23 合従連衡 その8-2
23 合従連衡 その8-2
国王・闘に率いられた剛国軍の戦意は凄まじかった。兵力差が無くとも備国兵を蹴散らしていただろう。
ほぼ無傷で句国の北大門を落とした剛国兵たちは、実に晴れ晴れとした表情で若き猛き王へ向け、怒号のような祝福の言葉を送っり続けた。
反対に、備国軍は部隊もであるが何よりも精神が壊滅状態となっていた。
剛国軍の猛攻を前に、辛うじて死を免れた備国兵たちはわずか数名であり、彼らは捕虜としての辱めを受ける未来しか残されていない。
いや、なまじ命を拾ったばかりに、彼らは此の先、死を迎えるまで死ぬよりも恐ろしい悪夢のような現実に生かされるのだ。
備国兵たちは、青白い霊鬼のような顔付きで寄り固まり、恐怖に震えるしかなかった。
乱れに乱れた統率も何もなくなった荒れた生活を送っていた名残の残る北大門を護る城の前に集められた備国の敗残兵を前に、くっく、と闘は喉を鳴らして笑う。
かと思うと、ぎらり、と射抜くような、鋭く尖った牙のような双眸で備国兵を見下ろした。
自分たちの生命を奪う事に何の感慨も抱かない冷ややかな視線に、虜囚たちは、ぞっ……と身震いをしながら更に身を寄せ合った。
彼らの王である弋が感情の赴くままに丸太のような腕を振り回し暴れ回る巨体を誇る熊であるとするならば、闘はどんな小物であろうとも獲物と見定めたならば確実に、そして全力で仕留める狼だろう。
そう、正しく闘は、荒くれものの寄り集まりの戦意群れと化した仲間を、その猛々しさで押さえ込んで見事に統率している狼の王だった。
「陛下、備国兵らの処遇、如何になされますか?」
侮蔑の意を込めた眸で睨む闘は、正に獲物への間合いを詰めつつぐるぐると徘徊している若い狼宛らだ。
「ふん……備国王の元に駆け付けられても面倒だ。情報を取り終えた後は、首だけ残しておけば良い」
「はい、陛下」
赤い顔で礼を捧げる背後で、備国兵たちの悲鳴が上げながら引っ立てられて行く。
「備国の虫螻どもめ、人間ぶるな、胸糞悪い」
唾とともに吐き捨てると、かっ! と眸を見開いて烈は振り返ると、声で備国兵たちを殴り付けんとばかりに大声を上げた。
「剛国軍万歳! 国王陛下万歳!」
待ち構えていたのだろう、烈の号令に、どお! と空気を大地を揺るがして剛国軍は呼応する。
「剛国軍万歳!」
「陛下万歳!」
「我が軍は無敵なり!」
戦勝を告げる鬨の声と大歓声を、闘は片手を上げて受け止めつつ、城門を護る城に悠々と入っていった。
「さて、王城はどう動くか」
歩きながら、闘は楽しげに独りごちる。
其の闘の左右を護る烈と斬は、実に意気揚々とした、先に続くであろう戦に思いを馳せて逸る気持ちを抑えきれぬ、という表情をしている。
最後尾にて従う真は、やれやれ、と呟きながら、若い二人の王弟を見比べながら歩いていた。
★★★
城主の政務室に入った闘の元に、程無くして備国からの和睦の使者が此方に向かっている、との報せが伝えられた。
使者は、無論、王城を取り仕切っている貴姬・蜜の命によるものだ。
「ほう……? 存外に早いな」
ちらり、と真を見やりながら呟く闘の前に、烈と斬が殆ど同時に、猛然と飛び出してきて跪いた。
「兄上。王城への使者の役目、何卒此の烈に」
「恐れ乍ら陛下。王城への御役目。どうか、此の斬にお命じ下さい」
烈も斬も、其々必死になって懇願する。
異腹弟二人を前にして、さて、どうするか、と闘は楽しげに零す。
「真よ、其の方はどう思う? 烈か、斬か、何方が適任であるか」
話を振られた真は、そうですね、と云いながら首筋を掻いた。
烈と斬、集中する二人の視線が痛い。
「列殿下と斬殿下、何方を擁護しても私は責められてしまいますし。もういっその事、御二方同時に参られれば宜しいのでは?」
ふあ、と欠伸をしながら真が答えると、一瞬、闘は鼻白んでみせたが次の瞬間には豪快に笑い出した。
「二人揃って、か。成程、其れは面白いな」
言いざま、闘は椅子から立ち上がる。
慌てて烈と斬は平伏し直した。
慈しみを込めた双眸で、闘は二人の異腹弟の肩に手を添えた。
「では、烈、そして斬よ。共々、使者となるがよい」
「あ、兄上!?」
「へ、陛下、其れは、其の、そんな……」
「――ほう? 其の方ら、此の私に不服を申し立てるのか?」
此れまでの慈悲深さのある顔付きから、突如として戦鬼の顔ばせとなった闘は、ぎろり、と烈と斬を睨め付ける。
異腹弟たちは闘の迫力に、ぐ……、息を呑むと命令を拝命した。
二人の異腹弟が完全に屈服するのを見届けると、闘は、ふっ……と目を眇め、そして再び豪放に笑い始める。
焦点の合わない、ぼーっとした眠そうな眸をしながら、真は闘の笑い声を聞いている。
今にも牙を剥こうかと云う形相の烈と、何とか助力してい欲しいと視線で訴えて来る斬を、芙は交互に見やると軽く舌打ちをした。
芙は真の背後にぴたりと寄り添って彼の身を護っているのだが、烈の殺気は兎に角、尋常一様ではない。
加えて其処に、当然のように而も慣れた様子で真の知恵を頼ってくる斬の眼尻を垂らした情けない表情が鬱陶しい。
「……おい、真殿、本当に大丈夫なのか?」
「ええ、放っておいて良いのですよ」
真の態度は、まるで安を偸んでいるようにしか思えない。
――本当に大丈夫なのか。
此処まで戦い抜いて来た戰に優、そして杢や吉次たちの苦労を思えば、そして玖と姜の無念を思えば、此処までの戦果を苦労知らずの剛国王に掠め取られるのは業腹以外の何ものでもない。
だと云うのに、真は何時も通り、安穏とした態度を崩さない。
頼もしいのだが、なのにそんな真を信じきれない自分が情けなく思える。
「大丈夫ですから、芙」
まるで心の内を読んでいるかのような絶妙な間で、真は芙ににこ、と笑い掛ける。
「本当に、大丈夫なのだな?」
「はい」
もう一度、にこ、と笑った直後に、真は伸びをしながら、くあぁ、と陽溜まりでの昼寝に入る前の猫のように大欠伸をしてみせた。
★★★
真が闘に示した、備国王が用いるであろう策とは、こうだ。
先ず、戰が率いる祭国軍と優が率いる禍国軍が契国側から句国の国境を徐々に侵し、王都の南方にある盆地で山城に入る。
戦に生きている漢である弋ならば、その辺りまでは此方の動きを読むだろう。
其れこそが、逆に此方の狙い目だ。
弋は闘だけでなく、戰にも父王の代に大きな借りがある。
其の戰が領土を侵したとなれば、喜々として迎え討たずにはいられないだろう。
而も弋の性格上、戦旗を押し立てて出陣してきたと言うのに、戰たちが山腹の城に篭もる構えを見せれば、軟弱者め、と激怒し、勢いのまま攻勢に出ずにいられまい。
弋は戰と闘が盟約を結んだとは知らないが、戦を自軍優位に動かすとすれば数の上での優勢を頼む策を立てるであろう――というのが、真の読みだった。
「備国王は軍を二手に分けて別動隊を編成し、背後から戰様が篭もる山城を突くでしょう」
「確かにな、備国軍からすれば、連合軍を壊滅させるには最も良い手だ」
「ですが、其れは成功致しません」
「ほう……何故だ?」
「備国軍は此の数ヶ月の句国での甘い汁を吸い続ける生活、怠惰に慣れ、脆弱化しているからです。嘗て平原で大いに畏れられていた備国の騎馬軍団は、今や見る影も無いでしょう」
「……」
備国軍の強さは、馬が日常生活に密着している事にある。
根幹を同じくする剛国でも騎馬は重要視されている。
が、砂漠での馬の重要度は平原の比ではない。歩くよりも早く乗馬を覚えると言われているが、其れはつまり、常に生命の遣り取りをしている、という事に他ならない。
馬に頼らぬ生活、常時、緊迫するし続ける日々から解き放たれたのだ。
安穏な生活を手中にした彼らが、そのぬるま湯から抜けられないのは当然だ。
そして己の実力を過信して、鍛錬を怠った軍隊ほど脆いものはない。
「……叩き潰すは容易。備国の軍馬、恐れるに足らず、と言う事か……」
「はい」
伏目がちに礼拝を捧げながら真が答えると、面白い、と闘は肩を揺らして笑う。
「だが、どう叩き潰すつもりだ? 真よ、肝心要の処を貴様は話しておらんぞ? 幾ら駄馬に成り下がったとはいえ、万の差を乗り越えて勝利を得る確約とはなるまい。どうするつもりだ?」
「句国の地形と気候を利用します」
「地形と気候を、だと?」
「はい」
句国の南方は、特有の盆地の気候に合わせて河川の多い地形的特徴から、秋から冬に掛けて高確率で深い霧が発生する。
其れも、ただの霧ではない。
山の頂上から盆地を見下ろした時、白い霧は、まるで激しく逆巻き白波を次々と立てる海原と見紛う程の凄まじさとなる。
「砂漠では見たことも聞いたことも無い霧に、彼らは戸惑い、対処が遅れる事でしょう。此の心理的な時間の隙間。其処を利用し、備国軍を突くのです」
「……そうか、霧か……」
砂漠での砂嵐にて視界を奪われる事はあろうが、霧の其れによる物とは違う、全くの別物だ。
馴れている者でも生命を落とす場合もあるのだ、高を括っているであろう備国軍は、まるで雲の最中に放り出されたかのように分厚い霧の前に圧倒され、そして殆ど視界を遮られる事態に惑乱するだろう。
「闘陛下が王都に入る時期に合わせて、連合軍が備国軍と激突するように致します。霧の中での闘いに慣れぬ備国軍は出鼻を挫かれ、戰様と父の軍の前に完膚無きまでに叩き潰される事でしょう」
「成程な」
出来るのか、と闘は問いはしなかった。
やりましょう、と此の漢が、真が言えば、郡王はやるのだ、と闘は理解している。
「陛下が率いられし剛国軍が担われるのは」
礼拝を捧げながら続ける真の前で、もうよい、と闘は手を振った。
「敗走した備国王の逃げ場を徹底して奪う役目、か」
「はい」
「良いだろう。真よ、其の方の策に乗ろう」
闘は満足気に頷いた。
此れには斬だけでなく、烈も同意せざるを得なかった。
剛国側も、備国王・弋との直接対決にて雌雄を決し、堂々と胸を張って国を奪いたいのは山々だ。
が、其れで国体を弱めてしまっては元も子も無い。
連合軍が備国王の息の根を止めて居る間に、苦労知らずに城を我が物と出来るのであれば其れに越した事は無い。
だが、剛国に余りにも有利な条件が揃い過ぎている策に、まだ若い斬は己の見せ場が来たとばかりに興奮するだけであったが、流石に烈は訝しげに顔を顰めた。
何か一言言わねばならぬ、と身を乗り出した烈だったが、闘に下がるよう手を振られて渋々引き下がった。
しかし此処で、珍しく克が真に正面切って喰って掛かった。
「真殿、だが、陛下や兵部尚書様、杢殿を危険に晒す訳にはいかん」
王城を乗っ取る為に3万の剛国軍を投入させるのは良いが、連合軍が激戦を制して弋を討ち取ったとしても城を闘が抑えていたのでは、報われないではないか、という思いは、克だけでなく芙も竹も陸も密かに抱いていた。
幾ら玖の大軍旗が此方の手の内にあるとはいえ、城に入り備国軍から開放する役目を剛国に与えてしまって良いのか。
句国を奪還した、と領民の眸にはどう映るのか、という点において、克たちも芙たちも、真の言葉を本当に信じて良いものかどうか、迷いが、いや疑念がどうしても燻っていた。
それにそもそも、連合軍が備国軍に勝てるのか。
数の上で圧倒せねば戦をしなかった真が今回、那国との戦も契国との戦も、策により不利を尽く覆してきた事実があるとは言え、見過ごす訳にはいかなかった。
「ですね。ですから陛下、我が祭国の克将軍には、戰様の援軍として山腹の城へ向かわせて頂きます」
「良いだろう。元より、其の方らは剛国の民ではなく郡王の持ち物であるからな。好きするがいい」
まるで奴婢の子に遊びに行っても良い、と許しを与えるような傲岸さで闘は、真たち祭国の5千騎に自由に動く権利を与えたのだった。
★★★
闘の元を下がった真は、直様、芙に書簡を持たせて戰たちの元に走らせた。
しかし備国軍に追い落とされるまで山城に連合軍を留まらせるつもりは、真には毛頭なかった。
戰が率いる連合軍は直前に山城から脱して霧に紛れて備国の本隊に先んじて盆地に向かい、布陣を終え、日の出を迎えて霧が晴れると同時に先制攻撃を仕掛けて備国軍を壊滅させる。
此の連合軍には姜を伴わせて、本隊に編成されている句国兵に決起を促すように、説得に当たって貰う。
また克が率いる5千騎は、山腹の城に向かう別動隊と戦わせる。
山城に向かった別動隊の数を減らすには、地駄曵きの紐を先に句国領内に配しておけば、戰が察して、先んじて命じて呉れる。
そう、襲ってくる備国軍に対して、絶好の瞬間で、切り出させた木材を山の斜面を流させて攻撃させる筈だ。
備国軍の足並みは大きく乱れ、数の上の不利を覆させるに足るに違いない。
そして別動隊にも当然配属されているだろう句国兵たちの説得は、克自身にになって貰うつもりだ。
奇襲仕掛けるつもりが受ける形になった本軍と別動隊、二つの備国軍は、まだ霧に覆われた河辺に追い落とされる。
そしてもう一軍、備国軍が対峙する為に入った城に残されていた防衛の為の軍、此れら備国軍も同じ地点に到達するよう、趙に奇襲を掛けさせる。
全ての備国軍を一箇所に集結させ、逃げ場のない山間の地での掃討戦にて壊滅状態にさせる――という連合軍の側の本当の策を、真は剛国側には知らせていない。
其処まで手の内を晒す必要がないからでもあるし、真の真実の目的の為でもあるのだが、だが闘は、克たち5千騎がどの部隊と戦うにしても、当然駆り出されているであろう句国軍を寝返らせるつもりだ、と見抜いているようだった。
無論、闘は正面切っては何も言わない。
だが、其の素知らぬ顔が何よりも雄弁に物語っている、と芙は癪に障るのだ。
だからつい、何度も真に尋ねてしまう。
「おやおや、芙は何時の間に、そんなに心配性になったのですか?」
「茶化さないでくれ、真殿」
克や竹の力量も、そして姜が味方としてついてくれたのも信じている。
そして句国兵たちの玖への忠義心と愛国心、何方も認めている。
だが、句国兵が、反旗を翻すとは限らない。己の故郷と仲間の生命を虜とされた彼らが決起する確証は何処にもない。
だからこそ、どうしても数で勝る備国軍に、今、既に闘いの最中であろう克の5千騎が勝てる、という確証が欲しい。
祭国で克の無事を待っている身重の珊の事がある。
仲間として家族として育った娘が、やっと人並の人生を歩み出しているのだ。
珊の兄貴分として、焦りにも焦れにも似た感情に苛まされている芙を落ち着かせようとしているのか、真はゆったりと笑う。
「芙」
「何だ?」
「芙が、克殿と珊と、二人の子の心配しているのは、私にだって分かりますよ。ですが、本当に大丈夫なのですよ――相手が、備国軍である限りは、ね」
「――ん?」
真は気取られぬようにしながら、こそこそと芙に耳打ちした。
「霧の最中を行軍した備国軍とは、当然、混戦状態となるでしょう。ですが其れこそが狙いなのです。其処に追い込んでこそ、必要は時間をおかず、自滅の道を辿るのですよ」
「……自滅?」
芙は語尾を上げつつ、軽く首を捻る。
「其れは一体どういう事だ?」
「先程、私は闘陛下に言いましたよ? 句国の地形と、気候を、利用します、とね」
気候を……、と芙は口内で反芻した。
そして、はっ、となる。
「真殿、まさか……」
「ええ、その『まさか』です」
騎馬の民が生まれ落ちると同時に馬の嘶きを子守唄として生きるのと同様に、平原に生を受けた句国兵たちは、霧が発生して湿度が高いのに気温が低い状況下で活動する事の危険性を、肌に染み渡らせるようにして身につけている。
句国の領内での、秋から冬場に掛けての濃霧の発生率は他国に比べて異常なまでに高い。
日中の気温の上昇は高いが、反対に深夜から明け方に掛けての気温の急激な低下によるものだ。
網の目のように張り巡らされた河川の水量も豊富であるから尚の事、霧は深く濃くなるという、盆地の特性が如実に出ている。
視界を未知なる自然の脅威により完全に奪われる恐怖は、まだ何とか克服出来るかもしれない。
が、山間の冷えが人体に及ぼす影響からは、精神論では逃れられない。
身体の芯まで冷やされた時、人は、心の臓の動きの動きが乱れ、精神は狂う。
此れは誰にも逆らえない、抗えない。
摂理に打ち勝つには、体温を下げぬよう、常に栄養価の高い食物を口に入れ続けるしかない。
何故、食事を取り続ければ寒さからの発狂から免れるのかまでは、平原の民も知らない。
ただ連綿と受け継がれてきた先祖代々の知恵、霧の本性に負けぬ為の知識だ。
傍目には清々しさと感銘すら感じさせる白き霧の影に隠された底知れぬ恐怖を、備国兵は知らず、句国兵は熟知している。
隠れ蓑として霧を活用するだけでは勿体無いというもの、此れを利用しない手はない。
連合軍が山腹の城に一旦籠もって焦らさせば、戰を侮っている弋は余計に戦わずにいられなくなり、軍を分け、連合軍の背後を突いて盆地まで誘い出すであろう、というのは何度も述べている。
盆地にて布陣を終えた本軍が山から逃れて来た連合軍を挟み撃ちにする策は、数の優勢がある精神的な余裕からと彼の残忍非道な性格からきているが、成功させるには地理の疎さを補う必要がある。
ほぼ確実に弋は別動隊に句国兵を従わせるが、彼らは此の時期の山に入る危険性を知っているから、必ず自衛する。
此の句国兵を寝返らせて、応援に駆け付けさせた克たちの味方とする。
そして当然、句国兵は備国軍に危険を教えたりなどしない。
克たちが激突する頃には、備国の別動隊は狂気の世界に、沼地に嵌まるようにずぶずぶと沈みかけている筈だ。
此の備国軍を容赦無く河へ向かうよう追いたて、連合軍に追い落とされた本軍とまだ晴れぬ霧の中でぶつかるように仕向ける。
視界を奪われていても、言葉や馬の動きの癖で味方同士だと判明すれば同士討ちをさせるのは難しい。
いや、困難というよりも絶対に不可能だ。
だが、備国軍全体が正常な状態から逸脱すればどうだろうか?
急激な、そして異常な体温の低下により判断力も、言葉すら失くした狂人の集団と成り果てた者同士であれば。
相手が味方であると理解出来る以前に、自分が何者であるかすらも忘れた、反射のみで動く肉人形と化した者同士であれば。
備国軍内で、三つ巴の、血みどろの同士討ちに持ち込むのが、真が狙う真実の策だった。
「備国軍は、同士討ちさせますよ、必ず」
変わらぬ穏やかな、と言うよりは此のまま昼寝の時間ですから、と横になりそうな顔付きと声音でありながらも、句国との戦の折に書庫に籠もり続けたのは見掛けだけはない、と感じさせる真を見て、芙はやっと腹を据えた。
普段のままの真でいる。
と云う事は、其れだけ、真は己の策に自信を持っているのだ。
――其れに、真殿の策を御伝えした時、陛下は笑って居られた。
「そうか、分かったよ」
と穏やかに言われたきり、不安も疑問も、何も口にされなかった。
つまり陛下は、真殿が霧を最大限に利用すると即座に見抜かれ、そして此の突拍子も無い策が成功する、と信じられたのだ。
――陛下が真殿を信じておられるのだ。
御二人と共に、一番、戦場を巡ってきている俺が信じずにいて、どうする。
「分かった、此れ以上、何も疑問も不満も出さん」
きっ、と唇を硬くする芙に、有難う御座います、と言いながら真は笑いかける。
そして、互いに火花を散らしあっている烈と斬を交互に見て、やれやれ、成長というものなさらない御二方ですね、と笑う。
「さて。問題は王城の方ですが……どうなりますかね……」
「――ん?」
「卑怯者となられるか、臆病者となられるか。其れとも、愚者となられるか。烈殿下と斬殿下は、どの道を選ばれるかは分かりませんが……まあ、どうなろうと其れは闘陛下の王としての力量、人物による処ですからね」
私の責任ではありません、と小さく呟く真を、芙は初めて出会った人物を見るような瞳でまじまじと見詰めた。




