23 合従連衡 その8-3
合従連衡 その8-3
――此のままでは、私の生命が危うい。
顳かみから顎先まで、汗が止め処なく流れ落ちていく。こんな事は初めてだった。
自軍が同士討ちにより、まるで荒野で朽ちた木々が風に崩壊して行く様ように倒れて行くのを見せ付けられた弋は、直様、崑山脈を越える決意を固めた。
憤慨し、歯軋りし、呪詛の言葉を発し、戰を貶め唾を飛ばして痛罵する暇すらも惜しかった。
――一刻も早く、此の場から離れねばならない!
「まともな奴らだけを集めよ。至急だ。頭がまともに回っておるのなら、歩兵だろうが身分が低かろうが構わん。兎に角、私を守護できるだけの最低限の人数を集めよ」
「へ、陛下……」
命を受けた家臣の視線も、既に定まらず左右のぶれを見せていたり、或いはどろり、と虚ろになっている。
――いかん。
益々、弋は焦り共に粘っこい汗を額に感じた。
兵士たちがこういう眸の色をし始めるのが発狂する予兆だと、既に弋も分かって来ている。
――然程時を置かず、此の男も発狂し始める。
山腹に向かわせた別動隊だけではなく、本隊に属していた兵士であろうとも狂い掛けている。
自分もそうならないとは断言出来ない以上、一刻も早く此の場を離脱せねばならない。
――狂って堪るか!
自分はこんな処で終わるような漢ではない!
平原に覇を唱え、平定し、そして烏素砂漠をも我が物とする!
其れだけの大業を成せる人物は、私を置いて他には居ない!
平原の覇者は此の私以外が唱えるのを許さん!
認めるものか、誰が認めるものか、畜生め!
煮え繰り返る腸を必死で押さえ込みながら、弋は命じる。
「気取られてもならぬ。本隊から私の撤退に付いてこられた兵のうち、負傷兵以外を集めよ、急げ」
「は……しかし、その、負傷兵は兎も角として……山腹の城へ向かった兵と、城に残った兵は如何にすれば……」
「よい、見捨てろ。奴らはもう、人間ではない、畜生だ。数よりも速度だ」
「……はい、陛下」
密命を受けた家臣が、役目を担えそうな兵士を集めに一旦下がっていった。
混乱の最中、弋はまだ続く同士討ちを睨んだ。
一度狂えば、人外の畜生道に堕ちたも同然、言葉は全く通じなくなる。
という事はつまり、郡王の追撃兵からどれだけ痛め付けられようが、恐怖心からの遅れなど見せず、且つ、死ぬまで死ぬまで剣を振るい続ける、という事だ。
――生きながらにして死んでいる、屍人の盾だ。
死の恐怖も痛みも知らない兵士ならば、祭国郡王からの猛追撃を受けたとしても毛筋が揺れた程度にしか思うまい。
感情すら失くした人間など、生きて故郷に帰ったとしても持て余すだけであり、食扶持を減らすだけの厄介者にしかならない。
弋は即断した。
――共に逃げて来た本隊の兵士たちの内、重傷を負った者は見限る。
砂漠に生きている民は不具に成り下がった者には、とことん冷たい。
食い扶持を減らすだけの無能者を養う余裕など何処にもないからであり、とことん蔑視の対象となる。
彼らの末路は、野末に捨て置き狼の餌にして始末するか。
良くて生贄として殺すまでの間だけ生かしておくか。
其の程度の違いしか無いのである。
此度も、負傷兵たちは同様だ、と弋は考えていた。
――味方に腕を斬られ脚を折られて、さぞや悔しかろう。
だが、生きた処で生き恥を晒すのみ。どうせ家族や郎党どもに、無残に殺されるしか貴様たちの未来は残されて無いのだ。
哀れな末路しか残されておらぬと言うのであれば、私が本国に辿り着くまでの間、此の気色の悪い生き屍人どもの相手を存分にしてやるがよい。
――そして此奴らを生垣として連合軍の追撃の手を防いでいる間に、自分が公道を抜けて備国本土まで逃げ延びる。
王たる私の役に立って死んでいけるというのであれば、狂人であろうとも喜んで死んでいくだろう。
ふと、王城に残してきた貴姬・蜜と王子である路の姿が脳裏に浮かんだ。
自分よりも年上である蜜は豊満な肢体を惜しげもなく開き、閨での蜜事にも長けており、その奔放さと手管の多様さを弋は大いに愛した。
――あれだけの躰と房中術を持つ女は、そうそう得られるものでは無いが……。
蜜ほどの肉体を持つ佳い女を手放すのは、正直、男の部分が惜しいと唸りを上げる。
だが、女一人の躰と国を支える王と何方が大切かと言えば、当然、自分に決まっている。
其れに王子も、何も路に拘る必要はない。
正妃だけでなく別の妃たちも産んでいるのだ、取り替えが効く要員に、固執する必要性は無い。
「佳い女であったが、運がなかったな、貴姬。路も、あれを母と定めた己が不明を呪うがいい」
――だが私は違う。
王は生きねばならん。
国体は損じてはならん。
偉大なる備国王は、此の私をおいて他は居ないのだ。
焦燥感を含んだじっとりとした汗が、生きの額から顳かみ、そして頬に掛けて伝い落ちていった。
★★★
5千騎余りの兵を集めるのにも、苦心する有様だった。
生き屍人となった味方の執拗な攻撃を憤怒の表情で払い退けながら、弋は此れまでの人生で最も辛抱強く待った。
漸く、弋を護りつつ祖国へ撤退する力量を持つ――というよりは、頭の働きがまともな千の兵が集められると弋は敢えて山を指差した。
「良いか、山を越えるぞ!」
「や、山……を、ですか?」
「そうだ!」
公道を目指すには距離があり、目立ち過ぎる。
其れよりは、道が不安定であろうが山を越えてしまった方が逃げ延びる確率は高くなる。
木々は隠れ蓑ともなるし、追撃の手を阻む役にもたって呉れるだろう。
のろのろと首を盾に動かす千の兵は殆どが皆、判で押したように暗く鈍い瞳と青白い顔色をしていた。
狂い掛けている、というよりは同士討ちの精神的な衝撃の方が大きいのだろう。
苦楽を共にしてきた仲間を、生き延びねばという恐怖心から、知らぬとは言え手に掛けた。
罪の意識に苛まされて動揺の色を隠しきれない兵士たちの前で、弋は、ちっ、と小さく舌打ちをすると腕を振るって眼前の兵士の横面を張り倒した。
馬から転げ落ちた兵が、鼻血を垂らしたながら呆気に取られた間抜け顔で弋を見上げる。
「生き延びたければ気合と根性を入れ直せ! 愚王に捕まり備国の兵は糞より劣ると嘲笑されたいのか!」
叱咤というよりは、殆ど弋の八つ当たりに近い。
というよりは、完全に憂さ晴らしだろう。
だが一方的に殴られ怒鳴られした兵士たちは、漸く意識を取り戻し、身を引き締めたようだった。
味方を見捨てる後ろめたさよりも、同士討ちから逃れられるという安堵感が勝ったのだ。
「……おのれ、何処まで間抜けな奴らだ。一から十まで私が命を下さねばならんというのか」
情けない奴らめが、と思わず呟きながら、弋はちらりと同士討ちの様子を見る。
徐々に霧が晴れかけて、互いの顔が判別出来るようになっているというのに、別動隊は攻撃の手を緩めようとしない。
いや、敵、と言ってよいものかどうか微妙な処だが、本隊が相手の顔を見て身体の動きが更に鈍った本隊が益々、押され始めている。
――抜け出るなら、未だ霧が残る今を置いてない。
弋は自らが殴り倒した兵士の胸倉を掴んで引き摺り上げると、ずい、と顔を寄せた。
鬼気迫る、いや、鬼其のもの顔付きで弋は低い声を発した。
「おい、貴様」
「は、陛下、何か?」
「貴様の甲冑を寄越せ」
「は、はい?」
「目眩ましをせねばならん。貴様、私の替玉となれ」
血走った双眸で、ぎらりと睨まれた兵は、がたがたと振るえながら首を縦に振っていた。
★★★
手っ取り早く、胸当てと籠手、そして兜を取り替える。鋭い眼光と、全身から立ち昇る気概からして、只者では無いと知らしめているが、だがそれでも一見すればその辺りにいる騎兵に過ぎない格好となった
「よし、貴様」
「は、はい、陛下」
「貴様に百の兵を与える。此のまま此の場でもう半時辰留まってから、本陣に戻れ」
「は、はひ!?」
「愚王めの目に留まるように、速度は上げるな。奴らが追ってきてから、全力で城に逃げ帰れ、良いな?」
「は、は、はひ、はひっ」
「案ずるな。王を助け国を救った武人の鏡として、貴様の家門は8代先まで我が名で栄誉を与えてやる」
涙目になりながら、こくこくと兵士は首を立てにする。
助からぬ生命だが、一門の栄達が約してあればまだ心情的には違う。
救国の英雄となれば、家門を落魄の危機からも救える。
自分は一代の英雄だ、胸を張っていながらも、隠しきれぬ恐怖心から、兵士は弋の眼前で粗相を犯してしまっていた。
股の間から滴り落ちる酷い臭気を放つ生暖かい液体は、衣服を肌に張り付かせ、そして異様に痒さを感じさせるのだが、男は其れを感じてる余裕はもう既になかった。
頭上の兜の重さに、目眩を起こし、はひ、はひ、と呻く兵士を、侮蔑を込めた眸で弋は見据える。
弋の甲冑を身に纏った兵士が、礼を捧げた後、ふらふらと霧の中に姿を消していった。
――情けない奴め。
此の程度の事で失禁するとは。
「誰が貴様のような玉無しの一門を掬い上げるか」
尊貴なる国王の甲冑を小便で汚すとは、何たる冒涜か。
涜聖を犯した者を、此の私が許せると思うのか。
見ておれ、此の戦が終わったならば、貴様の一族郎党は3代先まで滅ぼしてやるぞ。
心の中で吐き捨てながら、弋は愛馬にひらりと跨った。
見窄らしい甲冑姿を晒して逃げる姿が、霧で隠されているのが救いだった。
――おのれ! 見ておれよ、愚王め!
思い知らせてやる! 思い知らせてやるからな!
私に此のような恥をかかせた報いを、貴様には必ず受けさせてやるぞ、必ずだ!
「よし! 此れより此の霧からも撤退するぞ! 生き延びねば、と思う者は此の弋に続け!」
重苦しい深い霧の中、弋に率いられた5千の兵は、まるで泥濘の中で蠢く蟾蜍のような仲間たちを見捨てて離脱し始めた。
★★★
祖国に帰り着くには、ぎりぎりまで連合軍との接触を避けて、出来れば遭遇せずに山を越えなければならない。
其れには先ず、無事に山裾にまで辿り着くまでが当面の第一関門と云えた。
同士討ちの場から脱した弋は、一旦、愛馬の脚を止めると、蹄すら隠してしまう足元の白い霧を、じっと睨んだ。
――此れだ。此れ以外に道はない。
即断した弋は、大胆な策を用いる事にした。
「皆、よく聞け。霧の中に身を隠して撤退を図るぞ」
「霧の中を……で御座いますか?」
訝しむ家臣たちに、そうだ、と弋は頷く。
「河に入る。河の遡上して走れば、自然、山へ辿り着く」
「へ、陛下!?」
「今、い、今、何と申されましたか!?」
兵たちの間に、動揺が走る。
確かに一理ある。
いや、此れ以上の策は今の処思い付かない。
だが自分たちは其処まで地形にも、また此の地の自然にも明るくない。
だからこそ、退却の憂き目に遭遇しているのではないか。
今の足元は、砂利状態の川底だから、馬を走らせても大丈夫だろう。
だがしかし、もしも、途中で底が深くなって水量が増えでもしたら?
川底が底無しの沼地状となりでもしたら?
逆に、荒い岩や石場に変わりでもしたら?
自軍は、どうなるというのか。
暗い妄想は実に豊かに兵士たちの脳裏を支配し、一斉に恐怖に身体を縮こまらせ出した。
此の程度で犬猫の赤子のように恐れるな、馬鹿者どもが、と弋は舌打ちしつつ、見よ、と足元を暗くし互いの顔色の判別までさせない程厚ぼったく淀んでいる白い霧を指差した。
「どうやら、此の霧というものは、水分が多い処に深く停滞するらしい。ならば、河中を行く方が、より長く身を潜めていられる」
「しかし、陛下……」
「案ずるな。確かに、水量が増えたらならば、水攻めに遭いでもしたならば、と見が竦むのは当然だ。だが、よく見よ」
弋は手綱を操り、愛馬に蹄で川底を叩かせた。
水面を弾く音の中にコツコツという振動が、周辺に伝わる。
「米の収穫が終わってより、田は空いたままだ。秋から冬にかけて何か栽培するのであれば、もう既に、田には水が回されておるだろう。だが、歩行可能にまで河の水量は減っておる」
兵士たちが顔を見合わせる。
「陛下、では!」
「そうだ、此の河川は無事だ、という事だ。不慣れな土地で霧の目眩ましを喰らったが、川の初めは山より生ずる、つまり川を遡れば迷わされる事無く、山裾に到着する。安心して、ついてくるがよい」
兵士たちは弋の言葉に希望を見出し、おお、と感嘆のどよめきを零す。
「分かったか! ならば、行くぞ!」
号令と共に愛馬の腹に蹴りを入れた弋に、兵士たちは続いた。
軽い水音を立てながら、備国軍は川を遡った。
まるで、産卵する為に生まれた河に戻ろうと押し寄せている川魚の群れようにも見えた。
山に入れば助かる、山に入れば助かる、と呪文を詠するように唱和しながら、兵士たちは山を目指す。
励ましあいつつも、気温がまだ上がっていないのが肌身に滲みて感じ取れた。
其の分、霧の厚みも増している。
しかし見えぬまでも、鳥たちの騒ぎ声から着実に山に近づきつつある筈だ、と顎を上げた弋の耳が、ごぅ……、という低音を捉えた。
「何の音だ?」
眉を顰めた弋は、止まれ、と命令を下す。どうっ、どうっ、どうっ、と鼓動のように響く低音は、あっと言う間に轟音となった。
「何ぃ!?」
目を見開きながら弋が罵声を発するのとほぼ同時に、ごっ! と唸り声を上げて備国軍の左右から水が襲い掛かってきた。
★★★
「うおおおお!?」
頭まで沈めてしまうような大量の水量ではないが、其れでも河の流れは全身を濡らすには充分な勢いがあった。
突然、急流の真っ只中に蹴り落とされたに等しい状況となった備国軍は恐慌状態に陥った。
「うわあ!?」
「み、水!? 何故、水、水が!?」
「ひぎゃあ! つ、冷たい!」
「か、身体が、み、水が!」
溺死するような水量ではないのだが、基本的に河や水とは縁遠い生活に在った彼らにとって、猛威を振るう水は正体が知れない分、砂嵐よりも質が悪かった。
当然、混乱して意味不明の叫び声を盛大に上げ、慌てふためきながら水の中で両手を回転させて無様に暴れている。
傍目には、まるで阿呆踊り行脚でもしているかのようだ。
「えぇい、此の程度の水で騒ぐな!」
釣られて暴れ出した馬を御しながら、弋が怒鳴る。
水の勢いが去ると漸く、兵士たちは落ち着きを取り戻し始めた。
しかし、全身ずぶ濡れの濡れ鼠状態だ。
水の奇襲を受けて興奮していた時には冷えを感じ取った備国兵たちは、其処彼処で、ぶる、ぶるり、と両の手で身体を抱きかかえるようにしながら振るえ始めた。
普段の弋であれば、惰弱な、の一言で兵士たちを鰾膠も無く切り捨てる処であるが、此の時ばかりは違った。
弋自身も、ぶる、と身震いをしてしまったのだ。
――身体が。
かっ、と目を見開く。
――身体が思う様に動かん。
身体の奥底から冷えが生じ、がちがちという震えが起こる。
じんじんとした痺れのある疼痛のように震えは止まらず、かちかちと奥歯までが鳴り、不協和音を奏で出した。
その内に、眼の前がぐるぐると回転し始めた、かと思うとまるで夢の中のように霞状となり、やがて、手綱を握る手に力が入らなくなってくるではないか。
己の身体の変容に、ぞっとするものを感じながら、弋は必死で馬を走らせる。
しかし、どんなに馬の速度を上げても、霧の最中で同士討ちを演じていた分隊の姿を思い出さずにはいられない。
――まさか……。
私も、此の私が、奴らと同じ様に狂うというのか?
確かに、凍てつく大地で味わう冷えと、水を被った上での冷えは種類が違う。
関節から筋から、じっとりと重い冷えが忍び込み、時間を掛けて雁字搦めにしてくるような、正に眼の前にたちはだかる霧のような得体の知れなさがある。
ごくり、と喉がなる。
だが、次の瞬間、ぶるん! と勢いよく首を左右に振って不吉な予感を振り払った。
――何を弱気になっておる!
私は王だ!
雄々しく猛々しい騎馬の民の王、備国王・弋だ!
顎を下げ項垂れるなど、醜態を晒すなど、出来るか!
「者ども! 身体が冷えて来ておるのであれば温めればよい! 走れ! 走れ! 身体を動かして熱量を上げよ!」
叫びざま、弋は河の中を駆け出していた。
兵たちも慌てて弋の後に続く。
此処で王を見失い、足を止め続けでもしたら、遠からず祭国郡王・戰が率いる連合軍に発見され、接触する。
そうなれば自分たちに確約されるのは、破滅のみだ。
――そんな事になれば、身代わりを仕立てた意味が無いではないか!
――そうだ、あの身代わりが死んで足止めをしている間に、山越えするのだ!
――死んではならない、自分たちは、死んではならない!
――自分だけは、死ぬものか!
水音を跳ね上げながら、備国兵たちは必死の形相で国王である弋を追った。




