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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
七ノ戦 星火燎原

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22 屍山血河 その6-1

※ 注意 ※


今回、残酷な描写がふくまれます

苦手な方はブラウザーBackでお願い致します

22 屍山血河 その6-1



 楼閣の中に引き篭もり、恐怖感からがたがたと震えていた乱は、川下の方角からの歓声に思わず貝のように折り畳んでいた身体を起こした。

 ――……あの歓声は一体何だ……?

 何が起こったのか、気になる。

 だが、知るのは恐ろしい。

 勝っていれば良い。

 しかし負けていたとしたら?


 想像は連なり、すると肺腑が全て凍り付いたかのような震えが来る。そして乱は、背中に幾本もの視線の矢を感じた。嘲りと、侮蔑と、そして人を小馬鹿にしる成分が綯い交ぜになった視線を。

 ――私は那国軍の大将だ!

 戦局を正しく把握せねば、そして命を下さねばならぬ!

「……なに、心配など要らぬ……そう、大丈夫、大丈夫だ……」

 戰の奴に従っている河国王が用意した軍船はどれを取ってみても那国の闘艦に並ぶべくもない、貧相なものだったではないか。而も、明らかに軍船では無かった船を突貫で仕立て変えたのだと分かるような無様な姿を晒しているではないか。

 ――あの矢は、たまたま、そう偶然届いたに過ぎんわ。

 そうとも、狙ってあのような技が出来るなど戯けている。


 意を決した乱は、覗き見が出来る狭間から、そっと様子を窺う。

 隙間から見えた川面上では、いよいよ那国と河国がぶつかりあおうか、という瞬間だった。中央部が大きく突出した陣形に変形した那国軍の先端に、河国軍の中型船が左右から殺到しようとしているのが見える。

 途端に、乱の身体に力が漲った。

 ――勝てる……!

 私は戰の奴に勝てる!

 目の前が、ちかちかと不思議なちらつきを見せ始めると共に、喉の奥からも熱が迫り上がって来た。乱の背後に並んだ那国の将軍たちも、自軍の勝利を確信していた。


 鏃型となった那国軍は此のまま、湾曲した陣形を崩さない河国の中央部を抜き、大将旗を掲げている船まで過たず突き進むだろう。

 紅河の豊かな水量は其の分、流れも凄まじい。闘艦同士のぶつけ合いを行うならば、利があるのは那国に決まっている。そして闘艦を潰しあった後の白兵戦となった時、何方に分があるかなど明白だ。

「い、行け! 其のまま突っ込め!」

 乱は唾を飛ばし、腕を振り回して叫ぶ。

「敵を押し潰せ! 戰の奴に私の偉大さを思い知らせるのだ!」

 そして、背後を振り返るなり、ちっ、と舌打ちをする。

「何をしておる! 阿呆面晒して、貴様ら何を呆けておる! とっとと戦場に出て勝利をもの・・にして来ぬか!」


 うっそりとした表情で互いを見合うと那国の将兵たちは、ぞんざいな一礼を残して乱の命令に従った。いよいよ、此の男の傍に付いているのが馬鹿らしくなったのだ。

 調度良い命令を下してくれた、此れ幸いとばかりに彼らは楼閣から降りていく。次々に、楼船の周辺に屯ろしている闘艦へ乗り込み、そして河国軍を目指しだした。

 楼船の最上階にて将兵たちが命に服して闘艦に次々に乗り込んで行く姿を見ている乱は、だが、事がするすると己の思うままに進んで行っている、としか捉えていない。まるで発情期を迎えた豚のように涎を垂らして息を荒らげる。


 ――さあ! 戰の首を私に捧げよ!

 ひぃっひっひ、と甲高く裏返った笑い声をあげながら、乱は再び楼閣の外に出た。



 ★★★



 那国軍は河国軍への本格的な突撃を始めた。

 本来、闘艦は船と船をぶつけ合い、相手の船に乗り移り白兵戦を行う際に味方に強く敵に手強い造りをしている。

 というよりも水上戦の特色から、そう進化していったという方が正しいだろう。

 巨大な船体は多少の傷など物ともしない。足を止める為に櫓を握る水夫目掛けて雨霰と矢を受けても分厚い防盾が全て遮って呉れる。


 3年前、河国の水軍は船と船を繋げて巨大な壁となって郡王・戰が率いる軍を迎え撃ったが、本来の戦い方として実はあの時に相国・秀が採った策は上等だったのだ。

 水上戦は、兎に角人の世に国という物が存在し、互いに領土を巡って戦を始めた原始の頃より殆ど変わらない、いや変えようがなかった。

 中型船や小型船がこうも導入される戦の仕方など、そしてそれで勝利宣言があった戦など、乱でなく那国の将兵も見聞きした覚えはない。どこの阿呆が頭数を増やしておけば何とかなると思ったのか、と失笑噴飯ものだった。

 だから那国軍が確実とまでは行かなくとも、河国に勝てるという実感を得るのは当然と云えば至極当然の事だった。


 那国軍の突出した先端部分に在る闘艦が、いよいよ河国の大将船を射程距離に捉えた。

 闘艦を操る那国の水夫たちの手腕は、流石に大海原の潮を物ともせずに陽国にまで辿り着くだけの事はあり、まるで切り出したばかりの丸太のように逞しい。

 河国も陽国と引けは取らない。が、如何せん、先の戦での物的資源と人的資源、両方の被害の大きさが物を言っていた。

 河国の水軍の動きは、大雨で増水した川の流れの中、押し流されてきた大木に右に左に潰され沈められていく木端や木の葉のように心許ないものに映る。右往左往して、攻め時が分からないまま自軍に大きく攻め込まれてなお、されっぱなしでいる為体に、那国軍は此れは勝利を手繰り寄せられる、と興奮を高めた。

 将兵は兵士や水夫たちの戦意の鼓舞し処を良く心得ている。此処ぞとばかりに、腕を振りながら前進を指示しつつ唾を飛ばして叫んだ。


「突っ込め! 敵の大将船を倒した者への恩賞は望むままに与えるとの陛下からの御言葉だ!」

 将兵たちの激に兵士たちは俄然、やる気を見せる。其処彼処で河国打闘を唱える咆哮が上がり、那国軍周辺の気温が上昇気流のもや・・となって目で見える程になる。

「行け! 行け! 河国を倒せぇ!」

 嫌っていた乱と同程度の語彙力で、将兵は叫び続ける。

 その時だった。

 河国の小型船が一斉に散らばった。

 そして、地面に落とされた巣から鉢が攻撃の為に飛び出してきたかのような、勢いで那国の闘艦に向かって一気に突き進む。

 文字通りに蜂が群がるように、あれよあれよと云う間に那国の闘艦の船腹に小型船は迫る。

 小型船の目紛るしい動きも然る事乍ら、両側から迫られた闘艦は思わず脚を止めた。


「うぬ! 小蝿の如き奴ら! 舳先で潰してしまえ!」

 水夫たちは命令を受けるまでもなく、小型船の舳先を砕かんと一斉に櫓を動かそうとした。

「よぉ~、さぁっ!」

「そ~れい、そ~れい!」

 掛声と共に水夫たちの腕の筋肉が、ぐもり、と入道雲のように盛り上がる。

 腕だけでなく、背中や首、腹や太腿にも新たな汗がふつふつと湧き、闘艦は勢いを取り戻す――筈、だった。

 気合を入れた水夫たちの顔色が、ざっ、と音を立てんばかりに色を失う。

 櫓が動かないのだ。

 ぎ、ぎ、ぐぎ、ぐち、ぎちち、と木が軋む不快な音が船中に響き渡る。


「な、何事だ!?」

 水夫たちの異変をいち早く察知した兵が、階段を駆け登った。

 外で何が起こっているのか、確かめる為だ。

 限られた場所を有効利用する為、極端な急勾配の階段を、手をついて一気に登りきると、兵は矢を打つ為の狭間から顔を出した。

 瞬間、彼の顔は大鎌で根刮ぎ刈り取られている最中の稲や小麦のように斬られていた。

 兵は、痛みを感じ悲鳴を上げる形のに口を大きく開けた顔を、ぼちゃり、と紅河に落とした。紅い潮が吹き上がり、船体を染めていく。

 ぐたり、と前のめりに挾間に倒れた兵が、外から引っ張られた。どぼん、と漬物用の石を投げ込んだ時のように鈍い音と飛沫を上げて兵は河に落ちる。沈んだり浮かんだりを繰り返しながら、兵の身体は船体に擦られ啄かれ血塗れとなり、やがて川底へと消えていった。


 兵が目にしながら仲間に伝えられなかった、事実。

 それは闘艦の動きを止めたのは、群がった小型船が左右から、先端に放射能状に広がった巨大な鉤針を付けた太縄を打ち込み、櫓に纏わり付いている姿だった。巨大な鉤縄は櫓をしっかりと咥えて動きを封じている。

 闘艦は、まるで胸鰭むなびれを毟り取られた巨魚も同然と成り果てていたのだ。

 異変を感じた別の兵が挾間に向かおうとする頃には、小型船に櫓を奪われ始めていた。

 やっと自分たちの船がどんな状況に陥っているのかに気が付かされた那国軍は、小型船に兵を差し向け白兵戦に持ち込み、乗っ取る策に出た。

「梯子を用意しろ!」

 伝令が飛ぶやいなや、直様、敵船に乗り移る為に用いる独特の形状をした梯子が持ち出されて来た。梯子、というよりは、格子状の戸板という方が見た目に似ている。


 並走する形になった河国の小型船に梯子が降ろされた。

「乗り移れ!」

 命令されるまでもない。

 兵士たちは其々、剣を手にして次々と梯子を伝って小型船に乗り移り始める。

 所詮、漕手が2~3しかない小型船だ。而も、櫓を押さえつけるのに人員を割いているのだから、動ける兵士の数ど火を見るよりも明らかだ。

 制圧は至極簡単に終わるもの、と将も兵士も信じて疑っていなかった。

 兵士が一人、またひとりと乗り移る度に、小型船の船底の板が、ばりばりと霰や雹が屋根を叩いている時のような尖った音を立てる。

 小型船は、那国兵でぎっちりと詰まった状態となった。

 しかし、那国の兵が小型船に乗り移ったと見るや、まるで飢えに狂った猪のように突っ込んでくる中型船が何処からともなく現れた。


「な、何ぃ、一体、ど、何処から!?」

 那国兵が仰天して叫ぶ声と、中型船が闘艦に体当たりを喰らわせる爆音が、殆ど同時に上がった。



 ★★★



 喩え中型船が相手と云えども、船腹に体当たりをでは堪ったものではない。

 巨体を誇る闘艦が、上下左右に激しく揺れ動く。

 水の上を塒にするような那国の民と云えども、此処までの激しい潮に揺すられた記憶はない。彼方此方で、悲鳴が上がる。


「ひ、ひぃぃ!」

「ひえぇ、お助けっ!」

 呪詛の言葉を延々紡ぎたくとも、頭の回転が追い付かない。

 何でもよい、手にした物に必死に捉まり高潮其の物と化した船の揺れが収まるまでやり過ごそうと、皆、命がけだった。此処で河に落とされればお終いだ。生命を掛けねば自分は鬼籍に入るのは必定だという恐れが、無意識に働いていた。

 其れだけ、中型船の突進の威力は凄まじかった。そう、まるで放たれた矢が防盾に突き立つが如きに闘艦の船腹に刺さっている。本来、闘艦は此の程度の衝突を受けて即座に沈むようなやわ・・な造りの船ではない。だが不意をついた特攻、而も想定外の攻撃の仕方を受けた那国兵は、精神を完全に叩き折られていた。


 櫓の動きを取られ、眼前の小型船に意識が集中した隙きを突かれたとはいえ、闘艦は完全に制御能力を失っていた。

 遂に観念し、他船に助けを求めようと、将兵が救援用の手旗を手繰り寄せた。

 旗を抱き締め帆柱にしがみつきながら、よろよろと立ち上がる。腕を伸ばし、背後に並んでいる筈の仲間の船に向かって旗を振ろうとした将兵は絶句とした。

「なっ、何っ!?」

「ば、馬鹿な、こんなっ!?」

 自分たちの仲間が乗り込んでいた小型船が、沈んで行くではないか。

 冥府へのみちが開いたかのように、渦を生じながら小型船は兵士たちを腹に抱えたまま轟音をたてつつ沈んで行く。

「た、たす、たすけ……!」

「死にたくない、死にたく……!」

「こんな死に方は嫌だぁ! たす……ぐばっ!」

 仲間が必死の形相で腕を上げ、涙で顔面を濡らしつつ声を嗄らしながら助けを乞うている。だが、ざぶり、がぶり、と頭から河の水を被って言葉を奪われた仲間から、一人、二人、三人……と水の渦に絡め取られながら消えて行く。

 小型船が完全に渦に飲み込まれた後でも、周辺には怨嗟と嘆きの声がまだ、ゆらぁりゆらりと揺蕩いながら居残っていた。其れは、沈められて行く那国兵の生への執着心と闘艦に残り命永らえた者への呪いと言えた。


 何という無情さ、非道さであろうか。

 そして何という豪胆さであろうか。

 己の手で自軍の船の底を破り、敵諸共に沈めるとは!

 下手をすれば仲間をも水底に沈めてしまうかもしれないというのに、何という!


 闘艦に残る那国兵は、ごくり、と唾を飲み込んだ。

 何時の間にか、中型船にぶつけられた衝撃による船の揺れが漸く収まってきていた。

 那国兵の反応が鈍っている間に、透かさず中型船から闘艦に向けて梯子が渡される。

 ぎょっとしつつ見れば、小型船に乗っていた河国軍の兵士たちは、ちゃっかりと中型船に移っており、操舵は彼らが担っていた。



 ★★★



「乗り込むぞ!」

 一体何処から、と目を瞬かせる程の数の兵がわらわらと現れたかと思うと、黙々と梯子を伝って闘艦に乗り込み始めていた。小型船に兵を乗り込ませてしまっている事もあるが、中型船から乗り込んできた兵の数は闘艦に残る将兵を遥かに圧倒している。

 急襲を仕掛けながらも、河国兵は一貫して規律在る動きを見せている。

 彼らを統率しているのは先頭に立つ黒覆面をした男だった。すらり、と短刀を腰から抜くと刃先を燦かせる。


「此の船、我らが貰い受ける」

 黒覆面をして弓を背負った男が、低く静かな声で宣言するや否や、おう! と河国軍は一吼えする。

 河国兵が、剣を振り上げ那国兵に襲い掛かる。

 生命を拾うには逃げの一手しかない。

 しかし遁走しようにも、逃げ場は紅河の流れの上しかない。だが、此処まで船が犇めき合った状態では、船の腹に潰されて川底に沈むがおち・・だ。若しくは、河国兵が背負っている弓の矢衾となるか、だろう。


「え、えぇい! 迎え討て! 斬って捨てろっ!」

 誰からともなく、那国兵の口から威勢の良い掛声が飛ぶ。

 船の揺れさえ収まれば此方も条件は同じだ。

 寧ろ、勝手知ったる分、自分たちに分がある。那国兵は腰に帯びた剣をすらりと抜き放った。

「河国軍を返り討ちにしてやれ!」

「掛かれ! 逃げる一兵卒は放っておけ! だが将兵は一人も逃がすな!」

 足場の悪い船の上であっても、那国兵も水上に生きる民だけの事はあり、更に眼の前に迫り来る剣を見て、土壇場で肝が座ったらしい。

 河国兵に自ら斬り込んで行く。


 互いに咆哮を上げながら、激剣を振るう。

 猛烈な台風の最中であるかのような、怒涛の如き白兵戦が展開された。

 刃と刃がぶつかり合う音と、怒号と悲鳴が重なる。

 しかし、其れはやがて一方的なものとなった。即ち、気勢を発するのは河国兵、悲鳴を上げるのは那国兵、とはっきりと色が別れた。

 何故ならば、那国兵が手にしている剣は河国兵の持つ剣の前に、瞬く間に刃毀れを起こして役立たずとなっていったからだ。

 或いはもっと早い段階で、敢え無く圧し折られもした。

 紅河を撫でる強風が一つ吹く間に一段、また一段と那国軍の旗色は悪くなっていく。

 とうとう、那国兵は押されるままになった。


 河国兵はまるで獲物を罠に追い込んで行くかのように、じりじりと那国兵の間合いを奪っていく。

 軍旗を掲げている柱に那国兵を追い詰めた。

「な、何としても軍旗だけは奪われるな!」

 大将格の将兵が決死の形相で叫ぶ。

 此処で軍旗を奪われれば、此の船の負けを認める事になる。

 而も、黒覆面の男は先に明言しているではないか。逃げる一兵卒は放っておけ、将兵は一人も逃すな、と。つまり、自分は河国兵を前にしてはどうあっても助からない。ならば、部下を捨て石とするしかないではないか。


 だが大将兵が想定していたよりも、集まった兵は少ない。其れも集められているのは、其れなりの称号を得ている兵ばかりだ。兵卒に借り出した領民たちの姿がないのは何故なのか? 船に残っていた兵や水夫の数はもっと多かった筈だった。

 密かに黒目だけを動かして、周囲を探る。そして、突き付けられた事実に、げぇ、と喉を鳴らしていた。

 兵役義務で剣と櫓を持たされていた兵士たちは、気が付かぬ内に河に身を投げ逃げ出していたのだ。

 此の船に留まっていても、勝てるかどうかなど定かではない。

 どころか、勢いのある河国にこそ利があると云えた。兵たちは皆、一か八かの生還への賭けに出たのだ。残ったのは、伍長以上の兵を率いる立場にある者ばかりだったのは、こういう訳だったのだ。


「護れ! 何としても軍旗を守り抜け!」

 将兵が青白い顔をして命じる。

 だが命じられた方には、命令は届いていない。

 逃すな、と云う黒覆面の男の言葉が、彼らの耳の穴の中で延々とこだましていた。

 ――逃さず捉えた後、敵はどうする気だ?

 自分たちに降り掛かる未来を予想し、柱を背にして車座に立ちながら、那国兵は半狂乱になり悲鳴に近い声を上げつつも励まし合う。

 しかし黒覆面の男は剣を仕舞うと背中の弓に手を伸ばし、斧を持って来るように命じた。


「柱を折り、軍旗を奪え」

「に、逃げるな! 軍旗を、軍旗を!」

 矢を番い、此方に狙いを定めつつ黒覆面の男は鋭く此方に狙いを定める。

 晒されたが発する、ぎらぎらとした輝きは飢えた野獣というよりは獲物を見定めた猛禽類のようだ。

 河国兵の半分が男と同じ様に一斉に矢を番い、残りの半分が斧を手にした。姿勢を低く保ち、ずいずいと軍旗が翻る柱に迫って来る。

 ひ、ひぃ、と息を飲みつつ那国兵はその場にへなへなと腰砕けになって頽れた。其のまま、那国兵たちは我先にと舟板に額を擦り付けて平伏した。

 浅ましくも、見苦しく除名を嘆願してくる将兵たちの姿に、黒覆面の男のが、すぅ……、と細まる。


「放て」

 低く命じる男の声に、那国兵の悲鳴が重なった。

「ま、待て、み、認める、負けを認める!」

「ぐ、軍旗は貴様らに渡す!」

「だ、だから、頼む! 生命だけは助けて呉れっ!」

 唾を飛ばし鼻水を垂らし、脛に縋り付かんばかりの勢いで、那国兵は助命を願い出る。

 斧と鉈を手にした河国兵が柱に駆け寄るよりも先に、兵は我先にと軍旗を引き摺り降ろし始めた。黒覆面の男は、番えていた矢を下ろし鋭い目付きのまま那国兵の非れもない争いをじっと睨め付ける。


「こ、こら、何をする!? やめろ、止めんか貴様ら! 恥を知れ、恥を!」

 将兵が今度は顔を赤黒くして怒鳴った。が、那国兵は血走った目で将兵を睨むと、意味を成さぬ言葉を発しながら殺到した。

 軍旗など、護れと叫び続けた将兵の身分を表す為のものではないか。

 つまり、此の男の分身とも云える。

 ならば、片割れである将兵が護り抜けば良いだけの事ではないか。

 自分たちには関係がない。


 仲間に飛び掛かられた将兵の喉の奥から、ひきのような叫び声が上がった。

 身体に幾本もの剣を突き立てられたのだ。針塗れの毛虫のような姿になり、将兵は息絶えた。

 しかし、将の死になど兵たちは見向きもしない。我こそはという勢いでもう一度軍旗に群がる。味方の血で濡れた手で巨大な軍旗は降ろされ、そして黒覆面の男に差し出された。

 軍旗を受け取った黒覆面の男は、河国兵に向かって腕を突き上げた。河国兵は勝利を確信し、周囲に知らせる雄叫びを上げた。

 空を揺るがした雄叫びが収まると、河国兵は一斉に弓の弦を引き絞った。

 此れで助かる、と喜色を浮かべていた兵たちは、鈍く光る鏃が自分たちに狙いを定めているのを見て、血の気を失った。


「ま、待て!」

「は、話しが違う!」

 金切り声を上げる那国兵に、男は静かに答える。

「助ける、と約した覚えはない」

 そして腕に旗を巻き付けたまま、自らも矢を番え直した。

 カッ、と男のが鏃の先其の物のように輝き、弦を引いていた手が離れる。ビシ、と空を切る音を放ちながら、矢は那国兵目指して飛んだ。

 男が無言のまま振り返る。視線だけの命令は速やかに実行された。

 男に倣い、矢は全て放たれ、那国兵の身体目指して飛翔する。甲冑を突き破り肉を打つ音が連続で上がる。そして、怨嗟と叫喚と、紅い血の強い臭気が闘艦の上に満ちていく。


 ばたばたと倒れる那国兵を見下ろしながら、男は一度、覆面を解いた。

「芙殿、此の闘艦は完全に制圧しました」

 河国兵が駆け寄って来る。

 頷きながら、芙は顎を上げて戦場全体を見渡した。河国水軍は、芙が指揮した部隊と同じ動きを展開して那国軍の動きを止めている。


「策は上手く行っているようだ」

 はい、という河国兵の返答を聞きつつ覆面をし直した芙は、小舟を、と命じた。

「私は戦況を陛下の元に報告に行く。貴殿らは作戦通りに動いて呉れ」

 お気を付けて、と送り出す河国兵の声を背にしながら、芙は小舟に飛び移った。



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