22 屍山血河 その5-2
22 屍山血河 5-2
物見櫓から各兵舎へと伝令が走る。
一見、ばらばらと規則性もなく四散しているように見える。が、其の実、統制の取れた無駄のない動きだ。
彼らが急ぐのには訳がある。
那国水軍の動きが遂に活性化し始めた、という知らせを王の元に届ける栄誉の為だ。
敬愛する王に事態の急変を伝える栄誉を勝ち取った伝令は、全身を興奮に支配させて戦慄いていた。
「遂に来よったかよ」
伝令の言葉に、甲冑を鳴らして灼が胸を張る。隣に座っていた戰が、立ち上がった。
「其れで、那国水軍の動きは? 此方の読み通りに川上に向かっているのか?」
「はい。陣形は郡王陛下が読んでおられた地点に向かっております。どうやら、此のままですと横木の陣を布く腹つもりにて」
灼は顎を跳ね上げると、かっかっか、と喉を鳴らして軽妙に笑った。楽しくて楽しくて仕方が無いのだろう。
「全く以て、阿呆らの集団と言わねばならんな。我慢ならずにとうとう、動きよったかよ――」
灼は顎を跳ね上げたまま、呵呵大笑する。豪胆な王の姿に、伝令は見惚れるばかりで言葉も無い。不意に、笑い声を収めた灼は眦を上げると、ぎらり、と戰に向かって眸を輝かせた。
「では、そろそろ、陸軍も動き出す頃よな?」
「恐らくな」
うきうきとした声音の灼に、戰は苦笑しつつ頷いた。
河国の王城に入った戰は先ず、灼と燹、そして杢と吉次を筆頭とした河国の家臣を集めて軍議を開いた。
那国王・敏は兄皇子・乱を盾として一軍を率いさせるつもりであり、乱を餌にしている間に河国を討つ算段を講じる筈だ、と戰は那国の動きを読んでいた。
「乱が軍を率いるとすれば、より可能性が高いのは水上戦だ。那国は、今現在の河国は闘艦を用意するだけの国力がないと知っている。乱の事だ。見栄えのする戦いの方に気持ちも吸い寄せられるだろう」
「……3年前の戦いの時のように、契国からの肩入れして貰えぬと知っておるしな」
揶揄するような灼の口調に、戰は苦笑いする。事実であるが、確かにあの時にあれだけの巨船を用意できたのは奇跡だったと思える。しかし、自らに都合の良い展開ばかりを望んでどうなる訳でもない。寧ろ、非生産的だ。
そして最も現実的な意見としては、何よりも乱は遼国を侮っている。生口狩りを行った時点で明白だが、河国王を灼が兼任するようになってからは尚更だ。
河国王なぞと王座で踏ん反り返っておる馬鹿者は、嘗て、己の前で新参を舐めた城無し国無しの夷人の頭に過ぎない。
此度も打ち破り、人との違いを存分に教えてやろうではないか――というのが乱の腹の中だ。
知っているからこそ、灼も殊更に嗤ってみせる。こういう処は、実に餓鬼臭い王なのだ。
「水上戦に禍国の廃皇子が大将として出て来るのであれば、どうする? 郡王が指揮を取るか?」
「当然だ」
今度は戰の視線が、きり、と矢のように走るのを見て、ふむ、と灼は珍しく首を捻る。
「となると、折角率いてきた万を超す騎馬隊を活かす場がなくなるぞ? どうする気だ?」
当然の疑問だった。
そもそも、水上戦に騎馬は必要ない。飽く迄も戦うのは船と船のぶつかり合いだ。
だが戰は、いや、と頭を振る。
「この戦いには、騎馬は必要不可欠となる。灼殿、私の直属の1万騎、杢の5千騎、共々水上戦に其のまま投入するものとして頭に入れておいて呉れないか?」
「……其れは別に良いが……」
灼と燹は顔を見合わせる。
杢も吉次も、戰が何を考えているのか今一つ掴みきれて居ないようで釈然としない顔付きをしている。
が、戰は、にこ、と笑ってみせた。
だが、戰は騎馬隊を如何に活かすかについては触れなかった。
固唾を呑んでどんな策かと待ち構えていた面々は肩透かしを喰らった格好になった。しかし灼たちも、戰が如何にして騎馬隊を活用するつもであるのか、それ以上踏み込まなかった。
戰が珍しく笑って誤魔化したのは、まだ自分の中で此の問題を消化しきれていないのだろう。無論、自分たちにも、妙案など浮かばない以上、嘴は挟めない。
微妙な空気が場に広がる。
何時もであればこうした問題は、疾うの昔に真が払って呉れていた。
が、今はうず高く積もって足を掬わんと虎視眈々と狙って来ている。
皆には、そして誰よりも戰にとっては、其れが面映くてならなかった。
★★★
灼が空気を変えようとしてか、机上に広げた地図に腕を伸ばした。
「此度の戦で、那国は水上戦の隙を突いて河国を狙って討って来る筈だと吾も郡王も読んでおるが」
「となると、船で大挙して河国に押し寄せるつもりでありましょうか?」
「そう考えるのが、妥当よな」
「……問題は上陸地点、となりますな」
――そう、那国は船を使うだろう。
だが、我々は船では間に合わない。
遣り取りを耳にしていた戰が、ぼそり、と呟いた。杢と吉次は顔を見合わせる。二人は、戰の策が頓挫している理由が分かったのだ。
那国が河国本土を叩かんと総力を上げて船団を組んで押し寄せている間に、水上戦で勝利を得、その勢いでもって那国本土を攻めるのが上策なのは杢にも吉次にも分かる。
ただし、此の策には決定的な不備というか欠点がある。
1万五千の、兵士だけならば、まだよい。
だが、馬もろともとなると、話は違ってくる。
幾ら大型軍船を用いようとも、馬を乗せたのでは一度に運べる人数は限られる。騎乗した状態であっても、容量的に然程変わりばえしないだろう。
那国と河国を結ぶ橋は存在しない。
余りにも巨大な河幅を有しており、河水の逆流や台風や梅雨の大雨の時期の氾濫の度に流されるのは目に見えているし、何よりも其れだけの威力の在る水量を湛えているのだ。互いに大河を掘りとして活用した方が現実的だった。通行、交易、その他の多大なる不利益を承知の上で、那国も河国も橋が無い故の安全を選びとったのである。
当然、行き来は船が頼りになる。
商人たちは自分たちで定期船を繰り出しているが、其れを除けば互いの国を繋ぐ手立ては皆無である。
であれば、互いに攻め込むには船を使用せざるを得ない。
問題は、自分たち祭国の騎馬隊が最も得意とする迅速果断な攻めを最大限に活かすには、一度にほぼ全騎が紅河を渡り終えねば意味が無い、と云う事だ。
――成程、此れでは……。
目を幾分細めて、自軍が展開する地点を見る。河幅は大凡、20丁近い。全て渡河するにはどれだけの時間が掛かるかは定かでは無い。だが行き来する間に、敵軍は敗走するなり新たに陸で布陣し直し此方に先に仕掛けるなりの時間は充分にあるだろう。此処の問題を突き崩さねば、先に進めない。
――陛下をもってされても、妙案は浮かばれぬのか。
最後の最後の詰の部分。
此処を如才無く塗り潰してみせるには、矢張り、真殿が必要なのだ。
杢は其れと知られぬように密かに呻き、そして短く嘆息した。
しかし、今は那国の出方をも見定めねばならない。
那国軍の上陸地点が何処になるか。
其処からどう攻め込むつもりでいるのか。
全員で額を寄せて地図に見入る。
考えられる限りの線を指摘しあうが、どれも決定打に欠ける。
――こういう時に、真が居てくれたなら、直ぐに考え纏まり策が練り上げられていくのだが。
実に焦れったいというか、話が堂々巡りばかりして遠回りしているという感覚が拭えない。
結局、敵の目が向いていると考えられる一番妥当な上陸地点に目星がつく迄に数刻を費やしてしまった。
遂に、ああ、止めだ止めだ! 此処で話して脳を使ってばかりおっても埒が明くものか! と灼が吠えた。
「なぁに、敵の出方を待っているのに飽くのは目に見えておるのだ。寧ろ、此方に呼び寄せてやろうではないか」
挑発的に唇を持ち上げる灼を、燹は頼もしそうに目を弓形にして見ている。
が、戰と杢は何処かに危うさを感じていた。
猪突猛進、恐れ知らずの赤銅色の肌をした王の果敢さは、国中の男たちに伝播している。
しかし興奮して議論が飛んでしまい易いのは、灼の欠点だ。不測の事態を目の前にした時に、今の彼を見ているととてもではないが冷静に対処出来るとは思えない。
もう一つ、戰には拭えない懸念があった。
事此処に至りながら、陽国がどう出るつもりなのかも杳として知れないのだ。
時折、申し訳無さそうな視線を此方に向けてくる吉次の様子から察するに、彼も母国から何一つ知らせを受けていないのだろう。彼はそういった演技が上手い方ではないのは、此れまでの付き合いで分かっているつもりだ。
陽国が那国に与するつもりなのか。
其れとも、皇子・戰の時代に吉次を遣わせた時と変わらぬ石を貫徹する気でいるのか。
或いは、高みの見物を決め込み全く我関せずで押し通すのか。計り知れないのだ。
今は確かに、祭国軍と河国軍の総数は那国軍を圧倒している。
だが、陽国の出方で力数はあっさりと逆転してしまう。
悩ましさに、額の奥が痛む。ふ、と影に隠れて戰は息を吐いた。
――真。
真の声を聞きたい。
「大丈夫ですよ、戰様、戰様が、勝ちます」
何時も私に言ってくれる、真の声を聞きたい。
灼が用意した河国の精鋭部隊と自分と杢が鍛えた祭国軍が、無様に負ける筈はない。
だがどうしても、勝利するという決定的な確信が持てない。
必ず勝つ、という輪郭が真の言葉が無いだけで、何とあやふやなものになってしまうのだろうか。
「自分一人居ないだけで、何を弱きになっておられるのですか、戰様。人一人が開けた心の風穴を埋め立て安堵を与えられずして、戰様は何の王を目指されると云うのですか?」
眠そうにしている真の、欠伸をしながらの叱責にもならぬ叱咤が聞こえて来るようだ。
が、戰は真に痛罵されても良いから、声を聞いて安らぎを得たかった。
★★★
夜明けと共に遼国式の戦の筮いが行われる。
其れと共に、河国側も船団を紅河に押し立てる手筈となっていた。
――いよいよ、開戦か。
しかし、水軍の指揮をとる戰はまんじりともせず夜を明かした。
こんな事は未だ嘗てなかった。何時如何なる戦の最中であろうとも、身体を休めるのも大将たる者の努めとしてきた。無理矢理目蓋を閉じれば寝息を立てられる訓練までしたというのに、今回は其れも役に立たない。
兄皇子である乱を此の手で仕留める機会を得たという興奮のなせる技であればどんなに気が楽になるかと思う。
一人になってからも考えに考えてみたが、だがどうしても、那国に渡る手立てが思い浮かばない。
船を使って渡るしか、どうしようもない。
此処で思考が止まってしまうのだ。
――真が居てくれたら……。
思っても詮無き事であるからこそ、ぐるりと一巡りして繰り返し思ってしまう。
戰は今、気高い朱雀や鳳凰がもしも片翼を捥がれでもしたら、どのような気分を味わうものかが理解できるような気がしていた。
戰にとっての片翼とは、勿論、真の事だ。
真が傍らに居ないまま戦に望むのが、こんな恐怖を味わうものであったのか、と今更ながらに魂を震わせる。
祭国を出立する時には感じていなかった。
いや、椿姫や息子たちや薔姫たちに気取られまいと自身でも気が付かぬまに、気丈に振る舞っていたのだろうか。
――しかし、どう対処しようもない。
腹を括るしかないのだ。
自分が一人きりであると云うのであれば、真とても同じ事だ。
未だ癒えぬ傷を抱えて、剛国で奮闘しているのだ。
何も自分だけが労と責を背負っている訳ではない。
戰は大きく息を吐き出して起き上がった。音を立てぬように注意しながら天幕を出た。
と、入り口の幕を払い退けると杢が胡座を組んで膝の中に剣を抱えて控えていた。優の秘蔵子である杢は、休息の意味も良く理解している。だから喩え戰が寝入っていなくとも声を掛けずにいたのだ。
優の休息に対する教えは徹底してる。
兎に角眠れ、眠れなくとも横になり目を瞑るだけで良い、横になれなければ座れ、座れなければ何かに凭れろ、といった具合だ。
杢、と声を掛けると閉じていた目蓋が開く。目覚めたのか、其れとも目を閉じていただけなのか。分からないが、杢は剣を抱え直して跪いた。
「夜が明けたようだね」
「はい、陛下」
二人揃って見上げた空の色は、まだ時を告げる鳥の声はしないが、着実に茜色に染まり初めている。
朱の色を反射し始めた戰の髪を見上げながら、杢は目を細くした。
――矢張り、御懸念が払えぬまま一夜を過ごされたのか……。
再会してから杢が感じるのは、戰の不安定さだった。
灼たち河国側も、何か変だと思いつつも、郡王とてそんな事もあるだろう、と口にせずにいてくれる。
が、杢も吉次も時も憂慮していた。
河国に到着してからの戰は、明らかに心の均衡が崩れている。そう、真が居ない部分が沈んでしまっており、何事においても精彩を欠いている。
あの後、如何にして騎馬隊を那国側に一挙に渡すべきか、その法を編み出そうと根を詰めていたのを知っている。
知っていて、何も出来ない歯痒さに杢自身もどうにかなりそうだった。
自分たちの誰一人として、真に成り代われない。
辛く、もどかしく、焦燥感を煽られるばかりだ。
何方からともなく、ふぅ……、と息を吐き出した。
此の閉塞感から開放されたい、と訴えているかのような吐息が、静寂を破る。静謐な朝の空気が、よもや此れから血生臭く淀んだものになろうとは誰が想像しえようか。
ふと、戰は耳を欹てた。
杢も視線を泳がせる。
懐かしい風を感じたのだ。
まさか、と思いつつも、もしかして、という期待感に支配されて互いに顔を見合わせる。
程なく、ひゅっ、と空を切る音がして、ふっ……と風の塊が戰眼前に跪いた人型となって現れた。
★★★
「――芙」
自分の声が愚かしくも上擦っていると感じながらも、戰は身震いを止められない。
芙が居る。
剛国に、居る筈の芙が居る。
誰の命を受けて此の遠い河国までやってきたかなど、瞭然だ。
「お久しぶりです、陛下」
言いながら、芙は懐を弄る。
再び現れた手には木簡が握られていた。
芙の手から木簡を殆ど奪うようにして受け取った戰は、紐解く間すら煩わしそうだ。
からり、と音を立てて木簡を広げると、むしゃぶりつくように視線を走らせ始めたる。
まるで、愛しい女から数ヶ月ぶりに得た恋文に目を通しているかのようだ。
木簡を読み進めながらも、書き手である真は今、どうしているのか、息災無事でいるのか、と問うのももどかしいようで、戰はちら、と芙を盗み見るように視線を投げてきた。
「御心配には及びません。真殿は元気にしておられます。陛下にも、託された品を受け取った時の真殿のお顔を見せて差し上げたいものだ、と克殿と話しておりました」
綴られた文字を辿ってりながら、そうか、其れならいいが……、と一言漏らして頷く戰の顔は真剣そのものであるが、蕩けるようなある種の熱を感じさせる。
見ている此方が気恥ずかしくなるな、と芙と杢は久し振りに会った友と苦笑いを交わしあった。
「陛下、何卒、天幕の中にお入り下さい。此処は既に戦場です」
確かにもう、周囲は味方のみと思っていてはならない。
何処に那国の間者や斥候が潜んで居るか知れないのだ。
杢に諌められて、戰はやっと天幕内に戻った。
寝台に腰掛けて落ち着くと、また木簡に視線を落とす。
木簡の端を撫でながら、ふと、戰は何度も読み返しているこんな姿を椿姫や薔姫が見たら、きっと笑うだろうな、と思った。
戦に赴く男たちを見送った後の自分たちの気持ちなど、実は本気で理解していなかっただろう、少しは身に沁みたか、と。
苦笑しかけて、杢と芙の視線の針に気が付いた戰は、態とらしく何度か咳払いした。
「陛下、真殿は、何と?」
待ち切れずに、珍しく杢が咳き込むように尋ねる。うん、と戰は頷きながら、杢に木簡を差し出した。
「私たちがどうせ此処で堂々巡りになり躓くだろう、と見越して、策を練って呉れたようだよ」
杢が木簡を広げようとすると、背後から声がして吉次と時が入ってきた。
一歩下がって芙が頭を下げる。
芙がやって来た、と聞いてはいても目にするのとは違うのだろう、おお、と吉次と時は喜びの声を漏らした。しかし、時間を惜しんで二人は杢の左右に躙り寄って木簡を覗き込む。
其処に書かれていた策は、主要な部分は戰が立てた策とほぼ同じものだった。
違う点を上げるとすれば、懸念材料である事案についての打開策が提示されている事だ。
戰と杢の騎馬隊1万5千騎。
彼らを如何にして那国に渡すべきであるのか。
そして那国が河国を討たんとする時の上陸地点の予想を上げている処だった。
此処の2点が、どれだけ話し合ってもどうしても思い浮かばなかったというのに、懸案事項を一気に払拭させる真の策は予想外、というよりも突拍子も無い代物ものだった。
杢のような物静かな漢ですら、目を瞠る。
しかし、興奮に息が微かに乱れているのを時は見逃さなかった。
髭を紙縒りながら若さを羨むように、ほっほ、と短く笑う。
而も、木簡に認められていたのは其れだけではなかった。契国に向かっている真の父、兵部尚書・優の軍との連携と句国に居座る備国と如何に討つべきであるのかまで言及している。
恐ろしい長文は、戰たちを真綿でゆるゆると締め上げながら惑わせていた汎ゆる懸念を、一気に解決している。
問題外である、と斬り捨てていた。
★★★
心配など無用です、此れまでの鍛錬は、何の為だったのでしょうか?
鍛錬したと満足する為にのみ身体を動かしていたのでしょうか?
あれだけの闘志を燃やして挑んできたのはなんだったのか
どうか思い出して下さい
戰様、皆を信じるに充分足るではないですか
互いの力を信じているのならば、案じている困難などは所詮、戰様の心の弱さが見せている幻想に過ぎません
幻影に惑わされて心を乱されるなど愚かしいの一言です
其れでも、どうしても己を律するのに倦ねるのであれば、皆の手を脚を、そして馬を見て下さい
戰様
戰様が御自身の御姿が信じられ無いというのであれば、此の数年間、皆がどれ程、厳しい訓練に耐えてきたのかを、どうやって今の姿となったのかを、思い出して下さい
隣に座る仲間の手の皮の分厚さ、脚の太さ、そして馬たちが得た技の数々が、信じろ、とそう言ってきはしませんか?
聞こえたのならば
迷いなど、あっと言う間に霧散する筈です
此度の戦は那国のみの戦いに終わりません
此の戦火を切掛として、戦に次ぐ戦へと身を投じられる事になるでしょう
恐らく再び相見えるのは句国の地となる筈です
彼の地にて戰様とお会いした時、怠け心や横着さを指摘され誂われぬよう
琢磨してまいります、其れなりに
いえ、私なりに、ですね
真
最後の、結びの一文に視線を落とした杢は、陛下は此処を撫でておられたのだな、と口元を緩めた。
戰に対して、踏ん張り処であるだの耐えろだの奮迅せよだの発破をかけるような事は何一つ綴られずに文は終わっている。
逆に、興味がわかない事象に対してはとことん不精者になる自分こそ、集中力を切らさぬように努力して後で笑われぬようにしますよ、と言っている。
つまり、何時ものように軽口を期待していますよ、と暗に示しているのだ。
――真殿からこんな風に言われたのでは、再会した時に真殿を揶揄出来る立場にあるよう、陛下は勇往邁進するしかないではないか。
読み終えた三人は、実に真殿らしい、彼にしか出来ぬ策だ、と何とも表現し得ぬ笑みを浮かべながら異口同声で呟いていた。
★★★
国王・灼自らが生捕りにして来た山犬が、どさり、と音を立てて呪師たちの眼前に置かれた。
口ぐるぐると無造作に麻の縄で縛られており、前脚と後ろ脚も交差させて紐で結わえられて自由を奪われた山犬は、目玉を血走らせて、ぐるぐると唸っている。威嚇の声を上げられない山犬は、ちらりと覗く牙の先からだらだらと絶え間なく涎を垂らし続けており、縛られた脚の先からは鋭い爪が釘のように光っている。己の生命を諦めず、此の世に執着しているのだ。
「此れだけ旺盛な生への渇望があれば正しく此度の戦の贄として相応しかろう――始めよ」
灼の宣言がなされると、しとしとと降る雨のように呪師たちが音も無く現れた。
ぐるり、と山犬を取り囲むと何やら口の中で不気味な詠唱を始める。
警蹕の代わりであろうか、手にした拍子木のようなものを打ち鳴らして、ぐるり、ゆらり、と不気味な舞も同時に行われる。まるで屍人の行進のような、おどろおどろしい気が振りまかれて舞いは続いていく。
不意に呪師たちが、不意に手首を翻した。さっ、と燕の翼のように瞬いたのは、匕首だ。打ち鳴らしていたのは、鞘に収められていた匕首だったのである。
分厚い匕首の鋒は山犬の喉笛に過たず、ずぶり、と突き立てられた。口を縛られ断末魔の悲鳴を上げられぬまま、山犬の命は遠吠えが風に乗って届く地よりも遥か遠くへと旅立っていった。
しゅ、しゅ、しゅ、と幾筋もの燦めきが山犬の身体に刺さる。幾本もの匕首がめり込んだ山犬の身体が、高々と持ち上げられたのだ。
滝のように滴る熱い血潮の下に、さっ、と銀の大盆が差し出される。あっと言う間に、盆の中は血で満たされ、あぶれた血が、また地面に向かって垂れて行く。
銀の盆に呪師たちが拝跪しつつ躙り寄り、盆から落ちてきた血に手を差し出した。ぬるり、と紅い血の色に呪師たちの両手が染め上げられていく。
手を山犬の血に濡らしながら、呪師たちが摺合せ始めた。じょりじょりと音がする。隙間から、何かが零れ落ちるのが見える。米粒のようだ。幾度も手を摺合せていた呪師たちは、やがて呪言を唱えつ、一人、また一人と去っていった。
最後の一人が姿を消すと、山犬は掲げられたまま四肢と頭部を切断された。血塗れの肉塊となった山犬は、別に用意された銀の盆に載せられると、静かに灼の前から下げられて行く。
此処からは、戦場を前にしての咒いが始まるのだ。
微動だにせず、酸鼻極まる筮いの場を凝視していた戰たちに、灼が振り返った。
「郡王よ。真とやらが示して策……だが」
ぼりぼりと無造作に頭を掻きながら、灼は憮然とした顔付きになっている。
筮いに挑む前に、突撃宛らに自身の天幕を訪れた戰は、仰け反る灼に真からの木簡を差し出してみせた。
戰と木簡を幾度も見比べた後、ゆっくりと手にして文面に視線を落とした灼は、呻きながら読み進めねばならなかった。だがやがて、その呻き声すら溢れなくなる。山犬を狩る刻限が迫って来ていたのもあったが、何と云えば良いのか思い浮かばなかったのだ。
だが筮いを終えた今、何か声を掛けねばならない。
だが、一体何を? どう伝える? 灼は頭を抱えた。
「どうした、何か不満や不服でも?」
「む? ……いや、そう云う意味ではなくてな、その、つまり、だ」
上手く言葉が見付からないのが苛立たしいのだろう、灼は更に音を立てて髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜている。
と、思うや、ああ糞っ! と突然叫んでみせ、ぶるん、と首を一回転させた。
そして、ガッ! と戰の肩を掴んだ。
郡王! と叫びながら頭一つ分違う身長差分を詰めるべく、ぐっ、と顔を寄せる。
「悪い事は言わん! 今回の策は止めておけ」
「何故だ?」
「有り体に云えばこんな策なんぞは、無理だ! 無茶だ! 無謀だ!!」
無理、無茶、無謀、とは灼が散々押し通して来た道ではないか、と戰は可笑しくなる。
大真面目も糞真面目に躙り寄られている分、更に可笑しくて堪らない。吹き出しそうになるのを必死で堪えた戰は、腹が捩れ切れそうだった。
「どう考えても人の手に余る策だ。真の奴も、もう少し無難な策を思いつかなかったのか」
「灼殿の口からそんな殊勝な言葉を聞こうとは、な」
火鉢に焼べられた栗が爆ぜる様な一直が過ぎる性格の灼に此処まで心配されるとは思っていなかった戰は、遂に苦笑を漏らす。しかし笑われたのが癪に障ったのか、ちか、と目の端を光らせると灼は赤銅色の肌を一層濃くさせて猛然と怒り出した。
「笑う処と思うておるのかよ。人が真面目に心配しておるのだぞ」
顎を刳るようにして、ずい、と更に顔を寄せてくる。
「大丈夫だ、灼殿」
戰は、むずがる幼子をあやしているかのような、穏やかで柔和な笑みを浮かべた。
おうっ……? と灼が訝しみながら身を引く。
「大丈夫だ。私が祭国で鍛え抜いた部下たちならば大丈夫だ。だからこそ此の策を真は考えついたのだ」
「……し、しかしだな」
喰い下がる灼の声は、しかし先程までの勢いはない。
まるで静かに、そして絶え間無く闇を照らす温柔な月光の如き笑みを向けられては、喰って掛かれないではないか。
やれやれ、と盛大に息を吐き出しながら灼は肩を窄める。
「ならば郡王が好きにするがいいがよ」
そして灼は、吾も真の奴の策に乗ってやる! と戰の肩を叩いたのだった。




