22 屍山血河 その10-2
22 屍山血河 その10-2
乗船場に軍船がぞくぞくと接岸して来る。
3年前、河国に向かう際に率いていた軍勢を乗りこませたあの乗船場だ。紅河に犇めき合う軍船は巨大であり、運搬目的のものだと素人目でも直ぐに分かる。
此度は、船から飛ぶように人も馬も降りてくる。まるで巣箱から一斉に放たれた蜂のようだ。今回の上陸で桟橋が全て砕け散ってしまうのではという勢いで、騎馬隊が居りてくる。
地上に全ての部隊が落ち着くや、杢が腕を上げる。腕の動きに合わせて、あっと言う間に軍が編成された。まるで季節風に吹かれた稲穂が奏でる草音のように騎馬隊は迷いなく動き、訓練通りの動きを見せる。祭国で3年間、人も馬も鍛えに鍛えて来た成果だ。
其の様子にじっと見入っていた戰は、満足を露わにして杢に頷き掛けた。
「皆、良くぞ此処まで私についてきて呉れた! 此の先に待ち構えるのは、契国相国・嵒が率いる一軍だ!」
2万5千の兵士たちが、しん、と水を打った様に静まり返っている。今にも飛び出さんと鼻息を荒くしている千段を制しながら、戰は続ける。
「契国軍と相対している禍国兵部尚書の救援に行く! 皆、私についてきて来て呉れ!」
愛馬・千段に跨った戰自らが先頭に立ち、腕を突き上げる。
おお! と呼応する祭国軍の勇ましさに、戰は微かに目を細めた。直ぐ隣には杢が馬を進めて来た。
「陛下、芙殿が、あれに」
杢が指を指す先には、覆面を外した芙が佇んでいた。戰と視線が合った芙は軽く会釈をする。
「本日、隅中の初刻より、戦が始まっております」
「何?」
戰は空を見上げた。
陽の光は頭上で真上に到達しようとしている。時辰としては日中の正刻まであと一刻を余す位だろうか。
「御安心下さい、其れ以前に、時より預かっておりました食料は届けております。兵たちの飢えは解消していおります」
「……そうか」
ほっとした面持ちで、戰は息を吐き出した。大保・受より無理難題を押し付けられた、いや貧乏籤を引かされた形となっていたが良くぞ堪えてくれた、と呟く。戰の呟きに、杢も硬かった表情を和らげる。
「ですが陛下、お急ぎ下さい。敵の相国・嵒を前に兵部尚書様は引けを取ってはおられませんが、一歩抜きん出てるまでには至っておられません」
「分かっている。此れ以上、兵部尚書を孤軍奮闘させてはおかぬ」
常勝の将軍として禍国を支え続けて来てくれた彼に、こんな形での負けの土を踏ませる訳にはいかない。
「兵部尚書に負けの味を覚えさせなどしたら、真に何を言われるかしれないからね」
笑みを浮かべた戰に、芙も杢も頷いた。
一礼し、くるり、と芙は背を向けると覆面をし直しながら駆け出した。素晴らしい脚力だ。正に早足の二つ名に恥じぬ速度で、見る間に小さくなっていく。
戰は降り立った祭国軍に向き直った。興奮に前脚を高く掲げた千段が、嘶きを発する。
「我らも此れより戦場に向かう! 皆、全力で以て駆けよ! 我らの手で、必ず兵部尚書を助けるぞ!」
鞭を入れずとも、戰の掛け声一つで千段は駆け出す。
まるで風神が乗り移った巨大な弩弓のような速度で駆け抜けて行く。戰の馬術と愛馬・千段の想像を絶する能力に、我知らず感嘆の吐息を漏らす者が続出する。しかし、見惚れてばかりもいられない。
「遅れをとるな! 陛下に続くぞ!」
芙が命令すると、やっと祭国軍は己を取り戻した。
おう! と応じると手綱を握り締め、馬を走らせる。軍勢は、一気に駆け出した。
国の南端に位置し天然の外堀としている紅河から、敢えて王城を目指さずに優が率いる禍国軍が展開している野を目指す。
千段の背の上で、まだ見えぬ戦場で兵部尚書が鎧袖一触の戦いぶりをみせているであろう、彼が率いる禍国軍もまた同様だろう、と戰は信じていた。
しかし、油断は出来ない。
時に用意させた兵糧を口にするまで、禍国軍は食事の回数を減らし続けていたのだ。幾ら兵力総数は拮抗しているとはいえ、飢えた兵では実力の半分も発揮できまい。
何処かで綻びが生じれば、其処に付け入られるだろう。
相手は相国・嵒だ。
幾ら兵部尚書は大将を務めていようと、思うに任せぬ軍では不測の事態も見越しておくべきだろう。
駆けながら、戰は宙に輝く陽の光の位置を確かめる。日中の正刻を随分過ぎたようで、目算では駆け始めて3刻弱余り経過していると戰は見立てた。
――遅くとも晡時の初刻までには到着出来るか。
いや、其れでは遅い。
騎馬隊を中心にしているし歩兵の脚も鍛え抜かれている。もっと速度を上げられる筈、いや、上げる。1時辰以内で到着するのだ。
――出来る筈だ。
今の祭国軍には、可能にさせるだけの力がある。
「いいか! 日昳の正刻までには戦場に着くつもりで駆けよ!」
私たちが駆け付けるまで耐えぬいて呉れ、兵部尚書。
何かあれば、私は真に顔向けできない。
「急げ!」
喩え無謀過ぎる強行軍であろうとも、生命を擦り減らしながらの長期戦の果ての決戦の只中にある禍国軍を助けるには、一瞬を惜しまねばならなかった。
★★★
激しく打ち合う音が戦場を抜けていく。
何方も決定的な一撃にまで至らない。
剣技には優劣はないのだ。決着がつくとすれば、其れは腕以外の理由に拠るものとなるだろう。
――此奴。
優は舌を巻いた。
嵒が振るう槍は青銅製だ。
瀝青を交易品として扱い出して国が潤うかと思いきや、財政の逼迫状態と領民たちの飢えは極限に近い。手にした金は手の平の温もりを知る前に翼を生やして消えて行く。国庫には蜘蛛の巣が張って久しいまま月日を重ねている。とても困窮状況は鉄を仕入れる余裕を生み出さなかった。
武装だけを見れば、禍国と契国では働き盛りの大人と嬰児並の格差があった。
――嵒が手にしておる槍など、私の鉄の剣の足元にも及ばぬと云うのに。
だが、嵒は一歩も引かない。同等以上に戦い抜いている。刃毀れし、まるで鋸のようになった使い物にならぬ刃であろうとも、優に一撃を喰らわせんと奮闘を続けている。
ぶぅん、と嵒の槍が撓った。
軽く身を捩って躱した優は、腕を回す。
刃先が、ごう、と唸りを上げて、遂に槍の先を圧し折った。
流星のような煌めくを発しながら、折れた刃先は何処かに飛んだ。
思わず嵒は、自らの槍の刃先が光線となって描く弧を視線で追った。
ハッと我に返り、しまった、と臍を噛んだ時には、もう遅かった。剣を握る優の腕も半円を描いており、嵒の長槍の柄を途中から真っ二つに切り落としていた。
キリキリと空を裂いて、折れた長槍は消えた刃先の後を追う。
ぬう、と嵒は唸った。
手綱を引いて荒ぶる馬を戒める。
嵒の愛馬は、ガチガチと蹄を鳴らして突撃の命令を欲していた。相対する敵、兵部尚書も、そんな嵒の前で馬の足を止めさせた。同じように蹄を激しく地面に叩き付けている彼の愛馬だが、最高の瞬間を見極めた主の命令と共に飛び出せるように息を整えているように見える。
「おのれ」
嵒は呻く。
槍の柄の形に固まってしまう程、手を強く握り締めた。
「どうだ、降伏せぬか、相国・嵒」
嵒は顔面が赤黒くなるのを自覚した。
度が過ぎる怒りに狂うと、声が出ないのだとも悟った。
優の静かな申し出は、実際理に適っている。
河国産の鉄器を使用している禍国軍は、数の上での多少の不利など覆しつつあった。何よりも将軍同士の一騎打ちの最中に、決定的な差を見せ付けたのだ。
嵒は自軍に、動揺が生じだしているのにとうに気が付いていた。
やがて此の動揺は、細波から大津波となって契国軍を飲み込み、自滅へと導くだろう。
もう既に、契国の騎馬隊の勢いが衰え始めている。嵒のように、手にしている武器が折られると同時に一気に気力が萎えているのだ。
――此処で踏み留まらねば。
密集歩兵は、盾となりつつ連弩を放つ戦車部隊が奮戦しており、逆に大きく禍国軍を押し潰している。
――まだだ。まだ我が軍は負けておらぬ!
勝敗は戦が終わるまで決しないのだ。
決していない以上、此方から敵に下るなど有り得ない。
「降伏せよ、相国・嵒」
「此の糞戯けが! 素直に受け入れると思っておるのか!」
嵒は手元に残った、半分以下となった柄を優の顔面目掛けて投げ付けた。
首だけを捻る最低限の動きで、優は飛んできた柄をいなすように避ける。其の間に、嵒は自分に好機とばかりに突進してきた禍国兵の馬に飛び移った。驚愕に目を剥き、ばくばくと口を開閉させる兵の背後を取った嵒は、丸太のような右腕を首の下に回し、左の掌底を相手の顳かみに当てた。
「いかん、逃げよ!」
優が叫ぶのと、嵒が右腕に力を入れて左手首に捻りを加えるのは、ほぼ同時だった。
ごきり、と鈍い音が優の元にまで響いてきた。優が一から鍛えた兵の一人は、馬の上で首を折られて絶命した。顎が天を見上げ、目は白目となり、だらしなく開いた口からは泡となった唾が滴り落ち、舌が垂れる。
「貴様、よくもっ!」
怒りの咆哮と共に、くわっ、と目を見開いて剣を握り直した優が、馬の腹に一蹴り入れる。
此の時既に、嵒は兵士の手から鉄の剣を奪い取り、蹴り落としていた。禍国軍の馬の背を蹴って飛び、ひらり、と愛馬に舞い戻る。
手綱を握り締めた嵒は、馬上で深呼吸を繰り返した。一際長く息を吐きだした後、カッ! と目を見開くと共に馬に鞭を入れて優に向かって突進を開始した。とても60近い年齢の男の動きと気概ではない。
「思い知れ! 兵部尚書!」
「其の言葉、そっくり返してくれる! 馬鹿めが!」
★★★
上段から剣を振り下ろす嵒に対して、優は腹を横薙ぎせんと狙う。
互いに身を捩りながら剣を躱すと、其の勢いを借りて腕を撓らせ敵の頭部や腕、肩や脇腹、大腿を狙う。刃は打ち合う度に、激しい火花が散った。
優も嵒も、互いの技量を駆使して敵を討ち取らんと剣を振るう。
凄まじい殺気の渦が二人を中心にして竜巻のように立ち昇る。
主人の怒髪天を衝く怒りが乗り移ったか、其々の馬も歯をむき出しにしてけたたましい嘶きを発し、蹄を高らかに鳴らし続けた。
何が或ろうと譲らぬ気概を見せる武人たちの、鍛え抜かれた身体からは滝のような汗が流れ、豪雨の最中で戦っているかのような錯覚を覚える程だった。
全身を使って息をしながらも、握った剣に込められる力は益々強くなる。
此れで幾度目になるのか。
優の剣と嵒の剣が出会い頭に甲高い悲鳴を上げた。
額が擦れる距離にまで詰め寄って、とうとう力比べに突入する。
剣を持たない左腕が、相手の息の根を止めんと突き出された。優の左腕は嵒の喉仏に伸び、嵒の左腕は優の脇腹に伸びている。
キリキリ、という耳障り極まり無い金属が擦れる音も、二人は気にしていない。
獲物の生命を刈り取るまで何が或ろうと力を抜かない狼のように、荒ぶる呼吸の元、二人は睨み、そして剣と相手の急所を捕らえた左手に力を入れ続ける。
空気が吸い込めぬ嵒の顔面が蒼白となり、腹に力を入れられぬ優の顔は真っ赤になる。
仰け反る嵒に、身体をくの字に折る優。
一歩も引かずに睨み合う。
とうとう、互いに肺腑の中の空気を全て使いきったのか、見る見る間に二人の顔色が紫色に変色していく。二人同時に奇声を上げたかと思うと、一気に飛び退り距離を取った。
ぜいぜいと喉を鳴らしながら、嵒は青い指の跡がくっきりと残った喉を擦り、ぐう、と呻きながら優は赤く染まった横腹を抑える。
だがそんな隙を見せられれば、武人ならば付け入るのは当然だ。
一体此れで何度めか。
天を破る雄叫びを上げ、剣を打ち合い出す。
優も嵒も、額や顎の先に脂汗を滲ませながらも、体力の限界を突き破って戦い続ける。
実力に優劣がない戦いは、時に無情だ。
只管に一進一退を繰り返すのみとなる。
攻守は激しく入れ替わり、一瞬の隙を突かんと攻撃を仕掛けた一呼吸後には守りに入らねば生命を落とす。
細かな切り傷や打撲や擦過傷は数知れず、汗に混じって赤い血が滲み酸鼻極まり無い。
爛々と輝く眼球も血走り、歯軋りの音は巨木を倒した時の地鳴りのようだ。
指揮を取る大将同士の戦いの熱は、率いる兵士たちに瞬く間に電波した。
禍国軍と契国軍。
何方も死兵となって、鬼の形相で悪鬼の咆哮を迸らせながら戦い続ける。
何時しか、戦は膠着状態となり泥沼化の様相を見せ始めていた。
★★★
激しく波打つ胸の動きが吐き出す息は、酸味が濃い血の味がしていた。
否応無しに口内に入ってくる虫や砂を、べっ、と唾と共に優は吐き捨てた。実際、戦いの最中に口の中も切れており、血の色に染まって粘り気も増している。手の甲で、ぐ、と唇の端に居残っていた泡状の赤い唾を拭い取る。
優も嵒も、漢として、国を賭けて軍を率いている者として、引けなかった。
いや、己の矜持に掛けて引けない。
況してや敗北するなど許されない、許せない。
「まだやるか」
「当然だ」
問う優に、間髪入れず嵒は答える。睨み合う眼光に諦めという濁りはない。
「貴様には負けられぬ。貴様にだけは」
ぬらぬらと底光りする熾火のような怒りを含んだ嵒の声音の異常さ気が付いた優は、眉を顰めた。
訝しむ様子を見せた優に、嵒は益々憎しみを募らせた顔付きで、糞忌々しい奴め、と吐き捨てる。
「貴様などには分かるまい。決して分かるまい」
「……何?」
「恵まれた立場の貴様などには分からん」
突然、嵒は何を言い出しているのか。優には皆目見当もつかなかった。
ただ、嵒が病的な譫妄状態に陥っており、自分に対して理不尽と知りつつも居直って逆恨みをしているのだ感じ取った。
「己の属する国は平原一の超大国、其処で大軍を任され存分に力を発揮し順当に出世し人生を謳歌し、そして人生の最後に仰ぐ王は、誰もが認める賢王、而も息子と共に仕えられるような、漢として此の上ない順風満帆さではないか!」
仕事で鬱憤を溜め込んだ父親に無邪気にじゃれついて、鬱陶しがられた挙句に言い掛かり的に叱られ、折檻を受ける理不尽さを味わった子供のように優は目を見開いた。
しかし、次の瞬間、肩を竦めて蔑みを込めた笑みを浮かべる。いや蔑みというよりも、哀れみの成分の方が濃かったかもしれない。
「……何を言い出すのかと思えば。いい歳をした漢が他人の人生に嫉妬羨望した挙句に泣き言か。成程、国を支える重臣たる相国が此の程度であれば、王など見定める必要もなかろうな。民草が哀れでならん」
顳かみに礫を喰らった時のように癪に障ったのだろう、嵒が、くわっ! と目玉を剥いて唾を飛ばし怒鳴る。
「貴様などに何が分かる! 私の何が分かる! 私がどんな気持ちでいるのか分かるまい!」
「貴様の人生がどうであったかなど知るか、馬鹿めが。知りたくもないわ」
息を乱し涙まで流して激昂する嵒とは裏腹に、優はまるで汲み立ての清水のような冷静さを取り戻して行く。
剣を構え直した優に、嵒は闇雲に剣を振るう。
感情が荒ぶるままに振るわれる激しい剣は、斬って掛かるというよりは打撃に近い。
しかし嵒とは正反対に心を冷やしている優は、全く動じない。
冷酷とまで言える冷ややかさで、嵒の一刀一刀を受け止める。
「苦悩や憂慮、煩悶や惨痛が此の世に存在するなど知らぬ人生を歩んできた貴様に! 貴様などに! 私の苦悩の何が分かる!」
「喧しいわ。苦労なぞ生きておれば誰も彼もが背負うものだ、阿呆めが」
「何っ!?」
「勝手に悲壮ぶって勝手に此方に恨み節をぶつけるな、戯けめ」
「貴様! 云うに事欠いて!」
嵒はまるで興奮して自我を無くしたまま暴力行為に及ぶ幼児のように、おうおうと泣き叫びながら剣を振り回す。既に剣の流儀や形などなく、滅茶苦茶に暴れているだけだった。嘆息をしつつ、優は嵒の攻撃を受け止め続ける。
優の云うように、嵒の主張は長年の被害者意識が鬱積した挙句に岩のように凝り固まった逆怨だ。
猛烈な戦いが、また、繰り広げられる。
しかし優と嵒の死闘は、突然、引き裂かれるようにして終焉を迎えた。
「相国様! は、背後から軍勢が!」
「何だとっ!?」
泡を食った伝令の報告に、嵒は仰天した。
「まさか、領民どもが決起したのか!?」
領民には自分を討つ為に一丸となって貰わねばならないが、此の状況下で動かれては策が成り立たない。
「ち、違います! さ、さ、祭国軍です! 郡王・戰が騎馬隊を率いて現れました!」
部下の金切り声と共に嵒の視界に飛び込んできたのは、『祭』の字を縫い付けた大量の軍旗。
そしてその中央で一際燦然と輝く『戰』の一文字を示した大将旗だった。
★★★
思わず嵒は、口がだらしなく開いた。
其のくせ、息は止まる。ガ
クガクと全身が瘧に掛かった時のように震えた。
「陛下だ!」
「祭国軍だぞ!」
「郡王陛下だ!」
「郡王陛下が来て下さったぞ!」
わっ! と禍国軍から歓声が上がる。
「祭国軍だ!」
「祭国の騎馬軍団だ!」
「郡王の大軍旗があるぞ!」
「郡王が攻めて来た!」
対して契国軍からは悲痛な悲鳴が上がった。
戦場が一気に混乱する。
此処が正念場だ、と瞬時に悟った優は腕を突き上げ自軍を鼓舞する。
「皆、見よ! 郡王陛下が我らを救わんと援軍として駆け付けて下さったぞ!」
優の発破に、郡王陛下万歳! の掛け声が上がる。
郡王陛下万歳、の声は、やがて大津波のような畝りとなって契国軍に雪崩れ込む。
契国軍の陣形は乱れ始め、将兵ですら右往左往し始めた。だがしかし、嵒の落雷のような怒号が発せられると同時に一瞬で沈静化した。
「浮足立つな! 私が命じるように陣形を再編成せよ! 負けぬ! まだ負けぬ!」
憎々しげに優を一瞥すると、嵒は馬の腹に一蹴り入れて指揮を取るべく馬首を翻した。
「待て!」
叫びながら優が嵒を追いかけんと手綱を握り直すと、契国軍の騎馬が数騎、間に割って入った。
「お相手仕ります」
剣を構えて、連携の姿勢を取る騎馬隊に、優もまた剣の鋒を向ける。
「貴様たち。見上げた忠義心だ。敵ながら天晴と褒めてやる。だがな」
馬の後ろ脚が大きく蹴り上げられ、砂塵が舞う。腕で目元を庇いながら、うお!? と契国兵たちが驚愕の声を上げた。そして此れが罠であったのだと気が付いた時には、敵と定めた兵部尚書の姿は彼らの中央に位置していた。味方を傷付ける恐れから腕が鈍るであろうと、敢えて敵の懐に入り込んだのだ。
「禍国兵部尚書の前に立ちはだかった己の愚かさと不運を、魂に刻み来世まで持っていけ」
驚嘆の声と生命が断絶した時上がる悲鳴が、同時に上がった。
不幸にも、たまたま優の眼の前になった兵士は、呼吸の途中、目を見開き掛けたまま首を横一文字に跳ねられた。契国兵が剣を構える合間も与えずに、優の腕が撓る。
上がる血飛沫に悲鳴が吸い込まれ、地面を濡らした血と汗と涙、そして髄液や体液や臓物が散らばり、更に馬の脚で掻き回されてどす黒く変色し変形していく。
嵒は一度だけ、背後を振り返った。阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されている。ぐう、と唸りながら目を閉じて、部下たちの最後に心の中で手を合わせる。
こんな自分を未だに慕って呉れている数少ない貴重な部下が、身体ごと生命を差し出して優を足止めして呉れた。
眸に涙を貯めながら、嵒は自軍の立て直しに必死になった。雪崩のように迫る祭国の軍旗に焦りを覚えながらも、自らに冷静になれと命じながら的確な指示を出す。
「虎乱の備えの陣形を取れ!」
嵒の命令に、契国軍は各所で地に足が着かない部隊を抱えながらも何とか従っていく。
示された策が的確であったからというのもあるが、不敗の猛将と名高い禍国の兵部尚書・優を相手に引けを取らぬ戦いを繰り広げたのが効いていた。
嵒の奮戦が、兵士たちの心の支えとなっていたのだ。
「良いか! 背後を取られたからと必要以上に畏れる事はない! 虎乱の備えであれば前後の敵を同時に討てる! 動け! 素早く陣形整えよ! 禍国と祭国に目に物見せてやるのだ!」
嵒は殊更に禍国兵から奪った剣を振り回す。名高い禍国の鉄器を奪って奮戦する嵒の姿は、確かに悪鬼羅刹を恐れをなして逃げていくのでは、と契国軍の兵士たちの心を強くさせた。
「負けぬ、我らは負けぬ! 契国の名を奪われはせぬ!」




