22 屍山血河 その7-2
※ 注意 ※
今回、戦闘シーンの描写内でかなりの残酷描写があります
苦手な方はブラウザーバックでお願いします・・
22 屍山血河 その7-2
那国の船団は順調に北上していた。
遥か遠く、大陸の最南端にある羅紗埡 ( ラシャーヌ ) 国まで船団を組んで大海に乗り出すだけの那国の航海術を持ってすれば、河国国境の北限の海岸線に迫るなど、児戯に等しいものだ。
船の数は限りが有る為、騎馬を中心に編成出来ないのが正直な処、攻めるには痛い。
上陸しての攻城戦となれば、兵力があれば有るほど有利となるのが子供でも分かる道理だ。
兵を二分させ、且つ総大将に乱如きを当てた決断に未だに不満を感じて、腹の底を煮え繰り返えさせている敏だった。
しかし、歩兵、特に弓隊と槍隊ときて投擲隊をも充実させている。投入する兵士数で圧倒は出来ないかもしれないが、奇襲攻撃を成功させるには充分だろう。
其れに、補って余りある兵たちの気力はどうだ。
船を転覆させんばかりではないか。
「戦う以上は、勝つ。ふむ、当然であるな」
――皆に、必ずや勝利を得た歓喜の雄叫びを上げさせてやろう。
楼船の最上階に立つ那国王・敏は腕を組みながら満足気に目を細める。
加えて敏は、海の上がこんなに快適なものであると想像だにしていなかった。
実は水上を征する国と知られていながら、なんと国王である敏は然程、海に親しんでいなかったのだ。船に乗り大海に繰り出すは死と隣り合わせだ。危険を冒すよう国王に勧めたもうとは家臣の自覚が無いに等しいではないか、と周囲の者は揃って口を噤んでいたからだ。
しかし実際の処、敏の心を羽のように軽くしているのは、快適な海の行軍ではない。
廃皇子・乱が視界に居ない。
此れに尽きた。
敏もそれは認知している。
「乱の奴め、何かと言うと大言を吐きおったが」
さて、戦巧者の異腹弟、郡王・戰を目の前にしても同様でいられるのか、怪しいものだ。
くっくっく、と喉を鳴らして敏は笑った。久しぶりに晴れ晴れと空を見上げられる。常に眉間に皺を寄せていた日々が嘘のようだ。脂肪に塗れた乱の巨体を思い出しつつ、敏は肩を揺らして笑い続ける。
――乱め。
今頃は、川底で魚の餌にでもなっておるか。
あれだけの肉、さぞや食べ甲斐があるだろうな。
だがさてさて、到底、旨いとは思えぬがな。
食えたとしても、魚どもも腹を壊さねば良いが。
笑いが収まらない。
貯めに貯めた鬱屈が爆発した敏は、笑い転げる。確かに、禍国に対して含む処有りと乱を手中にしていた。禍国が国境に乱を送って来たのは、生命を拾う選択肢を与えられたのだ。無論、生き延びるだけの才覚があれば可能な道であり、乱にそんな才能など微塵もありはしないので、結局、死ねと同義語ではある。
が、腹違いとはいえ兄弟同士、最後の情けをかけて貰った相手に虫歯だらけの口を意地汚く開いて噛み付こうとする乱が、阿呆を通り越して人語を解せず本能の赴くままに生きている畜生としか敏には思えない。
――貴様が選び取ったのだ。
怨み辛みなど吐かず、素直に死んでおれよ。
「底無しの欲に溺れた、貴様が悪いのだ」
笑う敏の耳に、目的地点への上陸を果たす為、船の接岸間近可能、と報が届く。
そうか、とのみ答えて下がらせると、敏は陸地を眺めた。
上陸地点は、慎重に慎重を重ねて決定した。そもそも、河国は海岸沿いに防人たちの番所を余り備えていない。
地形的に、大軍が上陸するには平坦な地形が少な過ぎるからだ。砂場は脚を取られやすく、攻城戦の兵器を上げるにも不向きだ。
加えてかなり急斜面の砂丘地帯を抜けて直ぐに、更に防風林帯が横に伸びている。敵の侵入を阻む地形を後押ししているのだ。地元の漁民たちですら、接岸可能な地点はごく限らえている。
だからこそ、言葉通り盲点と言える。
此れだけの大軍を押していても、対岸から那国軍がわが軍の強襲を告げる狼煙が上がっている様子は見られない。
完全に相手の裏を掻いており、一歩も二歩も先んじていると言えるだろう。
「何方でも構わぬか。どうせ、此の私に敗れ去るのだ」
敵がどうであれ、此方が有利に事を勧めているに変わり無い。
ふと気がつくと、王の号令を今か今かと、那国全軍が待ち構えているではないか。
仔犬たちに懐かれている気分で、敏は楼閣から身を乗り出すようにして、味方の兵の前に腕を差し出した。ど
お! と船上の空気が沸いた。
「上陸開始!」
敏の命令に、熱狂の塊と化した那国軍が従った。
★★★
歩兵たちは我先に小舟に分散して乗り込み、岸を目指し始めた。
幾ら海岸沿いを遡上するような短距離の航海とはいえ、海の上を来たのだ。戦場を一つ駆けたも等しい。生命を賭けた彼らは、既に頭の先から爪先まで興奮状態となっていた。
我先に、と喧騒が起こる。まるで悪童たちが、良質の遊び場取りに先を争っているかのような騒ぎだ。
騎馬隊は輸送船団が岩石に衝突を起こしたりして傾かず、そして馬が嫌がらぬぎりぎりの水深まで進めてからの上陸となる。騎馬も、慣れぬ船上で気が昂ぶっているのだろうか、鞭を入れられる前に海に飛び込んでいく。
騎馬隊に続いては、城門を壊るべく積み込まれていた移動式の投石機を下ろす作業に入った。地引網で仕留めた獲物を陸地に揚げるように、投石機が陸地に向かう。
澄み切っていた海の水が忽ちのうちに黒く濁り、轟々と音を立てて泡立った。
空を飛ぶ海鳥たちが、初めて見る獣である馬に強い警戒心を示して、ぎゃあぎゃあと喧しく喚き、ぐるぐると旋回する。
まるで嵐宛らだ。
強い潮の匂いを撒き散らしながら、那国軍の歩兵隊と騎馬隊はほぼ同時に岸に到達した。
最後に、堂々たる様で敏が大国旗と共に船を降りる。王の姿を認めた兵たちの間から、万国王陛下歳! 那国万歳! の大歓声が起こる。
もう勝利を収めた後の祝の宴を囲んでいるかのような軽い酩酊気分を気分良く味わいながら、敏は腕を上げて歓声を受け止める。
益々、歓声の音量が上がる。昂奮は最高潮に達っしていた。
「隊列を組み直せ!」
敏の命令が、強い海風に負けじと飛ぶ。はは! と将兵が礼を捧げ、部下たちに檄を飛ばした。
海水に濡れて重たくなった衣服の端を絞りながら、兵たちは当初の予定通りの陣形を組んでいく。
作戦としてはこうだ。
先ずは、防風林帯を抜けた先にある関所を襲う。
其処にある武器庫と兵糧米を奪う。敵の気勢を挫くのと同時に、武器の補充を行う腹だ。
何より、海水と海風に当たった剣は脆くなる。
河国産の剣の優秀さは、平原に広まって知らぬ者はいない。出来れば早急に、そして大量に奪取しておきたい処だ。
河国の剣を手に入れたならば、公道を堂々と南下し、途中の関を潰しつつ王都の北大門を目指す。
そして、河国を倒す。
着々と兵馬が行軍の形を組んでいく。
将の一人が、敏に馬を寄せてきた。
「陛下、陣形をお確かめ下さい」
眸を細くし、敏は手を横に払う。見た、という合図だ。同時に、将兵が叫ぶ。
「軍旗を掲げよ!」
那国軍の軍旗が、海風に煽られてながら蒼天に向かって掲げられる。
「進軍開始!」
砂浜を埋め尽くしていた那国軍が、動き出した。
★★★
一見して滑らかなようでいて、丘陵地を形成している砂は思いの外、兵馬の脚を煩わせた。
新雪の上を歩くように足首どころか脛までずっぽりと収まってしまう。厄介なのは此れが雪相手ではなく、太陽の熱を吸い上げている砂である事だった。沓や衣服の隙間から容赦無く入り込んで、じりじりと肌を焼くのだ。足の裏を火傷するのだから、堪らない。まともに歩ける訳が無く、行進が止まりだした。
訓練を重ねてある馬ですら嫌がって抵抗をし、不満たらたらの嘶きが其処彼処で上がる。鞭を入れても余計に頑なになるばかりで、処置無しだった。
何万という兵馬が砂浜で藻掻いている様は異様で、そして滑稽だ。
一向に先に進まぬ那国軍は、やがて鬱憤を貯め出した。何処かしらで、晴らしとばかりに互いに難癖の付けあいが始まりだすと、其れが口火となった。
睨み合いは口喧嘩となり、やがて肩を押したりの小突き合いとない、罵倒しながらの殴り合いへと一気に発展した。
「何を下らぬ争いをしておるか! 止めぬか馬鹿者どもが!」
敏は呆れながらも、兵たちを諌める。
然し、脳が沸騰した怒りはなかなか静まらない。もたついた動きの那国軍は、益々、砂丘に埋もれていく。
「えぇい、云う事を聞かぬか! 此の田分けどもめ! 止めよ、止めぬか!」
終始、整然とした動きで敵を圧倒するつもりであったのに、此れでは出だしから挫かれているではないか。
舌打ちしながら、敏が声を荒げた。
其の時だった。
防風林の向こうから、万の鳥が飛び立った時のような、バサバサという凄まじい音が響いてきた。
「な、なんっ、何だっ!?」
思わず吃りつつも、敏は防風林を振り返る。那国軍も我知らぬ内に彼に従い、防風林に注目した。
同時に、林を形成している巨木を薙ぎ倒す勢いで鬨の声が上がった。
誰かが攻めて来ているのだ、林の向こうまで。
そして、『誰か』など決まりきっている。
河国軍しかない。
「河国軍だあっ!」
悲鳴が上がる。
――何だとっ!? ば、馬鹿な!?
どうやって、上陸地点を探り当てた!?
いや、そもそも何故、海を北上し、南下して攻め入る策だと奴らは掴んでいるのだ!?
「誰だ!? 誰が裏切った!?」
敏は思わず叫ぶ。
率いてきた那国軍の動きは、林を黒々と揺るがす敵への恐怖と驚愕とで止まってしまっている。代わりに彼らの間を支配しているのは、喉を裂く悲鳴と怒号だった。
轟々と唸りを上げて林を突き破って現れたのは、何と塞門刀車だった。
塞門刀車は本来、攻城戦の防守側が使用する兵器だ。城門とぴたり同じ幅に作られた戸板のような物に無数の刃を、まるで栗の毬のように突き出させてある。車輪が付けられ移動が可能であり、門を破られた際、この塞門刀車を押し立てて盾となしながら此れに乗り込み、敵の侵入を防ぐと共に隙間から槍や弓による攻撃を行うのである。
その塞門刀車が、ぐわ! と車輪を唸らせて丘を駆け下ってくる。
突き出た刃は、まるで剝き出しにされた鮫の牙のようにギラギラと輝きながら、那国軍を喰らわんと迫る。
そして那国軍には、塞門刀車による猛烈な攻撃を止める手立てはない。
突き出た刃が肉を破り、太い梁が骨を砕き、車輪が顔面を潰し、刀車に踏まれ重みで臓物をぶちまけさせながら、兵士たちは吹き飛ばされ、圧し潰されして死んでいく。
刀車には、重りの代わりだろうか、巨大な甕が積み込まれていた。中身は獣臭い油だった。那国兵を存分に薙ぎ倒して満足した刀車が横倒しになり、脂がぶちまけられた。獣油に滑り、那国兵は益々動きがおかしくなり逃げ出そうにも逃げられない。
そうこうしている内に、新たな塞門刀車が林を突っ切って投げ込まれてくる。
累々たる骸の小山が、あっと言う間に作り上げられていく。
発狂した歩兵の悲鳴に当てられた騎馬たちが、怖れを見せて暴れ出した。
倒れた兵士の脳天を、蹄で蹴り倒していく。
陽の光を浴びて純白に近い綺羅びやかな輝きを放っていた砂丘は真っ赤に染まり、赤黒い濁流を幾筋も流して入江までをも汚していく。
河国軍は未だ姿を見せぬまま、那国軍を殆ど壊滅状態にまで追い詰んでいた。
★★★
「逃げろ!」
「早く船に戻れ! 岸から離れるんだ!」
何処からともなく、声が上がる。
那国軍にとっては、一筋の希望の光、天啓とも言えた。
「そ、そうだ! 船だ! 船に戻らねば!」
「海の上まで奴らは追って来られない!」
一度意識がそちらに向くと、雪崩を打って傾いた。歩兵、騎馬の境無く、海上に浮かんでいる運搬船を目指して駆け出す。岸に寄せた小舟があるというのに、皆、目に入らない。眼前に迫る死の恐怖に、思考を回転させる歯車が狂ってしまったようだ。
最も早く海に飛び込み、船を目掛けて突進したのは国王・敏だった。数名の将兵に守られた敏は、途中、馬と甲冑を捨てさせられた。少しでも身軽にし、王を生き延びさせる確率を上げねばならないからだ。
何とか一番近い小船にまで泳ぎ切ると、襟首を掴まれ無理矢理引き上げられた。
王を乗せると、小舟は凄まじい速さで楼船を目指した。周辺の船にも、転覆寸前にまで兵を載せた小船が寄って行くのが見える。王である敏が船に乗り込んだのをみて、今度は強奪する勢いで小船に縋ったのだ。
右に左に危うい傾きを見せる明らかに過積載な小船は、よろよろともと居た運搬船を目指す。
だがよく見れば、運搬船は徐々にでは有るが岸を離れて出している。味方を見捨てて、逃げ出そうとしているのだ。流石に楼船は王である敏を掬い上げるまで逃げ出しはしないが、状況が許せば彼らも王を捨てて海洋に出たかっただろう。
文字通りに、這う這うの態で敏は楼船に移った。
「陛下が乗船された! 出せ!」
将兵の命令が飛ぶと、待っていましたとばかりに櫓が軋みながら大きく回転し始める。
王の城とも言える楼船が離脱を始めれば、他の船が残る理由は何処にもない。我先にと楼船に従って岸から離れて行く。残された兵たちは、殆ど気を違えた状態で自分たちを見捨てた船を追い掛ける。
しかし所詮、脚の速さで敵う訳が無い。
見る間に双方の間には海原を構成する大波が立ち塞がった。乗船可能な人数を大きく超えている小船が、彼方此方で転覆し始めた。海に投げ出された兵士たちは、必死になって泳いで追い縋る。たまたま、離脱途中の運搬船に近付けた兵士も居るが、櫓で脳天を割られ、敢え無く海に沈んでいく。
「陛下! 陛下! 我らをお見捨てになられるのですか!」
「陛下! 何卒、我らもお助けを!」
塩辛い海水は、頭を超える波となって彼らを襲う。無慈悲な波に揉まれ浮き沈みする兵らの悲痛な叫び声は、次第に大合唱となって楼船の縁を掴もうと伸びてくる。
しかし玉体を守るという至上の名目のもと、兵士たちは無情冷酷に見捨てられた。いや、積極的にと云うべきだろう。
「う、討て! 討て!」
僅かに護衛として残されていた兵に命令が下される。
命令された方は、躊躇逡巡しつつも仲間に向けて矢を放った。
味方に眉間や喉元、脳天を射抜かれた兵士たちは、運搬船まであと一歩の処まで迫っていたと云うのに、目指す先を無情にも海の底に変えさせられた。怨念の霊鬼宛らの形相で、兵たちは沈んで行く。
船の上の兵士たちは、己が犯した罪深さから来る恐怖に発狂すまいと、逆に弓を引く手が早まっていた。
★★★
一方、万が一岸から投石機による攻撃が行われたとしても届かぬ安全海域まで楼船が離れた頃、林から次々に投下されていた塞門刀車の攻撃がやっと止まった。
何とか生き延びた那国軍は、ほっと安息を得た。
だが、其れはほんの一瞬だった。
次の瞬間、那国軍は更なる恐怖へと叩き落とされた。
林から、歓声と共に次々と火矢が打ち込まれて来たのだ。
「火!? 火だと!?」
火矢だと気が付いた処で、今更何が出来るというのか。
那国軍は、しゅるしゅると空を切って飛んでくる火矢が、刀車の荷台に積まれていた甕が割れて広まった油の上に口付けするように落ちる刹那までを、何故か視線で追わずにはいられなかった。
火矢が落ちた途端、紅蓮の炎が天の輝きを求めて巻き起こる。輝きは、悲鳴を飲み込み餌として膨張し、巨大化していく。
瞬く間に浜辺は灼熱地獄と化した。
「に、逃げっ、逃げろ、早く、はや……ぎゃああああ!!」
「熱い、熱いっ、あ、あつ、あっ、あがああああ!」
「火が、火が身体に! うぎゃあああああ!」
「消してくれ、助けてっ! 燃え、燃える、身体が燃えるううううおおおああああ!」
「いや、いやだ、い、いっ、い……いぎぃぃぃ!」
断末魔の叫び声すら、轟音を発して燃え盛る炎に焼かれて炭化していく。
生きながらにして焼かれる人脂の強烈な据えた臭気が、渦となって砂浜を蠕く。
血の赤よりも更に煌々とした赫を誇る炎の中で、地獄の釜の底よりも黒々とした人形の炭が出来上がっていく。
火の穂を引き摺りながら、其れでも生命がある限り、いや生命を失っても身体が求めているのだろうか、人形の炭は、水を求めて波間を目指してゆらゆらと進んで行く。
爪先に、微かに波を受けると冷ややかさに満足したのであろうか、炭は人形を解いてがさがさと崩折れた。
此れが延々と続く。まるで冥府への行軍だ。
打ち寄せる波に抵抗もせず、炭は瞬く間にぐずぐずに砕けて攫われ、消えて行く。
波間にまで行けないまま炎に抱かれた兵たち、横倒しになった馬から投げ出された其のままの姿で身体の芯まで焼かれた将兵たちを、灼熱の炎は未だに甚振り続ける。
砂丘が猛火の海となる。
流れる血潮の如くに轟々と爆音を上げて燃え盛る炎を、防風林帯から離れた平地に巨大な軍旗をはためかせながら一軍を従えて見上げている男が居た。
河国相国・燹だ。
★★★
生木を焔で焼いた時に登る黒煙よりも生臭い煙が、轟然と舞い続ける。
生命を弄ぶ傲岸な火炎と、異臭を放ち続ける黒鉛は、死へ誘う舞の手を決して休めない。
炎の輝り返しで顔を赤くしながら、燹は呟いた。
「……怖ろしい」
ただ淡々と生命を奪われていく様は、只管、怖ろしい。
此の一言に尽きる。
だが何と不遜な美しさを見せつけるのか。
そしてこの光景を美と感じ取る罪深き立場に在るとは、どうした運命の悪戯によるものか。
「選び取る道を違えておれば、今、業火の住人となっておるのは我らであった筈」
砂をも滾らせる巨大な炎の赤は未だ消えず、そして味方を射抜いて逃げ出した那国の軍船が起こす波は砂丘と同等以上の朱色となっている。
――畏れるべきは、一体、何だ。
壊滅状態の那国軍を眼下にしながら、海風に顎髭を嬲らせつつ燹は呻く。
軍を率いて河国に入った郡王・戰は、3年前とはまるで様変わりしていた。
そこらの者では到底、察する事など出来ぬであろうが、長く緊張状態の遼国を引っ張ってきた第一人者である燹には、戰の内面が良く見えていた。同一人物とは思えぬ不安定さがあった。理由は、容易に想像出来た。真という漢が傍に控えていないせいだ。
勝てるのか、と相当に危ぶんでは、いや勝つだろう、と自ら反駁するのを何度繰り返したか。
禍国皇子・戰。
彼は宿星にも占われている通り、郡王程度の地位に甘んじるべきではない大器量を備えているのは瞭然だ。
――勝利を得るに決まっている、と信じるしかあるまいに。
だが、勝つだけではいけないのだ。
勝利の掴み取り方によって、此の先の道はまた形を変えてしまう場合がある。
下手をすると、盟友である河国王・灼にも危機が降り掛かるやもしれない。
燹としては、現在の宗主国である禍国に南蛮東夷と侮られている現状を打破するだけの、大いなる勝利を主君である灼に齎さねばならない。
出来れば揺ぎ無い名声を手にし、確固たる地位を得ておかねばという意気込みもある。
其れには、大国の玉座に安穏として胡座をかいている禍国皇帝・建を震え上がらせるのが最も手っ取り早い。
何時でも討てる存在である夷狄・遼国と河国ではないのだ、と肺腑に刻ませてやる。
此れに限る。
が、肝心要の郡王の調子がどうにもおかしい。
内心、かなりやきもきしていた燹であったが、先の河国戦にて全ての策を練ったと云う、真という漢からの書簡一本で、またがらりと変わった。
憑き物が落ちたように、郡王・戰は『此れぞ』と膝を打ちたくなる姿を取り戻したのだ。
此の場に居らずとも良い、感じさせるだけいい。
真という漢の存在が、郡王・戰には如何に必要不可欠なものであるのかを思い知った。
其れは逆に、真を奪えば郡王・戰は郡王足り得なくなる、という意味だが、其れこそ、あの主君は真という漢を命を賭して守るだろう。
――陛下の眸には、私はどう映っておるのやら。
自分のように灼の父王と同年代の者は、手取り足取り教え、成長を見守る嬉しみを得られる。
だが決して同じ時を同じ様に生き、同じ風景を同じ目線で見、同じ大地を同じ速度で駆け抜けられない。
燹は未だに煌々と燃え盛る炎の渦を瞳に宿しながら、灼を思う。
彼らは遠く離れていようとも、常に共にある。
自分は真という漢のように、灼の魂に生命に人生に喰い込んでいるのだろうか。
自分は真という漢のように、灼の心と宿星と未来を守っているのだろうか。
真という漢は、郡王・戰の為ならば天帝すら味方に引き入れるだろう。
郡王・戰は、真という漢の為ならば運命すら捻じ曲げてみせるだろう。
互いに己の全てを委ね、運命を重ね、手を携えて駆け抜けてゆける主従。
「主君とほぼ同世代に生まれた者の、特権……か」
誰もが手に入れられる訳ではない、此の目も眩む程の素晴らしさを、彼らは正しく理解しているのだろうか?
若さ故の冥利を感じる事もなく、戰一人に仕えていられる真が羨ましい、と燹は半ば嫉妬のうねりと共に感じていた。




