23 合従連衡 その1-2
23 合従連衡 その1-2
漸く芙が戻って来た。
此の一報は、瞬く間に克の部隊に広まり、5千騎の部隊は大いに沸き立った。
何しろ克も竹もだが、部隊を占めている大部分の年齢層が20代、いって30代前半という若い世代が中心だ。一度盛り上がると『馬鹿』の冠が幾つあっても足りない程、底抜けだった。
特に、祭国入植当初から克が鍛えてきて句国戦に参戦した『千騎の仲間』の沸き方は異様と言ってよい盛り上がりを見せていた。
芙が戻って来た。
つまり、近々此処で一戦あり、と言うことに他ならない。
克が率いている最も古い仲間は、此の句国で戦の趨勢を決定付ける戦いを経験しているのだから、興奮するな、という方がどだい無理な話だろう。
其れに何のかんの言っても、要は仲間と楽しく騒げる理由があれば良いのだからより質が悪いのだった。
早速、なけなしの酒が振る舞われ始めた。
蔦の元で鍛えられた芙の仲間たちも、ほっとした様子を隠そうとしない。
特に薙は顕著であり、助かった、と顔に描いて半分涙目になりながら、意味不明のヘラヘラ笑いを浮かべている。人間、切羽詰まった状況から、突然すぱっと切り離されると、感情をどう吐露してよいものか、分からなくなるという良い実例だった。
「いやでも、此れは本心だ。芙が帰って来てくれた御蔭で、俺は真の世話から降りられる、万歳を叫びたいよ」
「……おい……」
流石に咎める口調になった芙に、いやいや、薙を許してやれよ、と蘭と萃が助け舟を出してきた。
「実際、お前が真殿の世話をしてるのを見てると、簡単そうにだったからな。俺達もそんなもん楽なものだろう、って軽く考えていたんだよ、けどなあ……お前、よく真殿の相手をしていられるよ」
「そうか?」
すら、と答える芙に、そうだよ、と茹も苦笑している。
誰かに化ける変化の術を使おうと思えば、真のような解り易そうでいながら其の実、鬱陶しくもみみっちい注文ばかりの男は観察のしがいがある、というのが芙の考え方だ。差し出された瓶子から注がれる酒を盃で受け止めながら、芙は事も無げに答える。
「薔姫様の脚元にも及ばない」
「其れを言われたら、俺たちゃ、いや此の世に居る野郎ども全員、無能も無能の役立たずの大軍団だぜ」
全くだ、と5人の仲間がどっと湧いた。
宴は楽しく盛り上がり続け、そうこうしている間に、陸と姜が帰って来た。
目敏く芙の姿を発見した陸が、芙兄! と叫びながら齧りいた。
「陸、少し背が伸びたか?」
「当り前だろ? 芙兄、俺ぁ、今、伸び盛り何だぜ?」
にかっ、と歯を見せて笑う陸は、ちょろちょろと芙の周りに纏わり付いて離れない。
陸が帰って来た処で、ささやかな舞というか、芸能のようなものが始まった。芙を始めとした5人は蔦に鍛えられた体術使いだ。場を華やかなものにする技には事欠かない。
一人、場違い感を噛み締めながらも、陸にがっちりと腕を絡め取られている姜は逃げ出せない。微妙な笑みを浮かべながら、祭国軍の暖かな酒宴を眺めるしかなかった。
★★★
程よい疲れと夜の見張りや明日に差し障るという戒めから、自然に宴は散開した。
真と芙も、自分たちの天幕に戻った。しかし早速、真の役目を芙に押し付けた薙は、残る4人の仲間と共に早々に克と竹の処に姿を消した。
血の気が多い薙は、実は、何方かというと竹たちとの方が気は合う。其れに、祭国軍と禍国軍があと3日後に句国領内に到着するのだ。武具や馬具の総点検にどれだけ人手があったとしても困らない、と彼是理由を付けて萃たちの後について行ってしまったのだった。
長く転戦してきた疲れも見せずに、芙は真の世話をし始める。
「真殿、実は相当疲れが溜まっておられるのでは?」
「はい? ……ええ、まあ、慣れない土地ですし、其れはまあ」
腕を薬湯に浸けて按摩するという贅沢が出来ない為、確かに背中に強張りが出来ている。
「気が付かれておられるでしょうが、此方に来た頃と比べて明らかに姿勢が悪い。身体を庇っているつもりでしょうが、逆に負担になります。其れでは疲れが溜まっても当然だ」
「然しですね、治療の方も祭国に居たようには行かないですから、ある程度堪えるのは仕方無い……」
言い掛かけた言葉を遮ると、芙は後ろを向くように言った。
素直に従って背中を見せた真に、按摩を施し始める。最初、涙目になって仰け反り、痛がった真だったが、直ぐに静かになった。蕩けそうな顔付きで按摩を受けている現金な真の態度に苦笑しながら、そう云えば、と芙は呟いた。
「姜殿は随分と変わられましたね」
「でしょう?」
「明るくなられました」
「陸の御蔭ですよ。……こういう時、裏表なく接して呉れる人物の存在は、相手が子供であろうと何だろうと、救いになるのですね」
其れは真殿の経験からですか、と言いかけて芙は言葉を飲み込んだ。真が死の淵から生還した後も、そして未だに、左腕の事で悩み苦しんでいるのは、彼に関わる者は皆知っている。そして、真を救ってくれているのが、歳の離れた妻である薔姫の存在であるのも。
だが何と無くなのだが其れは口にしてはいけないような、真と薔姫の根っこの部分には軽々しく触れてはならないような気が、芙はしたのだった。
ぶる、と一度頭を振って気持ちを入れ替える。処で、と芙は途中になってしまっていた、自分が居なかった間の出来事の中で、一番知りたかった話の続きを始める。
「句国内で動きはどうですか?」
「ええ、姜殿が居てくれるので、至極順調です」
幾ら酒を呑んでも顔色一つ変えない芙と違い、真は場に漂う酒気だけで酔うような軟弱極まる男だ。
按摩が終わり、さて、と立ち上がろうとしたのだが、腰や脚元がふらついて覚束ない。苦笑しながら、芙は真に手を貸した。申し訳ありません、と頭を下げつつ真は床に横になった。
「芙が此方に来る前……父上が契国で戦を仕掛け始めた頃、と云えば、彼方は稲の刈り入れが終わるかどうか、の時期でしたね?」
「はい、その契国の米の生産高ですが……」
「……ですが?」
「芳しくありません」
契国の石高は王城の周辺はそこそこの収穫は見込めたものの、崑山脈に近い地域は壊滅的な打撃を受け、結局全体では此処数年平均の5割を切るという。元より、契国は米の収穫量に安定性がない上に、近年は連続した不作続きだった。今年は、種籾を納めてもまだ追い付かないだろう。
「そんなに……ですか……」
予想を上回る凶作に、真も二の句がなかなか継げない。
横になりながら、胸焼けを抑えようとぱたぱたと手の平を動かして首筋に風を送っていたのだが、のっそりと上半身を起こした。そして、手で口元を覆い隠す。唇を噛み締めているらしい。
「那国から粟や豆を届けたとして、何処まで耐えうるか、が問題ですが」
「ですね。幾ら那国は年に二度、米の収穫が見込めるとは言え……」
「しかし、今の此の契国の惨状を聞き及べば、必ずや備国王は動くでしょう」
はい、と真は頷いた。
備国王・弋は、句国王・玖を討ち果たしてより後、彼の地に居座り続けている。
どうやら、此の地で新年どころか春まで迎える気でいるようだ。
陸と姜が探りを入れてくれているが、崑山脈を超えた本国に残してきた正妃たちを此方に呼び戻す気配はなさそうだが、句国を新たな王都にする腹つもりであるのは確かなようだった。
「句国の方もそろそろ、総石高が出る頃ですが……」
「真殿の見立てではどうですか?」
「……契国よりは、幾分まし、でしょうか。備国王が入った後、随分荒らされましたので……」
悔しさに唇を噛んだ真に、芙も言葉が出ない。
もしも備国の侵入を抑えられていれば、もう少し、収穫が見込めただろう。
だが、備国の略奪行為と悪行は目と耳を塞ぎたくなる悪逆非道極まるものだった。
しかし、あれだけの行為を受けてもなお、田畑を守り通し、米の収穫まで漕ぎ着けた句国の民の底力を見せ付けられた真は、此の国はまだ死んではいない、と感動をもって確証を抱いてもいた。
「其処でですね。芙、悪いのですが、明日、早速、句国の王城内に入って貰えませんか?」
「はい、勿論です」
「御願いします」
真はまた、寝転がる。
よく干されている布団は、ぽそ、と軽い音を上げて真の身体を受け止めた。
仰向けの姿勢で、真は天幕の天辺を仰ぐが、当然、星空は当然見えない。が、流れるような星の河が、真の眸には浮かんでいた。
――此れでやっと、備国を倒す目処がつきました。
玖陛下、妃殿下。
姜殿がずっと胸に抱かれている御二方の御無念。
いよいよ晴らす刻が来たようです。
必ず此の国を、戰様と共に救い出してみせます。
「戰様が初めて得られた大切な同盟の友を奪った罪。備国王には存分に贖って頂くとしましょう」
偽善や欺瞞と言われようと何だろうと、此の句国の惨状を悼み、救いたいという気持ちは本心だ。
自分の心が軋む音には素直に心を傾けよう――と、真は思っていた。
★★★
饗宴は終わりなく続いていた。
喧しい歌声。
キリキリと耳障りな甲高いだけの調子が外れた雅楽。
金切り声に近い嬌声が引っ切り無しに上がり続ける。
甘ったるい香の香りを振り撒き、長い髪を乱しながら舞う遊女は、ほぼ全裸に近い。申し訳程度に胸元や陰部や臀部を帛巾で隠しているのだが、また其れが扇情的だった。
長椅子に身体を横たえながら、最早、乱痴気騒ぎと言って良い無礼講の宴を弋は満足そうに眺めていた。
「……陛下……」
じっとりとした湿気の在る空気に負けず劣らず、蜜の蠱惑的な身体は弋に纏わり付く。
子を産んだ女性は大抵、体型が崩れるものだが、蜜はどんな魔術を用いているのやら、胸と尻に触り心地の良さそうな、たっぷりとした肉を蓄えただけで腰も背中も太腿も腕周りも細いままだ。而も益々肌に粘り気が出てきており、一撫でされるとまるで蛞蝓でも這ったのかと紛う跡が肌に残る。
「貴姬、どうした?」
「……嬉しんで、頂けておりますでしょうか……?」
じわ、と音がしそうな色気をこれ見よがしに発散させながら、蜜は弋の隣に腰掛ける。
本来なら、王と同じ場に座るなど不敬極まる。而も、高々貴姬程度の身分の女が、とその場で斬られても文句は言えない。
しかし、蜜は平然としており、何と、弋の胸元に撓垂れ掛かってさえみせた。彼方此方から、誂うような高い声が上がる。
蜜の問いに直接には答えず、弋は盃を掲げて見せた。手にした盃には、米と麦から作られた酒が満たされている。
「楽しんでいる。実に良い酒だ。此の酒を味わう為だけに、此の地に居残る価値はある」
「まあ……斯様に……喜んで頂けますとは……」
備国本土にはない、独特の穀物系の豊かな甘さが漂う酒は、山脈以西の備国の民にとっては宝にも等しかった。
何しろ、彼の地では米の栽培すら難しい。麦すらまともに育たず、粟や稗しか口にしていない者も多い。だが此の句国にさえ居れば、王と王族にしか口にするのを許されず特別な恩賞として与えられる程の希少価値の高い米を使った酒が味わえる。其れだけで、句国は夢の国と云えた。
「……もうそろそろ、米が租税として上がって参ります……」
「おう、そうか、そんな時期だな」
「……平原の米の味は、また格別に御座います……」
「もう喰っておるではないか」
「ほほ……年始めの米は、別格に御座います……」
楽しみな事だ、と弋は盃を口元に運びかける。
つ、と蜜の白く長い指が伸びて、弋の腕を止めた。訝しむ弋の手から盃を奪った蜜は、片腕を胸の下にあてがって持ち上げる。豊満な胸に出来上がった谷間に、とろり、と酒を零した。
「……どうぞ、お召し上がり下さりませ……」
凹凸感がはっきりと目に付く蜜の体型は、男の劣情を煽る事この上ない。
其れに蜜はこの処、妓女宛らの格好をしていた。
備国の妓女は殆ど乞食と変わり無い。然し、平原の妓女は違う。大きく胸元を開けた衣装は、彼女の女の部分をより鮮烈に際立たせる。
此れも、弋が句国を気に入っている所以だった。こうした楽しみは、時に何日も荒涼とした砂嵐と礫に空が覆われ色を無くす備国では、到底考えられないものだった。
蜜の腰をぐ、と引き寄せると弋は蜜の胸に顔を埋める。酒の香りと、薫香と、女の香りが混じり合い、弋の鼻腔を甘く刺激する。
――平原に出るとは、こういう事か。
喰らい尽くせぬ程美味い食物。
色彩鮮やかな衣装に身を包んだ女たち。
耳と眸を驚かせる技を繰り出し続ける業師たち。
毛烏素砂漠に点在する国々の中では、早くに定着化した備国であるが只の真似にもなっていなかったと思い知る。
眼の前に広がる、此の極彩色の豊かな世界。
此れが、此れこそが平原なのだ。
「……悪くない」
そして歴代の王が夢を見るだけで終わっていた、平原に打って出るという事実を積み上げたのは、此の弋のみ。
――何れ、此の平原を併呑してみせる。
そう、此の句国を足掛かりとしてな。
弋は蜜の胸に顔を埋めたまま、くっく、と喉を鳴らして笑い転げた。
★★★
日出の正刻を告げる鐘の音と共に、弋は起き上がった。
「水を浴びる」
命じながら自らの手で夜着を剥ぎ取り、全裸で湯殿へと向かう。捨てられた夜着を女官たちが慌てて拾い集めつつ、顔を真赤にさせながら弋の後を付いて行く。
朝起き抜け一番に頭から冷水を被り、水風呂に浸かり酒気を抜くのが、句国を手に入れてからの弋の日課の一つだった。
檜の香りが高い湯船には、先に柿の葉を煮出した薬湯を冷ましたものが張られていた。
彼是と気を回す蜜に乗せられるままに様々の薬効のある約湯を試してみているのだが、面白いものだと最近の弋の気に入りだった。
酒膳如きで疲れを感じる身体ではないが、備国ではこうした薬湯という存在はなかった。
何より、こうしてゆったりと湯に浸かるという習慣が、そもそも備国にはない。砂漠地帯では、水は時として人命よりも重く価値のある資産となる。ある程度の身分の家に産まれても、手桶にたった一杯の水で、手水を行い口をすすぎ時に髪すら洗うような生活が普通なのだ。
冷気漂う清水を、ざぶり、と頭からかぶる。水を滴らせながら、弋は薬湯に身を沈めた。
――水は良い。
句国に来て、心底思う。
毛烏素砂漠に育つ馬の強さは、平原にも鳴り響いている。
しかし騎馬隊を大量に生産出来ないのは、数年毎に起こる大干魃が問題だった。弋も、数年掛けて手塩に掛けて育て上げた騎馬たちを、水不足で何度も全滅させた。たった数日の熱波で、万を超す馬を死なせた事もある。
あの口惜しさ、悔しさ、やり切れなさ。何処にも持って行き場のない底無しの憤りを、平原に生きる者は知る事なく一生を終えるのだろう。
そして其れがそんなに幸せな事なのかも、己が如何に恵まれた場で生を謳歌し、享受しているのかを、知る機会すら持たずに、平原の民は死ぬのだ。
――だが奪い取った以上、此の句国は我がものだ。
「此の地の水も草も、何もかもが我が国の物だ……」
腕や脚、肩を湯女たちに按摩させた身体に汲んだばかりの清水を流しかけさせながら、弋は独り言ちた。
朝湯を浴びた後、弋は牛の乳で作らせた粥を食べる。
牛の乳の味も、備国の其れとは比べ物にならない。
喰んでいる草が違うのか、と弋は即座に見抜いたが、同じ事は馬にも言える。
確かに徹底的に鍛え抜かれた砂漠の馬は強い。しかし、充分な食料を与えられた上で訓練を積んだ馬も強い。戦には勝利したが、何故、句国の馬に勝てたのか、不思議に思う時もある。
そしてその度に、弋は首を激しく左右に振った。
要因が様々に重なり合った上での勝利だ。其
れを手繰り寄せた王の力量が物を言ったのだ――と、無理矢理納得させる為に。
食事の後は、再び着替えて、いよいよ政務の時間となる。
王として纏う衣服だけは、備国式の、所謂『胡服』を身に着ける。此れだけは、平原の民が好むぞろぞろと糞長い裾が纏わり付く長衣や玄端とやらに勝るもの、と自慢出来る。
「国王陛下の御成に御座います」
弋が王の間に入ると、家臣たちが恭しく一礼してみせた。
手を振って下がるように命じると、弋は深々と豪奢な椅子に腰を掛けた。
此れまで、玖を始めとした歴代の王が使用していた王の間に入り、弋は政務を行っていた。
城に居残っていた者で男は即刻、全員殺し、女たちは女童であろうとも備国兵が味わってから捨てるかした為、王城内に人影は疎らだが、弋は気にした様子も見せない。机の上に奏上として挙げられている書簡を上から順に手に取る。
句国の王城で繰り広げられている狂乱の宴は終日終わりを見せないままであるが、弋はまともに執務を行っていない訳ではなかった。
寧ろ、精力的と言って良いほど句国を制圧するのに気を吐いている。
と言うよりも、遊んでばかりもいられない、というのが実情だった。捨てられるという危機感と恐怖心を抱いた本国の方からは、引っ切り無しに書簡が届いていた。無論、王の帰国を切々と訴え、促すものばかりだ。家臣団だけでなく、後宮の女たちまで挙って書簡を寄越して来る。
正直な処、鬱陶しい。
弋は恭しく掲げられた奏上の数々に目を細める。
「目障りだな」
「――は?」
「下がれ」
「は? は、しかし……」
「聞こえなかったのか? 其れを持ってとっとと下がれ」
弋は、ぎろり、と眸を剥いた。
鼻白みつつも忠誠心からであろうか、聞き返す部下を手を振って無理矢理追い払う。殺気に当てられて怯えながら去って行く家臣の背中に、ふん、と嘲笑を跳ね返らせながら弋は王座から立ち上がった。
想定外の力を掛けられた肘置きが、ぎち、と軋む。弋は視線を落として、まじまじと王専用の椅子に見入る。黄金を箔押しされた綺羅びやかな椅子は、備国の其れとは比べ物にならない。
――毛烏素砂漠と平原。
山の峰の連なりで分かたれた西と東で此れ程の差があるのか。
知れば知る程、たかがで済まない格差に愕然とする。
備国の王城は、毛烏素砂漠に領土を保っている国々の中でも立派な部類だが、ある程度の定着化を選択した。
其れでも此の差だ。
砂漠に住む騎馬の民の国々など、話にならないだろう。
現に備国の宗主国である蒙国は、歴史上随一と名高い皇帝・雷の治世下であるというのに、未だに王城を持とうとしない。
雷自身が、騎馬の民の伝統である包と呼ばれる天幕形式の家屋での生活を頑なに守り続けている。領民の生活内容など、推して知るべし、だ。
――皇帝陛下は、一体、何が目的で古臭い伝統にしがみつき、下らん風習を続けているのか。
今頃、備国本土では早い冬に備えた家造りが始まった頃だろうか、と思うと弋は喉の奥にいがらっぽさを感じずにはいられなかった。
砂漠では雪はさして振らない。積雪も稀だ。だが、寒さは度を越している。凍てる、という言葉があるが、正に痛みを伴う寒さに襲われる。吐く息まで氷となり、風さえ冷たく乾いて、生き物の息の根を止めに掛かる。
冬の寒さは過酷で極端極まり、幼児や老人たち、障碍者といった弱い立場に在る者は容赦無く生命を奪われて行く。
――全てが凍り付いてしまう世界ではないか。
甲斐もないものを、何故、殊勝面して守る必要があるのか。
平原に出るまでは、気が付かなかった。気が付けなかった。
何故、句国や剛国といった、元を辿れば根幹を同じくする騎馬の民が片隅でも良い、平原に出て定住したいと臨んだのかを。
純粋な領土の広さだけを見れば、句国は備国の脚元にも及ばない。だと言うのに、食物の生産量は桁が違う。必然的に国力としての指針となる人口にも、雲泥の差が出ている。
句国の国力は大凡であるが、総戸数49万戸以上、人口250万人強。
先の戦での兵士の動員数は、句国の国力からすれば少々物足りぬ位だと弋は今らな首を捻る。宗主国である禍国により兵力を抑えさせられていたのが原因なのだが、其処まで事情を教える者が、城には生き残っていなかった。
「此の程度の土地で、50万戸以上を養えるのか」
対して備国は総戸数33万戸弱、人口145万人弱。
備国は句国よりも倍近い領土を有している。なのに、戸数と人口に此れだけの開きがあるのは、其れだけ王都以外の都市部が『がら空き』だと言っているに等しい。
良い捉え方をすれば、備国は手付かずで無活用の土地が余りある。句国の国力を数年で抜くなど造作も無い、と言えるだろう。
だが、同じだけの労力を句国内で費やした時、此方はどれだけの発展を見せるのだろうか?
――到底、比べ物になるまい。
此処までの差があるとは、思いもしなかった。
王の顔付きになって椅子から離れた弋は、より一層、壮麗に映えさせる内枠を備えた格子窓に近寄った。
風が一段、冷たくなっている。足早に秋が通り過ぎ、冬が駆け寄って来ているのだと肌が感じ取る。机に戻ると木簡の一つを手に取り、目を通す。米の最終的な石高の集計が上がって来ていた
「貴姬が言っておったな……」
書簡には、今年の米の総出来高は170万石だと記されている。
句国の米の総生産能力は、残されている記録によれば年平均大凡300万石弱。
それからすると今年の収穫量は、例年の6割にも満たなかったと云う事になる。
句国での租税としての米の納め方は、直近5年間の収穫量平均の大凡4割を国に直接納め、1割を其々の県の守護に来る県令に戦や飢饉などに備えて徴収する、というものだ。
つまり、官に5割、民に5割のほぼ折半という収め方だ。
冷夏に備えてはいたものの、備国との戦で田畑が荒れたのも大きかった。
此処までの凶作の場合、1割の自発的納税を控えたとしても収穫の殆どを租税として納めなくてはならなくなる。
こうした場合、領民の負担が著しく重くなるのを避ける為、収穫直前に県や牧の令や長官たちが国に対して減免措置を取るようにと進奏が行われるのが平原諸国の常だった。そして其処に備蓄米として県に納めていた1割の米の放出の許可を求める嘆願書を添えるのが、句国式だった。
現に、弋が手にしている書簡の他にも句国各地から切々と窮状を訴える進奏が山となっている。
「……祭国郡王・戰であれば、今年の租税を止めるようにとでも申し渡す処であろうか……な」
ふっふ、と弋は肩を揺らして嗤う。
――征服者が甘い顔をしても碌な事はない。
寧ろ、新たな支配者を魂に刻み込ませる為にも、力と恐怖をもって徹底して搾取すべきなのだ。
「私は、奴のように甘くはない」
弋の低く暗い嗤い声は、やがて哄笑へと変貌していった。




