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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
七ノ戦 星火燎原

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22 屍山血河 その9-1

22 屍山血河 その9-1



 紅河に浮かんでいる運搬船に、次々に荷が担ぎ込まていく。

 明らかに過去に相当な悪さ・・を働いた事がある、脛に傷持ちだの兇状持ちだのであろう、と人相風体から察せられる人足たちの、遠慮会釈のない怒鳴り声が彼方此方であがっている。

 時間の無駄を嫌う彼らは常に殺気立っているのだが、其れにしても、異様な昂りだといえる。少しでも手際の悪い班があると、怒号とより先に鉄拳制裁が容赦無く飛ぶ。其処に兵たちの甲冑の擦れ合う音に、降ろされた積荷が床板を叩く音が被さるのだった。


 岸辺では、喧騒で耳を嬲られ落ち付きを無くした馬が鋭い嘶きを発している。

 手にしている木簡と積荷に括られている木札とを照会していた芙は、背後から肩を軽く叩かれた。振り返ると、杢が立っている。

「どうだ? 積荷の進み具合は?」

「ああ、予定よりも早い位だ。時の手際の良さは変わらない。助かっている」

 芙が荷を積み込ませている運搬船は、吉次と來世が那国軍から奪い取った例の船だ。

 ほぼ無傷で手に入れられた御蔭で、こうして再活用が出来る。と言うよりも、運搬船を利用する為に奪取するのが海上戦での最大の目的だった。


「では、騎馬を乗り込ませたいのだが、いいか? そろそろ陛下が此方においでになられる」

「構わない」

 好きにやってくれ、と芙が木簡で杢の二の腕辺りを軽く叩くと、何方からともなく短い笑みが溢れた。そして、矢張り二人して紅河を埋め尽くしてずらりと並んでいる運搬船を眺める。

 上がる軍旗は祭国のものだ。

 そう、此れから戰に率いられた祭国軍は紅河を遡上して契国を目指す。

 時に命じて、武具だけでなく兵糧も集めさせた。

 大保・受の無理難題を押し付けられたまま出兵し、もう契国に布告しているであろう兵部尚書・優の軍隊の分までだ。兵站を充実させるのに時という存在は、戰にとって全く欠かせない存在となっている。が、其れは逆に言えば、長らく彼を優遇してきながら失った優は窮地に陥れている、という事になる。


 人足たちの怒鳴り声が、突然、歓声に変わった。

 歓声を上げたのは、人足だけではなかった。兵たちも同じだった。

「郡王陛下!」

「陛下万歳!」

 諸手を挙げながらの歓喜の声に包まれながら、愛馬・千段に乗った戰が真っ直ぐに船に近付いて来る。背後には、まるで山羊か羊かと見紛う、何処から探してきたのかいっそ不思議になる位、体格の小さな馬に乗った時が続く。

 手を挙げながら、戰は気さくに歓声に応えて進む。

 乗船する戰を見送る為についてきた時もまた、荷を積み終えた人足たちに労いの声を掛けるのを忘れない。途端に、荒くれ者たちの表情が和んでいく。仕事の出来によっては、時から決められている報酬とは別に『駄賃』が与えられるのだ。其れは更に賃金を上乗せする金一封の時もあれば、その上にまた、家に入れる金とは別支給になる『お楽しみ・・・・』の『現物支給・・・・』があったりする。人足たちは、この『現物支給』がいたく気に入っており、此れを手にせんが為に異様に張り切っていた、という訳だ。


 あっと言う間に、時は人足たちに取り囲まれた。

 鯰の触覚のような髭を紙縒りながら、時が何やら、一言、二言、笑いながら呟くと、おお! という勝利の雄叫びが人足たちから上がった。時に礼を言うと、人足たちは船に向かって陽気に手を振りながら、わいわい騒ぎつつ引き上げていく。どうやら、『現物支給』を捥ぎ取るのに成功したらしい。

 人足たちが寄り場と呼ばれている宿舎に引き上げるのとと入れ替わりに、馬たちが船の中にどんどんと乗り込んで来る。過密状態になった甲板は、人と馬とが吐き出す息が産む熱気で、むんむんとした蒸し風呂状態になった。



 騎馬の乗船が完了したと、兵が興奮した面持ちで戰に伝えに来た。

「さあ皇子様、どうぞ。芙殿と杢殿がお待ちかねに御座いますぞ」

「ああ、時も上がって呉れ」

 戰が梯を使って船に上がりかけると時は、いやいや、と呟きながら顔をつるりと撫でてみせた。

「商人の性分というものを弁えねば、私の沽券に関わりますでな。此方でお見送り致します」

「……そうか」

 時の礼拝に送られながら、戰は梯を登っていく。甲板に千段の前脚がつくと、左右にずらりと道を作り上げて並んでいた将兵たちが、郡王陛下万歳! を一斉に唱和する。

 二、三度手を振って兵士たちの万歳を収めると、杢が戰の前に現れ礼拝を捧げた。

「陛下。只今、騎馬の乗船を終えました」

 うん、と頷きながら千段の背から降りて手綱を兵に預けると、戰は船の様子をぐるりと一瞥する。何時の間にか、視線の届く位置に密かに控えていた芙を、ちら、と戰は盗み見るような視線を送った。心得ている芙が、音も無く戰の前に寄り、片膝を付いて跪いた。


「芙。此の短な時間の間に、実によくやって呉れた。流石の手際だね、礼を言うよ」

「……いえ」

「が、もう一つ、頼まれて欲しい」

 はい、と芙が答えるより早く、上がる歓声に隠した戰の命令が下る。

「時にはもう話しをつけてある。先に契国に入り、兵部尚書の元に行って欲しい」

「――はい」

 力強く命令を受けた芙の姿は、だが、声が消えるよりも速くかき消える。


 芙の気配が消えると、杢が今か今かと待ち侘びている兵に向かって命じた。

「軍旗を掲げよ!」

「おお!」

 喜び勇んだ兵たちが、戰の軍旗を柱に一気に上げる。

 頂点にまで登った軍旗は、川風を受け、バッ! と弾けて開く。

 此れで何度めになるのか。

 大歓声が上がり、紅河の水面を激しく叩いて波打たせる。


「出陣!」

 戰が川上方面に腕を突き上げると、将兵たちは一斉に倣う。

「目指すは契国!」



 ★★★



「矢張り動かぬか」

 溜息混じりに、馬上で優は呟いた。

 目立たぬよう、率いているのは信頼の置ける数騎の部下のみだ。

 視線の先には、契国の王都がある。

 契国領内に侵入してから既に1ヶ月以上が経過しているが、こうして毎日、優自ら契国の情勢を探らんと偵察に出ていた。

 途中、幾つか小城を落としながら王都まで登って来たのだが、陥落させてきた城と違い、王都を護る相手は当初から甲羅に頭と手足を引っ込めた亀よりも強固な守りに徹して、頑として動こうとしない。

 膠着状態が、続いている。


「如何なさいますか?」

 案に、攻めよという命令を下せと迫ってくる部下を、ぎろり、と優は睨み付ける。

 其れだけで、部下たちは竦み上がり言葉を失う。眼光のみで人を御す力があるのは流石であるが、だが、優にも疲労の色が無い訳ではない。

「動くまで待つしかあるまい」

「しかし……何時までになりますか?」

 部下が恐る恐る、不満げな声を出す。

 此の問答を、何度何日繰り返しているか、知って折られますか? と誰かが口にしては呉れないだろうか、と互いに顔を見合わせあい明白あからさまに腹の中を探っている。言葉に窮していた部下たちであったが、とうとう今日は不満を口にした。


「兵部尚書様」

「何だ」

「兵たちにも限界が近く……、いえ、限界が来ております。特に歩兵たちは陣触れからほぼ間も無く出兵している上に、身銭を切っての出兵です。此のままでは、何れ……」

「陛下を信じて待つのだ――戻るぞ」

 部下の言葉を無理矢理封じ込めて、優は野営地のある方角へと馬首を巡らせた。部下たちも慌てて従う。

 蹄の音が、まるで滝のように連なった。



 野営地に戻ると、甲冑を身に纏ってはいるが、兵たちは皆、困憊していた。

 座り込んでなるべく動かず、体力の消耗を抑えようと努力しているのだが、どうにもこうにも、使い古された雑巾のような襤褸屑感と言おうか、草臥れた疲弊感が漂っている。

 皆、動かない、と言うよりも動けなくなって来ているのだと優も知っている。

 動けない理由は明瞭だ。

 腹が減っている、飢えて正しい判断力を失いかけているのだ。

 下手に動いては、一旦緩急いったんかんきゅうの時に、すわ、と駆け付けられぬ、そんな瀬戸際にまで追い込まれているのは、実は契国軍ではなく禍国軍の方だった。


 ――限界が来ている。

 部下の言葉が、耳朶の中で谺する。

 分かっておるわ。

 分かっているのだが、どうしようもない。

 兵馬を満足させてやろうにも、兵糧が絶対的に足りないのだ。

 人馬ともども、飢えさせては戦にならないと云うのに兵站の補充が出来ない。

 優は此処の処、攻め倦ねると言うよりは、1食が済む毎に如何にして万を超える兵馬の飯をどうしてやろうか、と其ればかりを考えていた。

 戦の時は体力の消耗が激しく、限界を超えて戦うには一にも二にも先ず飯であり、優は此れまでの戦では兵士たちに、交代制で1日平均4回の食事を摂らせていた。兵站部隊を重く見ていた優にしか出来ない事だ。


 しかし今回の戦は、1日2食の薄粥でも苦しい状態が続いている。

 が、此れも日を置かず1日1食となるだろう。

 何よりも塩が足りない。

 人間にとっても馬にとっても必要不可欠なものだが、既に底が見えて何時尽きても不思議ではない。

 窮状の最中、窃盗が起こらぬのは流石に優が大将を務めているだけの事はあるが、兵站を預かる兵たちからは、塩不足という、恐怖と怯えと嘆きと悲鳴とが引っ切り無しに優の元に届けられてきていた。



 ★★★



 人払いをして自身の天幕に戻ると、知らず、盛大な嘆息が溢れた。

 机上に肘をついて手の甲に額を載せ、肩を落としている優は、常の彼からは考えられぬ、全身から悄然とした愁いと共に意気阻喪の気が漂っている。

 籠城戦は防守側、拠守する側に援軍の当てがないのであれば基本的に攻城側に利がある。

 長期戦に持ち込み、敵の兵糧が尽きて自滅なり降伏するなりするまで待てば良い――つまり、戰の初陣で真が採用した策こそが長期的にみれば最も効果的で効率的なのだ。

 しかし、此度の戦は其れが出来ない。

 圧倒的な兵力差でもなし、逆に此方の方が飢えて退却するかどうかの決断を迫られているのが現状だった。

 打開策も糞もない。

 古来より、飢えた兵がまともな勝利を得た例は一戦たりとてないのだ。


 深く嘆息しかけて、はっとなった優は、ぎりぎりと奥歯を噛んで耐える。

 大将である自分が憂いを見せれば、将たちが動揺する。

 将の動揺は兵たちの間に戦への恐怖として伝播する。

 戦に恐怖した兵は、ほんの些細な切掛で瓦解土崩を起こし、下手をすると全滅の憂き目にあう。

 其れだけは何としても避けねばならない。

 如何に気に入らぬ戦であろうとも、自分には、戦に勝つ責任がある。


 優は天を仰いだ。

 たった此れだけの事で、栄養が足りぬ身体が痺れを起こさせ、軽い目眩が襲う。目蓋を閉じて、身体を揺らしてなるものか、と脚の裏に力を入れて踏ん張る。が、身体は耐えられても、情けなさに精神が揺らぐ。

 年を食った自分でも堪えているのだから、若い部下たちが辛くない筈がない。

 ――こんな戯けた戦で、未来ある者たちの生命を當たら無駄に落とさせてたまるものか。

 一人でも多くの兵たちを故郷くにもとに帰してやらねばならない。

 此の戦が、郡王・戰の転機になるのは間違い無い。

 那国と契国が負ければ、帝国内の勢力図はまた大きく変わる。

 若者にとっては郡王・戰に鞍替え・・・する最初で最後の機会であり、もっと言ってしまえば沈む泥舟に等しい禍国を見捨てられる切掛を与えてやれる、唯一の時宜じぎとなるだろう。

 そして自分にとっても、禍国にいやいや・・・・仕えている有能な部下たちと共に禍国と皇帝・建に見切りを付けたと宣言し、郡王・戰の旗下に堂々と馳せ参じられる絶好の好機なのだ。


 ――此れを逃す阿呆が何処におる。

 とは云うものの、駆け付けようにも、肝心要の戦の勝利が霞の果てに去りかけているこの現状に日々落胆失望しては疲弊の度合いを深めていくばかりだった。



 ★★★



 目蓋を開けると、煤けた天幕の端に蜘蛛が巣を張っているのが目に留まった。

 それだけ長く戦も出来ずに此処に駐屯しているのか、と優は無性に腹が立った。空きっ腹は人をより短気にさせるな、とむかむかしつつ自覚する。


 せっせと脚を動かして巣を張る蜘蛛は、見ていると何故か、書庫の隅に机をおいてせせこましい格好をしながら忙しなく木簡に視線を走らせていた真を思い出させた。

 意識が集中すると、部屋を散らかし放題の部屋の中に引き篭もって湯すら浴びない。幼い妻の薔姫を心配させてばかりの息子に頭に来て、いい加減にしろ! と叱り付けると、はあ、どうも済みません、とぼりぼりと項辺りを掻きながら呑気そうな間延びした声で返答をするのだ、眠たそうな目で薄ぼんやりとした風体でふらふらとしながら。

 禍国での真との日常を思い出しながら、優は腹の底で毒づいた。

 ――馬鹿息子めが。

 こういう時こそ、普段から悪知恵ばかり鍛えておる、お前の出番であろうが。

 むかっ腹が抑えられなくなってきた優は、がた、と椅子を蹴立てて立ち上がり天幕の外に出た。

 大股で、ずんずんと歩いていると、部下たちが慌てて追い縋ってくるのだが、構わず進む。

 何処に行こうという訳でもないのだが、じっとしていると余計に苛々するので、動いて気を紛らわせるしかない。


 しかし優は、自分の苛々の元が息子の真の不在にもあるのだが、此れまでの自分の戦勝の本当の意味を知ったからでもあるのだとも実感していた。

 真が此れまでの戦で、圧倒的な兵力差と勝利の確信がない限り、決して戰を動かさなかったの自分の過去の戦の勝利の文献を紐解き、見て、聞いて、学んでいたからだ。

 戦とは始まる前に勝敗が決していなければならない。

 勝ちに行くだけにして始めるのが『戦』であり、其れ以外は戦ではない。

 只、泥沼の戦闘、死闘の末に偶発的に敵が多く死んで呉れた、若しくは偶然に生き残った兵卒の数が多かった、それだけに過ぎない。

 そう云う意味では、此の契国戦は『戦に非ず』の戦いばかりだ。


 ――その場凌ぎの、何の策も無い戦いを続けて行くのがこんなにも辛いものであったとは。

 武人となり30年以上経つが、優は初めて、苦い戦の味を噛み締めていた。



 ★★★



 不意に優は、兵たちの間から何やら歓声というか泡立つような騒ぎが持ち上がったのに気が付いた。

 馬たちに食べさせる飼葉を積んである、簡易兵舎の方だ。


「何事だ?」

 腹が空き過ぎて、言葉が短く、ピリピリと棘のあるものになる。ずんずんと大股で厩の方へと歩いていった優は、騒ぎの元を知り、目を丸くした。

 幾つもの新しい飼葉を積んだ荷車に、ぎゃあぎゃあと喧しい喜びの声を上げながら兵たちが殺到している。まだ緑色をしている餌を与えられた馬たちの悲鳴のような嘶きが畝って混じり合い、竜巻のようにその場に立っている。

 騒ぎの中で、奇跡的に優に気が付いた兵卒が居た。

 兵部尚書様、此方に! と満面の笑みを浮かべながら手を振っている。


「こ、此れは……!?」

「兵部尚書様、有難う御座います! 此れで皆、生き返ります!」

 興奮で真っ赤に染め上げた顔を涙と涎と鼻水と汗とでべとべとにした部下たちが、わ! と一斉に駆け寄ってくる。勢いに仰け反りながら、お、おう、と適当な返答を返してしまった優の眼の前で、兵卒たちの塊がまた一段と湧いた。

「また荷車が届いたぞ!」

「今度は人間様の食料らしいぞ!」

 荷車を押して来る輸送兵たちも、笑顔で手を振っている。

 荷台にあるのは中身の違いからから、麻などの大袋であったり巨大な甕であったりするのだが、兵士たちは待ち切れず、小躍りしながら荷車に群がった。流れ作業で、せっせと荷台から下ろすと、我先にと荷物を紐解いて中身を改める。


「おい! こっちは粟や麦、米まであるぞ!」

「こっちの袋は干し芋だ!」

「お、おい! 煎り豆入りの餅もあるぞ!」

「肉だ肉! 干し肉に干し魚だ!」

「棗や山査子に枸杞まであるぞ!?」

「甕の中身は醤に酒だぞ!」

 こういう時は、言われなくとも率先してよく働くものだ、と何時もなら軽く出て来る嫌味も今日は口から溢れない。しかし、空腹と喧嘩腰だった兵たちの顔に、久々に底抜けの笑顔が戻って来たのだ。


「……真の奴め……」

 呟く優の口元も、自然と穏やかなものとなっている。

 鈍くなっていた優の頭の動きが戻ってきた。

 大保・受が追加金を出す訳が無い。

 そもそも、禍国には金が無いから今の今まで此の窮状に喘いでいたのだ。

 禍国内でこんな事が出来る人物など、優の知る限りでは一人しか居ない。

 下手な国の国庫など、簡単に吹き飛ばす財力を持っている、商人・時だ。

 商人・時が動いたと云う事は、郡王・戰の那国での戦が勝利で終決を迎えたという意味であり、尚且つ、其の勝利の裏では彼の目付けとして仕えている真が、何らかの策を巡らせたのに違いない。

 策が伸びに伸びた先に、戦死する前に餓死するかという兵たちを救わんとしたのが、此の兵糧の運搬なのだろう。


 最後に届けられた荷車から袋が下ろされた。

 今度は何だ? と兵たちは子供のような顔付きで袋を開ける。

 そして、あっ!? と息を呑んだ。

 見た事もない実が詰まっていた。黒々と、不気味な底光りを見せる三角錐形の実だ。

 腕を突っ込み手の平の上で実を弄びながら、兵たちは袋の上で額を寄せ合って首を傾げる。

「お……おい、こ、此れ?」

「な、何だ、こりゃあ?」

「お前はどうだ? 見た事あるか?」

「いいや、ねえぞ? 何だ、黒いぞ?」

「おい、気味悪いな? 食い物か、これ?」

「退け! 退いて、見せてみよ!」


 得体の知れない実を前に、気味悪がって後退りし始めた兵たちを押し退け、いや正確には襟首を引っ掴んで後ろに放り投げながら、優は袋の口を取った。

 黒い実を鷲掴みにして立った優の口からは、思わず知らず、おおっ……と感動に震えた声が漏れる。兵たちは恐る恐る、兵部尚書様……? と優を伺う。

「此れは――蕎麦だ」

「そ、蕎麦っ!?」

「兵部尚書様、今何と仰られましたか!?」

「そば!? こ、此れが蕎麦ですか!?」

 優の言葉に、兵たちは仰天して飛び退った。拍子に、互いにぶつかり合って地面に転がってしまったが、誰も失態を罵り合わない。


 呆然としながら、皆、優の手から零れ落ちる黒い実を見詰める。

 蕎麦、という言葉くらいは聞いた事はある。

 王都の貴族の間では、病気の快気祝いの膳などに薬膳として載せるなどして広まりを見せ始めている。しかし所詮は、身分ある者たちや平民でも金を持っている者の間だけの話だ。

 金のない庶民には、まだまだ高嶺の花であり、なんの恩恵もない。


 そんな蕎麦の実が、何故、戦場に兵糧として届けられているのか?

 而も、何石も、だ。

 ぐ、と蕎麦を握り締めた拳を、優は兵たちの前に腕を突き出した。

「皆、心して聞け! 祭国郡王・戰陛下より、我ら禍国軍に兵糧が送られて来たぞ!」

 どおお! を集まった兵たちの間で喜びの声が爆発する。

 気が付けば、目の前に覆面で顔を隠した黒ずくめの男が跪いている。顔を隠していようとも、此の男が3年前、鷹の拷問から真を救い出した草だと優は見抜いていた。し

 かし、優は構わずに兵たちに向けて声を張り上げる。


「此れを見よ! 蕎麦の実だ! 郡王陛下と祭国国王・学陛下より、賜った蕎麦の実だ! 戦に向け、勝利に向け、力をつけよと贈って下された! 皆、両陛下への恩情を胸に、今夜は腹一杯になるまで喰うがいい!」

 腹一杯になるまで、と優が口にした途端、人海は嵐のように畝った。

 兵站部隊たちは、喜色満面で受け取った兵糧を前に腕を捲くっている。早速、蕎麦の抜き実作業が行われ、彼方此方の竈では火が起こさ始めた。大釜が掛けられ、湯気が上がり始める。


 浮かれ騒ぐ万の兵馬たちの姿が、滲んでいくのを誤魔化すかのように、……真め、と優は小声で毒付いた。

「全く……我が軍の窮乏など見通しておったのなら、もう少し早く寄越してこんか、馬鹿息子めが」



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