23 合従連衡 その7-3
23 合従連衡 7-3
備国軍が退却し始めた事に、戰は気が付いた。
杢も気が付いたのだろう、返り血と汗とで全身を濡れそぼらせながら、愛馬を戰に寄せて来る。
「陛下」
「動き出したか」
目を細める戰の前で、自信の高さを示すように掲げられていた備国王・弋の大軍旗が、此方に気取られぬように、徐々に徐々に、慎重に後方へと下がっていく。
揺れる旗の先を戰が睨んでいると、陛下! と珍しく杢が興奮して上擦った声で叫んだ。
「陛下! 彼方を御覧下さい!」
杢が指差す方角を見た戰は、おお、と思わず知らず零していた。
――燃えている。
遠くに、紅い紅い、まるで鬼灯のような紅い点が見える。
此の距離でも見えるのだから、相当に大きなものが盛大に燃えているのだ――
そう、城だ。
備国王・弋が此の盆地に布陣する前に入っていた城が燃えている。
自分たちが根城としているものだと備国軍が思い込んでいる山腹の城が燃えている。
「陛下! 克殿からの報せです」
空に浮かぶ星よりも煌々と燃える城を見詰めている戰と杢の元に、顔を真っ赤にした陸と萃が現れた。
流石、早足という二つ名のある芙を頭にしているだけあり、少年が鞭を入れているとはいえ、騎馬の脚に萃は平気で来ている。
「陛下ぁ! 克兄ぃの軍は手筈通りに動くって!」
興奮しきっている陸は、上擦った甲高い声で叫びながら山腹の城の方角を指差した。
うん、と頷いた戰は全身を使って息をしている陸に近寄り、まだ細い肩を叩く。
「陸、良く知らせて呉れた」
「おう! へっへ、こんくらい、どって事ねえぜって!」
ぜいぜいと喉を鳴らし胸を上下させながらも、陸は白い歯を見せて誇らしげに、にかっ、と笑う。
其処へ、陛下! と怒号を発しながら優が現れた。倒した備国兵の返り血を浴びて全身を真っ赤に染め上げている。
「何だ、小僧、来ておったのか」
「何だ、は無えだろ、おっさん。俺ぁ、克兄ぃの部隊の伝令兵だぞ」
ほう? と片眉を跳ね上げながら、優は意外そうに陸をまじまじと見る。
鋭い視線に、びくっ、と反射的に身を竦める陸に苦笑しながら、戰は腕を上げた。
「よし! では、真の策通りに動くぞ! 杢、兵部尚書! ついて来い!」
「承知仕りました、陛下」
「へ? へ、陛下? 杢兄貴? ちょ、ちょい、ちょい待ち! お、俺! 俺も行く!」
手綱を操り馬首を巡らせようとする戰と杢、そして優の背中に、陸は慌ててついて行こうとする。
しかし、こら待たんか、と優が横から手綱を引ったくった。
「うわっ!?」
「これから先は首を突っ込んでも邪魔にしかならん。大人しく、後方に下がって援護部隊と合流して怪我人の救護に回っておれ」
「え、えぇ~!? 此処まで来て除け者なんかよぅっ! そりゃねえぜ! 狡いじゃんかよぅ! 行く! 俺も行く! 連れってってくれよ、真の父ちゃん!」
「此の糞戯けの糞小僧めが! 股の毛も生え揃っておらんような小坊主如きが一端にでかい口叩くな! 大人しく引っ込んでおれ、大馬鹿者めが!」
「うひっ!」
自分が生まれる何十年も前から戦場を駆け巡って武勲を立て続けてきた漢の迫力に、陸が縮み上がる。
すっかり萎縮した陸に、ふん、と鼻を鳴らした優は、無造作に槍を放って寄越した。
思わず反射的に腕を伸ばして受け取った陸だったが、どすん、と腕の中で地響きを立てた。
「うおっ!? お、重てぇ!?」
驚愕に陸は叫び声を上げる。
「其の程度でぎゃあぎゃあ騒ぐな、阿呆めが」
呆れ果て、嘆息しつつ優は愛馬を操る手綱を握り直した。
「良いか、陸。陛下の家臣として此の先もお遣えしたいと望むのであれば、言う事を聞け――死んではならん」
「ほへっ?」
優から馬鹿者だの坊主だの悪言を吐かれ続けるのに慣れてしまっていた陸は、急に名前を呼ばれて目を丸くする。
「陛下は優し過ぎる御方だ。喩えどんな身分の者だろうと、傷付けられればその痛みを我が物として憂え、鬼籍に入れば魂を絞るようにして嘆かれる。陛下への一番の御奉公とは、無事に生き抜く事だ」
「……う、うん……」
嘗て真は、酷い折檻、いや拷問を受けて死の淵を彷徨った事があるのだと、陸は克や竹、芙や杢からそれとなく耳にしている。
真の身体に一生癒せぬ傷を背負わせたのは、而も、彼の腹違いの兄、つまり優の正妻・妙の子・鷹であるとも。
複雑な心境があるのだ、とまだ単純明解な世界に生きている少年の陸も、何となく理解出来た。
「分かったら、行け」
「お、おう! がってん承知、だぜ!」
ふらふらしつつも、何とか片手で槍を持ち上げた陸は、にかっ、と強がった笑みを見せてから後方へ馬を走らせる。
くっく、と喉で笑いながら軽く頭を下げた萃も、陸に続いた。
やれやれ、と苦笑した優は、はっ、となって気を引き締めると、戰と杢の後を追うべく愛馬の横腹に蹴り一つ入れて駆けさせた。
★★★
敗北を認め後退していると気取られるのは、弋の矜持が許さなかった。
静かな動きであるが、弋は堂々と胸を張って馬上に居る。しかし、顔を厳つく固めたままだ。
――愚王めに、侮られて堪るか。
表情は無であるが、腹の底は怒りの為に、ぐらぐらと熱く激しく沸いている。句国兵さえ裏切らねば、こんな無様の事態にはならなかった。
――思い知らせてやるぞ。どいつもこいつも、糞どもめ。
句国兵の裏切りは、日和見が一気爆発的に感染したに過ぎない。
つまり言い換えれば、祭国軍と禍国軍が劣勢となれば途端に此方に尾を振る、と云う事だ。
――そうだ、要は愚王を叩きのめしてやれば済むのだ。
煮え滾る怒りを、愛馬に入れる鞭に込めて疾駆させていたが、堪らず家臣が叫んだ。
「へ、陛下! 陛下、お待ち下さい!」
「ぬ?」
振り返れば、今にも血反吐を吐こうかという悲痛な面持ちで家臣たちは馬を走らせていた。
騎馬隊はまだ良い。歩兵部隊は、息も絶え絶えの瀕死の状態だ。
「陛下、陛下、此のままでは、逃げ切る前に兵馬が倒れます」
「何ぃ?」
弋の眉尻が勢い良く跳ね上がる。
ひっ、と息を呑む音が其処彼処で響く。
苛々をぶつけてやろうとした弋は、其処で漸く、家臣たちは皆、冷や汗を額や顳かみに垂らしながら上目遣いに弋の顔色を窺っていると気が付いた。
ぎりぎりと奥歯を噛み締めていたが、やがて、大きく肩を上下させた。
「……良い、分かった。どうせ此の先は、まだ霧とやらが残っている地域だ。あの白い塊にうまく身を潜めれば、奴らの眸を騙せるだろう」
明白に、ホッとした顔付きになる部下たちを、弋はぎろりと睨んだ。
此の程度の疾走で息を上げるようなやわな漢は、毛烏素砂漠には居ない。
皆、剽悍無比で屈強さを誇る漢たちであった筈ではないか。
――句国で過ごした数ヶ月、たった数ヶ月で骨抜きにされていたというのか。
情けない。何が騎馬の民の末裔だ。
ぐう、と弋は唸った。
句国をとことんまで追い詰めんと、暴力と略奪を楽しみ搾取し続けた。
だが、眼前の兵士たちを見れば、どうだ。
後が無くなった句国兵たちは捨て身で闘いを挑んで来て、決して怯まない。
最低でも相討ち、可能な限り敵の勢力を削がんと鬼の形相で挑んでくる。
翻って、自軍はどうだ。
享楽に身を落として句国だけでなく周辺諸国を侮って鍛錬を怠り、今や誇り高き騎馬隊は見る影も無いではないか。落ちぶれたのは人だけでなかった。
手入れを怠けたせいで、遠く風に聞こえし駿馬は、贅肉で弛んだ躯そ晒す駄馬と化しているではないか。
――今更、悋気焼きの女のように文句を並べた処でどうしようもないが、だとしても、情けなさ過ぎる。何処まで金玉無しに成り下がった。
兎も角、一旦王都まで引き、体勢を立て直す。
収穫が終わったばかりだ、籠城を行っても良いだろう。
どうせ此の先は冬がやって来る。雪とやらに襲われれば、寒さに慣れぬ禍国軍は尻を捲くって逃げ出すに決っている。
休息を得えられる、と耳にしたからだろうか、安堵の吐息が漏れ聞こえて来る。
情けない事極まり無い自軍を、侮蔑を込めて目を細めて見やった弋は改めてもう一度、ぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
漸く霧に覆われた地帯に到達した備国兵たちは、がっくりと膝を付いた。
ちいっ、と舌打ちしながらも、弋は腕を上げて家臣たちにやっと手に入れた安息地帯の安穏とした空気を味わうように、と命じた。
「だが、此の場にも長くは留まれぬぞ。霧が晴れてしまえば、元の木阿弥だからな」
家臣たちは、返答もそこそこに身体の緊張を解いている。余りの情けなさに、何処まで堕落したのか、恥を知れ、と怒鳴り付けたくなる。
此れが騎馬の民の姿か、と全員首を跳ねたくなる。
もう一度、弋は舌打ちをした。
其の時だった。重く張り巡らされている霧の向こうに、ぞわり、とした気配が動いた。
其れは紛れも無い、殺気だった。
★★★
「……何だ……何が居る……?」
目を眇めた弋は、全神経を尖らせて伝わってくる気配を探る。
――此の気配……。
複数の地響きは疾駆する馬によるもの。
擦れ合う甲冑の音に荒々しい息遣い。
そして何よりも殺気はどうだ。
――よもや、祭国の奴らがもう此処まで追って来たというのかっ!?
我々を発見したというのか!?
弋の面に、一気に緊張が走った。
「へ、へい、か……!」
相手に負けじとむんむんと殺気を丸出しにしている弋に、まるで寝小便を垂れてしまった直後の餓鬼のように哀れな表情で、家臣たちが縋ってくる。
「……おのれ……何処まで馬鹿にするのだ、愚王め……」
バキッ! と生木を裂た時に似た音が弋の口内を満たした。
噛み締めた奥歯が折れたのだ。
口の端から、ぼたぼたと生暖かい血が滴る。
ぎょ、と身を竦める家臣たちに、弋は怒鳴った。
「良いか! 先制攻撃を仕掛ける! 完全に陣形を整えきっていないのは、奴らも同じ事だ! そして向こうは、我々が存在を掴んでいるとは思っていない! 奇襲を掛けるのであれば、今を置いてない!」
「……へ、へい・か……」
「先程、我々は遅れを取った! 本陣が崩れたのは臭国兵どもの離反と、そして陣形を整えきれなかった、二つの要因が不幸にも重なったからだ! だが今、臭国兵どもはおらん! そして迎え討つ我らは敵の存在を掴んでいる! 勝てる! 先程の祭国と禍国を同じ策と奴らにぶつけて、思い知らせてやるのだ!」
項垂れ、萎れていた本隊の兵士たちが一斉に、水を含んだ枯れ木のように背筋を伸ばす。
弋の指摘は最もだった。
何かが身体中に漲ってくる、と備国兵たちは感じていた。
「立て! 剣を抜け! 槍を構えよ! 矢を番え! 馬の尻に鞭を入れ駆けよ! そして祭国の奴らに、騎馬の民との戦は、如何なるものであるかを骨の髄まで思い知らせてやるのだ!」
おお! という歓声が上がった。
★★★
めらめらと燃える薪の束のように、殺気の塊となった備国軍は弋を先頭にして真っ白な霧の中へと突撃していった。程なく、顔は見えないままであるが、敵と思しき一隊と弋の軍は激突した。
「突撃せよ!」
「陛下に続けぇ!」
「おおぉ!」
怒号を発する弋に、わあ! という更なる畝りが自軍から上がる。
白かった霧が、吹き荒ぶ血飛沫に瞬く間に赤く染まりだして、まるで黄昏時の空に敵を沈めていくかのように思えた。
抵抗はあるが、敵は全く統制が取れていない。指揮がなっていないのだ。
ただ闇雲に、此方に向かって攻撃を仕掛けてくるだけであり、其れも動きは鈍重だ。
指揮を執る将軍の掛け声も聞き取れ無いばかりか、互いを鼓舞し合う様子もない。
彼らは奇声を発するばかりで、正に木偶人形のようだった。
勢いも戦意も戦力もある、此方が優位に推しているのだと分かると、備国軍の果敢さと勇ましさは、国王・弋により煽られた。
「良いぞ! 此のまま敵を殲滅するぞ!」
弋も此処ぞとばかりに味方に活を入れる。
――それにしても、重い。
顔が見えないので、気配の中心目掛けて槍を突き立てる。
ぐぎゃ! と断末魔の叫びを上げた敵が、どさり、と馬上から転がり落ちる音が響いてきた。
ふっ、と息を吐き出した弋は、切先から垂れてくる紅い流れを凝視した。
じっとりと纏わり付いてくる霧は、愛馬の鬣ですら隠してしまう。
――短期決戦で決めるしか無い。
幾ら相手が愚鈍であろうとも、打って出る層の厚さから推測するに、軍勢はどうやら万を超える分厚さがあるようだ。
互いに殺気を増幅させ合っているから、皆、目を向 けていないが、此の霧は確かに備国軍の体力をゆっくりゆっくり、奪っていっている。
骨の髄まで思い知らせろ、と自軍を発憤興起させたは良いが、実際に髄液まで霧の湿気と冷えは浸透しているのではないか、と弋は身震いした。
悪戯に戦を長引かせるべきではない、砂漠では味わった事がない此の闘いを一刻も早く終結させねばならない、と弋は判断した。
ふと、珍しく、背中に怖気を感じた弋は、底無しの戦意から来るものではない身震いをした。
「それにしても、奴らの気合の声は聞くに耐えぬな」
ちっ、と弋は舌打ちをした。
間延びしている癖に、奇妙に神経を逆撫でされる。
そう、剣と剣を擦り合わせた時に生じる不協和音を連想させ、喧しい! と癇癪を起こしたくなるような、何とも言えぬ漫ろな気分にさせられる。
――兵士たちをどうやって育てておれば、こんな気色悪くなるのだ。
眼前に突き出された槍を薙ぎ払いながら、弋は不気味さを増して行く敵に嫌悪感を抱き始めた。
もう一度、白いもやもやとした塊の奥から槍が突き出されてくる。
ぬん、と弋は気合を入れると柄の部分を掴んで、力任せに引き寄せた。
「えぇい! 気色の悪い!」
霧で隠れた相手は、また、意味を成さぬ言葉を上げている。
怒っているのか、其れとも、嘆いているのかすらも分からない。
生来が癇症の質である弋だが、度を越した相手の掴み処の無さを暴いてやらねば気が済まなくなっていた。
手繰り寄せられた敵は、無造作、というか無防備で、弋の前に転がってきた。
目の前に転がり出てきた敵兵は、身に纏っている甲冑が乱れていた。
籠手もは片方を無くしており、兜も被っていない。
が、此れは闘いの最中に紐が切れたとか言う代物ではない。明らかに、自分自身で紐を断ち、崩したのだ。
焦点の合わぬ目をしており、しかも口からは大量の泡を噴いていた。
涎の筋が幾つも顎から胸元へと落ちている。そして、へらへらと笑っていた。
口から蟹のように次々とあぶくを吹き上げながら、敵は笑っていた。
最早、正気など何処かに消し飛んでいるのだ。
笑いながら、本能的に戦っているのだ。
敵か味方かなど、関係ない。眼前の動くものの生命を、ただ断つ為だけに武器を振るっているのだ。
「……此奴……」
――狂っている。
そう、眼前の兵士は狂っている。
弋が率いる備国軍と対峙する恐怖にではなく、もっと早い時期から此の兵士は狂っている。
腰に帯びている剣に手を伸ばすと、弋は、自分を指差しながら急にげらげらと嘲笑しだした兵士を脳天から叩き切った。
悲鳴も上げずに兵士は真っ二つに割られて絶命した。
白目を真っ赤に血走らせて、弋は自ら屠った兵士を睨む。
備国軍の甲冑を纏った、兵士の亡骸を。
★★★
「おのれぇっ……!」
――何という恐ろしい策を用いるのだ……!
ボソリと弋は呟く。
その声音には、怒りと、そして恐怖が刻み込まれていた。
未だにどくどくと血を迸しらせている兵士の亡骸を、弋は目を眇めて睨み続ける。
弋が殺した此の敵兵は、味方だ、備国軍の兵士だ。
そう、山腹の城を討ちに出た別働隊だ。
何をどうしたのか、何があったのかは窺い知れぬが、恐らく彼らは、凄まじい敗北を喫したのだろう。そうとしか、考え付かない。
――逃げ惑う内に我が率いる本隊と霧の最中で遭遇し、死への恐怖と絶望感から、とうとう発狂したのか?
だがどうしたら、2万もの軍隊が、一斉に集団で、発狂するのだ!?
弋の背中を、ぞわぞわとした冷たい物が伝い落ちていく。
呆然としている弋の脇を擦り抜けて、自軍がまた更に霧の奥の一軍を押して行く。
「えぇい! 剣を収めよ! 戦を止めよ!」
大声で命令するが、敵は兎も角、此処まで率いて来た一軍ももう聞く耳を持っていなかった。
祭国と禍国の連合軍にいいようにやられた腹いせとばかりに、剣を振るい槍を突き出し弓を引いている。
「止めよ! 同士討ちだ! やめよ! やめんか!」
怒鳴れば怒鳴る程、だが、自軍は更に喜々として戦に没頭していく。
うわあ! と叫びながら剣を振り翳した部下の腰に、弋は蹴りを入れて馬から落とした。
ひぎゃ! と非れもない悲鳴を上げて転がり落ちた部下に、弋は、くわ! と目を剥いて怒鳴る。
「やめんかあっ! 命令しておるだろうが! よく見よ! 相手は味方だ!」
だが兵士は、笑いながら霧の中に落ちた剣を探している。
今、弋ははっきりと理解していた。
「祭国郡王・戰っ……!」
――奴め、地形と気候を利用して戦を仕掛けていたのか……!




