22 屍山血河 その7-3
22 屍山血河 その7-3
掃討戦が終結しようとしていた。
紅河の川面には、砕けた船体に紛れて逃げようとして、し損ねて討たれた那国兵の死体が何千何百と浮かんでいる。そんな味方の遺体を痛め付けるながら、闘艦は何とか落ち延びようと必死だった。
闘艦の脚の速さは有名だ。
が、河国が投入してきた小型船は其れを遥かに上回っていた。何よりも小回りが効く。船体を赤く塗られた小型船が、敗走する那国の闘艦を追撃している。まるで空きっ腹を抱えて怒り心頭し、充血させた目を爛々と輝かせている鰐の群れのようではないか。
そもそも幾ら大河であろうと、閉じ込められた状態の河川の上でどうやって逃げきるというのか?
逃れるなど不可能という事実から目を背けているような輩に、所詮、勝ち目などありはしない。
河国水軍の、紅河での完全勝利は目前だった。
「よし! 反転を行う! 河口から海に向かうぞ! 皆、準備を始めよ!」
吉次の命令に、おう! と景気良く水夫たちが応じる。
櫓の動きや帆の向きが忙しなく変わりだし、やがて那国に向いていた舳先は順に回転し、紅河の河口へ向かい始める。
其処へ、闘艦に乗り込んで戦っていた芙が小船乗って戻って来た。何やら積み込んでいるのが伺えた。
「芙殿、どうした?」
船の積荷が気になるのだろう、仲間が芙を甲板に上がる手伝いを買って出ている。吉次も手を眉辺りに翳して日差しを避けると、目を細めて荷に焦点を合わせる。
「ん……? あれは、剣……か?」
何と芙は、10本近い剣を小船に積んでいたのだ。
こうなると吉次も大いに気になる。仲間に続いて、芙の元に駆け寄った。差し出された手を取って上がってきた芙は、険しい顔付きで持ち帰ってきた剣を吉次に差し出した。
「吉次殿。すまんが、此の剣を検めて呉れないだろうか」
「ふうむ?」
神妙な顔で剣を受け取ると、鞘から抜き放った。
きらり、と輝く刃は独特の色合いをしている。
何と言い表したものだろうか、そう、陽光のような輝きを放っているのだ。刃の型や厚みや柄の形状などを見れば、今現在、主流となっている剣ではない事は分かるが、其処までだ。所詮は、大陸の民ではない吉次には、まるで馴染みのないものだった。
剣を立てて持ち、首を捻りながら視線を上下させる。
「芙殿、此の剣は?」
「那国兵が携えていたものだが、どうも、気になってな」
「そうか、しかし私も此の剣は知ら……うおっ!?」
言い掛けた吉次を押し退けて、河国の将兵が残りの剣に手を伸ばしてきた。
驚きの声を上げて鞘から剣を抜き放つと、皆で刃に指を当てたり顔を映してみたりして確かめあっている。こんな処で此の剣に出会うとは思っていなかったらしい。
「お、おい、信じられないが、此の剣はもしかして……!?」
「おう、確かにそうだ、此の剣は……!」
目を剥いて首を振る河国の将兵たちの前で、吉次と芙は顔を見合わせる。河国兵の方は、見覚えのある造りの剣であるのは間違いないらしい。が、どうにも言い様が引っ掛かる。
「信じられない、とは?」
剣を握る将兵の前で、吉次は渋面を作った。
どうにも、自分が預かり知らぬ時代の産物であるらしいのだろう、という予測はついている。
だが、だが彼らの驚きが何処から来るのかが、解らない。
「吉次殿。此の剣は河国の産、我が河国の、いえ正確には遼国王時代の灼陛下が鍛えられていた剣です」
「何ぃ!?」
★★★
吉次のような物に動じず表情を変えない沈着冷静な男が、繭を跳ね上げ頓狂な声を張り上げる。
将兵が手短に吉次と芙に説明する。
15年ほど前の事になるが、禍国と河国の間で対戦があった。その原因を作ったのは他でもない、那国である。紅河と力河、に挟まれた土地に河国と那国は其々に領土を有しているのだが、その土地を巡って再三、衝突を繰り返していたのだ。いや、実際には那国が一方的に攻められていたのだが、ともあれ禍国としては、属国からの悲鳴が届けば、うい奴め、と目を細めて救援の軍を差し向けねばならなくなる。
当時、禍国の総大将を務め上げたのは兵部尚書・優だ。
優が率いる禍国軍の前に河国は敗れ去った。此の一敗塗地により、その当時はまだ兵力は拮抗していた筈の二国の国力に、大きく差がついた。
禍国は名実一体、中華平原の超大国となり、敗れた河国の地位は失墜した。
此の戦まで、中華平原で最も頑強で斬れ味が鋭いと勇名を馳せていた河国産の剣だった。
当時、剣の硬質さを究極まで求めた結果、刃は陽光の輝きを得たのだが、当時の技では剣と柄を溶接してしか造られなかった。
しかし、陽国が産した一本造の剣が、此処まで築き上げてきた技術の全てを引っ繰り返したのである。
画して河国は、陽国の剣の前に、剣を産する1等の国としての名を譲らねばならなくなったのだ。
しかし河国も馬鹿ではない。ただ、手を拱いていた訳ではない。
陽国の一本と造の剣に負けぬとばかりに、鋳造技術を高めようと躍起になった。
だが、一本造の剣に打ち負けぬ剣が開発された頃には、陽国では鉄の剣が開発され、しかも大量生産の方式まで確率されていた為、結局は先の戦で国王・創を失う事になったのだが。
「あの戦からですからな、禍国が陽国産の剣を使い出したのは」
「この10年程の戦しか知らぬ吉次殿には馴染みないのは当然、非はありません」
「……其れはよいとして、その、時代遅れの、而も河国産の剣を、どうしてまた那国兵が手にしているのだ?」
吉次は柄を握り直すと、チャキ、と音が鳴った。吉次と芙の疑問は当然であるが、将兵たちも流石にその答えまでは知る筈がない。
「時代遅れとは云え、其処らの野盗どもを相手にするは充分ですからな、地方では未だに使われておりますが……」
「だが、何千という規模ではあるまい? 而も、明らかに此度の戦まで使われた様子はない」
芙の至極当然な問いに、はあ、と将兵も頭を掻く。其処は彼も同意見だ。
「何処かの武器庫に大量に保管してあったものが那国に流れたとしか、考えられませんが」
「だが何故、那国にこんな時代遅れの剣を流す必要がある?」
畳み掛ける芙に、またしても将兵は、はあ、と頭を掻いた。
まあ待て、芙殿、と吉次が間を取りなす。
「誰が、何の目的で剣を那国に流したのかは分からぬが、一つだけは確かだ」
「河国内に那国に通じている者がいる」
将兵が答え難い言葉を、芙が口にする。
奇を衒う事もない、淡々とした口調には責めるような要素はない。ただ、事実を受け止め警戒せねばならない、という注意喚起の響きがあった。
「吉次殿。吉次殿は此の案件、何処まで知らせるべきだと考えておられますか?」
将兵が、上目遣いに吉次の顔色を伺ってきた。
上層部の胸の内に一先ず留めておくべきか。
其れとも、伍長以上の者に余さず伝えて認識を共有しておくべきか。
責任を振られた吉次は、ぬ、と呻いて腕を組んだ。眉根が寄り、深い皺が眉間に出来る。
河国にも遼国にも根幹を持っていない、陽国の民である吉次であれば、成る程、喩えどんな判断を下したとしても受け入れやすい。其れは分かる。分かるがどうしたものやら、吉次の方も何と答えればよいのか見当など付くか、というのが真っ正直な言い分だった。
ふぅむ、と何度も唸りつつ、吉次は漸く答えを絞り出した。
「……那国と通じているとしても、だ。此の剣を奴らに渡した、という事は少なくとも河国に対する害意もなければ、歯向かうつもりもないのだろう」
そう、中継ぎ式の剣など一本造の剣の前では筋骨逞しい男に向かって、手の甲に握り笑窪も消えぬような小童が立ち向かっていくようなもので、束になろうが勝てる道理はない。
「ならば今暫く、動きがある迄、放っておいてもさしたる害はあるまい。今は、目の前の戦に集中すべきだろう」
落ち着きのある深い吉次の声音、ほっとしながら将兵たちは頷いた。
確かにその通りだ。
姿も見えねば意図する処も感じ取れぬまま放置するのは、気味が悪く落ち着かぬものであるし不気味ではある。
が、まだ紅河での水上戦に勝利しただけに過ぎない。
局地戦で勝利を得ても、国として敗北しては意味が無い。
勝たねばならないのだ、自分たちは。
「吉次殿! 船団を編成し終えました!」
折からの風に、帆が大きく撓る。
うおお! と歓声が上がった。吉次と芙も帆を見上げる中、将兵たちが腕を空に突き上げた。
「紅河を下るぞ! 全速前進!」
「全速前進!」
★★★
――助かった!
此処まで来れば、奴らはもう追っては来られまい!
海原に出て、漸く敏は大きく息を吐き出した。
たった此れだけで、心の臓と肺腑がずきずきと痛む。其れまで、まともに呼吸をしていなかった事に気が付かされる。
黒煙と、逆巻く波のような炎が、遥かになっている。
此の距離でも未だに視界に居座るあの紅蓮の只中に、一体何百何千の兵馬が生きながらにして閉じ込められているのだろうか。そう思うと、背筋にぞっとしたものが駆け抜けて行く。
――だが、国王の為に身体を投げ出し生命を捧げるのは領民どもが持って生まれた責務だ。
寧ろ、生命を投げ打ち王を救う栄誉を与えられ本望だ、と喜ぶのが正しい民の姿であろうが。
ふん、と殊更に鼻息を荒くして敏は背筋を伸ばした。
「早く那国に進路を取れ。態勢を整え、次こそ河国を討たねばならん」
虚勢を張ってはいるが、敏は自分の声が震えていると自覚していた。
ただ敏にとって幸いにも、従う部下たちも火炎の脅威から脱したのが夢か現実か定かでないようで、踏ん反り返っている王の膝頭が、実はガクガクと笑っているのに目を留める余裕などなかった。
誰もが皆、生きている喜びを噛み締めるよりも、ふわふわとした夢見心地のまま動いていた。
那国への帰路は、海流を利用できる。
潮の流れを上手く掴めば、今日中に軍港に接岸が可能だろう。
ともあれ、河国軍には追って来るだけの軍船はないのだ。
だが廃皇子・乱との紅河戦がどうなっているか気に掛かる。乱が皇子・戰に一矢すら報いる事なく破れていれば、紅河を下ってくる恐れがある。しかし幾ら何でも、よもや早々に勝敗が決しているなどと馬鹿げた展開にはなってはいまい、と都合良く敏は自分に何度も言い聞かせる。
ふと、頬に当たる潮風に変化が起きた。
潮の流れを掴んだのだ。
帆が膨らむと共に、軍旗も向きを変えた。
己の大軍旗を見上げながら、あの混乱の最中に良くぞ持ち出してこられたものだ、と感心した。
王の軍旗が奪われるのは、国の根幹を根刮ぎ獲られると同等の意味がある。
軍旗は、吸い込んだ焼け焦げの臭気を放ちながら風にはためいている。正直な処、生きながらにして消し炭になっていく兵馬の姿を思い出す此の臭気は、嘔吐感をもよおさせる。
「暫し休む故、何か事あらば呼びに来い」
「は」
眉を顰めつつ、敏は楼閣の奥に設えてある寝台に向かった。
悪い酒に酔った時に感じるような、頭の芯がぐらぐらと定まらぬ気分の悪さが増悪している。流石にその場で吐くような愚行は犯さないが、汗と海水を含んで異臭を放つ衣服を破るようにして脱ぎ捨てた。
そして寝台にごろりと横になった途端、抗い難い睡魔が敏の全身を隈無く支配した。
どろどろした眠りの触手がぐるりと螺旋状に伸びて、全身を拘束する。抗う術を持たぬ敏は、目を瞑った。直ぐ様、ごうごうという喧しい鼾をかきだしたという自覚を持ったまま、敏は寝入った。
しかし夢の中ででも、敏は此度の戦に頭を悩ませていた。
夢の中の敏は、軍旗の端を彩っている太い金糸の房を握り締め、何やら家臣たちに向かって怒鳴っている。
――おお、そうだ。
王都に戻ったら、先ずは軍旗を作り直させねば。
不吉を背負った軍旗を、再び掲げて戦に赴く悪趣味など敏にはない。
――あんな軍旗、とっとと破棄してやる。
此の無残なる負けなど無かったものとして忘れ去るのが肝要だ。
そうそして、新たに美麗荘厳なる大軍旗を作らせるのだ。
やっと心に浮き立つものを感じた敏は、夢を見つつ口元を緩めた。
心地好い夢見にゆらりゆらりと揺られていた敏であったが、甲高い悲鳴によって貪っていた眠りを破られた。
がばっ、と上体を跳ね上げて敏は飛び起きた。
「何事だ!?」
絶望の色に染まった悲鳴は続いている。
体内全ての臓物が心の臓になってしまったのか、耳朶の中、頭の中、筋骨に激しい鼓動を感じる。どくり、と一拍打つたび、全身が痛みに跳ねった。
「何事だと申しておる! 答えぬか、馬鹿者が!」
命じながら、答えるな、と敏は心の中で叫んでいた。
答えるな! 知りたくも聞きたくもない! 答えるな! と脈拍に乗って敏の本心が全身を駆け巡る。
だが、敏は王だ。
王として、家臣たちを問い質さねばならぬ責務があった。
「何事だ! 答えよ!」
「は、背後から……!」
「背後から、何だ!?」
「ぐ、軍船が迫って来ております!」
★★★
襦袢を申し訳程度に着流した半裸に近い姿で寝台に横になっていた敏は、長衣を引っ掴んだ。
袖に腕を通しながら楼閣に出る。塩辛い風が顔面を叩き、うっ、と顔を顰めて目を細める。
――背後だと!? つまり北からか!?
と云う事は、河国にはまだ軍船を用意するだけの余力があったという事か?
いや、幾ら何でも其れはあるまい。
海上に潜ませているなど、河国の航海術では有り得ない。
では一体、何処の国だ!?
細めていた目を、徐々に見開いていく。
視界の先に大きく広がる海原には、一大船団が犇めいていた。
しかし、河国の様式の船ではない。
船の造りを真似てはいるが、明らかに違う。
「何処だ! 何処の国だ!? もしや……契国か!?」
後はもう、可能性があるとすれば契国以外には考えられない。
だが契国は、相国・嵒が叛意を見せて以後、しんと静まり返ったまま、蓑虫のように籠りきりで動きを見せようとしない。
そもそも、契国がこうして北から攻めて来るというのであれば、紅河なり力河なりを下らねばならない。彼の国である可能性は皆無だ。
「何処の国だあ!」
掌に熱い汗がじっとりと浮かぶ程、柵を強く握り締めて身を乗り出した敏は叫んだ。
――解らぬ! 何処だ! えぇい、何処の国だ!?
鼻息が発情中の馬のように荒くなった敏の前で、軍団に動きが見られた。
どうやら、軍旗を掲げるつもりらしい。固唾を呑む敏と始めとした那国兵の前で、するすると巨大な軍旗が登って行く。
げぇっ!? と敏は今度は目を剥いた。
「陽国だとおっ!?」
そう、海の煌めきに負けじとはためく山吹色の旗には、紅色で『陽』の一文字が負けじと煌々たる輝きを放っている。
ぐらり、と視界が回転しながら大きく歪むのを、敏は感じていた。
★★★
――陽国が動いた、だと!?
ぎちぎちと音を立てる程、爪の先を減り込ませ固くした拳が、色を失っていく。
あれだけ共に戦うようにと何度も使者を送っても梨の礫であった癖に!
――うぬ、おのれ、陽国王め!
奴らは河国、いや郡王・戰を選び取りおったというのか!?
怒りにより、わなわなと身体が震えて止まらない。
ぬうう、と喉の奥で呻く。何度も使節を送ったというのにのらりくらりと躱されている内に、陽国は此度の戦に乗るつもりではないのだと勝手に思い込んでいた。
どだい、独自の航海術を持たぬ陽国だ。
陽国という味方を得られぬのは正直な話、痛い。しかし其れは河国とて同じ事が言える。何方にも転ばぬという意思表示をしたのであれば、其れで良い。
戦が終わった後に、責を追求してたっぷりと甚振り、あれやこれやを巻き上げて行けば良いのだと思っていた。
此の心理の流れに仕向けた、此れこそが実は彼らの策だったのだ、と漸く敏は悟った。
しかし悟った処で、今更、何が出来る。
此方は河国兵の良心の呵責など何処かに置き忘れたかのような容赦のない攻めを喰らって、兵の3分の2以上を失ったばかりなのだ。
兎に角、国に戻り体制を整えるという名目の元、敗走している真っ最中だというのに、其処に突如として姿を現した陽国軍に度肝を抜かれて、なけなしの残り滓のような戦意をも喪失した。
だが、陽国軍は那国の現状など知ったことではない。
潮の流れと潮風に助けられ、速度を上げてぐんぐんと迫って来る。
容赦のない圧迫感に、兵たちが恐慌を来たした。悲鳴があがり、船艇が大きく傾ぐ。反撃する、という言葉を忘れてしまったかのようだ。
「陛下! 何卒御下知を!」
兵たちが視線で声音で仕種で縋って来る。
ひぐ、と敏は息を飲んだ。兵らの目の色が、先程とは別物だ。
縋っているのではなく、彼らは脅してきていた。此の、国の危急存亡の事態をとっとと収めろ、貴様は王として散々我々の頭上で踏ん反り返って来ただろう、今こそ我ら民の為に必死になって役立って見せろ、と脅してきている。
――おのれっ! たかが領民風情が! 王に対して何たる不遜な態度を!
叱責し、鞭打って罰を与えたかった。
が、声が出ない。
背後から迫り来るよう国軍にどんな策を用いれば撃破出来るかなど、敏にも判らないのだ。そんな楽な手が有るのならば、勿体ぶらずに教えぬか! と言うのが偽らざる本心だった。
ジリジリと兵たちは敏との距離を詰めて来る。甲冑を身に付けていない今、攻撃に打って出られれば確実に死ぬ。
陽国軍の力が如何程であるのか知らないが、海原を超えて来た事実から、最早、陽国程度と侮ってはならない。
「陛下!」
喉笛に掴みかからんばかりになって、兵たちは悲痛な叫び声を上げている。
正気を失い、目が異様に血走っている。常軌を逸した行動に、何時出てもおかしくはない。
そう例えば、自分たちの王を自分たちの手で、と極端に走っても誰も其れを咎めもしなければ異常とも思わせない不穏な空気が流れ出している。
――何か命令を下さねば!
此奴らの気を逸らす、何か、命令を!
何時の間にか酷く乾燥していた唇を動かすと、罅割れが出来た。潮風が滲む血を撫でて痛みを増幅させるが、不平を漏らしている場合ではなかった。
「ふ、船を卯の方角に向けて回転させよ!」
敏が怒鳴りと、今度は兵らは硬直した。
卯の方角とは東にあたるが、つまり左回転せよ、と命じているのだ。
ということは、海洋に向かって針路を取る事であり、陽国軍に対して、那国軍は右舷を剥き出し状態にして晒すということになる。奇しくも、遠く紅河戦にて、吉次たち河国軍が乱が率いる那国水軍に対して採用した策とほぼ同じだった。だが、敏が右舷を晒してでも左回転を命じたのは河国軍の其れとは意味が違う。
「どうした! さっさと命を実行に移さぬか!」
将兵たちは顔を見合わせた。その顔ばせには、自信が戻り始め、生気が漲りだしている。敏が考えている策が分かったからだ。
敏が進路を変更させたのは、潮の渦に向かえ、という意味だ。
この海の潮は、ほんの半瞬、目を離した隙にがらりと姿を変貌させる。
確かに陽国軍は潮の渦を乗り切り、此の大陸にまで迫って来た。だが、彼らはこの海を制覇した訳ではない。飽く迄も、突破口の一つを見つけ出しただけだ。
海の全ては此の那国のものだ。
潮の渦の怖さも素晴らしさも、那国が最も知り尽くしている。
此方が遁走したと思えば、海を制したばかりの興奮のままに追ってくるだろう。
どの季節のどんな時刻に、潮は何という流れを見せるのか、陽国軍は知らない。
奴らのやる気を利用して渦潮に陽国軍を誘い込み、流れに落としてやればいい。
那国の操舵術を持ってすれば渦から逃れるのは可能であるが、彼らの幼稚な技であの大潮の渦と流れに太刀打ちなど出来はすまい。
「陛下の御下知が聞こえなかったのか! 船を卯の方角に向かって進めよ!」
那国軍は、一斉に進路を変えた。
 




