわ、阿呆めが。
大保の奴には喰えぬ男だが、勢力と実力を見抜く目もある。
だからこそ3年前、真と戰を切り離そうとしたのだ。
真のような甘い策しか奏上出来ぬ男が身内では、何処まで行っても戰は皇帝の座を得られない。
何故なら真は、喩え其れが結果的に戰の為になろうとも、時に非道、無情、冷酷の氷の人物となるように仕向けられないからだ。
残虐で悪辣で下衆で下劣な男だ後ろ指を指されて上等、流石とおだてられているばかりでいい気になっているような男が目付けとして策を弄しているのであっては、目指す場所にも望む未来にも永劫に届かぬのだという思いを、大保・受は信念としている。
そして其れはある意味正しく、大保・受は眉一つ動かさずに実行に移すだろう。
「……あの男は、そういう男だ」
大保・受が、いよいよ皇帝を踊らせようと仕掛けを始める。
戰が堂々と、皇帝の座を己のものと出来るように。
しかし、兵部尚書如きの地位しかない優には、戰を持ち上げるには役不足だ。
優ですら無理なのだから、祭国の民として戰に仕えている杢や克たちには、益々もって其れだけの力を有する地位がない。
戰を皇帝にと望んでいる人物の中で、唯一、出来得る力を有しているのは大保だけだ。
そして受は、真が躊躇逡巡なく彼を利用して禍国皇帝の座を受禅させるべく暗躍すると期待を込めて待ち構えている。
「大保様は、禍国の最後の幕引きを行うのは御自身の死を以てである、と覚悟なされて居られますから。ですが、大保様のお望みなど、知った事ではありません。戰様の為に、そう安々と安穏な日々を送られて貰っては困ります」
大保様のように、戰様の御為とあらば喜んで泥水も啜るような御方は実に貴重なのです。
禍国を潰した、やれやれ此れで御役目御免、とばかりに喜々として楽隠居などされては困るのです。
「実際、戰様の御代となればその先に見えてくるのは、毛烏素砂漠を手中に収めつつある、蒙国皇帝・雷との戦です。此れは避けられません。楼国を此の地上から完全に消し去った蒙国皇帝と戦となった時、大保様のような常人離れした稀な思考法をお持ちの方は傍に居て頂かねば、勿体無いですよ」
――其れに、大保様の野心を叶える為に右往左往させられっぱなしでは余りにも業腹です。
私は、大保には、きっちり役に立って頂く積もりですから、父上も其のお積もりで。
真の書簡には、そう記されていた。
戰を皇帝として即位させる為に、散々っぱら真や優を痛めつけて利用する気満々の受は、最後に自らを混乱を収束させる生贄としてし――
そう、禍国の逆臣として中央から去ろうとしている。
其の受を甘い夢想家として詰めより、皇帝に即位させるだけさせて後は知らん振りとは無責任だろう、と受を此の先も無理矢理働かせる算段を真は密かに練っている。
而も、真も受も、互いがそう出るだろう、とある程度予測しており、自分は躱せ相手の一枚上をいく気で何か腹の奥底で策を練っている。
何方も何方と言おうか、此の勝負の行き先が、優には全く見えてこない。
克ではないが、剣を手にして戦場で奮っていた方がまだ気楽だ、優は最近思えてきてならない。
其れなりの政治力を行使しなければ、平民が兵部尚書にまで出世など出来ないのだから、優もそこそこ、己の手腕に自信を持っていた。
だが、息子と大保の前では霞んで比較にならない処か、先ず持って同じ土俵に立とうという気力が湧いて来ない。
負けを認めているからではない。
二人の頭脳戦が余りにも突拍子も無さ過ぎ、感心するよりも呆れてしまって、だ。
「……面倒臭い頭と性格を持った奴らだ、全く……」
陛下の御役に立つから許してやっているが、そうでなければ鉄拳の1つや2つ、喰らわせてやる処だ。
剣を構え直しながら、前髪をぼさぼさにした息子と、そして常に目を細めたしたり顔で一切表情を変えぬ大保の姿を交互に思い浮かべた優は、ぼそり、と呟いた。
 




