22 屍山血河 その10-3
22 屍山血河 その10-3
「動けっ! 動けぇ! 一瞬でも早く陣形を整えよ!」
嵒は縦横無尽に馬を走らせ、軍を変形させていった。従う兵士たちも必死であるが、嵒は其の何千倍も必死だった。
奮闘努力の御蔭だろうか、契国兵は戦いながら陣形を変形させるという離れ技をやってのけた。
とうとう、虎乱の備えの陣形が戦場に出来上がる。
虎乱の備えとは、中央に大将を配置し円陣を組むように一軍二軍三軍が配置される陣形だ。嵒が言ったように、前方から押し寄せる敵にも後方から衝き上げて来る敵にも対峙できる陣形だ。
だが、此の陣形は基本的に圧倒的に自軍に不利な場合に用いられる。逆に言えば、祭国軍と云う援軍を得た禍国軍を前に、契国軍にはもう此の陣形しか選択の余地がないのだ。
捨て身、いや生命を燃やし尽くして戦い抜くと云う、嵒の覚悟の現れだった。
「前方! 禍国軍が騎馬隊を用いて三段構えで突撃し、中央突破を試みて来るぞ! 歩兵は一旦引けいっ! 代わって戦車部隊の半数を押し出せ! 弩弓にて対応せよ!」
喉が枯れて痛んだが、構わず嵒は命令を発し続けた。自分が折れれば契国軍は瓦解する。
――食い止めねば! 何としても食い止めねば!
此処で禍国軍に負ける訳にはいかぬ!
陛下の御国を攫われてたまるものか!
私が御守りするのだ!
私が陛下を!
塩気の強い涙が、嵒の眸に浮かぶ。
其の中に、嵒は幼き日の碩を見ていた。手を伸ばし、叔父上、叔父上、と親しみ甘えて呉れた甥の姿を、まるで見ているかのようにまざまざと心に思い浮かべていた。
★★★
嵒の予見通り、援軍の到来に活力を復活させた禍国軍が大歓声と共に怒涛の攻撃を開始した。
契国軍も反撃を始める。
戦車部隊は弩弓を構え、一斉に矢を放ち出した。しかし、禍国軍も盾として全面に張り出して来た。乾いた音を立てて、盾は矢を受け止める。
嵒は舌打ちをしながら、翻る禍国の軍旗を睨み付けた。
「おのれ、兵部尚書め! 何と小癪な奴だ!」
此処までの戦いで、契国軍が盾兵を密集させる策を効果有りと見たのだろう、早速、自軍に取り入れている。
だが、此れこそが武人としての正しい姿だ。
勝利を得る為なら、喩え其れが敵の策であろうとも可能であれば流用する。
恥がどうのなど関係ない。
武人にとり、勝利に勝る成果無し。
勝利への執着が此の割り切りを産み、優を数々の激戦から生き延びさせてきたのだ、と嵒も納得せざるを得なかった。
「来るぞ! 打て、打てぇ!」
「おおっ!
優の命令が飛び、騎馬隊が其れに応じる。
駆け抜ける戦車部隊を、禍国軍の騎馬軍団が迎え撃ち始めた。
騎馬隊には、祭国軍と云う援軍を得て余裕が生じていた。命令を即座に、そして確実に実行するだけの冷静さと力を完全に取り戻していた。
凄まじい速度で禍国の騎馬隊は駆け抜け様に戦車部隊を切り崩して行く。此処まで、何時辰も戦い抜いて来たのは禍国軍も契国軍も同等だ。
だが援軍を得た、という精神的な活力を補填注入された禍国軍の動きは、まるで戦が始まった時のような機敏さと攻撃力を見せている。そうこうしている間に、到着した祭国軍が布陣を整えだした。
――此処で優位に立っておかねば、其のままずるずると負けに引き込まれる。
嵒の背中に、冷たくも粘り気のある汗が一筋二筋と流れていく。
其れでなくとも、郡王・戰の戦巧者ぶりと、まるで咒いに守れたかのような不敗ぶりは平原に知れ渡っている。些細な切掛で、兵士たちの精神がどう崩れるか分からない。
嵒の憂慮は、存外早く現実のものとなった。
契国軍は祭国軍と祭国郡王・戰の軍旗が悠然と翻る様を一瞥しただけで、気力が萎え勢いに飲まれだしたのだ。
「弓隊! 禍国騎馬隊の馬の尻を狙え!」
最も大きく安定しており狙いが定め易い尻を狙え、と具体的な指示を得た契国軍の弓隊が援護を開始する。しかし、弓隊が攻撃を開始し始めると同時に悲鳴が上がった。
「相国様! 背後の祭国軍が!」
ぐう、と嵒は呻いた。
とうとう、祭国軍が布陣を終えたのだ。
★★★
「常勝の皇子とは良くも言い表したものだ」
流石に動きが早い、と感嘆せずにはいられない。見惚れるばかりの腕だ。
契国軍にとっては、眼前の禍国軍よりも背後から土煙と共に現れた祭国軍の方が脅威であり恐怖だった。
何しろ未だに句国戦と、自国に攻め入られた時の記憶が新しい。
加えて、矢張り禍国に対しては憎しという意識が先立つが、祭国に関して言えば郡王・戰は何方かというと救国済民の英雄として認識されている。
郡王・戰が居なければ、長らく邪魔者であり負担でしかなかった骸炭が、瀝青という名で交易の主体となりはしなかったし、彼が仲立をせねば河国との交易は不可能だった。
瀝青の御蔭で、どれだけ国が潤ったか。知らぬ者は、此の契国には存在しない。
国王・碩自身が盟友として心を開き、傾倒もしよう。
領民たちの間でも、新たな蔬菜が広められ、どんなに多くの小さな生命が飢えの恐怖から逃れられたか。毎年毎年、死と隣り合わせの状態で租税を納め、足りなければ子供を密かに売ってまでして金を用意していたのだ。食いつなぎ、家族と共に年を越し、長き冬を越した春を謡う慶びを知った。人間らしい生活を知った。
契国の領民たちは、郡王・戰に対して感謝こそすれ怨み辛みなど抱いていない。
そんな相手にどうやって剣を向け、矢を引き絞り、槍を突き出せと言うのか。
――何故、陛下と同じ時代にこんな皇子が生を受けた。
天帝は余りにも無情だ。
平原一の超大国の皇子と云うだけでも恵まれた身上であるのに、加えて輝くばかりの宿星を手にして産まれて来るなど、不公平が過ぎるではないか。
眩い宿星を纏った皇子に自然と人が集まるのは道理であり、人が人を呼び寄せ、親兄弟、師弟で仕えると云う喜びも、彼は惜しげも無く与えている。
其れが当然とばかりに振る舞えるのだ。
何という不公平さか。
「だから許してはおけぬ」
陛下が得たいと望まれても決して手に出来ぬものを手にし、私が陛下にして差し上げたいと思っても叶わぬものを掴んでいる。
私がどんなに夢見ても叶わぬものを平然と与えている家臣を持っている。
許せない。
許してはならない。
決して郡王を許してなるものか!
「怯むな! 引いてはならぬ!」
奪った剣を振り翳しながら、嵒は叱咤激励を繰り返す。
しかし契国軍は、一体に何に対しての忠誠心から何を守り何に抗し何に与すれば良いのか、混乱の極みにあった。
契国軍に対して、祭国軍は鋒矢の陣を布いた。
勝れた将兵に率いられた鋒矢の陣形は、他の陣形よりも突破力に優れている。
が一瞬の采配の狂いから、下手をすれば取り囲まれ一網打尽にされてしまう。
恐れ知らずに駆け抜ける胆力と、敵を叩き伏せるだけの攻撃力、何よりも大将と将兵を信じて駆ける団結力が必要となる。そして戰が率いてきた祭国の騎馬軍団には其れが可能だった。
兵部尚書・優が率いる禍国軍と合わせれば6万5千の大軍になる。
だが、祭国軍だけを見れば2万5千。
全く相手にならない。
未だに拮抗している戦局を一気に打破する為にも、此処からは短期決戦で雌雄を決する必要がある。味方だけでなく、敵である契国軍からも犠牲者は最小限にして戦を終えたかった。
「此れより中央突破を図る!」
戰が剣を鞘から抜き放った。重く黒々とした戰の黒鉄の剣は、薄い陽光の中でも、ぎらりとした底光りを見せて輝く。
正に、郡王・戰、此処に有り! と名乗りを上げているかのようだった。
★★★
鋒矢の陣は先陣となる一軍を鏃の形とし、左右に分けた二軍が続く。
中央後陣に大将が構えて支え、一気に突破を図る陣形だ。
だが此れは危険と隣り合わせの陣形でもある。祭国軍の意図する処は契国軍にも分かる。騎馬軍団によって中央を割り、禍国軍との連携を用いて内からと外からの攻撃で討とうとしているのだ。
成功すれば勝敗は瞬時に決するだろう。
然し乍ら、何かほんの小さな手違い程度の失策で、中央を割った筈の祭国軍は契国軍に一網打尽にされてしまう。
こんな危険極まりない陣形を選択した祭国軍は、鏃の形の要となる一軍を、なんと総大将である戰自身が自ら率いていた。
契国軍は度肝を抜かれた。総大将であり禍国の皇子、そして郡王の立場にある者が最も危険な軍を、而も自らが率いて戦うとは思ってもいなかった。
「行くぞ!」
「うおお!」
戰の命令に、祭国軍は獰猛さと戦意を剝き出しにして一丸となって従う。
文字通り怒涛となって契国軍目指して駆ける。
巻き上がる土煙を頼もしく見上げながら、二陣を指揮する杢も腕を振り上げた。
「陛下に続くぞ! 遅れを取るな!」
「おおー!」
杢の愛馬は、鞭を入れられる前に主人の気合いを感じ取り、自ら駆け始める。杢に感化されたか、彼が率いる5千騎の騎馬隊も、一斉に駆け始めた。
先頭にたつ戰と愛馬・千段の青黒い巨躯から凄まじい殺気が、鬣を逆巻かせて立ち昇った。
戰に続けと命令を下した杢たちもめらめらと音を立てんばかりの炎の如き気迫を放っている。
鋒矢の陣とは良くも言い表したものだ。正に祭国の騎馬軍団は、ごう、と地鳴りをたて一本の矢となり契国軍に肉薄した。
発狂寸前、いや、端から正気ではなかったのかもしれない、契国軍から人とは思えぬ悲鳴が上がる。
もう、戦う以前の問題だった。
契国軍に湧きあがった恐怖は、瞬く間に軍中に電波し、そして一気に地中深く根を下ろした。
今や契国軍は、完全な恐慌状態に陥っていた。
「逃げるな! 踏み留まれ、戦うのだ!」
嵒の叱責が飛ぶ。
しかし、赤い陽炎のような血煙が粟立つ空に虚しく谺するばかりだ。
――おのれぇ!
歯噛みするが、どうしようもなかった。
★★★
先頭に立って巨大な鉄剣を振るう郡王・戰の強さは、並外れていた。
刀身が5尺を軽く超える大太刀を、まるで体の一部のようにしなやかな風さえ起こして戦かっている。
だがしかし、彼の脚元に広がるのは酸鼻極まる血の海だ。
地獄の悪鬼が乗り移ったか。
はたまた冥府の霊鬼の使いか。
兎も角、人外の技としか思えなかった。
舞うような剣技は、血みどろの幕を閉じながら魂を奪う。喩え剣から逃れられたとしても、黒色の竜巻のような巨大馬の蹄の餌食となるしかない。血と肉と骨と脳髄と臓腑を飛び散らせ地面に染み込ませながら、己の不幸を乗ろう間もなく死んでいくのだ。
こんな戦いぶりを見せ付けられて平静を保って戦える者は何処に居るというのだろうか。
契国に属している兵たちの精神が尽く恐怖により崩壊していくのは当然だった。対峙している後陣は、瞬く間に軍を乱して崩れて行く。
其処に、杢が率いる第二軍が逃げ切る暇を与えるものかと襲い掛かる。
「……な、何だ、あの武器は……!?」
ぶんぶんと唸りを上げる祭国軍の二軍に、嵒は唖然とした。
左右に分かれた二軍は、風変わりな武器を手にしているではないか。
農具の一種の殻竿に似ている。竿の部分を操ると、先端部分が回転するのだ。回転している部分が、縦横に惑う契国軍を逃さない。脳天が割られ腹が裂かれして兵士たちが生命を散らして馬上から転げ落ちる。
「……逃げろ……」
「そうだ、逃げよう……!」
「い、いや……降伏だ、そうだ、投降しよう……」
「……そうだ、投降しよう……相手は郡王だ……我々に無体はしない筈だ……」
こんな恐ろしい、負けが決定している戦場に居てなんになる。
當たら無駄に生命を捨てるだけではないか。
其れ位であれば、負けを認めて郡王の元に降った方が何倍も契国の為になる。
何よりも、死にたくない。
まるで、稲穂を喰い荒らしに来た蝗の群れのように、投降の文字が契国兵の心を侵食していく。
一人の兵士が一歩後退りすれば、隣の兵士は三歩飛び退き、更に横に居る兵士は祭国軍に背中を向ける。
わひぃっ! と悲鳴が波打つと、契国兵は一斉に逃げ出した。逃げ出した処で、其の先に在るのは兵部尚書・優が率いる禍国軍であるのだが、今の彼らには関係がなかった。
眼の前に存在する、死を撒き散らす鬼神から逃れたい。ただ純粋に其れだけだった。
――何という、怖ろしい強さだ。
嵒は臍を噛んだ。
ただ単純に戦に強いだけではこうはいかない。
実際に、不敗の闘将である兵部尚書・優を前にした時には、こんな反応はなかった。郡王・戰を前にした時だけに、此の流れは起こるのだ。ぞくり、と肌が粟立った。
――恐怖であろうと共感であろうと、人の心を瞬く間に掌握し、自在に操る郡王の恐ろしさは、喩えられるものがない。
祭国軍、いや、違う。
郡王・戰の攻勢を止められる者は居ないのか。
此の世にいないのか、郡王・戰の前に立ちはだかる者は、現れぬのか。
其れとも、天帝に愛されているとはこういう事なのか。
「……此れが、覇王の宿星、と云うものなのか……」
まるで何処かの物語作者が好みそうな夢物語で語られる世界にだけ、存在を許されてるような、こんな出来過ぎた恵まれた者が居て良いのか。
「――良い訳があるか!」
怒鳴り散らしながら、嵒は武器を放棄して祭国軍の前に跪こうとしていた自軍の兵士の首を跳ねた。血飛沫を上げて吹き飛んだ兵士の首に、味方の兵が言葉を失う。
嵒は眼尻を裂いて叫んだ。
「逃げるな! 敵の前に平伏す奴は、此の私、嵒の名において貴様らの素っ首を跳ねてやる!」
嵒の情け容赦のない、そして余りにも理不尽極まりない命令に、契国兵の動きが今度こそ止まった。
★★★
其れまで、暴風雨が直撃している湾岸のような荒れ具合だった契国兵の動きが、凪いだ海のように鎮まった。
余りの代わりように、嵒という恐れ知らずの漢が怯みを見せた程だった。
次の瞬間、契国兵は嵒に向けて剣を振り翳した。奇声を発し、嵒に向かっていく。既に人としての何か大切なものを失った形相だった。
「うっ!? なっ!? き、貴様たち、何をっ!?」
百足のように畝る数多の剣に、嵒は茫然自失となった。
しかし、直ぐ様我に返る。
襲ってくる味方の兵の剣を跳ね飛ばし、勢いに度肝を抜かれた兵を脳天から割った。
断末魔の叫び声を上げる間も与えられなかった兵は、身体を真っ二つに裂かれて地面に倒れる。どくどくと流れ出る血の流れに馬の足首まで浸らせながら、嵒は手にした剣を振るう。
「逃げるな! 逃げる者は討つ!」
契国兵たちの身体が凍り付く。前にも後ろに動けない。
「陛下の御為に死ぬが我ら契国に生きる者の務めである! 其れを放棄する恥知らずは此の世に生きておる価値はない!」
せめて生き延びたいと願うも、味方の総大将に生きる道を選び取る位であらば死ね、と改めて命じられた。
怒り、悲しみ、喪心、有りと有らゆる感情が、契国軍の中で巨大な渦となって轟き、蠢いた。
契国軍の動きを封じた嵒の前に、巨大な黒馬が現れた。
背に乗る武人の体躯もまた、素晴らしく大きい。
運気だけでなく容姿にも躯にも個人的な才能にも技術にも、人を寄せ付けぬ力量を持つ漢の登場に、嵒は全身の毛穴という毛穴から吹き出す赫怒を隠そうともしなかった。
「久しいな、契国の相国・嵒よ」
汗を溜らせ全身に返り血を浴びながらも、郡王・戰は息切れ一つしていない。
びゅっ、と一振りされた剣から血糊が飛んだ。部下たちの血肉が払われたのだと知りながらも、嵒は一連の動きの優雅さに不覚にも心を奪われた。
――何たる、綺羅綺羅しい姿。
面憎いまでの美丈夫さよ。
威風凛凛、正正堂堂たる姿だ。
思わず知らず、見惚れてしまう。
いかぬ、と思い、抗おうとしても無駄なのだ。
瞬時に魂を奪われてしまう。
だが、戰から受けた感動が深ければ深いほど、嵒の胸には憤慨、狼狽、虚脱、忿怒、恐怖、衝戟いった感情が、より一層広がり、そして呪いの言葉が無限に浮かんで来る。
「貴方に斯様に呼ばれる筋合いは無い。私を相国とお認めて下さったのは、我が国の碩陛下のみ。陛下のみが私を、相国・嵒よ、と上から呼ばわる事を許される。貴方のような御方に相国と呼ばれたくはないし、またその権利はない」
「そうか、其れは済まなかった」
真摯に答える戰の態度が、一層遣る瀬無く、そして切なく、且つ惨めにさせる。
――何故、陛下と同時代に産まれたのだ、此のような御方が。
一目惚れという言葉がある。
人相に、人物の全てが見えるという事が、確かに在るのだ。
郡王・戰を眼の前にして、一目惚れせぬ者が果たして此の世におろうか、と疑いを抱かずにいられない。
宿星がどうだとか、どうでも良いのだ。
関係がないのだ。
戰、という眼の前に見える姿に惚れて、知らぬ間に一生と魂を差し出してしまう。
碩もまた、戰という漢を前にして、憧れと共に惚れ抜いたのだ。
分かっている。
王としての判断以上に、碩は、人として此の漢と共に時代を駆け抜けたい、と選び取った。
認められなかった自分が悪い。自分の理想の国王でいて欲しいばかりに、碩の王としての拠り所も自信を歪め貶め、そして愛した国をも傾けた。
分かっている。
此れは只の嫉妬だ。
兵部尚書・優が指摘したように、悲壮感を漂わせて忠義者の仮面を被って己の我儘を押し通そうとしただけだ。
悪餓鬼と同じで、質の悪い駄々(・・)に過ぎない。
其れに巻き込まれて生命を儚くした領民たちこそ良い面の皮だ。
自分は民に此の悪辣さをとことんまで責められるべきであり、非を背負うべきだ。
分かっている。
だが、どうしても郡王を許せない。
分かっているのと、理解して納得して引き下がれるのとは違う。
漢王として戰と比べれば見劣りし小粒ではあったとしても、碩も明君としての可能性と才能を秘めた漢だった。
順当に跡目を継ぎさえすれば、契国に国王・碩あり、と謳われただろう。
歴史にもそれなりに名を残しただろう。
が、郡王・戰が居る限り、歴史に先ず刻まれるのは、彼の名前だ。
初陣までは諸国にとっては、『そんな名前の皇子もいたか』程度の存在でしかなかった皇子は、たった数年で平原に覇を唱えられるだけの勢力を得たのを見れば、判ろうものだ。
誰も彼もが、郡王・戰に惹かれ、そして彼の開いた道の後に続きたがる。
「……何故だ」
嵒は剣を構え直した、次の瞬間には戰に討って掛かる。
呟き声が低く裏返っているのは、叫び過ぎて喉が潰れたらしい。此処まで死闘を繰り広げて来たのだ、変調がなくては逆におかしいだろう。
「何故だっ! 何故っ!」
泣き喚きながら、嵒は無茶苦茶に剣を振るった。
受け止める戰の動きは淀みない。まるで、子供の相手をしてやっているかのような余裕さえある。
益々、嵒は激昂した。
涙と鼻水と涎で顔面を汚しながら、戰を斬り付ける。
戰の愛馬の千段の方が、いっそやる気の無さを見せていた。強者との戦いに価値を見出す事については、千段は馬でありながら其処らの武人を遥かに上回る。
或いは、肝心な処に来てもまだ相手を赦そうとする情けないを主人である戰を、己が幇助してやらねばならぬ、と獣ながら心に定めているのかもしれなかった。
実際、千段の戦果は憖の兵士など到底敵わない、目を見張るものあった。巨躯を利用しての体当たりは云うに及ばず、転げ落ちた兵の脳天や腹を蹄で捻り潰すなど、造作も無くやってのける。
嵒の盲滅法な型も糞もない自棄っぱちな攻めに対して、ただ受け流すだけの戰が歯痒く苛立たしく感じたのだろうか。主人に成り代わり千段が動いた。
「――千段!?」
流石に戰も驚愕の声を上げる。
しかし、千段は構わずに前脚を大きく掲げるようにして振り上げ、そして蹄で嵒の愛馬の横腹を蹴り飛ばした。
脇の骨を砕かれた嵒の愛馬は、血の色をした唾の泡を吹きながら悲鳴を上げて身体を畝らせた。
「うおっ!?」
嵒も目を見開いて叫び声を上げた。
だがもう、遅い。
嵒の奮闘を長く支えてきた愛馬は、最後の最後に報われる事もなく絶命した。どぅっ、と横倒しになった愛馬の下敷きになる前に、嵒は背中から飛び退いた。びくびくと筋肉を震わせながら死の道に旅立った愛馬に、嵒は悲痛な視線を向けた。
「……おのれっ、おのれっ、おのれぇぇっ!」
まるで初陣の小童のように、嵒は剣を振り被って戰に突進した。
其の時だった。
再び、わあ! という歓声が上がった。




