22 屍山血河 その5-3
22 屍山血河 その5-3
対岸で行われている遼国式の筮いの喧騒が、乱の耳にも届いてくる。
チッ、と乱は舌打ちした。
乱にとって、遼国は穢を背負った忌まわしき輩の集団に過ぎない。
国と認める処か、人してすら認めていない。
そんな彼らと手を組む戰が、益々もって忌々しく、煩わしい。
そして、血の汚れた悍ましき者同士が同盟するなど、と嘲り笑っていた。
――属国に成り下がった国の女を母に持つ程度の男には、実に相応しいお仲間であろうよ。
乱にとって河国王となった灼は、冠がどう変わろうとも生口と蔑まれる蛮族であり、遼の民の長に過ぎない。嘲笑しか出てこない乱の耳に、びょう……びょう(・・・)……と不気味な風の音が届く。風、いや霊鬼か何かが哭いているかのような薄気味悪い音だ。
「耳障りな。全く、南蛮東夷の輩は此れであるから敵わぬわ」
べっ、とこれ見よがしに乱は唾を吐き捨てた。
乱に付けられた那国の将軍たちは、むっつりと押し黙ったまま、背中にまで贅肉を纏った乱を睨む。
あの言い方では、元は南方系の出である遼国だけでなく、彼ら那国までをも侮蔑しているも同じではないか、という憤怒が沸いてきたからだ。
しかし、まだ彼らは耐えていた。
★★★
那国は疾うの昔に、戦勝を祈願する祓いの儀式を終えている。
其れだけでも河国、いや遼国は戦に大いに遅れを取っていると見て良い。
乱の目には、戰と遼国に負ける要素が全く見当たらない。
――大体からして、あの程度の男が、此の禍国帝室の正しき血を持つ私に釣り合った戦が展開出来ると思い込んでいる事こそ烏滸がましい。
でっぷりと脂肪の厚みにより前に突き出した腹を揺らして、乱は奇妙な程ゆっくりと進み出る。勿体振っているのか、と那国の将兵はげんなりと身を竦めた。
芝居掛かった動きは、だが実は、甲冑の重さと暑さに耐えかねたからだ。
身に付けて半刻もせぬうちに、重みから肌に張り付く甲冑を脱ぎ捨てて水浴びをしたい欲求に乱は駆られていた。咥えて那国は特に湿度が高く、乱のように肉を蓄えた人間にとって夏場の蒸し蒸しと湿気た高温は見を焼かれるよりも辛いものがあった。
――全く、戦とは何と野蛮な行為なのだ。
此の高貴なる私が、斯様に汗塗れにならねばならんとは。
早くこの要らぬ馬鹿騒ぎを収め、絢爛華麗なる禍国の王城へと凱旋を果たしたいものよ。
引っ切り無しに悪寒に襲われている時のように、乱は身震いする。
眼前には、瀑布がそのまま横倒しになったかと思われる凄まじい水量を有する紅河の流れがあり、川の流れの上には、実に100艘を超える軍船が浮かんでいた。主に闘艦が揃えられており、既に先手を取って川上に配置を終えて、今か今かと開戦の時を待ちわびているのだ。
居並ぶ闘艦の更に上の位置に、一際目を引く燦めきを放つ船が浮かんでいた。
大将船となる楼船だ。
名が示す通り、楼船とは楼閣を有した巨船を指す。
那国水軍の楼船は、実に5層建てとなっていた。最上階はなまじの小舟の帆柱の最先端とほぼ同じ高さとなる。黄金色に塗り上げられた船体は見た目の荘厳さを示すだけでなく、乗船能力は実に500人近くもあった。
備え付けてある弩弓と投石による攻撃は敵軍においては止む間のない豪雨の如しであり、戦闘能力は闘艦よりも遥かに上を行く、其れが楼船だ。
櫓の数は片舷28を備え、曇天を貫く勢いで立つ5本もの巨大な帆柱には竹で補強された帆が張られており、中央の最も高い柱の頂上には錦糸を更に編んで太くした房に縁取られた軍旗が燦然と輝いている。
禍と乱を組み合わせた軍旗をはためかせる楼船前にし、途端に、肌をじとじとと汗で締め付けてくる熱気とは別の、興奮と云う名の熱を全身に覚えた。
「素晴らしい!」
叫び、うっとりと乱は息を呑んだ。
――美しい、実に美しい!
那国如き東夷の国が、斯様に美しい楼船と軍旗を造り上げる腕を持っておったとは!
侮っておったぞ、いやこの素晴らしい美しさは、川の流れに身を投じて涼みたくなるぞ!
余りにも呆けて見上げていたせいか、将兵が背後から声を掛けたのにも気が付けなかった。陛下、陛下、と数度耳打ちされ、漸く乱ははっとして己の醜態を恥じた。
目を眇めながら、喉が枯れて傷みを感じた時にするような咽て噦くような咳を幾度もして誤魔化しつつ、ちら、と乱は耳打ちした兵を横目でみる。面倒な奴だ、と云いたげな鋭い視線を礼拝で隠し、将兵はもう一度、乱に声を掛ける。
「陛下、どうぞ」
「うむ」
まだ羞恥を感じながらも乱は胸を張り、示された小舟に向かった。
既に紅河の中央にその堂々たる体躯を惜しげも無くさらしている楼船に乗り込むには、小舟に乗って近付かねばならない。
闘艦を始めとした軍船に乗り込んだ将兵全てに全身を晒して、将軍である事を示しつつ楼船に乗り込む、此れが那国水軍の仕来りだった。派手好きの目立ちたがりの乱にとっては、否と云える筈もない。
――丁度良い機会であろう。
乱は肥え太った腹を突き出して踏ん反り返る。
此の先、那国の宗主国・禍国の皇帝となり何れ貴様らを統べる男、乱と云う男を知り、皇帝となるべき人物を直に目に触れる栄誉を褒美として与えてやろうではないか。
★★★
此度、 那国が引き摺り出して来たのは此の楼船に加えて100隻近い闘艦を投じている。
此の大軍団が横木の陣を布いているのは壮観の一言に尽きる。
楼船の側面と後方には、小型艇が数隻寄り添うように浮かんでいた。この小型艇は、いざという時に指揮系統を預かる将軍たちを落ち延びさせる役割の船だ。
上機嫌で小舟に片脚を置いた乱は、しかし途端に均衡を崩して腕を泳がせて重心を元に戻そうと躍起になった。知らぬ間に息を止めており、顔が真っ赤になる。
周囲から、遠慮の無い嘲笑が上がった。
――おのれ、何という……!
歯嚙みしつつ誰一人として手を貸そうとしないな国の武人たちを睨む。
山と積まれた瓶子を女童が慣れぬ手付きで運んでいるかのような覚束無さでありながらも、乱は何とか小舟から転げ落ちずに楼船へと辿り着いた。
万歳が上がる中で醜態は晒せないとはいえ、乱にしては堪えた方だろう。那国の武人たちは、転げ落ちて紅河に沈めば良かったものを、と苦々しい面持ちで丸い乱の背中を睨め付ける。
綺羅を放つ乱自慢の甲冑も、2万を超すと水軍も、全てな国王からの借物だと言うのに、この尊大さは一体何処から湧いて出る、と。
武人たちのぎらぎらとした発狂せんばかりの怒りの視線も、然し今の乱には何処吹く風だった。
楼船に乗船し、改めて翻るおのれの軍旗を目の当たりにしていると、彼らの物事を腐した目で見る態度など瑣末な事だと寛大な態度に出られる。
5階建ての楼の最上階に上がる。
紅河からは滴り落ちたばかりの敵の人血のように生温い風が巻き上がり、乱の鼻先から全身を嬲って行く。
其れにもまして上がり続ける歓声が、乱の心臓を鷲掴む。
此の時、乱は己の大勝利と、そしてその先に続く栄光という名の未来を信じて疑ってはいなかった。
然し、5つもの階層からなる立派な楼閣を有した楼船とは、実は最上階に辿り着くには其れだけ多くの階段を登らねばならない――という事実に気が付くのは、いざ段差に一歩を載せた時、というのが殆どだ。乱もそうだった。
目が眩むような錯覚に囚われ、ぐらぐらと胃の腑が沸いたように吐き気もする。
――なんだ、此れは。
正気の沙汰ではない。
高貴なる此の私が、まるで野猿か何かのように己の脚でもって登れと云うのか。
禍国を始めとして、平原の多くの国々の城は平城が基本だ。
権威は、建築物の高さではなく建造物の個数と敷地の広大さを以てして顕すものだ。
当然、段差には頗る弱い。そもそも、身体を鍛えると途端に病に掛かるような惰弱にして脆弱な生活を好んで来たのだから、乱の体力など推して知るべしだ。
息切れと動悸、そして目眩に襲われながら、乱は必死に階段を登った。而も、山に生きる羚羊ですら登るに臆病を覚えようかという急勾配の段差だ。一段登っては休み、一段登っては息を継ぎし、両手両足を使ってまるで蛞蝓のようにずるずると登っていく。
肩から腕から頭部から、全身に纏う過剰なまでに華美を追求した甲冑の重みを乱は噛み締めねばならなかった。明白に貶みと嘲笑を受けても、其れに対して毒付いて返してやるだけの気力すら奪っていく。
正に苦行難行に近かった。
――此の私が、禍国の皇子を汗塗れにするとは良い度胸だ。
おのれ、此の屈辱を味あわせた者は何人たりとも許せぬ。
戦を終えた後に責を問わねば収まらぬ。
声に出せぬ分、脂肪の厚みだけは他者に勝る腹の中で悪罵の限りを尽くすしか無い。
だが其の分、最上階に到達した時の感動は筆舌に尽くし難いものがあった。
「――おっ、おおっ、ほおおぉっ!?」
感極まる、と言っても過言ではない。
乱は思わず口を突いて出た、不作法極まる自らの驚嘆の叫び声の大きささえ気にならなかった。
――見事だ! 何と云う光景だ!
ぞわぞわと背筋を這い上がってくる興奮は、性的な高まりを放出する瞬間に酷似している。
川面に広がる闘艦の群れは、まるで足下に平伏しているようにも見える。此れだけの大船団を、指一つ、声掛け一つで動かせるのかと思うと心の臓の音が跳ね上がる。
思わず知らず、片手を上げていた。
すると、闘艦の上に疎らに見えている兵士たちの間から歓声が上がった。其々、手にした武器を掲げている。
兵士たちは、乱の氏素性は知らない。関係もない。ただ、那国の為に戦うのみ、という意気込みと決意のみで川面に浮かんでいる。
だが乱は、そうは捉えない。
彼ら兵士は、正に双六や将棋の駒だ。
陣地を広げて最終的には敵将の首を捥ぐまでの間、作戦通りに思うままに右に左に揺り動かす、碁石だ。
どくり、と脈が一際高く鳴る。ひくひくと頬が引き攣れるように痙攣する。
――面白い……!
たった此れだけの動きで、乱は戦というもの魅了された。
遼国で行った生口狩りなど比較にならない。
碁石が群がって、己を持ち上げている。戦って死ね、という命令が我が口から発せられるのを待ち侘びている。
乱は生命を握る、という熱の虜となっていた。
那国が川上に布陣し終えた頃、楼閣から望む那国の向こう、河口側には河国水軍が続々と集結し、陣形を布いている最中だった。
――ふん、今更ながらに出張って来るのか。
地の利を得るのが確実なる勝利への道であると知らんと見える。乱は河国軍の、いや戰の不手際を鼻で嘲笑する。
――其れに何だ、あの船は。
弛んだ腕を組みながら、今度は河国水軍の軍船を嘲った。
軍船にまで手が回らなかったらしく、どう見ても河国の軍船は寄せ集め、有体に言ってしまえば烏合の衆だ。何しろ、那国の闘艦と較べて河国軍の其れは明らかに一回りほど小さい。
一応、弩弓の射手や漕手を護る為の防盾は備えているようだが、投石器を積むには大きさが足りない。数合わせのつもりなのか、其れとも自棄になっているのか、中型船は其の分多い。
――どうやら、鉄の剣とやらの開発に感け過ぎたらしいな。
嘲り笑う乱の眼下で、河国の水軍は下弦の月のような型の陣形を徐々に築いている。
目を細めて乱は、河国軍の闘艦を更に睨む。船の前後左右、そして中程に、見慣れない柱が立っているのが気になった。
「おい、あれは何だ?」
背後に控えている那国の武人たちに尋ねる。
しかし、彼らも互いに顔を見合わせて、憮然としたまま首を左右に振る以外に答えない。
いや、答えられないのだ。何しろ、あんな不要な柱を備えている船など、見た事も聞いた事もない。帆柱にしては位置がおかしいし、目的が皆目見当もつかない。
「まあ、いい。寄せ集めの船を急場に改造したのだろうからな、訳の分からぬ姿をしておっても何ら不思議ではないわ」
勝利を益々確信した乱は、良い気分のままに鼻歌を歌い始めた。
★★★
「陛下。水軍が布陣を終えたようです」
愛馬・千段に跨る戰の背後に、杢が馬を寄せて来た。うん、と頷く戰の目の前では其々の軍旗を掲げ始めていた。
「さて。乱は何時、此方の策に気が付くかな」
楽しげに戰が呟くと、ぶるる、と千段が嘶いた。
まるで、奴程度の男が気が付ける筈があるまい、と言っているようだ。明るい笑い声を上げると、戰は戦場の臭いを嗅ぎ付けて興奮し始めた愛馬の首筋を撫でてやる。
「そうか、千段もそう思うかい?」
朗らかに笑う戰の背後で、杢も微かに微笑む。
真からの木簡を受けと取って以来、戰は精神的な均衡を取り戻している。此れまでとは笑顔に映るものも、雲泥の差だ。
だが、戰の曇りのない笑み一つで、祭国軍は発憤興起出来る。我が王に、勝利を! と疑いもなく一丸となって戦場を突き進めるのだ。
戰が率いる軍勢の強さの正体は、実は鉄の剣や鍛え抜いた騎馬、斬新と評される胡服の導入や奇抜とまで嘲られる策を用いている点ではない。
『戰』という玉石、主が進む道こそ大道であると信じている。
信じさせるだけの人物、だから強いのだ。
其の玉石が、自らを砕かんばかりの勢いで悄気返ってなどいては、兵士たちの意気が保たれるのは危うい。真は、普段は自分がいて軽口を叩いているからこそ自覚せずに済んでいる情緒の不安定さを、あの手紙で散じてみせた。
無意識に初めての水上戦に恐れを持っていた戰を、手紙を得た後は杢が最もよく知る本来の姿に戻してくれた。
御蔭で、兵士たちの団結力は一段と高まっている。
――玉石は、此処ぞと云う時に耀いてこそ、玉石たる。
流石に真殿は、陛下の利用の為所を良く心得ているものだ。
御蔭で、付き従う自分もはらはらとして気を散らす事なく集中出来る。有り難い、と呟きながら杢は紅河に腕を伸ばした。
「陛下。那国が動くようです」
杢の言う通りだった。
那国の軍船は帆の向きを変ると共に、一斉に櫓を動かし始めたのだ。横木の陣の陣形から、川上を取った利を最大限に活かして一気に此方に雪崩れ込んで来る。
那国軍が力押しによる河国軍の瓦解を狙っているのは明白だ。
中央奥に在る、吉次の軍旗が上がっている大将船であるのは間違い無い。
対して戰が率いている河国軍は、湾曲した三日月型の陣形を布いている。
一際高くなっている丘から、戰は紅河の流れに浮かぶ両軍を眺める。
――乱。
此処から見ていると、貴様の小ささが良く分かるぞ。
那国が川の流れの威力を借りて一気に大海を目指す魚群の如き攻撃を仕掛けて来ると見るならば、河国は魚を捉える時に仕掛ける網となっている。
戰は、ちら、と芙を見た。こく、と小さく芙が頷くのを見届けた戰は、何も言わずに紅河に視線を戻した。
「吉次にとっては、久方ぶりの船の上だが」
「陛下の御前にて技を誇るだけでなく、武功をたてられるとは、と張り切っておられました」
珍しく、杢の声が明るい。
そう、紅河に浮かぶ河国軍は吉次が率いていた。河国と共に祭国の軍旗が一際大きくはためいている、其れが吉次が乗船している大将船だ。
「吉次殿が動きます」
杢の宣言と共に、河国の水軍も動きを見せた。突出していた両端にあった小型船が、素晴らしい脚を見せて那国水軍に向かっていく。
戰と杢、そして彼らの後ろに控えている1万5千騎の騎馬隊が固唾を呑んだ。
此処で河国軍が少しでも旗色を悪くすれば、自分たちの出番は無くなってしまうだろう。
そして、あたらむざむざと同盟の軍を紅河の川底に沈んでいくのを歯噛みして眺めていなければならなくなる。
しかし、戰は河国水軍の勝利を信じて疑っていない。
三度、高い嘶きを発して、カツカツと蹄を鳴らす千段を諌めもせず、戰はじっと川面の動きに注視し続ける。
――さて、乱よ。
我が軍師・真の策から逃れられると思うなよ。
★★★
湾曲した三日月型の陣を取っていた河国軍が動き出した。
楼船の最上階に居る乱の目の前で、鋭角となっている両の河岸附近に集結していた小型船が、猛烈な快速を見せている。みるみるうちに那国の闘艦に迫って来る。
にやり、と嗤う乱に、此の時だけは那国の将兵たちも同種の笑みを浮かべて頷いた。
何しろ此方の船は闘艦だ。鏃から兵を護る為の防盾がぐるりと立っている様は、動く巨大な檻に見える。名は体を表すではないが、闘艦とは其処から付けられ名のなのだ。
漕手が片舷3つしか見えない、長さ4丈にも満たぬ船に太刀打ち出来る筈がない。
そうこうする間にも、小型船はぐんぐんと迫る。
「ふん、あの程度の小舟、木端微塵に潰して沈めてやるがいい」
にやにやしながら命じると、那国の兵たちも言われるまでもない、と云うように前方の闘艦に指示を出す。
那国の水軍は、各船に指示を出す時に旗を振る。
前進は赤、攻撃は赤の旗が2本、後退は青、旋回は緑で回す方向で左右を示す、などといった簡単なものだ。だが、いちいち小舟で伝令を走らせるより、狼煙のように早く指示を全軍に広げて行ける。そもそも、水上戦にさしたる作戦は必要が無い、というのが共通の認識だ。
優位なる川上に布陣して、一気に攻め込む。其れ以外に策を弄しようが無いからこそ、旗の伝達で充分だった。
上官から命令を受けた兵士は舳先に立ち、大きく指示旗を振り始めた。
その時だ。
ひゅっ! と水鳥の鋭い鳴き声のような風切音を旗を振る兵は聞いたような気がした。
次の瞬間、彼は腹に灼熱の衝撃を受けていた。
余りの熱と痛みに兵は顎が外れんばかりに口を開け、叫び声を上げる。
同時に、水面に自分が落ちる音を感じていた。
のた打ち回る痛みは、だが長くは続かなかった。自軍の船の櫓が、彼の頭骨を砕いたのだ。脳内を掻き回す共鳴音が、兵士が生きている内に最後に感じたものだった。水面を濁った朱色に染めながら、兵は水底へと沈んでいく。
其の姿を楼閣から出て見ていた乱は、ひぃぃぃ! と木枯らしのような悲鳴を上げて分厚い防盾の内側に駆け込んだ。
――な、何だ、何だあれは!?
一体何処から矢を放ったのだ!?
此方に攻め込む勢いを見せる小型船から放たれたとしても、相当な距離がある。
有に4丁はあるだろう。此の距離を過たず打ち抜く技量を持ち合わせるなど、信じられるものではない。最早、人間業とは思われない。
――お、鬼だ!
い、いや、悪鬼か霊鬼の、冥府の妖の類だ!
目玉を血走らせ、乱は激しく首を左右に振る。
――戰が小舟に乗船して、此方に攻めて来ているのか!?
いやまさか、大将でありながら先鋒を務める様な愚を犯すか?
いや、いやいや、戰の奴ならやりかねない。
此れまで、阿呆でも考えつかぬような策を弄していたではないか!
がたがたと震えながらも、乱は叫んだ。
戰が小舟で此方に迫ってきていようがなんだろうが、旗手に新たな命令は下さねばならない。
其れも、的確に、だ。
「な、何でもいい! と、兎に角突っ込め! 敵を撃破しろ!」
命令になどなっていない、と気が付いていないのは甲高い発狂寸前の声で命じた乱のみだった。
★★★
「ほう……」
大将船の船首に立った吉次は、腕を組みながら笑った。
頭上では、彼の名を記した軍旗がするすると掲げられている最中だ。
那国の楼船は見るからに動きに狼狽を見せている。
闘艦を推し進めつつ、自らも前方へと乗り出す素振りを見せていたというのに、急に停滞し始めた。何かがあったのだろうが、何かあった程度であのように楼船が動揺を見せては従う船は堪ったものではなかろう。
其れでなくとも、河国が導入した小型船の動きに那国水軍は惑乱されている。此方の図にまんまと乗っているとも知らずに巨船を動かしている那国が、いっそ哀れに思えてきた。
――戦とは、戦の価値を正しく知る者が動かしてこそ、勝利を得るのだ。
那国水軍の大将を務めている乱は、ただ、己の武辺の威を周知させたいがのみの為に戦場に居る。兵士たちは、己の欲を満たす駒に過ぎない。
――だが、郡王陛下は違う。
戰が自軍の兵士たちに声を掛ける姿と、彼を囲む者たちの顔付きを見れていれば分かる。
戰にとって兵士は喩え一兵卒であろうとも、同じ土地で同じ空気を吸いながら国を起こして来た仲間であり、生命と命運を共にして来た家族なのだ。
決して、忠義忠節に名を借りた隷属を強要する相手ではない。
『生命を持った道具』として扱わない。
彼を見上げる兵たちは、そんな戰だからこそ心底から慕い、愛すればこそ、より自然に一層の忠誠を誓う。
腕を組んだ吉次の横に、ふわり、と人型の風が起こった、と思う間に、芙が何時の間にか控えていた。
大型の弓を背負っている。弓を見た吉次は、那国水軍は小舟の動きに気を取られている間に、密かに忍び寄り楼船の兵を弓で討ち、大将・乱殿下の肝を冷やしてきたのだな、と即座に理解した。
芙が背負っている弓は、別に技を競うのでなく、ただ引き絞って放てば技量の在るものならば飛距離は楽に4丁を超える代物だ。鍛錬を積んだ者が引くと、必殺の命中率は大凡、2丁以上はあろう。祭国に居た時分に、克や杢と共に芙も鍛錬を重ねていたのを吉次も目撃している。気を散らした相手など、2丁もの距離があれば射落とすなど造作も無いだろう。
笑いながら、吉次は視線を楼船に戻した。
まだ、楼船の動きはおかしい。代わりに、闘艦の速度が上がっている。中央に位置するこの大将船を討ち取らんとしている。我こそ先に、という勝手な動きは船列を大いに乱し始めているのに、気が付いていない。
「派手にやって来られましたな」
「旗手を失っただけであの慌てふためき様だ。陛下の相手になる男では無い」
手厳しい芙に、確かに、とまだ笑いながら吉次が答える。
話している間に、横木の陣であった那国水軍は知らぬ間に中央が突出した魚鱗の陣に近いものになっていた。
「さて、陛下方の読み通りになって来たぞ」
吉次は組んでいた腕を解いた。
此の先は、一瞬の気の緩みが何を呼び込むか分からない。ただ只管に、勝利を念じて動かねばならない。ぎゅ、と眉を吊り上げた吉次の横で、芙が目元だけを残して顔面を覆い隠した。
互いに、目配せをし合う。一際強い川風が鳴く。同時に、芙の姿が消えていた。まだ、彼の体温が残っている場を暫し見詰めた後、吉次は仁王立ちになる。
「河国全軍に告ぐ! 作戦通り、我が軍も此れより進撃を開始する!」
うおおおおお! という巨石が谷間に落ちたかと紛う怒号でもって、兵士たちは吉次に答える。
兵の雄叫びが水面を叩き、大波を産んだ。
だが揺れに揺れる船体を物ともせず、目を剥く吉次はしっかと立っている。
腕を高く掲げると、前方へと振り落とした。
「禍国水軍に告ぐ! 全軍! 進軍開始!」
全軍、進めぇ! と野獣の咆哮の如き唱和が各所で起こる。
河国水軍が前進を始めた。




