22 屍山血河 その7-1
22 屍山血河 その7-1
どくどくと音を立てて脈打ち体内を駆け巡る血潮を解き放ち、戰は奔放自在に剣を振るう。
祭国軍の剣が放つ燦然は颶風を呼び、駆ける騎馬の息遣いは狂飆となる。
「降伏を申し出る者は受け入れ、生命を助けよ! 但し、楯突く者には容赦はいらぬ!」
戰の命令は徹底して実行された。兵役で駆り出された領民から編成されている歩兵たちは、軒並み武器を投げ捨て両手を上げて降伏の意思を示す。味方の上官たちは、国の為、国王陛下の為に死んで来い、とだけ命じる。だが、祭国郡王・戰は死にたくないと転がり込めば生命を助けてやる、と云う。二者択一を迫られた人間が何方を選ぶかなど、瞭然だろう。
画して、那国軍は容赦無く追い詰められていった。
国が一旦傾くと其の後は実にあっけないのは、国の名前を変えようとも共通しているのであろうか。
落ちていく後宮の妃たちの馬車に、文官や内官たちも従おうと必死に駆けずり回っている。
此のまま南の力河まで走り、最悪は南方の羅紗埡 ( ラシャーヌ ) 国へと逃れる算段なのだろう。
根雨にとって乱痴気騒ぎ状態に近い王城内の状態は、本来であれば喜ばしいものである筈だった。
そう、彼らを此処まで追い詰めたのが、遼国王・灼であったならば。
しかし実際に彼らを狂奔せしめているのは、祭国郡王・戰なのだ。
――高々、1万5千の兵ではないか!
而も騎馬のみの編成の軍だと云うではないか!
どうして其の程度の軍を攻略出来ぬのだ!
「大言壮語を吐いておいて此れか」
所詮は口先だけの輩になぞ、其れなりの成果を望んだ私の失態か。
根雨はぎりぎりと奥歯を鳴らした。
国を守護する兵すら河国討伐に注ぎ込んでいるとはいえ、だが余りにも脆い。正大門を突破され、王城に入られるのも時間の問題であろう。
――こんな結末を、誰が望んでいるものか。
根雨の怒りは、蜷局を解いて鎌首を擡げた蛇の如くに戰に向かう。
那国は憎い。
滅ぼさずにいられぬ程に憎い。
ただ滅ぼすだけでは飽き足らぬ程に憎い。
憎い、という一言で収めきれぬ程の憎しみだ。
族が累々と積み重ねて来た怨み辛みは、憎悪の炎は那国に報いを与えた上での凄惨な死でもってしか消せはしない。
那国王・敏に然るべき絶望と死を、遼国王・灼が与えてこそ恨みは晴れる。
遼国王・此処にあり、と平原に思い知らせてやってこそ、晴らされる。
――其れなのに、えぇい、糞が、何たる事か!
誰がしゃしゃり出て来いといったか、郡王・戰め!
根雨の怒りは頂点を楽に超えている。
しかし怒りに身を任せて、本来の目的を達成出来ずに終わるつもりは毛頭ない。
こうなれば、王妃・緋南を丸め込むしかないだろう。
異腹妹にして河国の王太后・伽耶を頼るよう、奏上するのだ。
大軍旗は兎も角、国の根幹を示す璽綬を郡王に奪われる訳にはいかない。
となれば此方の言葉に耳を傾けるだろう。
那国王はまだ生きているのだろうが、あれが立ち向かうのは灼陛下だ。
万が一にも勝利を得るなど有り得ない。
となれば先ずは、王太后・伽耶を最大限に利用せねばならない。
彼女をして、新たな那国王は灼陛下であると認めさせるには、他の後宮たちが挙って目指しているように、力河を渡り亡命させるべきだろう。
そして河国王太后・伽耶の元に、王妃・緋南から助命嘆願の親書を送るように仕向ける。当然、此の時に親書の遣り取りを行う相手は自分たちとなる。那国村の仲間からの後押しがある、と根雨には自信があった。
――それに伽耶如き、呆けた石女に何が出来る。
頭の軽い女たちを利用し、時期を見て国王陛下に那国王妃・緋南の名にて璽綬を自ら差し出させるようにしてゆくのだ。
女どもにその気が起きねば、脅せば良い。
脅しに屈せねば、無理に奪うなり何なりすれば良い。
気が付けば、根雨の元に那国村の仲間たちが集い始めていた。顔色を伺えば、皆、考えが辿り着いた先は同じと見えた。
「郡王が迫って来ている」
切羽詰まった顔で、面々は頷く。
「王城を乗っ取る前に、王妃らを集め、璽綬と共に力河を渡らせろ」
「あの王妃が云うなりになるか?」
「それに間に合うのか?」
「郡王が力河にまで追って来たら、どうする?」
「身軽になって落ちていけば、まだ充分に余裕はある。南蛮と卑しむ羅紗埡 ( ラシャーヌ ) 国に入るのを嫌うのであれば、領内で王を待つとでも言い繕えば納得するだろう。力河の対岸にも砦は幾つかある、紅河は軍船が用意できたからこそ大軍団であろうと渡りきれたが、流石に力河まで同じ策は用いれまい」
仲間の不安を根雨は一つ一つ潰し、安堵させてやる。やっと、顔ばせに生気が戻って来た。
「那国を滅ぼすのは、灼陛下でなくてはならない」
根雨の熱を孕んだ言葉に、一斉に頷く。
「そして我らは陛下の御為に捨石となる覚悟であらねばならぬ」
宣言を胸にすると、誰からともなく彼の前から姿を消す。
皮肉な事に、王城内で粛々と規律ある行動を取れているのは、那国憎しで動いている那国村出身の者たちだった。
★★★
案の定と言おうか。
王妃・緋南は王城を捨て力河を渡るべしという根雨の奏上に、明白な難色を示した。
「妾が身は妾のものに非ず、妾は陛下より王都を守るよう勅を受けし身。妾一人の思いにて自由にはならぬ」
表情はのっぺりとしており、声音も実に単調な緋南の本心は計れない。
――しかし、死にたくはないだろうが。
王妃という立場は、生きていてこそ旨味が味わえるというもの。
根雨は、平身低頭し、再び王妃・緋南に対して力河以南に逃れるように奏上する。すると、漸く緋南は感情を露わにした。根雨と直に話す事もそうであるが、難色と言うよりは嫌悪感を丸出しにして眉を顰めた。
「妾は下賤なる者どもに穢されし空気なぞ、吸いとうない」
袖で口元を隠しつつ顔を背けているのが、御簾越しでも衣擦れの音で伝わって来る。忽ち、王妃に倣い、女官たちも身を捩り、根雨から視線を逸しつつ侮蔑と嘲りの色を眸の端々に浮かべて忍び笑う。
――そんな理由で駄々を捏ねるのか。
呆れた根雨は、腹の底で舌打ちした。
王城に仕える女官たちは気位ばかりが高く、其のくせ、口が滑る事に関してだけは一品だ。
特に王妃に仕えるとなれば、相応の家門の出の娘たちで構成されている。那国村の出自であり而も自給した宦官など、人間と見做されない。常日頃から、女官たちは宦官たちを小馬鹿にし、隙きあらば貶め、賤しめる。王城内では娯楽が少ない。
女官たちにとって、宦官苛めは格好の憂さ晴らしなのだ。今回は、根雨を其れの標的に定めたのだろう。
――鬱陶しい奴らめ。
此の期に及んでまた、糞碌でも無い事を王妃に吹聴したな。
王妃を使って、甚振って遊んでやろうという貴様らの魂胆など丸見えだ。
全く以て性根が腐りきった女どもだ。
而も彼女たちは、此の期に及んで宦官である自分を故もなく、国母であらせられる王妃様の前に立たせる訳には参らぬ、としゃあしゃあ言い放った。
「しかし、私どものとりなしがあれば、或いは其方の希望は良き方向に転ぶやも知れませぬ」
とどのつまり、袖の下、賂を要求して来たのだ。
危急存亡の時であろうと金にだけは異様にがめついのも、女官たちの特徴だった。
此処に来て、思いも寄らぬ堅牢な盾に出食わし、根雨の計算は更に狂った。
早々に軌道修正せねばならない。根雨は王妃の耳に確実に音が届くよう、激しく額を床に打ち付けた。まさか根雨が此処までやるとは思ってもいなかったのだろう、途端に、しん……、と空気が冷える。
此処ぞとばかりに根雨は捲し立てた。
「妃殿下。御国を照らし給う陛下が御不在である今、御国を守護し給う妃殿下の御言葉こそが至上であると我らが一同、解しております。然れども妃殿下、今、蛮夷と等しき禍国皇子・戰めが麗しきわが王土を荒らしつつ妃殿下に迫っておるのです。御国の至宝たる妃殿下を、蛮夷どもの眸に触れさせ汚させるなど、国王陛下への冒涜に他なりませぬ」
とうとうと奏上する根雨の言葉を、眉尻を跳ね上げつつも聞き入っていた王妃・緋南は、むぅ、と下唇を突き出した。
「妾に意見する気かえ?」
瞳が冷たい光を放つ。
いえ、恐れ乍ら、と根雨は額を床に擦り付ける。
「我らは国王陛下の御為に御座います。恐れ乍ら、国母であらせられる妃殿下を失われては、陛下が河国に勝利を得て栄誉を誇り凱旋されたとて虚しいばかりに御座います。陛下に於かれましては、妃殿下の御無事が何よりも一等に置かれるべきもの。美しくも麗しき妃殿下のお姿を愛でる時を心の糧として励まれておられし国王陛下は、如何に嘆かれましょうか。想像するだえで、我らの胸は潰れるます」
「……そうかえ」
美辞麗句で言い募られれば満更でもないのか、若干、緋南の強張りが溶けた。此処ぞとばかりに根雨は畳み掛ける。
「王城など、壊れたとて造り直せば宜しいのです。寧ろ、古いばかりで歴史を誇るのみの城よりも、妃殿下の美しさを余す処なく顕す美麗荘厳なる城を新たに此の世に具現するべきと陛下は思し召しになられるに相違御座いませぬ。然し乍ら、妃殿下、其れらは妃殿下という国を照らし給う光が在られればこそ。を妃殿下失っては何もかもが空虚なものと成り果てましょう。故に、妃殿下を御守りするのであれば、常に最善を尽くすべきであるとするが、我ら家臣一同の同一の願いに御座います」
「……然様か」
「夷人どもの土地に身を隠すのは、嫌悪唾棄すべきであります。然れども、妃殿下の御身の清らかに些かの傷をつけてはなりませぬ。今、確率を以て先を読むのでありますれば、城に御留まりになられては郡王如きに妃殿下を奪われかねませぬ。それはあってはならぬ事態」
宦官の口からではあるが、こうまで持ち上げられて、緋南も悪い気はしないらしい。
視線はまだ嫌悪を見せながらも、首を僅かに傾げる仕草には国1等の女人であるとする誇りを擽られているのが見れ取れる。
暫し、両人とも口を噤むと。
そして沈黙を破ったのは、緋南の方だった。
確かに女の不名誉を被る確率を考えると、城に居残ったときのほうが高いに決まっている。
女官たちも、下賤の男を弄んでいる間に、自分たちが慰み者になるかもしれないという事実に気が付き、そわそわとし始めた。
両者の間の空気が逆転した瞬間だった。
「……其処な宦官よ」
「……」
礼節を守り、無言で答えた根雨だったが、自分が彼女に勝ったのだと感じ取っていた。事実、緋南はこう続けた。
「……是非も無しじゃ。此方に任せるとしよう」
有り難き幸せに御座います、と根雨は唇も床に擦れる状態で答えたのだった。
★★★1
やっと王妃・緋南を説得出来たのは良いのだが、根雨は先程の上を行く我慢を強いられた。
城を脱する準備がまた、王妃の部屋をひっくり返す騒ぎとなったのだ。
何処かへ物見遊山でも出掛けるつもりでいるのか。
其れとも夷狄人にこれ見よがしに華美を誇らねばと気負っているのか。
加えて、蓄えた金敏財宝を手放す気など毛頭ないのだろう、小さな端布一つまでもを衣裳箱に納めてまわっている。此れでは幾ら時間があろうとたりはしない。
それにしてもも、如何にも危機感を感じさせない。
女どもの悠長は結局の処、甘い汁を吸い続け贅沢華奢に慣れきり、情け容赦無く徹底した税の徴収に恐れる事も無ければ、戦で生活の基盤を根刮ぎ奪われる恐怖も知らぬからこそだろう。
搾取する側に生きており、それが当然である女たちの振る舞いに、根雨は反吐が出る思いだった。
――王妃として、身を顧みず守らねばならぬ物と云えば、国体である璽綬以外に無かろうものを。
此れだから心に品位のない粗野な輩に贅沢を覚えさせると碌な事にならぬのだ。
郡王が、いつ何時、大門を突破してくるかも知れない緊迫した空気を顧みないとは。
敵軍が駆け込んで来たら、宝石も金も搾取され、いや生命すらどうなるか分かったものではないというのに、此れだ。
生命の危険に曝されている自分など、思い描く脳を持っていないのだろう。女どもは、眼前の財宝を死守するのに躍起になっている。
――よくもまあ、こうも底抜けの守銭奴ぶりを披露していられるものだ。
国が滅ぶかどうかの瀬戸際だというのに、銭勘定の方を優先させている彼女らは、根雨には気が触れているとしか思えない。
いや逆に、女どもの腹の据わりっぷりに呆れを通り越して、感心するしかなくなっていた。
そして、先程の王妃・緋南の言葉を思い出す。
「下賤なる者共が吐いた空気を吸いたくはない、か……」
別に、王妃に限った話ではない。
那国の民は常日頃から禍国を中心とした平原の民から南蛮東夷の輩よ、と嘲笑を受けておりながらも、其の実、南方の国・羅紗埡 ( ラシャーヌ ) 国を腹の底では軽んじて心の底から蔑視していた。
結局、同じなのだ。
誰かに貶められ首を押さえつけられ息を潜めている者は、やがて、内側に溜め込んだ不平不満や煩悶憂苦を、己よりもより立場の低い者や逆らえぬ者を見つけ出し、その者に叩き付けて憂さを晴らす。
そう、徹底的に賤しめるのだ。
自分は彼奴らよりはましだ、と思い込む為に。
どうだ彼奴らを見るがいい、何とも卑しい奴らではないか、と自分たちを上等であると思い込む為に。
それは相手の魂を奪う勢いで軽蔑する。
生命の根幹を冒涜する行為すら、時に平然とやってのける。
――結局、堂々巡りなのだ。
根雨の眸が、昏く光る。
誰も、此の怨嗟の鎖を断ち切れぬ。
人は人を差別する。
自分たちこそが至上であると居丈高に振る舞う者に従うしかない立場の低い輩は、より、下層域の被差別者を生み出し、罵倒し殴り付け足蹴にし満足を得る。
最下層民こそ、哀れの骨頂だろう。
何処にも捌け口を持てぬまま、鬼に手を引かれて冥府へと旅立つしかないのだから。
――しかしだからこそ、此度の戦いで、灼は遼国王の名を取り戻されるのだ。
改めて河国と那国を支配下に置いたとしたならば、生口なぞという蔑称で呼ばわってきた禍国にも匹敵する大国となる。
生口狩を行った禍国も、戦戦恐恐とするに違いなく、現在の腰抜け皇帝であればあちらから朝貢を行って来るやもしれぬ。
そうなれば遼国の民は、嘗て自分たちを虐げ続けた二国の民を許しはしまい。
自分たちを卑賤の身分と貶めた彼らを、今度は遼国の民が遺恨を晴らすべく卑しめるだろう。
――そうなれば、良い。
いや、してみせる。
所詮、此の世は血を求める乱世が常。
天下泰平などは訪れはせぬ。
ならば、乱世の英雄として我が主君が名声を後の世に知らしめる程にしてみせよう。
★★★
何とか準備が整った。
王妃・緋南はしゃなりしゃなりと衣擦れの音を棚引かせながら、荘厳美麗に飾り立てられた馬車に厳かに乗り込む。
それにしても、何とも苛々とさせられるのろまな歩き方だ。正しく蝸牛の如き歩みだった。
而も、こんな時でも翳で顔だけでなく、御簾を掲げさせて立ち姿を隠している。王族の血を忘れぬ振る舞いは、いっそ見事といえる徹底ぶりだった。
「出立せよ!」
切羽詰まった武官の命令が飛ぶ。
しかし御者は、じとり、と武官の横に並ぶ身分不相応な根雨を睨め付けて来た。宦官如きが偉そうに、と物言いたげな視線だ。
だが、呪詛の如くに繰り返し繰り返し、迫る祭国軍の脅威を唱え続けてきた成果が出てきたのだろうか、其れとも漸く切迫していると自覚しだしたのだろうか、御者は咎める言葉を吐きもせず馬に鞭を呉れて馬車を走らせた。
馬車は激しく上下し、ガタガタと車輪が悲鳴を上げる。
余分な荷物が多い分、速度は余り出ていないのだから馬車が軋む筈が無い。つまり、公道の舗装が整っていないのだ。
那国は確かに禍国に遠く及ばぬ国だ。
だが国土は広く、航海術を駆使しての交易などは決して他国に行えぬものであり、侮られるような弱小国では本来有り得ない筈なのだ。
其れが、こうまで見下げ果てられる。
何故か?
有り体に云えば、国を動かしてりう王侯将相門閥貴族たちが国益を喰い潰しているせいだった。
彼らにとって最重要視するべきは、中華平原の一国として名を連ねる事であり、其の際に他国に見縊られ侮られぬようという建前の元に綺羅と輝く絢爛豪華な生活を送っている。
自分たちさえ豊かであれば、領民たちの苦悶などは問題ではない。
必死にならなければ生き延びられず、生命を賭して海を渡ったとしても何ら恩恵を受ける事もない。
動き出した馬車を、根雨はじっとりと睨む。
――何故、奴らは不思議に思わんのだ。
今の河国の姿を。
3年前に、河国は禍国皇子・戰の前に敗れ去った。
大敗塗地を地で行ったのだ、言い逃れしようもない。
だが、見てみるがいい。
河国の領民たちの姿を、顔ばせを。
己が国を傾けた相手の支配下にありながら、彼らは実に生き生きとしているではないか。
抑圧されている者の態度ではない。
鬱屈を溜め込んだ者の姿ではない。
自分たちの王よりも禍国皇子を選び取り、受け入れざるを得ない状況だった。
だが今の河国の民の前に、嘗ての国王・創を推しても見向きもしないだろう。
たった3年で飛躍的に国力を増強させ得たのは、何も善政を施いたからとかそんな単純な話ではない。
――河国の民の中に、禍国皇子にして祭国郡王・戰が生きているのだ。
王として、彼らの拠り所として生きてる。
河国は確かに郡王・戰に負けた。
国は滅びたに等しい。
然し、彼らは勝者となったのだ。
生きるという意味において、彼らは絶対的な勝利を手にしたのだ。
「……郡王よ、貴様を此のままで済ませはしない」
車輪と馬蹄の不協和音に隠れて、ぽつり、と根雨は呟いた。
――必ずや、灼陛下を認めさせる。
陛下こそが、天涯の王として輝かしい未来を掴み取る御方であると、認めさせてやる。
★★★
力河の畔にある砦が見えてきた。
張り詰めてきた王妃一行だったが、安堵の空気に包まれる。
城を出立した頃の喧しさは何処へやら、強行軍で馬車に揺られ続けたせいで軒並み悪心を起こした女官たちは、一様にぐったりと突っ伏して言葉も無い。流石に、王妃・緋南だけは倒れるような無様な振る舞いはしないが、嘔吐感を堪えているのだろう、顔色が異様に青白い。
もう後、少しだ。
僅かな辛抱で、存分に身体を休める事が出来る、と誰も彼もが泣きそうな顔付きになりながら砦を見上げる。
と、其の時だった。
砦から、不穏な影が立ち上った。
黒く濁った、狼煙である。
「な、何だ!?」
王妃の馬車を預かっていた武人が、慌てて手綱を絞った。強い嘶きを発して馬は足を止める。
幾筋も上がる狼煙を見て、げえ、と呻いた武人は、わなわなと瘧のように震え出した。
「何事だ!? 砦で何が起こっている!?」
馬を寄せた根雨は思わず、武人の腕を掴んだ。
武人は答えない。
応じる必要がなかった。
わあ! という歓声が、いや咆哮が力河の岸辺方面から上がったのだ。
そして、黒い塊が一丸となって川面を遡上してくるのが見える。
根雨は息を呑んだ。
力河を埋め尽くしている塊――
それは軍船だった。
掲げられている軍旗に描かれている国名は――『陽』




