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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
三ノ戦 皇帝崩御

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6 御子・学(がく) その2

6 御子・がく その2



 現れたのは、無論、戰だ。

千段せんだん、椿を守れ!」

 主の命令に、鬣を戦慄かせながら、巨大な嘶きを黒馬はあげる。嘶きというよりも咆哮に近いそれは、夕の澄んだ空気を裂くに充分な激しさを有していた。


 飛び掛りざまに身体を捻りながら脚を振り上げ、戰は一人の男の顳付近に踵蹴りを喰らわせた。頭骨が砕ける鈍い音が、周囲に重苦しく響き渡る。

 勢いで自らも体勢を崩し片膝を付くが、そのまま構わずに地を蹴って、先に投げつけた剣の柄を握りしめ、一気に引き抜いた。既に命がなくとも、未だ体内を巡る血のせいか、男の頭から赫い飛沫が、ぶしゃり・と勢いよく上がる。

 しかし飛沫を全身に浴びる前に、戰の身体はもう剣を閃かせており、一人の男が袈裟懸けに斬りつけられていた。戰の赤みを帯びた明るい髪色が、夕日を吸って更に金色に輝き、煌いた。



「皇子様!」

 安堵と起死回生への希望を見出し、明るい声音に戻った蔦は、きっ! と眼前の敵を睨み付けた。男たちが、一瞬たじろぐ隙を、蔦が見逃す筈がない。

 しゅっ! と空を切る音を立てながら、披帛ひはくが蔦の手から鞭のように放たれ、男の首筋に巻き付いた。締め上げによる酸素不足から、げえ! という潰れた叫び声をあげて悶絶する男を庇う為、仲間の一人が剣を振り上げて披帛ひはくを打ち払いにきた。

 その機を逃さず、蔦は手を離した。披帛ひはくを巻きつけた男が暴れていた勢いのまま、剣をかざした仲間にぶつかった。体勢を崩してぐらつく男に、風のように近づいた蔦の腕が伸び、剣を奪い取る。そのまま、薙ぎ払うように二人の男の首筋を斬りつける。

「容赦は致しませぬ故。方々、覚悟しゃっしゃりませ」

 血の飛沫が、蔦の周囲を綺羅々と飛び散って消えていく。男たちが惨劇の中で巻上げる血飛沫は、まるで舞っているかのような蔦の動きを、宝石のように美しく妖しく彩るのだった。



 ★★★



 吉次きちじからの献上品であるまがねの剣を振るう戰は、黒覆面の男たちを、一人・また一人と屠りさっていく。幾ら青銅製の剣よりも軽いとはいえ、この重さの剣を、片手で悠々と振り回し続ける腕力を戰は持っていた。

 或者は、腕を肩の付け根から骨ごと切り落とされた。

 或者は、背中から肺を貫いて一突きにされた。

 或者は、脳天から真っ二つにされた。

 しかしただ、剣を奮わせて戦うだけではなかった。

 斬り付けるだけでなく、身体ごと位置を入れ替えて相手をやり過ごすと見せかけて、肘で脇腹を殴りつけ骨を砕く。

 剣の柄で喉を突いて息を詰らせた上で、腹に蹴りを入れて仲間と激突させ、共々に串刺しにする。

 全く予想もつかない動きで、黒覆面の男たちを翻弄している。

 最後の一人の腹を、容赦なく横一文字に薙ぎ払う。腹から胃や腸など臓物を飛び散らせながら、男は呻きながら前のめりに倒れ、そして動かなくなった。


 背中に愛馬・千段に守られた椿姫の熱く濡れた視線を感じながら、戰は剣を大きく振るった。剣はひゅ・と短く空を斬り、纏わりついていた血糊が飛び、殆どが払われる。

 ゆっくりと倒した男の一人に近付いた戰は、片膝を付いて座り、面を覆っていた頭巾を剥がしとる。面体を改めると、死の実感もないままに恐らくこの世を去ったであろう男の目を、静かに閉じてやる。


 懐から取り出した晒で残った血糊を拭い取りつつ、剣を隈無く改める。

 流石に数人屠った所で、人脂がまいて切れ味が鈍ったが、それでも、骨まで叩き斬っても刃こぼれを起こしていない。吉次たちの刀剣の素晴らしさに、改めて舌を巻いた。

 静々と近寄ってくる蔦の気配に、視線を向けた。彼の背後にも、男たちが地に倒れ伏しているが見える。笄を全て外した為に乱れた髪を、手櫛で整えながら微笑んでいる様子は、まるで舞を一指、舞終わった後のようだ。



「千段、よく椿を守ってくれたな」

 誇るかのように、ぶるる・と黒馬は嘶いた。

 漸く微笑んで、愛馬・千段の巨躯に匿われていた少女に、優しく手を伸ばした。

「もう大丈夫だ、椿」

 おずおずとした空気と共に、椿姫が千段の影から姿を見せた。恐怖で凝り固り周囲が見えなくなっているか、逆に恐慌を来たして発狂寸前にまでいってはいないかと心配していたが、思ったよりもしっかりとした様子に、戰も蔦も安堵の吐息を隠せない。

 伸ばされた戰の腕に、椿姫の指先が、微かに触れた。

 と思う間に、彼女の方から、涙を撒き散らしながら胸の中に飛び込んできた。

「怖い思いをさせた、すまない」

 力強く抱き止めながら、視線を感じて面だけを巡らせると、真と杢とが、学と苑を守りつつ、戸の陰からそろそろと様子を伺っていた。


「此方に来てくれないか、真」

 腕に椿姫を抱いたまま戰が声を掛けると、真が影から姿を現した。

余りにも凄惨で酸鼻な光景に、真がうっ……と顔を顰める。しかし、戰は相手を叩き伏せた事に対して、何も感じていないかのように、思われた。それほど、普段の彼ともうかわりがないのだ。否、思っていないように、見せているのかもしれないと、密かに真は感じていた。


 傍に寄った真は、戰もしたようにしゃがみ、覆面の下の面体を改めた。顔の特徴は全て覚え、人相風体の改書付を残しておかねばならない。

 一人一人を丁寧に検分しつつ、これ程の剣技の持ち主であられたとは、と真は心の中で肝を冷やしていた。転がる屍体の凄まじいばかりの屠られ方から、戰の戦い方は、まるで型にはまっていない事くらい、流石に武辺に暗い真にも分かる。いや、身体が思うように動かぬだけで、幼い頃から父・優を見てきた真は、武術においても知識だけは深い。

 それから推察するに、戰は己の体格の有利さを最大限に活用して、最も効率的に相手を倒す方法を、早くから身に付けていたのだろう。武術の型に当てはまらない戰の戦い方は、相手にとっては思いも寄らぬ攻撃となり、結果、より彼を助けてきたのだろうが、この破壊力と攻撃力の凄まじさはどうだ。


 それだけ、身の危険に晒される機会が多かったという事になる。

 降りかかる火の粉を自ら払い除ける為に、戰は誰よりも強くあらねば、生き抜いてはこられなかったのだ。

 3年前、初めて出会った時の第一印象は、間違いではなかったのだ。


 しかし、此度の襲撃者達。彼らの正体は、一体、誰なのか? 

 ――まさか、順大上王様が?


 己の考えに、真は心の臓が止まるのではないかと思われるほどの恐怖に、強く身震いする。順大上王がよもや其処までやるとは思われない・と、またしても自分は甘い見通しに溺れていたのか?

 だがふと視界に入った、戰の物悲しげな沈鬱な表情に、違う・と直感する。

「戰様、戰様はお分かりなのですか? 彼らが、誰の手による者どもであるのかを」

「真、実は」

 真の問いかけに答えようとする戰の声を遮って、夕闇を劈く叫び声が上がった。

「出て行って! 此処から出て行って!」

 女の叫び声、苑の声だった。

 戰の腕の中で震えていた椿姫が、目を見開いた。はっとなって鋭い声の先に目を凝らすと、学を胸に守りながら、怒りに燃える瞳で睨みつけている苑と視線があった。


「苑……!」

「出て行って! 今すぐ!」

「待って、苑、お願いだから聞いて」

「静かに暮らしていたのに! いいえ、貴女方さえ来なければ、静かに暮らせていられたのに!」

「苑……」

「どうして来たの!? どうして私達を探し出したりなんてしたの!? 今まで放っておいたくせに!」

「苑、違うわ、放ってなんて」

「貴女たちの勝手な都合に、私達を巻き込まないで!」

「苑、私、わたしは……」

「帰って! そして二度と来ないで! 私達の前に、姿を見せないで!」

 苑の、心火しんかをそのまま言葉にしたかのような責め立てに、椿姫が唇を固くして、新たな涙を浮かべる。

「苑殿、と申されましたか。それは違う。この仕儀は、女王に責があるのではない。この私にある」

 腕の中の椿姫を、そっと蔦に任せると、戰は真っ直ぐに苑の前に歩み出た。

そのまま、陳謝ちんしゃの意を込めた礼の姿勢をとった。胸に学を守ったまま驚きを隠せない苑に向けて、だが内容は傍らに寄り添ってきた真に向けて、戰は続けた。


「つい先頃我が禍国王宮から、兵部尚書・優の手により、早馬の伝令が届いた」

「私の父から、戰様に? 王都で何か、不祥な事柄でも……」

「我が父、禍国皇帝・景陛下が崩御なされた」

 戰の言葉に、真、蔦、杢、そして椿姫の視線が交錯する。


 皇帝、崩御。


 つまり、戰と蔦に命を絶たれ、無造作に転がっているこの男たちの正体は、そういう事だ。椿姫を中心とした祭国の政治の思惑が絡んでの事ではなく、禍国においての、つまりは戰の側の事情だったのだ。


 皇太子・天か。

 もしくは兄皇子・乱か。

 それとも、共々に共謀して画策したものなか。

 ともあれ禍国に残る兄皇子たちが、目下、最も目立つ存在である戰を葬り去り、憂いを絶とうとした結果の、果てだったのだ。



 冷たい秋風が、その場にいた全ての人々の間を、通り過ぎていった。



 ★★★



 戰の言葉添えがあったからであろうか。

 そのは渋々ながらに家を離れ、がくと共に宿舎としている県令の元へと身を寄せた。

 しかし、頑なにそれ以上の何もを受け付けようとしない。椿姫は勿論の事、戰の言葉も真の言葉も、聞き入れようとはしない。仕方なく、泡立つ苑の気持ちが落ち着くまで、親子二人でそっとしておくことにした。遠く戸口に立ち、母子おやこ二人を見守るのは、もくが引き受けていた。杢も、生来が無口な質の男だ。無言を貫き、苑にまるでいないものとされるのもよしとして、静かに二人を見守っている。


 しかし、白い肌を更に青くし表情を固くしているところから、苑が全てを受け入れるつもりは、さらさらない事が伺える。

 禍国内の政争の為に、関係のない学までもが巻き込まれかけたのだ。

 その様な恐ろしげな立場に、より近くなる所へなど、愛児を送り出せるものかという、決死の決意が全身から立ち上っている。

 掛けられる言葉に全く反応を示さないのは、その表れだろう。全くの無言、そして無反応だった。先程のように、興奮して泣き喚かれる方が、まだましかもしれなかった。



 ★★★



 がくと共に、夫であったかくから贈られた大切な承衣を胸に抱きながら、苑は息子の前髪に柔らかく頬を寄せた。

母様ははさま、これから私達はどうなるのですか?」

「どうにもなりはしません。貴方は、この母が守ります。心配する事など、何もないのですよ」

「でも、母様」

「静かになさい」

 きつい調子で言い渡され、学は大人しく口を噤む。ふと、苑は学もその手に何かを大切に抱いている事に、気が付いた。

「学、それは?」

「はい、日誌です」

「日誌?」

「はい、母様とつけていた、蕎麦の栽培日誌です」


 覺が身罷った後も、住み続ける事を快く受け入れ続けてくれていた村の為にも、苑は覺の死後も、大切に蕎麦の栽培を続けていた。

 突然の冷夏や極端な豪雪に数年に一度見舞われる祭国は、その災禍から逃れようと祭事国家となったのであるが、覺はそんなものに頼るのではなく、より確かなもので民を守ろうとしていたのだ。


 燕国から蕎麦の種籾を入手した頃に、城で采女うねめとして仕えていた苑は、覺と出会った。最初の心の触れ合いは、色恋というよりも尊敬の念に近かった。この祭国をより良くしようという理想に燃え、それを夢で終わらせない実行力を伴う覺の姿に、純粋に憧れた。

 覺の役にたちたいと、母方の祖母の出身地であるこの村を紹介した。そこで共に打ち込むうちに、尊敬や憧れの気持ちが、夢を理解しての惜しみない協力に打たれた心が、男女の恋へ、そして愛へと変貌を遂げていったのは、自然な流れだろう。

 しかし、所詮は苑は、城に仕えるただの采女だ。

 王太子である覺と身分が釣合う筈もない。だから密かに愛されていれば、それで満足だった。覺の重荷になりたくはなかったから、隠された室としての扱いでも、充分過ぎた。

 だが、それも苑が御子である学を身篭り出産した事で一変する。覺の母后である王后・萩に、流石に二人の仲が発覚したのだ。


 当然、身分違いだと激昂した母后・萩に、まるで罪人のように、乳飲み子である学と共に、眼前に引き立てられてられた。

「その赤子、誠に覺の御子ですか?」

 ――お前のような下賤な身分の女が産んだ子なぞ、我が子覺の高貴な血を引いているわけがない。どうせ、しゃあしゃあと他所の男を咥えこんで仕込んだ別の種を、これ幸いに、人の良い覺の胤だと騙しているに違いない。

 と、案に言っているのは、顰め面をした萩の眉間に寄る深い皺が、何よりも雄弁に物語っていた。


 母后・萩に蔑まれ、辱められたあの日の事を、苑は一日たりとも忘れたことはない。自分が何と言われようとも、耐えられる。しかし、学の身体に流れる血筋を、よもやこのように疎まれるとは。

 覺もまた嗔恚しんいに全身を震えさせ、苑以外の女性を傍に置くつもりはないと母后・萩に宣言し、その足で苑と学を守る為に王都から出し、村に隠した。

 覺と萩親子の仲の亀裂は、こうして決定的なものとなった。やがて、父親である順が、暗愚であると周知でありながらも王位継承位を守る為だけに王座に就いたが故の、あの一族内での内乱が起こった。


 叔父である便と、息子である覺を担ぐ勢力に推され、覺は望まぬ戦に出向かざるを得なくなる。その時、覺は母后・萩に懇願したのだ。

「この戦に勝利を収めたならば、苑を妃として城に迎え入れさせて欲しい」

 ――と。

 兎も角、戦の旗印として立たせねばならないと焦っていた母后・萩は返答を曖昧にしたまま、覺を送り出した。

 そして、悲劇は起こった。

 母后・萩は己を責め悔いながら儚くなり、そして隠されたまま室とされていた苑の存在を知る者は、この世から消えた。

 苑は胸に幼い学を抱いて、覺の悲願であった蕎麦の栽培に、彼と過ごした日々を想いながら年月を重ねた。学は俐発に育ち、その面差しから何もかもが父親である覺を思い出させては、苑を喜ばせてくれる。

 今年からは、蕎麦の育成状況を記す日誌を、学も共に観させた。丁寧に書き連ねられた文字すらも、覺を重ね合わせてくれたのだった。


 それで、満足だった。

 幸せだったのに。

 いつか、成長した学があとを継いでくれれば。

 学の手によって、この蕎麦の栽培方法が祭国に広まって、国が豊かになっていく姿を見る事ができれば。

 それで、それだけで良かったのに。


 腕の中の、愛おしい男性との間に授かった大切な御子が、屈託ない笑顔で、心を鬼にしている母親を見上げてきた。

「母様、この日誌を、お渡ししてきても宜しいでしょうか?」

「お渡しする? 何方にです?」

「はい、此度祭国においでになられた、郡王様にです」

「郡王陛下に?」

「はい、先程、私たちをお守り下さっていた郡王様のお供の方に、是非にと請われてお見せしました。とても素晴らしいと、褒めて下さいました」

「褒めて……それは、どのようなお言葉で?」

「この祭国の行く末を、心の底から思う重みが感じられると。それから」

「それから?」

父様とうさまの意思を継ぐ事が出来るのは、幸せな事だと。父様とうさまの意思を忘れる事なく育てて下さった母様に、感謝して生きねばならないと。母様」

「何ですか、学」


「郡王様は、母様が話して下さる父様と同じように、この祭国の為を思い、救おうとされています。だから私は、これは郡王様のお手元にあるのが、正しいと思うのです。母様、私は間違っていますか?」

「……学」

「そして私も共に、お役にたちたいのです。父様の願いを、叶えたいのです。母様、いけませんか?」


 苑は、愛息子を強く抱きしめ直した。涙が溢れてくる。

 いつの間に、此れほど成長していたのだろう?

 父親を知らないからこそ、自分の手の内で慈しまれているだけで満足している、優しいばかりの子だと思っていた。

 けれど違っていた。語りかける少ない言葉の中から、学は父である覺を見出して、既に立派に跡を継いでいたのだ。


 どうすれば良いのか。

 本当に、女王である椿姫に、学を預けても良いのか。

 そもそも、一時の感激に流されて認めて許してしまっても、何事か事が起これば、臍を噛むのは大切な学なのだ。

 まだ正直、判断はつけられない。

 それにあの時、母后・萩に辱めを受けた事を、簡単に水に流す事もできない。そんなに簡単に、割り切れる事ではない。

 学を認めて貰えなかった。あの哀しみと悔しさを、すんなり忘れ去り笑う事などできない。


 だが息子・学が生まれて初めて見せてくれた、父・覺の背中を追いたいとの願いは、絶ってはならないと苑には思えた。

 ぎゅう、と音がするほど、息子を抱きしめる。

「母様、苦しいです」

 胸の中で、小さくもがく学の体温を愛おしく感じながら、苑は戸口に視線を向けた。

「女王陛下と郡王陛下に、お会いしたいのです。お取次を願えますか?」



 ★★★



 がくを抱いたそのが、もくの案内で、姿を現した。

 思わず腰を浮かせる椿姫に、苑は、腕に抱いた学を下ろして、そしてその背中をそっと軽く押し、促す。背後の母親を振り返って見上げてにっこりと微笑むと、椿姫と戰の元へと、迷いなく小走りに駆け寄る。


「どうぞ郡王様、これをお納め下さい」

「これは?」

「私が父様とうさまから受け継いできた、蕎麦の栽培日誌です。母様ははさまが父様と共につけられていた時分からすれば、今年を含めて、十二年分の記録が残してあります」

 思わず知らず、真は立ち上がっていた。学の前に膝をついて、同じ目線となるように腰を下ろす。


「学様、貴方様はこれがどのようなものであるのか、正しく理解しておられますか?」

「はい。先程、母様ははさまが私に全て、話して下さいました」

 椿姫が、苑に視線を送った。苑は俯いて顔を背けた為、表情は読み取れなかったが、覗く目尻が、微かに赤い。


 真の背後に、戰が歩み寄る。

「知っていて、私に受け取れと言うのか?」

「はい、どうか郡王様の目指される御国の為に、お役に立てて下さい。それから、出来れば」

「出来れば?」


「私もこの祭国の、お役に立ちたい、私を、お傍に置いて頂きたいのです。蕎麦について、最も詳しく知るのはこの私です。何しろ、母様のお腹にいた時分より、一緒に育ってきた間柄ですから」

「学」

 戰は、一度言葉を切った。

まだ細い学の肩に、大きな手を置く。


「今一度、聞こう。言った言葉の意味を、君は正しく理解しているか?」

「はい。私は、私の父様とうさまが望まれた夢を、意思を、跡を、継ぎたいのです。ですから女王様。どうか私を、父様の御子として、お認め下さい」


 学の小さな身体を、椿姫が抱きしめる。

「女王様、苦しいです」

 椿姫の胸の中で、学がもがいた。



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