22 屍山血河 その7-5
22 屍山血河 その7-5
とうとう、残るは楼船だけとなった。
今や木の葉のように頼りなく浮かぶばかりの楼船に、左右から一隻づつ突撃を仕掛けて来た。翻る軍旗から、何方も大将船なのだろうと分かる。
敏は腕を振り回して叫んだ。
「や、奴ら、敵の大将船だ! 丁度良い! 此方からも船に乗り移り、奴らの軍旗を奪ってしまえ!」
我乍ら妙案である、と敏は自信を回復した力強い笑みを浮かべている。
だが反対に、楼船に居る将兵たちの顔には白けた表情が浮かんでいる。確かに、起死回生の策となれば其れくらいしか、もう有り得ないだろう。
だが其の命懸けの策を、誰が実行するというのか?
「どうした!? 早く鉤縄と梯子を用意せんか! 奴らは油断しきっておる! 容易に捕縛できるぞ!」
捕縛、と云う敏の言葉が、波間を撫でる風よりも空々しく那国兵の間に流れる。
……くっ……、と何処からか圧し殺した失笑が漏れた。一度、漏れてしまうと堪えが効かなくなるのか、くっくっく、はっはっは、くっは、ふっ、ふっふふ、という笑い声の輪唱が起きる。
敏の顔が怒りの為に真っ赤になった。
――王の命令に礼を尽くさぬばかりか、あろうことか、嘲笑するとは何事か!
「何だ貴様ら、其の目は!? 其れが王に対する態度か!? 国への忠義を今此処で見せずして何時見せるのだ! 行け! 死ぬ気で行って喜んで死んで、こ、い、いぃっ!?」
敏の部下たちへの罵声の最後は、疑問符の付いた尻切れとなった。
未だに間抜けな姿を晒している敏に将兵たちが飛び掛かってきたのだ。
「ぐあっ!? な、何をするかぁ!? う、ぐ、ふぐぐ!」
殴られ蹴られしながらも罵倒を止めぬ敏の口に、小穢い布切れが押し込まれた。
苦い消炭と腐臭を吸ったのか、吐き気を催す其れが、引き上げてきた時に敏が纏っていた帯だと気が付く頃には、敏は縄で拘束され終えていた。
「柱を倒せ!」
将兵が怒鳴る。
喉の奥まで詰められた帯のせいで呼吸もままらなぬ敏は、痛みと辛さに涙を貯めた眸を見開いた。
どの将兵が叫んだのかは分からない。
だが、兵たちは喜々として命令に従おうとしている。
斧と鉈を手にし柱を取り囲み、腕を振り上げる。どの兵の眸も、異常に釣り上がって血走っている。避けんばかりに開けらた口からは、意味を成さない咆哮が走った。
「ぐぬ! ふぐぐ、ぬ、ぐ、ぬぎぎぎ!」
止めようとする敏の叫び声は、詰め込まれた帯に吸い込まれて無残に消えて行く。
敏の眼前で、啄木鳥が木の幹を抉っているかのような音が海上を流れて行く。
「やれ、やってしまえ!」
「倒してしまえ!」
「倒せっ、倒せっ!」
異様な興奮状態の那国兵たちは、口々に倒せ倒せと唱えながら斧を振るう。
「ふぐぅ! ぐぎ、ふぎぎっ!」
拘束されながらも止めに入ろうと身体をくねらせた敏は、均衡を崩して俯せに倒れた。
衝撃で、身体を強かに打ち付けた敏の口から布切れが飛び出す。涙を流しつて、げほっごほっ、と嘔吐きながらも敏は叫んだ。
「止めよ! 負ける気か!?」
すると将兵の一人が、ぐるん、と身体ごと敏に向き直った。
正気を失った血走った眸が、ぎらぎらとした輝きを放っている。思わず知らず、床に蓑虫のように転がっている敏は尻を使って後退りした。
「此の阿呆王が! 我らの軍が、何時、勝っていた局面があったというのだ!」
ずかずかと近付いてきた将兵は、転がっている敏の顎の先に爪先を入れて蹴り上げた。
顎の骨が砕かれる音が体内で響くのを感じながら、敏は叫び声すら出せずに気を失った。
★★★
楼船から、軍旗が掲げられていた柱が消えた。
風に棚引いていたのは、只の軍旗ではない。
王の、国王だけが所有する事を許されている軍旗だ。
同時に、がちゃがちゃという剣や弓を放棄するする乾いた音が彼方此方で鳴り出す。
降伏の意思を告げているつもりなのだ。
打ち捨てられる武器が奏でる音は、調子外れの音楽に聞こえなくもない。だが折角の演奏は、左右から上がった勝利を確信した歓声に掻き消された。
「大王さま。さあ、此方に」
大勝を得た慶びを隠そうともせず、うきうきと声を弾ませている火矛氏に促された來世は、うん、と素直に頷きながら船と船を繋ぐ巨大な梯子に脚を掛けた。
沖合とは思えぬ大きな波が、時折跳ねてきて梯子の上を追い抜いていく。潮の流れに濡れた梯子はよく滑り、足元を危うくする.しかし來世は、臆する様子など微塵も見せずに陽国軍の楼船に乗り込んだ。まだ身体が完成されていない少年の身ながら、堂々と胸を張る姿は王者の威光を発している。
小柄な來世を大きく見せようとしてか、肩を聳やかしながら火矛氏と細石氏が付き従う。
どうだ! 我が主を思い知れ! と意気揚揚とした彼らがふと視線を上げると、反対側の舷から遼国軍が乗り込んで来る処だった。先頭は、勿論、総大将を任されている吉次である。
吉次は迷いも見せずに來世と真正面に向かい合う形で立っている。そして、共に戦った同盟国の国王に感謝と敬意を表す為、丁寧に腰を折って礼を示してきた。
しかし吉次の父親である火矛氏は、明白に、むっとした顔をしてみせた。
「吉次! 此の馬鹿倅が! 己の主を忘れたか! 早よう大王さまに礼を捧げんか!」
腹に力を込めて一段低い声を作り、じろりと息子を睨む火矛氏であったが、目の前に立つ数年振りに顔を合わせた息子は、矢張り、家臣の其れではない礼以外、來世に捧げようとしない。
ぬふっ、と鼻息荒く、火矛氏が吉次の胸倉に腕を伸ばし掛けた其の時、止めよ、爺、と横合いから邪魔が入った。声の主は無論、陽国王・來世だ。
「今は親子で喧嘩をしておる場合ではない。それにそぅれ、彼処を見てみよ。祭国の郡王は、どうも待ちくたびれて痺れを切らしたらしいぞ?」
笑みを浮かべる來世の前で、息子にああだこうだと小言は言えない。ふぐぅ、と呻きつつ引き下がった火矛氏も、紅河の河口から船が一隻、此方に向かって来ているのに気が付いていた。
近付いて来た船は河国のものだが、掲げているのは祭国の軍旗だ。
派手さや綺羅びやかな刺繍は皆無の軍旗は、良く言えば質実、有り体に言ってしまえば質素そのものだ。が、大きさといい風格といい、無言で大将格の威圧感を与えてくるのも確かだ。
船は、來世と吉次が乗っ取った那国の楼船に迷いなく近付くと梯子を掛けて来た。
ずらり、と甲板に重々しい甲冑に身を包んだ武人たちの一団が並び立っている。
一団の中央に在る男は、何方かというと細身の体つきをしており、而も脚を引き摺っていた。
大きく身体を傾げながらも、だが存外に危なげ無く器用に梯子を渡って来る。身体に障碍を得ているらしきものの、纏う甲冑の素晴らしい細工からして万騎将軍なのだと知らしめていた。いや何よりも、滲み出る気からして、一角の人物であると物語っている。流石に、陽国王の左右を守る火矛氏と細石氏の顔に緊張が走った。
「杢殿」
男が甲板に脚を付けると、吉次は嬉しそうに目を細めて駆け寄り手を差し伸べた。
此の時初めて火矛氏は、息子である吉次が、何時の間にか笑うと目元に小皺が目立つようになる年齢になっていたのに気が付いた。
吉次に声を掛けられた杢と云う名らしき男は、表情を和らげて礼を言いながら素直に手を借りながら船に上がってくる。
そして來世に真っ直ぐ向かって来る。來世の眼前で、ぴたりと直立した杢はとても脚を引き摺っていた者とは思えぬ流麗さで、すっ、と身を屈めた。
「陽国王陛下」
片膝を付いて礼を捧げる杢は、折り目正しく所作が美しい。
「斯様な場にての目通り、我らが非礼を、何卒、お許し下さい」
「うむ、許そう」
來世から許しを与えられても、杢は無言で、他国の王に勝利を祝う礼拝を捧げる。
一事が万事、生真面目さが滲み出る杢の礼拝を前にすると、息子に対する不満が火矛氏の中で再燃仕掛ける。此処は一発、頭ごなしに怒鳴り付けてやらねばならぬ、と鼻息を吐くと、爺、と來世に目配せされて機先を制せられてしまった。
眼前の青年と、此の先を如何にするかの話しを付けねばならぬ立場にある自分を、業腹を抱えながら火矛氏は深く呪った。
「表を上げられよ。吾らが大王さまは此の海より広き御心にて、一度許しを与えられた以上は、非常時の無礼を咎めるような御方では非せられぬ。其方らも船の上では慣れぬ事とて難儀であろう、以後は無礼講でゆこう」
こうまで言われても、恐悦至極に御座います、と杢は更に頭を垂れる。
やれやれ、此奴は相当な石頭のようじゃな、と火矛氏ともあろう者が内心で苦笑した。
「陛下を御迎えに上がりました。どうか、我らが主人、祭国郡王との会見に御同意を頂きたく存じ上げます」
火矛氏が口を開く前に、來世が楽しげに間に入った。
「其方は、祭国の郡王・戰と共に那国に入った将なのであろう?」
「はい」
「その其方が吾を迎えに来た、という事は力河に回した吾の国の部下たちの働きは満足に足るものであったのだな?」
はい、と目を伏せたまま、杢は答える。
「此度の大勝利は、陽国王陛下の御力添えがあらずば叶わぬもの。我が主君・祭国郡王、並びに同盟の契を交わせし遼国王陛下も、陛下と此の慶びを分かち合いたい、と申しております」
声には気負いや気後れによる乱れは一切無い。まるで、凪いだ海のように淡々と然し穏やかだ。
何時の間にか杢と並んでいる吉次と杢との間に、無言で視線を行き来させていた來世であったが、そうか、と息を吐くと火矛氏と細石氏に、吾について来よ、と短く命じた。
「姿も知らぬまま同盟の意を交わしていたが、此れで漸く、祭国郡王とも遼国王とも、酒を酌み交わせる位置にて顔を突き合わせられるのだな」
來世は少年らしく、楽しみだ、と屈託のない笑みを浮かべた。
★★★
河国の領土内に陽国軍と遼国軍が揃って上陸した。
上陸地点は南端であり、南正大門をくぐり公道から王都を目指す凱旋行軍となる。
常勝不敗、実に、堂々たる行進である。
縛り上げられた那国王・敏は火矛氏と細石氏が左右を固めて、王の大国旗は吉次と杢が手にして、河国王城へを目指す。
今の戰にとって、時間は何物にも代え難い宝である。本来なら寸暇を惜しむべきであり、凱旋などせず勝利の宣言をして那国を奪い、功績全ては郡王のものと処理してもよい処だろう。
だが此度の勝利は、三国が同盟して那国を討ったものである、と禍国王城に在る大保・受に知らしめなければ意味が無い。
此の行軍は必要なのを最も深く理解しているのも、また戰であった。
先頭をゆくのは、陽国王・來世だ。
大陸まで無事に来られたと云えども、帰路はどうなるか解らない。潮の流れが大きく変わらぬ内に、一刻も早く出立すべきなのだ、と知りつつも、陽国、此処にあり、と平原に知らしめん為にも、威風凜然とした姿を見せ付けねばならぬのは、來世も同様だった。
來世が乗っている馬は、烏の濡羽色に輝く鬣が艶やかな駿馬だ。揺られている來世も、ふう、と何度もうっとしとした溜息を吐かずにおられぬほどの名馬だった。
祭国郡王の名で、是非に、と來世に献上された此の馬を前にした時、陽国軍からどよめきが走った。
「何という素晴らしい肉の張りの馬だ」
漲る生気が鬣の揺らぎに乗り移っているかのようで、勝ち気がまざまざと目に見える。
武人ならば認めざるを得ない名馬であり、誰もが垂涎垂らして群がるだろう。
陽国でも馬は盛んに産出されている。が、彼の地の馬は馬体が一回り小さく、脚が太短い。其の分、腱が頑丈で病気にも強く剛健であり、而も一度、主人と決めた者にはとことん忠実なのが売りである。
しかし此の、祭国で育て上げられた駿馬を前にすると、体躯の貧相さが浮き彫りになる。
其れに此の、従順さはどうだ。來世と視線を交わし、眉間を一撫でされただけで、駿馬は年若い少年王を己が主と定めたらしい。無闇に暴れるもせず神妙な面持ちで、來世を背中に乗せて歩いている。來世の方でも、一目惚れせずにはいられないではないか。
公道の両端には、既に領民たちが鈴生りとなっていた。
感極まって地べたに突っ伏して泣き喚く者。
笑顔を見せて抱き合う者。
自分をどう制していいものか分からず飛び跳ねる者。
歌い始める者に踊り始める者。
皆、様々な形で無事に帰ってきた夫や息子、恋人たちを出迎えている。
歓喜を爆発させている純朴な人々を前に、陽国に帰れば自分たちも、と來世たちも胸が熱くなる。
遼国軍の先頭に立つのは、紅河戦で大将を務めた吉次、そして上陸してきた那国軍を撃破した相国・燹が並んでいる。
並び立つのを辞しかけた吉次だったが、燹と杢から、郡王陛下の威を平原に知らしめる為にも、と言われて引き下がる道を封じられてしまった。
些か腰が定まらぬ気持ちで吉次は手綱を握っていたが、河国の王都に入ってからは別の意味で落ち着かなくなった。残してきた家族が出迎えに来て呉れているのではないか、と気になって仕方無いのだ。群衆の中に妻と娘の姿はないか、とつい視線を彷徨わせてしまう。
「おいこら、何をやっとるか。もっとしゃっきりとせぬか、しゃっきりと」
「は……」
父親の火矛氏に横から小突かれても、吉次は矢張り、もぞもぞとしている。
こんなそわそわとした息子の姿など見たことがない、と火矛氏が呆れていると、ふと、公道の脇から、父様ぁ! 父様ぁ! と呼ばわる童女特有の高い声がした。
途端に、吉次が少年のように顔を輝かせる。
釣られて火矛氏も慌ててキョロキョロと視線を巡らせると、10歳そこそこの少女が、頬を赤く染めながら手を振り振り、必死になって追い縋ってくる姿が目に入った。
「父様! 父様! お帰りなさい!」
少女は勿論、吉次の妻となった吉乃の連れ子である蘆野だ。
「蘆野、これ、下がりなさい、危ないだろう」
馬上から窘めつつも、喜びを爆発させている養女の姿を見た吉次の目元には、光るものが宿る。
ぼろぼろと涙を流し裾を乱した非れもない恥ずかしい姿に気が付きもせずに、蘆野も無事に吉次が帰ってきた喜びを全身で表している。
然し、蘆野の傍には妻の吉乃の姿がない。無事に帰って来たのかどうかを、自分で確かめられなかったのだろう。果たして蘆野は脚を止めると、吉次と、そして杢と燹に、ぺこり、と頭を下げると家のある方へと駆け出した。吉乃に知らせに行ったのだ。
ぽかん、と少女を見送っている火矛氏に、燹が笑いながら馬を寄せてきた。
「彼女は吉次殿の娘御の、蘆野殿ですよ」
「む、娘!? き、吉次の!?」
頓狂な声を上げて火矛氏は喘ぐが、幸いにも領民たちの大歓声に掻き消されて殆ど誰も気が付いていない。
「春先に吉乃殿という御寮人を得られたのですが、その連れ子なのですよ」
「御寮人!? つ、連れ子!?」
「しっかり者で働き者な上に、仲間の面倒見も良い御寮人に、誰からも好かれる心映の優しい良い娘御です。吉次殿は河国では、果報者として知られておりますぞ?」
燹も蘆野が去った先を目を細めて見ていたが、火矛氏は、あ、う、お、あ、い、と訳の分からない呻き声を暫く発していた。
★★★
行軍2日目に王城に到着した。
王城の大門である朱雀門を潜ると、やっと歓喜に染め上げられた喧騒が消える。
然し那国王・敏にとっては、此れからが本格的な恐怖の時間となる。
一体全体、どれだけの責めを受けるのか見当もつかない。
不安に嘖まされながら殆ど罪人を引っ立てるような状態で、河国の正殿に連れて行かれている最中だった。
だが敏は、屈辱を何としても晴らさねばならなかった。
見当が付かない、とは即ち、相手、そう三国の王たちの思惑が一致団結している筈がない、という意味でもある。
――何が同盟だ。
どうせ何処か一箇所を突けば脆くも崩れ去る、泥の城も同然だろうが。
戦が終われば、お互いに最も条件の良い利潤を追求するのは至極当然。
攻め落とした国を三国で取り合うのだから、旨い処を掻っ攫おうと虎視眈々と構えるのが常識というもの、だからこそ合戦の最中は互いに力を合わせていられても其の後に同盟があっさりと瓦解土崩するのはよくある事だ。
――河国王と祭国郡王は兎も角として、陽国王は二国の王と顔を合わせてもいないと言っておったな。
信頼関係を築いている処か、利害の一致のみ、一時の損得勘定でしか成り立っていない同盟など口先介入でどうとでもなる。
いや、してやる。
――同盟の山を崩す雨となってやるか、風となってやるか。
切り崩しを仕掛けるとすれば、王はまだ少年であり三国の中で国力が著しく低い陽国だろう。
凱旋の道中、周囲を固めていた重臣と思しき老人たちは何かと言うと頭に血を上らせて喧々諤々の押し問答を繰り広げていた。
――突くとすれば奴ら、陽国王の背後にいる爺どもだろう。
ちら、と敏は胸の内で火矛氏と細石氏を思い浮かべる。少年王を守らんという気負いが凄まじかった。そういう一徹者は、短慮で頑迷と相場は決まっている。
主可愛さに、河国王と祭国郡王に噛み付くように仕向けてやる。
あっさりと死んでなどやるものか。
起死回生、一縷の望みというものを、那国王・敏はまだ捨ててはいなかった。
河国王城の最奥部にある大殿まで、敏は石でも転がしているかのように連れて行かれた。
無礼も此処に極まれりと云うべきだろう。が、敏は必死で耐え抜いた。
此の先に待ち構えている三国の王たちの醜い争いを、無残にも砕け散る麗しく美しい同盟とやらを思い描いて、耐えた。
――先ずは席次を巡って対立させてやろうではないか。
俯き加減で歩きながら、敏は北叟笑む。
だが然し王の間に一歩入った、いや背中を押されて無理矢理捩じ込まれた敏は、己の胸の策が音を立てて崩れ去るのをまざまざと知らされた。
大殿の王の間には、3つの椅子が確かに用意されていたのだ。
見事な細工で背凭れに鳳凰が、肘掛け部分には竜が透かし彫られている。更に朱漆塗が施されている品で、王のみが座ることを許されている竜交椅という。
竜交椅は、攻め落とした那国の方角に一席、陽国の方角に一席、祭国の方角に一席、と、調度、鼎の形を取って置かれていた。
鼎の中央に突き飛ばされた敏は、背筋が凍るのを感じずにはいられなかった。対立させてやろうと目論んでいたが、あっさりと躱された。
――郡王は馬鹿か阿呆か、其れとも頓馬か間抜けか何かかっ!?
此処は禍国の威を振り翳し、河国王の王座を奪って座るのが当然だろうが、何を遠慮なぞしているのだ!?
王座も上座も下座も無く同等に、そして国力の優劣を瞭然とさせぬ席次を用意してくるなどと思いもしなかった。
敏には、郡王・戰の真意が全く読めなかった。
喉がからからに乾いて干上がって、痛みを感じていた敏は唾を飲み下して癒そうとした。
だが、幾ら喉仏を上下させようとも、湿り気すら湧いては呉れない。無駄な努力と思いながらも、必死になって唾を生み出そうとしていると、カツカツと乾いた、軽快な沓音が三方向から伸びて来た。それぞれに大国旗を背負いながら、陽国王・來世、河国王・灼、そして祭国郡王・戰が姿を現す。
己の国の方角に置かれた竜交椅に年齢が若い順に座って行くと、背後に、大国旗を手にした男たちがまるで朱塗りの楹のように立つ。
互いに謁見の儀礼や礼拝を行わない事で、上下を定めぬようにしている。
――何処までも面憎い奴らだ。
歯噛みしようとした敏は、自分の奥歯ではなく、別の誰かが歯を噛み締める音を聞いた。
表情を読み取らせぬよう、慎重に上目遣いをしながら音の出処を探る。
歯軋りしている人物は直ぐに見付かった。
陽国王の背後で、国旗を掲げている髭を豊かに蓄えた老人だ。相当な年齢であろうに、未だに屈強さを見せつける分厚い胸板や盛り上がった腕の太さは、国旗を支え続けるなど労力など屁とも思っていないと雄弁に物語っている。
彼の正面に座る郡王の背後では、陽国王の傍に侍るでもないのに髪を角髪結に結った男が、矢張り国旗を掲げて立っている。よく見れば、何と無く此の角髪結の男と陽国王の背後の老人は似ているように見えた。
「吉次、貴様、大王さまの御前にて他国の国旗を掲げて立つなどと、ようもやりおるな? 其のような大それた事、儂の目の前でやりおるとは、大王さまのみならず、氏族全てを敵に回す覚悟あっての事であろうの?」
果たして、老人が角髪結の男に発した声音には、怨み節と共に侮蔑的な響きがある。
老人は年甲斐も無く、男の喉元に噛み付いて皮膚を裂いてやりたいとばかりに睨んでいる。
だが吉次と呼ばれた角髪結の男は、顔色一つ変えねば眉も動かさなければ、まるで堪えた様子も見せない。老人の方は益々以て許し難いのか、顳かみに太い血管を浮き上がらせ、ちか、と眸の端を光らせた。
「吉次! 答えぬか! えぇい、此の馬鹿倅めが!」
「爺、止めよ。時間を無駄には出来ぬ。引っ込んでおれ」
最も年若い陽国王に諌められても、だが老人の怒り肩は平坦にならなかった。




