6 御子・学(がく) その1
6 御子・学 その1
行幸が初まった。
戰にとっても椿姫にとっても、これが祭国において初めて執り行う、公的な行事となる。
都大路を行く行幸の御練りを一目見ようと集まった人々の度肝を抜いたのは、先頭に佇む巨大な黒馬に乗った郡王の姿と、彼に守られるように寄り添う、栗毛の牝馬に跨った王女、いや女王の姿だった。
仕来り通りでゆくのなら、先ずはそれぞれ格式に見合った輿に乗り込む事になるのだが、全く意に介さずだ。しかも二人共、それなりに着飾ってはいるが、基本的に普段城で過ごしている時と、ほぼ変わらない装束ときている。
薦めたのは、珊だった。
「どんな格好すりゃいいのか分かんないのならさあ、もう考えるの面倒臭いし、いつもの格好でいいんじゃないの?」
「それは余りにも仕来りに悖ります。仕来りというものは、無駄に存在するものではありません。ご身分の尊位を知らしめる最も有効な手立てであるからこそ、伝えられているのです」
止めようとした気真面目一辺倒の杢を、笑って諌め、珊の意見を採用するとしたのは戰と椿姫、ほぼ同時だった。
「気取らず飾らないでいるのが、一番だわ。何時もの私を見て欲しいもの」
「私も同じ意見だ。私は、この祭国の為を思う私の、真の姿と真意を感じて貰う事が、今回何よりも大切だと考えている。珊の考え方は、素晴らしいと思うよ」
と、寧ろ二人に無邪気に喜ばれてしまっては、考えの硬い杢も、「はい」と押し黙って引き下がるしかしようがない。横では、「さっすが、あたいの皇子様と姫様!」と、珊が飛び上がって手を叩いており、杢が珍しく苦笑いをしつつ己の非を認めたのだった。
とにもかくにも、こうした二人の考えの元に、行幸の行列は整えられていったのだった。
「行くぞ、千段」
黒馬の首筋を軽く叩くと、短く嘶いて馬は答えた。
「戰様、やはり馬の名前は『千段』にされたのですか?」
「ん? ああ、陽国風とでも言うのかな? 良い名前だろう?」
「はあ……」
名前の由来は、千の石段を一気に駆け登ったという剛国王・闘の言葉からきているに違いない。得意満面でしかも満足気な戰に、真は肩を窄めて首を振る。
「何だ、何か言いたい事でもあるのかい、真」
「いえ、何でもありません」
「そうか?」
人間、本当に完璧ではいられないが、此処まで名付けの感性に乏しい、と言うよりも、完全にはっきりとない御方が、この世に存在されようとは。
窄めた肩を落としながら、真は深い溜息つく。
もしも、戰様と椿姫様の間に御子が誕生された暁には、戰様が名付けられる事だけは、何としても、そう我々が一致団結して全力をもって、阻止せねばなりませんね。
下手な騎手にも文句も言わずに共乗りしてくれている薔姫が、くる・と顔を真の方に向けてきた。くすくすと、遠慮なく笑い声を上げている。
「ねえ、我が君」
「何ですか?」
「お兄上様ってば、下手ね、名前付けるの」
「全くですよ」
共に馬に揺られる幼い妻の言葉に、真は深く同意し、何度も何度も頷いたのだった。
しかし、直ぐに真は表情を引き締めた。
問題は全くの手付かず、未解決のままに山積みにされているのだから。
露国王・静の申し出をどのように回避すべきなのか。その最善策も思いついておらねば、承衣の君と御子が喜んで椿姫を受け入れてくれるものであるのかも、覚束無いときている。
このような雰囲気の中、努めて明るく、普段と変わらぬ様子に振舞っている戰と椿姫に、真は切なくも己の力及ばぬ不甲斐なさを噛み締めるしかなかった。
美々しく着飾らなくとも、戰と椿姫の姿はこの世ならぬ者のように美しい。誰もが見惚れ、感嘆の溜め息をつかずにはいられない。それは勿論、好意に直結するものだった。
民衆の好反応に手応えを感じとり、安堵しながら、真は二人の背中を見守りつつ、密かに祈る。
どうか、御子様と椿姫様だけでも、良き巡り合いを果たされますよう。
その後、必ずお二人の為に良きなる道を、この頭が壊れても構わぬ程、考え尽くして探し出してみせます。
願いから、知らず二人の背中を見つめる真の視線が、滲む。
見上げる薔姫の視線に、気が付かない程。
★★★
夕刻前に、忍んで村を巡りたいと県令に戰が申し出ると、有能そうな老年の県令は快く頷いた。己が布いてきた地政に、それなりの自信を持っているのだろう。椿姫に化けた珊と共に戰が県令の案内で動いている間、椿姫は真と蔦、そして杢を伴って、件の女性の家を訪れた。
椿姫の兄王子・覺の承衣の君であるという女性には、蔦の一座の芙が前もって算段を付けておいた為、直ぐに面会が叶えられた。
苑と名乗ったその女人は、雪のように白い肌に、遠慮がちな伏せ目から溢れる黒い瞳が、落ち着いた雰囲気を醸す女性だった。
だが、ただそれだけではなかった。
母親となった女性特有の、きり・と一本筋の入った強さを何処か感じさせる。
苑は、兄王子・覺の持ち物として、王室由来の刺繍が施された深衣を大切に仕舞っていた。折り目が正しくぴしりと付いたそれは、季節ごとに丁寧に洗濯されてこられたのだろう。一人密かに、心に覺を想いながら。
そう思うと、椿姫の胸には熱いものがこみ上げ、止めど無く溢れてきてやまない。
この御方が、お兄様がお母様に背いてまで、愛された女性。本当に、素晴らしい御方と巡り逢い、愛し合われてきたのですね。
苑が、差し出した深衣を前に、椿姫に王に対する深く礼を捧げた。慌てて膝を上げて、椿姫は苑に駆け寄る。
「そのような真似をなさらないで下さい。貴女は大切な承衣の君、私のお兄様が見初められた御方です。私の義理姉となられる御方です。どうぞ、面をお上げ下さい」
しかし、苑はその姿勢のままで頭を振る。
「いいえ、女王陛下。此処に陛下が参られた深意を、私は理解しております」
「え?」
「覺殿下と私の間には、確かに、今年で7歳となります学という名の、男御子が存在しております」
7歳。
と言えば、兄・覺が亡くなった時は、まだ2歳。その様な幼さでは兄の姿を、いや父親としてすら、記憶に留め置く事は難しいだろう。
喜びより先に、椿姫の身体が固くなった事を、指先が触れる肩で感じ取ったのだろう、苑が畳み掛けてきた。
「そうです。我が子・学は、父親が何処の誰であるのかを知らずに、此れまで過ごして参りました。私もこの先、学にどのように問われようと、父である覺様の身分を明かすつもりは、御座いません」
「苑……」
「女王陛下、陛下が女性の身の上で、この祭国の為にと立志なされておられる事は、素晴らしい事と存じ上げます。なれど、何れ陛下が御成婚なされれば、王室には次代を継ぐ御方がなくなられてしまう。その為に、我が子・学をとお望みなのでしょうが、そんな事、私は許せません。大切な我が子を、お国の政治の都合の為だけに差し出すなど、母として、出来ません」
「苑、違うわ、違うの、私は」
「あの子は、学は私の子として、此れからも生きていかせます。それ以上は望みませんし、望むつもりもありませんし、望みたくもありません」
激しい拒絶の言葉に、椿姫は静かに触れていた手を引いた。
★★★
「……分かりました。苑、貴女は本当にお兄様に愛されていたのですね」
「え?」
「そうまでして、大切な御子を守ろうとしているのですもの」
「女王陛下?」
「安心して下さい。貴女が御子を、祭国の王室の一員になどしたくはないと望んでおられるのでしたら、御子の身分を明かす愚挙は起こしません、ただ」
「――ただ?」
「ただ、一度だけで良いですから、御子に合わせて下さい。名乗りはしませんから、ただ、顔を見せて、この手に、抱かせて下さい」
「陛下」
「どのように言葉を尽くしても、この罪は知らなかったで済ませる訳にはいきません。父である大上王が愚かであり、亡くなられた母の王后陛下が独りよがりであり、何よりもこの私が、兄の死後も世間知らずで未熟で有り過ぎたせいです。長らく、お兄様が愛された承衣の君である貴女を隠室に、大切な御子である学を隠御子とする不幸を、背負わせてしまいました」
「陛下」
「御免なさい。どうか、謝らせて下さい。そしてどうかこの謝罪の言葉だけは、受け取って下さい。出来るなら兄の霊廟にだけでも、お二人で詣って欲しいのです」
椿姫が、苑の手をとって握り締めた。
大粒の涙が、苑の白い手の甲にぽとりと落ちる。ハッとして、苑が手を引き込めようとした時、部屋の外から声が上がった。
「母様、お客様とのお話は、もうお済みになられましたか? 聞いて下さい、私が書いた日誌を、褒めて下さる御方がいらっしゃって、それが何方だと思われますか……?」
ぱたぱたと、元気の良い足音が近付いてきた。
遠慮なく、すらりと戸を引き開けたのは、興奮気味の声の主である少年だった。
丸くふっくらとした頬が赤いのは、秋の夕暮れの中を懸命に走ってきたからに違いない。白い肌と大きな黒い瞳は、苑に似たのだろう。
しかし、全体的な顔ばせのつくりは、優しく理知的な印象を与える顔付きは、記憶の底にある兄王子・覺そのもの、正に生き写しだった。
――この子が、学。お兄様の、御子。
思わず手を伸ばし、抱き寄せかけた椿姫の横を、さっと横切る影があった。
苑だ。
椿姫がその影の正体に気が付く前に、少年は、母親の腕にしっかりと抱かれていた。
「まあ、なんて礼儀知らずなのでしょう。お客様に笑われてしまいますよ」
「申し訳ありません、母様。静かでしたので、もうお客様は、お帰りになられたのかと」
「これから、お帰りになれますよ、ご挨拶をなさい」
「はい、母様」
苑に背を押されて歩み出た少年は、賢そうな印象そのままに、丁寧な礼を椿姫に施した。
「お客様、私が幼い為に母様は、家を離れる事を嫌われるのです。ご足労をおかけした罪は私にあります。どうぞ、お許し下さい。そしてお気を付けて、お帰り下さい」
頭を下げる学が、冷たい頬をしている事に苑は気が付いたらしい。静かに手の平を、赤い頬にあてがってやる。母親の手の温もりで暖をとる少年の嬉しそうな笑顔に、椿姫は胸が締め付けられて言葉が出ない。
立ち上がりざま口元を手で覆い隠し、椿姫は部屋を飛び出していた。
★★★
苑の住まいを飛び出した椿姫が、一人、小さな溜池の傍に立つ植木の陰で、涙を流してしゃくり上げていた。拒絶される事は覚悟の上の事のつもりであったが、心の何処かで、受け入れて貰えるのではないかという甘い期待感が膨らんでいた事も、確かだった。
しかし、想像以上の苑の断固たる態度に、自分たちが犯してきた罪の重さを、改めて思い知らされた。
でも、堪えなくては。
罪は此方に、私たちの方にあるのですもの。
長らく放っておいて、一族として認めて欲しいなんて、都合の良い話を、喜び勇んで受け入れるような御方を、お兄様が選ばれる筈が、ない。
生きて、会う事が出来た。
名乗れなくても、兄の面差しを持った御子を、確かにこの目にする事が出来た。
利発そうな子だった。母を大切に思う言葉から、母子の幸せな生活が垣間見る事が出来た。
それで、もう充分だと思わなくては。
手の甲で流れる涙を拭い取ると、椿姫は何度も深呼吸をし、息を整えた。
笑顔でいなくては、皆が心配する。特に、戰の前ではこれ以上涙を流したくなかった。必死で、表情を取り繕う。
背後から、人の気配を感じて振り向くと、蔦が優しく微笑んでいた。この笑顔を見るだけで、何故かほっとする。男性である筈なのに、時に蔦は女性よりも和らいだ笑みを浮かべるのだ。
「大丈夫に御座いまするか、王女様」
「はい……心配をかけました」
蔦の傍に行こうとすると、急に彼がそれまでの柔和な面を捨て、厳しい表情となった。訝しみ、小首を傾げる椿姫目掛けて、疾風のように蔦が走り寄る。
「蔦っ……!?」
「ご容赦を!」
蔦が、椿姫の腕を掴んで乱暴に引き寄せた。椿姫が、叫び声を上げる間もなく、植込みの中に倒されるように押し込められる。
何か、握り拳大の物が、投げ付けられてきたのだ。しかし蔦は、纏っていた披帛を鞭のようにしならせて、それを叩き落とした。目潰しの類なのだろう。塊が地面で割れ、白い粉状のものが煙のようにもうもうと沸き立った。
身を翻しざまに、植木の影の椿姫を匿い、自らも顔面を庇って白煙が収まるのを待つ。結った髪を飾る笄を素早く抜き取って身構え、背後に椿姫を守りながら蔦は周囲に視線を巡らせた。
妖しく危険な殺気を、幾つも感じる。
しかし、このように接近するまで、この自分に悟らせずにいるとは。余程の手練に違いない。珍しく、緊張の為に冷汗を額から一筋流す蔦の背を、不意に震える掌が突き飛ばした。
普段の彼女からは、到底思いもしない行動に、全く無防備であった蔦はあっさりと突き飛ばされた。勢いのまま、体勢を崩してしまう。椿姫がするりと脇を通り抜け、その場を離れる事を迂闊にも許してしまった。
「――学! 苑!」
「姫様、なりませぬ!」
蔦の静止の言葉を振り切って、椿姫は苑と学の住まいへと走っていた。
★★★
椿姫を守ろうと飛び出しかけた蔦に向け、矢が打ち込まれてきた。
舌打ちをしつつ、笄を使って打ち落とすと、笄は悲鳴のような音をたて、真っ二つに割れた。役立たずとなった笄を、投げつけ一人を目潰しして倒す。
「姫様!」
椿姫に駆け寄ろうとした蔦を、面体を黒い頭巾で隠した男たちの一団が遮った。
再び舌打ちをし、飛び上がり様に、髪から笄を抜き取り男たちの急所目掛けて投げつける。が、如何せん絶対数が違いすぎる。最後の一本と披帛を使い、敵を惑わしながらも椿姫の安否をちらちらと確認する。
その視界に飛び込んできたものに、珍しく蔦は無力感に苛まされた。
新手が現れたのだ。
横合いから飛び出してきた新たな一群に、椿姫が衣を裂く様な悲鳴をあげた。
「姫様っ!!」
蔦が悲痛な叫び声を上げる。
流れるような椿姫の黒髪を掴んで引き寄せようと、同じく黒い頭巾と装束姿で身を固めた男たちが、背後から邪悪な気配を消そうともせずに迫る。
そこへ、一本の太い光の矢が走り、一人の男の頭部を貫いた。
光の矢は、剣だった。
頭を串刺しにされた男は、数度左右に揺れてから、どっと前のめりに倒れる。
あっ!? と、男たちが驚く間も与えずに、今度は馬の嘶きが雷鳴のように響き渡った。
風雲のように、黒々とした鬣を逆巻かせて現れた巨大な黒馬が、後ろ脚を使って立ち上がっていた。前脚の蹄で一人の男の頭を、叫び声を上げさせる暇も与えず、蹴り砕く。熟れた柘榴の実のように脳の中身を盛大に地面にぶちまけて、男は血飛沫と共に、ぐしゃりとその場に崩れ落ちる。
条件反射で蠢くだけの肉体に、とどめを刺すつもりなのか、嘶きと共に黒馬はその腹をどかりと踏みしいた。
黒馬の激しい息遣いが、白い蒸気となって秋の夕闇に立ち上る。椿姫の前に昂然と立ちはだかり、目を剥く黒馬の文字通り鬼気迫る形相に、男たちが怯みをみせた。たじろぎ、知らず後ずさりしつつごくりと生唾を飲み下している。
動きを封じられていた男たちが、黒馬が現れた方角から凄まじい勢いで駆け込んでくる気配に自我を取り戻すのと、その内の一人が、無残に倒されるのは、ほぼ同時だった。




