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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
七ノ戦 星火燎原

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22 屍山血河 その10-4

22 屍山血河 その10-4



「何事だ!?」

 嵒は歓声の方に身体ごと向き直った。そして、同時に目を見開く。

「お、お、お・おおぉぉっ……!」

 呻き声が漏れたが、嵒は気が付いていない。だらりとだらし無く顎が下がり、おこりに罹った幼児のようにわなわなと全身を震わせている。

 視界に飛び込んで来たのは、契国軍の軍旗だった。

 而も、只の軍旗ではない。

 国王のみが掲げる事が許されいる国旗、そう、大軍旗だったのだ。


「な、何故、何故、何故、陛下の軍旗が斯様な処に!?」

 胸を衝かれて二の句が継げない。精神的に受けた衝撃は心を壊死させ、やらねばならぬと分かっていても動けなくする。

 曇天模様に翻っている碩の軍旗は、何処か申し訳無さ気であり、所在無げもある。つまり、中央に堂々と勇ましく掲げられている郡王・戰の軍旗と較べて、何もかもに差が有り過ぎるのだ。

 其の一振りで人心を掌握し、其の金糸銀糸の輝きで漢たちを鼓舞し、空に溶け込むはためきの音のみで勇躍して決戦に挑ませる、郡王の軍旗とは何もかもが違い過ぎる。


 おっ、おうっ、おっ、うぅっ、と意味もない、言葉に為らぬ呻きが嵒の喉の奥から溢れる。

「……陛下っ! 何故、陛下が何故、斯様な場に、戦場にお出ましあられるのだっ……!」

 入道雲のようにむくむくと膨らんだ疑問には、碩の軍旗の背後に犇めき出した旗が答えた。

 見窄らしい旗だ。

 いや、旗と呼べる代物ではなかった。筵のような簾のような、其れも使い古しの穴が開いたり糸が解れて途中で崩れたりしているような、貧相さだ。

 筵旗には様々な文様が描かれてあった。いや、文様と言って良いものかどうか。ある筵には丸が幾つも並んだり横棒が引かれたり、ある簾には斜線が引かれたりしている。中には、手形が無造作に押されているものもあった。


「何だ……? あれは……?」

 見る見る間に数を増やす筵旗は、色合いからまるで蝗が密集しているかのようにも見える。

 嵒は舌打ちした。

 漸く分かってきた。

 あの筵は、領民たちが蜂起した際に邑や牧ごとに集まった人数や指導者的な立場の者の印なのだ。文字を知らぬ彼らは、邑を飛び出してきた者同士、決意を同じくした者同士、同じ形を筵旗に書き込んで同士の証としたのだ。

 中でも一番目を引くのは、碩の軍旗に寄り添うようにして棚引く巨大な筵旗だった。所狭しと記してある楔形が、彼らの目印であるらしい。


 こんな巫山戯た当て擦りめいた行いをする者など、嵒の記憶にある中では、どう考えても一人しか居ない。

 筵旗を押し立て一歩先を突き進む集団から、してやったりと云いたげな、勝ち誇った声が上がった。

 男は、仲間たちと共に軍旗を全面に突き出しながら、気合いを発して歩いている。

 手にしているのは、当然、武器ではない。家にある農具や林業を行う際の道具だ。新たに作り直す余裕も買い直す金もないのだから、見た目にもしみったれており、到底、武器とは云えぬ御粗末さだ。

 だが彼らにとっては、生命にも等しい大切な財産だ。此れをなくせば生計を立てる手段を失い、今迄以上に困窮零落への坂道を加速度的に転がり落ちるのは必死だ。

 だから決起兵たちの気迫は、兵士たちの其れとは根底からして違う。

 全身から漂う殺気が違う。

 最も素直に反応してみせたのは、馬だった。

 契国軍の騎馬隊の馬たちは恐怖に狂い乱れ、統制が効かなくなった。


 決起兵たちの黒い山の中央が割れた。嵒が注視する中で一人の男が、歩み出て来た。

「はっはぁ! よお、糞爺! また会ったなあ!」

 嵒は歯噛みしつつ、ぎろり、と血走ったで声の主を睨み付ける。

 大抵の者は臓腑まで縮み上がらせるのだが、相手は嘲笑う余裕を見せる。

 旗を支える粗末な竹の棒を肩に担ぎながら鼻糞を穿ってまで見せた。

 完全に勝ち誇っている。今迄、散々見下されて踏み付けにされ、意味無く足蹴にされ罵倒され、弱まれば無造作に打ち捨てられてきた者たちの群れとは思えなかった。

 凜々と音を放つ気概と生命力は、一枚の硬い岩となって煌々と輝いている。嵒が率いている契国軍にはないものだ。


「貴様、ばつ、とか言うたな」

「へっへ、流石に俺の名前を覚えたか、相国さんよ」

「ぬかせ」

 荒い息を整えながら、嵒は更に睨みを効かせるが伐は全く堪えない。へっ、と肩を竦めて皮肉たっぷりに伐は嘲笑してみせた。

「相変わらずじゃねえか。だがまあ、立場は逆転しちまったよな」

「何!?」

「今の俺たちゃ、国の存亡の危機に立ち上がった義兵って奴よ。俺たちが義の民なら、悪の冠を着ける奴ぁ、もう決まってら」

「ぬかせ!」

 熱り立つ嵒の耳に、止めよ、と別の声が届いた。

 嵒と伐、双方は額を打ち付けんばかりの睨み合いで脚を踏み留めた。

「契国に生きし、全ての民に命じる。武器を捨てよ。最早、戦を行ってはならぬ」

 力強さは無いが、其の分、静かさが空気を張り詰めさせる。契国の兵士たちの身体が、びく、と硬直した。伐たちも、間が悪そうな顔付きでじりじりと引き下がる。


「契国王の言葉に従え」

 名も無き民に支えられながら、ゆっくりと姿を現したのは、そう、契国王・碩だった。



 ★★★



「陛下! 何という事を仰られるのか!」

 嵒は叫んだ。

「陛下! 前言を撤回なさって下さい! 何卒!」

 碩は、霊鬼のような力のない双眸をちらり、と叔父に向けはしたが、直ぐに、ふい……と逸してしまった。脳天を割られる以上の衝撃を受けた事を隠しもせず、何卒、何卒、と嵒は譫言のように繰り返す。


 馬上から、戰は何時の間にか傍に控えていた芙に問い掛ける視線を送った。芙は、静かに首を左右に振ってみせる。

 契国王・碩の居場所を突き止めさせ彼の身柄を守るように、また望めば、幽閉先から逃れる手助けをするように、と芙に命じたのは戰だ。しかし芙が碩を発見した時、彼は嘗ての面影の欠片も無くなっていた。面識のある芙ですら、彼が本当に碩であるかどうか、怪しんだ位だった。

 長く捕らえられて座り続けていたせいで脚は弱まり、而も生命を断たんと絶食まで行った碩の身体は衰弱しきっていた。

 病魔に取り憑かれたかと懸念せずにはおられぬ程、痩せ細っていた。

 当然、馬に乗るなど、とんでもない事だった。其れ処か、自力で歩行すらままならない。

 結局、芙は密かに引き入れた優の配下の者数名に碩を託し、体調の回復に努めるようにとねんじて、紅河を登ってくる戰を迎えに行く事になったのだ。


 だが、生一本な碩が云うなりになれよう筈もなかった。其処は、芙もそして戰も、甘さを認めざるを得ない。

 しかし碩にしてみれば、己の不甲斐無さ故に国を乱したのだ、という念しかない。

 元凶は嵒ではない、叔父ではなく彼の暴走を生み出した己である、と思い定めたら最後、碩のような若者には、その思念から逃れるのは不可能に近いだろう。

 然し乍ら、此の場に碩を連れて来たのは伐だというのが問題だった。此れでは、伐たち領民と此の場で戦いに身を投じた武人たちの間に、後々の遺恨や禍根を完全に無くすのは不可能に近い。

 此度の契国の動乱に領民が加わらぬように統率するよう、伐に頼むつもりだったのだが、完全に先んじられた。

 いや、寧ろ、伐の性格をも見誤っていた。正確には伐たち、と云うべきだろうか。

 嵒が王城を空けた、此の絶好の好機を見逃すような甘い漢ではない。此れ幸いに、と城を乗っ取りに掛かるのなど序の口であり、虱潰しに碩を探すのもまた、当然だろう。

 伐たち領民には、嵒だけでなく、嵒を野放しにした碩も憎むべき対象なのだ。


 だが、両者の間では奇妙な一致がある。

 何が或ろうとも嵒を許せない、という一点だ。此の点に於いては、碩と伐たち領民たちは一致して崩れを見せない。

 そして伐も碩知っている。

 国王・碩が身を窶した姿こそが、嵒の平常心を強く打ち砕く槌となるのだと。

 其れは最も選び取ってはならない手段だ、という事も。

 しかし契国を深く思うが故に、彼らは、最悪の策を最良の策と思い違えて選びとってしまった。


 伐の性格から、動くであろうとは予見が出来た筈ではないか。

 そして抑えられねば意味が無い。

 真も多くの予想を立てて呉れてはいた。

 しかし、実際に動きを目にして考察するのと、無から全てを想像するのとでは訳が違う。そして、目を見て思いを込めた口で進言されるのとでは、心に染み入る度合いに雲泥の差があった。

 僅かな差だろうと、油断していた、此れは自分の失態だ。


 ――此の悪手から、どう動けばよい、真。

 矢張り、真が傍に居ないと駄目なのだ、私は。

 ――離れていては、駄目なんだ、真。

 戰は悔やみながら、唇の端を微かに噛んだ。



 ★★★



 だが、悔やんでばかりいても事は好転しない。

 碩の性格からして、此の先に彼が採るであろう選択肢を思えば此処に来させてはならなかった。

 が、来てしまった以上は此の場をより良く収束させねばならない。努力する事は出来る筈なのだ。契国の行く末を真実に憂えるのであれば、尚更だ。


 嵒と伐。

 そして碩。

 三者三様の心中を想像し、戰は嘆息しながら悲痛な思いを隠しもせずに微かに空を見上げる。

 今の碩は、両脇の下に腕を入れて支えられながら、やっと歩行が可能な状態だった。酩酊しているかのように脚元は覚束ず、ほんの少しの動きで息を荒げている姿は、とてもではないが戰と同世代とは、希望に燃えた書簡を遣り取りしていた間柄の漢とは、とてもではないが同一人物と思えない。


 ――今の碩殿には、明らかな死相が出ている。

 敬愛していた叔父に裏切られた、と言うよりも、歪んだ愛情を一方的に注がれていただけだったと、そして応じられなかった自分を更に歪んだが型枠に嵌め込もうと画策された。

 碩はただ、己で選び取った道を歩みたかっただけだ。

 国を豊かにする策を、最善と信じた道を、領民の為に選択したかっただけだ。

 だが嵒は、彼の選択を頭から王者としての其れではない、と決めつけた。

 嵒が選び差し出した道を拒絶するなら、碩の行く道を絶ち、彼が首を縦に振るまで囚人扱いするのも厭わなかった。

 真っ正直過ぎる碩の精神を圧し折るには、充分だった。

 いや、確かに此の程度で気持ちを挫けさせ身体を衰弱させるような漢が、王として国と領民を率いて激動の時代を生き抜けないだろう。

 図らずも嵒は、立ち直り不可能な王者失格の刻印を、愛しい甥御の魂に深く深く、此れ以上はない程に深く、刻んでしまった。粉々に砕かれた碩の自尊心は、もう修復不可能だろう。


 蹌踉めきながら、碩は戰の前に進み出た。

 馬上から降りて手を差し伸べようとする戰に、碩は自嘲と諦めを含んだ笑みを零した。

「良いのだ、郡王。最早、私の生命の灯火は儚くなる。其れ位、自覚している」

「……しかし」

「此れ以上、私を辱めないで呉れ。私に少しでも友情を感じて呉れているのならば、私の言葉を遮らないで呉れ。国を纏め切れなかった愚か者の言ではあるが、最後まで聞いて欲しい」

 語尾がぶるぶると震えている。

 残り少ない、熾火のような生命を必死で奮い立たせているのだ、と誰の目にも明らかだった。

 碩が左右の脇を支えていた領民に労いの言葉を掛けながら、懐を探りだした。背後では、彼の大軍旗がぴたり、と寄せられる。


 ――……何だ?

 戰は胸がざわめくのを感じとった。愛馬の千段も、鼻息を荒らげる。

 嫌な予感がしたのは、戰だけではなかった。

 いや、碩の異変を誰よりも鋭敏に感じとっていたのは、嵒だった。

 咆哮を上げながら獲物に飛び掛からんとしている飢餓寸前の野良狗のように、嵒は戰に向かって剣を振り上げた。

「陛下! 其れはなりませぬ!」

「動くな!」

 しかし、嵒の喉元に怒りの成分を含んだ、ぎらりとした輝きを放つ剣の鋒が当てられ動きを一瞬で止めた。戰と嵒の間に割って入ったのは、兵部尚書・優だった。

 戦の趨勢は、もう疾うの昔に決していた。

 碩が戦場に到着して最初に発したたった一言に、皆、素直に従ったのだ。契国軍は一斉に武器を捨て、諸手を挙げて降伏と恭順の意を示して見せたのだ。


「相国。未だ、我が国随一の忠臣との自負を抱いておるのであれば、此度の戦の終末を其ので然と見届けよ」

 ぐっ、と息を呑んだ後、陛下、陛下、と嵒は目と声を潤ませた。嵒の涙声を背中に受けながら、碩は戰の前に跪く。

「祭国郡王・戰よ。我が国の内乱をよくぞ収束させて呉れた。契国の王族の一員として礼を言う」

 先程と違い、王ではなく王族の一員、と名乗った事に、嵒は己の胸の内側に渦を巻く暗い予想に眩暈を覚えた。

「陛下っ!」

「動くな!」

 身を乗り出した嵒の喉に、優の剣の先が減り込む。粘り気のある濃い赤い筋が、どろりと流れて行く。

 だが、碩は嵒に目もくれない。懐を探っていた手を抜くと、ず、と無造作に、手の平を上にして差し出した。朱色の錦に咆哮する龍と飛翔する鳳凰が金糸で縫われた八角形の座布の上に、黄金の印璽が収められ燦然と輝いている。


いにしえに国を開きし我が祖伝来の契国の御璽だ」

「……碩殿」

「契国王・碩の名において、祭国郡王・戰よ、其方に我が契国を禅譲せ……」

「陛下っ!」

 碩の言葉を遮らんと、嵒が飛び出した。



 ★★★



「ぬお!?」

 優の剣を跳ね飛ばし、嵒は戰に突進した。

 虚を衝かれた優は、体制を崩して嵒の突出を許してしまう。

 ちっ、と優は舌打ちをした。以前の自分では考えられぬ失態だった。肉体の衰えを晒すという醜態を、嘗ての教え子である杢の前で演じてしまった己を恥じる間を、だが嵒は優に与えなかった。瀕死の漢がよくも、と舌を巻く動きで戰に向かって突き進んでいる。


「杢! 嵒を止めよ!」

 優の怒号が飛ぶや、いや其の前に、杢は瞬時に反応してみせた。愛馬ごと嵒の動線上に立ち塞がる。

「許さぬ! 断じて許さぬ! 御璽を郡王になど渡せぬ! 渡してたまるか! 我が国の王は碩陛下只御一人!」

「陛下! お下がりを!」

「小賢しいわ、小僧! 退け、退かんか!」

「杢! 陛下を守れ!」

「皆、動くな!」

 嵒の背中を袈裟懸けに斬り付けんとしても、腕が届かないと悟った優が周囲の者に戰を守るように命じるのと、嵒が静止など物ともせずに戰に斬り掛かるのと、戰を守らんと杢と芙が剣を抜き放ち様に構えるのと、そして嵒の好きにさせるよう戰が命じるのは、ほぼ同時だった。

 しかし、彼らよりも一歩先んじたのは、契国王・碩だった。


「郡王よ、下がれ!」

 ぐる、と勢い良く身体を反転させると、御璽を放り出して腰に帯びていた剣を抜き放った。

「相国・嵒! 国を荒らした不忠者め! 私自らが成敗して呉れる!」

 あれ程弱々しかった嵒の身体の一体何処に此れ程の力が残されていたのか、と優は驚愕に目を見張る。其れが、一瞬、優の動きをおかしくした。

「止めよ、碩殿!」

 戰が抜刀して、碩と嵒、甥と叔父、主従の抗争の間に入ろうとした。

 だが、身体を固くした優に剣を掛けてはならない、と踏み出しを弱めた隙に碩と嵒は互いに斬り結んでしまっていた。

 瞬間的に降り注いだ豪雨のように、ザッ、と音をたてて真っ赤な血が周辺を一気に濡らす。

 皆、呆然として言葉も無い。

 ただ、嵒が呻き声を発するのみだった。


「……ふぐ、う、ぐぉうっ……」

 胸が上下する動きに合わせて、斬り付けられた嵒の上半身は、どくどくと血を吹き出している。

 斬り付けるのが精一杯だったのだろう、碩は肩を激しく上下させている。息遣いも酷く荒い。目も血走り、尋常一様ではない異様な気が漂っている。

 碩が嵒に向けて振り下ろした剣は、鋒を地面に落としたまま動かない。持ち上げて鞘に戻す余力すら、一撃に込めたのだろう。正に入魂と言える。

 斬り付けられた嵒の顔面は、斬られた当初、どす赤黒く濁った。しかし、瞬く間に蒼白になって行った。


「……へ、い……か……」

 ごぶ、と血反吐を吐き出しながら、嵒が小刻みに震える手を碩の方へ伸ばす。碩は慟哭しながら、剣を支えにしてようよう立っている。

「もう、良いのだ、叔父上、終わったのだ」

「……へい……か……」

「此の国は、終わりだ。いや、終わっていたのだ。3年前、郡王が攻めて来た時、雑徭として集められた者たちが生き延びたい、と泣き叫んだ。領民にあのように言わせた時点で、私は王ではなくなった。3年もの間、厚顔にも王座に居座っていられた方がどうかしていたのだ。此の国の王者は、最早私ではなかったというのに」

「……へい、か……へ、い……」

 ぶるぶると震えながら、嵒は首を左右に振る。

「……ちがい……ます、ちがう……だん、じて……」

 既に意識を失ってもおかしくはない程の大量の血を失っていながらも、嵒はまだ正気を保っていた。

 全ては、国王である碩の為に。そして、歴史ある契国の為に。ただ、其れだけの為に嵒は生命と気迫を繋ぎ留めている。

 碩はそんな嵒に、涙ながらに切々と訴える。


「許して欲しい。叔父上、そして相国。私の不甲斐無さに、どれ程の心痛を負わせてしまっていたか。だが、もう、其れも終わりだ。いや、終わらせる……終わらせよう。叔父上、安心して死んで呉れ」

「……へい・か……?」

「国を乱したのは、此の私だ。叔父上も領民も、昏迷乱擾に落ちたのは私が至らぬ上に、合わぬ椅子に居座り続けたせいだ――責任は、取る」

「へ、陛下……?」

「叔父上だけを旅立たせはせぬ。共に冥府へ参ろう」

「陛下、其れはなりませぬ!」


 蹌踉めきながら、碩は剣を持ち上げた。

 そして次の瞬間。

 一体何処から、と見紛う程の力を漲らせて戰に向かって斬り掛かる。嵒も、首まで死の淵に沈んでいたとは思えぬ素早さで、碩に向かって腕を伸ばした。



 ★★★



「陛下、陛下あっ! なりませぬ、其れはなりませぬっ!」

 涙声で嵒は叫ぶ。

 碩は戰に斬られるつもりなのだ。

 戰に剣を向けた碩に、流石に伐たちも度肝を抜かれて固まった。


 だが武人である優や杢、芙たちは此の程度の事で意識を飛ばしたりはしない。

 杢と芙が碩の前に立ち塞がり、優が嵒に対峙する。千段も鋭い嘶きを発した後、蹄を激しく鳴らして馬首を下げて突進の姿勢を取った。

 其々に、契国の主従に剣を振り被ろうとするのを、戰の静かな声が止めた。


「皆、手出し無用だ」

 杢と芙が流れるように左右に下がると、戰がずい、と前に身を乗り出した。

 同時に、黒々とした夜闇のような戰の愛刀が翻った。

 キンッ! と乾いた音が戦場に響き渡ると、碩の手から剣が飛んだ。うぐっ、と短く呻いて碩は身体をよろけさせる。

 陛下! と叫びながら、嵒が頽れそうな碩の身体を支えた。血腥い嵒の身体に、しかし碩は身も心も任せきって倒れ込む。悔しさの局地にあるのか、涙を流している


「……殺して呉れ、郡王よ……貴殿にまだ僅かでも……私に友情を感じている心が残されているのであれば……哀れを感じる心が在るのなら……御願いだ……私を、殺して呉れ……」

「碩殿、契国の国の為を真実に思うのであれば、勝手に死んではならない。貴殿が死ねば、此の契国は剛国に喰い物にされるぞ」

 落ち着いた戰の声音に、碩は目を剥いた。のろのろと、顔を上げる。

「そうだ、貴殿の妹姫であるえい姫は剛国王の弟にして家臣である烈殿の元に嫁いでいる。私が貴殿から禅譲を受けたとしても、剛国は動くだろう」


 瑛姫からは未だに懐妊の報せはないが、血の正当性を声高に叫ぶのなら彼女を女王として契国を継がせん、と剛国側が主張してきてもおかしくはない。

 現に、戰の正妃である椿姫も嘗て祭国の女王として彼と二王政治を行っていた。

 眼の前に、良い手本があるのだ。

 あの剛国王・闘が付け入らぬ訳がなかった。

「碩殿。真実に此の契国を思うなら死んではならない」

 ……うっ……うぅっ……、という嗚咽が、碩の喉仏を小刻みに震わせ始める。

 碩を抱きながら、嵒がぼそぼそと耳打ちをし始めた。


「……へいか……、今回……ばか、り……は、郡・王、の……も……す……とお、り……に……ござ……ま……す…………何、とぞ、おいのち…………だ…………じ……・に……な…………さ………………」

「……叔父上……?」

 力をなくしていく嵒の声音に、碩は肩越しに振り返る。そしてより一層、嵒の腕に抱き締められながら、童子のように声を張り上げて泣きじゃくり始めた。

 碩を抱き留めたまま、優しく温和な笑みを浮かべている嵒の双眸は、既に光は宿っていなかった。徐々に濁り出して、只の白い玉に成り下がり始めた瞳は、だが、まだ碩を篤厚に見詰めている。


「兵部尚書、そして杢よ」

「はい、陛下」

「はっ」

「勝鬨の声を」

 優と杢はちらりと視線を交わした。

 此処で勝利を宣言する勝鬨を上げれば、相国・嵒は国王に弓を引いた謀反人として誅されたのではなく、侵略してきた禍国より祖国を守らんと奮戦虚しく敗戦の将として死した事になる。

 叛逆の事実は消えぬとし汚名は残る。

 が、救国済民の尽力の事実もまた残る。

 嵒の家門に連なる者の縁坐は免れられるだろう。


「勝鬨を上げるぞ!」

「勝鬨を!」

 優と杢が、剣を握った腕を同時に天に向けて突き上げた。

 禍国と祭国、両方の陣営より、勝鬨が上がる。

 禍国軍からは、禍国万歳! が、祭国軍からは、郡王陛下、万歳! が。

 此の時になって、戦場に集った者たちは、空が惻々たる哀愁の色に染まり出しているのに気が付いた。

 碩の心の空白の広さを示すように、哀惜漂う慟哭がその空に染み込んで行く。

 誰も彼もが、感情の持って行き場の無い中途半端な、そして遣る瀬無く心を締め付ける。


「勝手に暴れて、勝手に死にやがって!」

 伐が吠え立てた。

 地団駄を踏んで悔しがる。死んでしまった相手になど、怒りをぶつけられない。死者の尊厳を甚振るような真似も、自分たちの誇りに掛けても出来ない。

「……こんな、糞の役にも立たぬ戦があってたまるか……」

 やりきれなさを滲ませ、優も吐き捨てる。

 面倒を起こすだけ起こし、混迷乱擾を広げるだけ広げて、自分は涙を流しながら愛する漢を腕にだいてさっさと舞台から降りるとは何事だ。

 死に勝ち逃げをされた、と嵒の満足そうな笑みを浮かべた死に顔に、誰もが思う。

 どうしようもない、遣り場のない複雑に入り組んだ感情が募っていく。


 嵒の叛乱の顛末に眉を顰め嘆息しか出ない。

 訳が分からぬ手前勝手で理不尽極まる契国の内乱にも此れで漸く幕が閉じられたのだ、と勝鬨は無理矢理に納得させて呉れた。



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