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覇王の走狗(いぬ) ~皇華走狗伝 星無き少年と宿命の覇王~  作者: 喜多村やすは@KEY
七ノ戦 星火燎原

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22 屍山血河 その3-2

22 屍山血河 その3-2



 西の大門を通り過ぎて1里の目印が立っている地点までは、竹たちの行軍はゆったりしたままだった。

 1里を過ぎ、王都からの見送りの人々が疎らになってから一気に馬を駆けさせる予定となっていた。戰が率いる主要軍は禍国軍としての扱いになるが、竹が率いる軍は違う。占いにも、行軍は緩く行うべし、と出たにも出たが、祭国の仲間として見送りにでる者は多いだろう、という学の心遣いだった。

 実際、王都内での見送りの列は大層なものだった。

 しかし大門を過ぎると、途端に見送りに出ている人影はどんどんと疎らになっていく。


 そろそろ1里の目印である塚が見えて来る辺りとなると、最早、見送りは蝉や蛙の鳴き声に舞う蜻蛉の影くらいなものとなった。

 皆が何となく、そわそわとし始める。

 そんな中、竹はもうとうの昔に見えなくなった西の大門を振り返った。

 王都の行軍中、名前を呼んでくれたのは、果たして珊だけだったのだろうか?

 ――蹄の音も聞こえたような気もするんだがなあ……。

 行軍の最中、自分たちの騎馬隊は規則正しい音を奏でていた。

 此れだけの兵馬が一糸乱れぬ動きでいるのは、克の指揮官としての有能さを示すものだ。其処に別の音がすれば、聴き分けるのは思うよりも簡単なものだ。

 しかし、行軍中の自分たちに馬で追いかけようという人物が居るだろうか?

 此度の戦で領民たちは、農作業に支障が出るのも承知の上で自宅の馬を従軍馬として差し出してきた。

 馬だけではなかった。国に少しでも役立てるのであれば、と男たちは率先して自ら邑令の元に自らを兵役を担うべく押し寄せた。だから、残っているのは女子供や老人たちが中心であり、耳に残る蹄の音を響かせる者が居るのか、という不思議が竹にはあった。


 鳥が餌を探して首を傾げるようにして周囲を見廻してから、竹は一度深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。

 背筋を伸ばして見る先に、とうとう、1里の塚が立っているのが見えた。

 竹は克がよくしているように、両手で頬を挟み込むように、パン! と叩いて気合を入れる。

「うぉっしゃぁ! おいこら、野郎どもぉ! 此処から気合入れて飛ばして行くぞぉっ!」

「おおっ!」

「遅れるなよ! 遅れても待っていてやらねえからな!」

「おおっさぁっ!」

 竹は命じざま、馬の腹に蹴りを入れた。

 鋭い嘶きを一つ上げて、愛馬は矢のように駆け出す。

 背後に続いていた部下たちが次々に竹に倣った。栗が囲炉裏で弾けるように、一軍は一気に速度を上げた。土埃がもうもうと上がり、馬の嘶きが稲妻のように時折交じる。まるで、天に登るのではなく地面を突き進む竜巻のようだった。


 と、其の時だった。

 竹は、自分の名前を呼ぶ声を再び聞いたような気がした。

 ――まさかな……。

 と苦笑しつつも、耳の穴をほじくってみる。


「――竹! ねえ、竹ってば!!」

 今度は気の所為ではなかった。

 自分の名前を呼び、此方に迫ってくる蹄の音がはっきりと聞こえる。慌てて背後を振り返った竹は、信じられないものを見た。



 ★★★



「ひ、姫奥様!?」

 そう、薔姫が小柄な身体ながら馬を巧みに操って、此方にぐんぐんと迫って来ているのだ。

 戰から真に贈られた馬は、今や薔姫のものとして知れ渡っているが、その愛馬に跨って小さな奥方が仲間たちが先を譲って出来た道を、駆け抜けて来る。

 薔姫はしかも、更に小さな女の子を胸に抱いている。勿論、真の同腹妹いもうとの娃だ。

 馬は息を乱す事もなく走り続け、遂に竹と並んだ。此の馬の従順さも然る事乍ら、手綱捌きはどうだ。真などより余程見事に馬を乗りこなしているではないか、と薔姫の見事な馬術に竹は唸った。


「す、すげっ……」

 呆れているのか驚嘆しているのか、ごくっ、と音をたてて陸が生唾を飲み込みながら呟く。

 陸も克や杢にしごかれた御蔭で、遅れを取ること無く馬を走らせられている。だが、女だてらに此処までやられては立つ瀬が無い。全く、度肝を抜かれるとはこの事だった。

 おまけに胸に抱かれた娃も、薔姫と身体を密着させて紐で結わえられているが、自ら手綱の一部を握ってちゃんと乗りこなしている。陸を見つけた娃が、にこっ、と笑って両手を頭の上でブンブンと大きく振った。

「わぁい、陸! 陸だぁ!」

「おわっ!? あ、っぶね! 危っぶねって、娃ちゃん! 止め、止め! 其れ無し、無し!」

 陸が慌てて馬を寄せると、やっと娃はうふふ、と笑いつつ手綱を握り直した。

 うふふ、じゃねえよぅ、と肝が一気に冷えた陸はぐったりする。


「陸! お兄ちゃまに、早く帰って来てね、言ってね!」

「あ~、はいはい! 分かった、分かったから! なんだって云う事聞くから! 娃ちゃん、手綱握って! 危ないのは頼むから無し!」

 まだ4歳だと云うのに、早駆けの馬に乗っても恐れも見せずにまた手を離して笑っている娃の豪胆さにも舌を巻きながら、陸は釣り込まれたように頷く。

「後ね、お土産のお人形さん、忘れないでね、って! ちゃんと赤い衣のよ、って!」

「は、はいはいはい! 分かった分かった、そいつもちゃんと言っとくから!」

「娃の分のと、あと三つと三つだからね、って!」

「はいはいはいはい、娃ちゃんの分の他に六つな!?」

「陸! お返事は、一回!」

「……うへぇい……」

 こんな場面を父親の優が見ようものなら、どうして馬まで駆って真の無事を頼みに行くのかという嫉妬と、馬を怖がらない様子は流石だと云う自慢と、そして娃と親しげにする陸に対する罵倒を、延々と、しかも交互に口にし続けるに違いない、と横で聞いていた竹は吹き出した。


「竹! 我が君の事、お願いね!」

「は、はい、姫奥様、勿論です!」

 薔姫も、娃に負けじと叫ぶ。慌てて竹も怒鳴って返答を返す。

 だが其れにしても、うかうかしていると轟く馬蹄の音に掻き消されてしまうので怒鳴り合わないとお互いの声が聞こえないのに、どうして先程は薔姫の声が届いたのだろうか。

 考えてみれば不思議だ。

 が、此の不思議は、きっと彼女の真への思慕の深さに違いない、と竹は思った。


 深い藍色の輝きを放つ長い髪は結われていない為、駆ける馬の速さに合わせて、さらさらと流れている。

 真珠のような、透明な珠が1粒、2粒と弾けて飛んで、そして消えていった。

 汗なのか、其れとも涙なのか。

 何方なのか判別はつき兼ねた。

 が、美しい事には変わり無い。


 竹も、陸も、そして5千騎の兵たちは、真を恋い慕う薔姫の美しさに酔いしれた。

 まるで鵜片のような甘美な痲れを伴う其れは、自分たちこそがこの姫君をはじめとした人々を護り靖んじられる存在である、という存在意義と誇りでもある、とも気が付かされる。

「お願いね! きっとよ! 我が君を、守ってあげてね!」


「御任せを!」

「御心配なく、姫奥様!」

 薔姫が手綱を引いて、速度を落とし始めた。

 余り遠くまで共に駆けては、城に居る皆に示しもつかない。発覚しないうちに此処らで戻るつもりなのだろう。

 逆に、竹たちは馬の尻に鞭を入れたり腹に蹴りを入れて、速度をぐん、と一段も二段も上げて行く。

 土煙の中に霞んで行く一軍に、脚を止めた馬上で、薔姫がもう一度叫んだ。


「お願いよ! 我が君を守ってあげてね、絶対よ!」

 合点承知! と男たちは唱和しながら、遥か西天へを目指して消えていった。



 ★★★



 竹たちの出陣の後、今度は戰の出立の吉日良辰が卜われる。

 戰は浄衣を纏った学に導かれて、城の奥にある神殿が置かれた聖域へと向かった。


 学が独特の掛け声と共に足を踏み鳴らしつつ、二幅ふたのの帛巾も打ち鳴らしながら進んでいく。

 一見して、珊が踊った遊女の舞のようにも見えるが、一つ一つの所作に彼女のものとは違う力が宿っているようにも見える。学の所作は警蹕けいひつの作法の一つであるのだが、流石に母親の苑が元采女として神に仕える身であっただけの事はあり、実に堂々たる姿だ。

 此の1年で、いや真たちが祭国を出た数週間で学の身体は更に青年期に向かって出来上がって来ている。

 武術の師匠である克と杢が御使として発った後も、一日たりとも鍛錬を怠っていない成果が確実に骨格や肉付き具合に出ていた。

 其れに、片手に七支刀ななささえのたちを手にしておりながら此れだけの動きを続けられるのだ。

 此の事実だけでも、学が既に『少年』から脱皮仕掛けている証と言えよう。

 他の子供とは比べ物にならない目を見張る成長速度は、学の努力と決意の表れでもあった。



 学が先ず向かった先は、鴻臚館が家事になった時に杢が水を組み上げた例の清水だった。

 既に、禰宜や祝、おかんなぎめかんなぎ、采女、神職に在る者たちが勢揃いし、ずらりと並んで待ち構えている。

 ぴたり、と学が動きを止めた。

 そして七支刀を振り被るようにし、大きく天に向かって突き上げる。

 神官たちが一斉に学に向かって礼拝を捧げる。

 唯一、真正面で学と戰を迎え入れていた者のみが手にした鏡を掲げて応じた。

 鏡を手にしているのは、学の母后である苑だ。

 苑の前には小さな祭壇が組まれてあり、中央には巨大な亀の甲羅と大角鹿の肩甲骨が、独特の火炎状の突起形状を持つ土器の前に其々据えられている。

 土器の中には湯が満たされており、周辺には薪が組まれていた。また土器の突起は4つあり、其れが四方を司る聖獣を示しているのだろうと戰にも理解できた。


 学が掲げた七支刀と、苑が挙げた鏡が、同時に煌きを放つ。

 祭壇の一点に、ぐんぐんと光が伸びていく。

 七支刀の輝きは大亀の甲羅を、鏡の瞬きは大角鹿の肩甲骨を指し示した。

 光がどんどんと熱を帯びる中、禰宜が、厳かに動き出した。静かに祭壇に近付くと、手にした火打ち石を打ち鳴らした。

 カチリ、カチ、カチと乾いた音が響くと同時に、おかんなぎめかんなぎたちが口々に何かを叫びながら舞い始めた。禰宜はまだ、火打ち石を鳴らしている。火の粉がきらめいて、降る粉雪のように土器の周辺に舞い散った。遂に、ぽ……、と薪に火が着いた。


 最初は仄かな輝きだったが、あっと言う間に火は勢いをまして巨大化していく。

 火は炎となり、直ぐに土器を包み込むようにして燃え盛った。土器の中央でぐらぐらと音をたてて湯が吹き上がりだした。土器の周辺に白い粉が吹き始めた。どうやら、塩のようだった。

 甲羅と鹿の骨は、空気の流れに乗った塩の湯気を一杯にあび続ける。

 其の間に、戰は祝たちの手によって身に着けていた鎧を解かれていった。

 椿姫が心を込めて結んでくれたえいも解かれてしまうと、一抹の寂しさと言い表しようのない恐れのようなものを覚えずにはいられない。ぶるっ、と身を震わせた戰は、下着のみを残した、ほぼ素裸の状態にされた。そして矢張り祝たちの手により、学が纏っている浄衣を手際良く戰に着せられていく。


 戰が真白な浄衣にすっかり身を包み終える頃、采女たちが白磁で出来た巨大な盃を手にしていた。

 まるで手水用の盥ほどの大きさもある盃は相当な重さであろうに、采女たちは顔色一つ変えずにしずしずと音もなく進みだした。学の前に進み出た采女たちは、跪き、盃を頭上に載せるような形で差し出した。盃の中身は、例の泉から渾渾と湧きいでている泉の水である。

 禰宜が何か棒状の物を手にして進み出てきた。

 其れを薪の上に翳して火を移すと、棒の先に煌々とした赤い輝きが宿った。

 禰宜が詞を口にしながら、赤い輝きを甲羅と鹿の骨に順に押し付けていく。



 ★★★



 ぴしり、と音が走った。

 ピシピシ、と乾いた音が続く。

 そう、甲羅と鹿の骨に亀裂が入ったのだ。とうとう、バキン! と激しい音を立てて、甲羅と鹿の骨は同時に巨大なひび割れを起こした。

 罅割れが入ったのを確かめた学は、一杯目の盃に手を浸すと中身の清水を掬い取り、そして弾く。清水は大亀の甲羅と大角鹿の骨に五月雨のように降り注ぐ。学は盃の清水を何度も掬っては、弾き続ける。


 七支刀をぐるりと一回転させて厳かに清水を拝んでから、学は禰宜に手渡した。

 そして羽織っていた帛巾を外すと、二杯目の盃に其れを浸す。

 まるで天女の羽衣のように、盃の中で帛巾が泳いだ。此れまでの激しさが一転、静寂閑雅なものとなる。徐ろに、学は帛巾を取り出すと、水を滴らせながら祭壇に近付いて行く。濡れた帛巾で大亀の甲羅を大角鹿の肩甲骨を覆うと、右手と左手に持った。

 帛巾からはまだ水滴が、ぽた、ぽた、と滴り落ちている。

 鏡を掲げたままの母后・苑の前に、学は恭しく甲羅と大角を差し出した。


 くい、と苑は手首を動かし、鏡の角度が変える。

 鏡の瞬きが、今度は甲羅と鹿の角に注がれた。鏡の光により浄められた甲羅と鹿の角の表面を、苑の指先が撫でていく。今にも其処から割れ落ちそうな太い筋状の罅割れと、葉脈か繊維のように絡まりあった細い筋状の罅を、ある時は何度も往復し、ある時は飛び越えるようにしてなぞっていく。

 禰宜が、今度は大幣おおぬさを手にして現れた。

 まだ煮え滾る塩の湯にぬさをゆっくりと浸す。じわり、じわり、と幣の色が濃くなっていく。熱い塩水が浸透しているのだ。

 唐突に大幣を塩湯から抜き出した禰宜が、ばさり、ばさり、と水を含んだ重みある音をたてて振りながら、戰の周りを弧を描いて歩き始めた。撒かれた塩水により地面に円が描かれると、禰宜が一礼を捧げて下がっていく。入れ替わるようにして、苑がゆっくりと戰の前に進み出ると、学が背後に寄って来た。


 互いに手にしている、鏡と、大亀の甲羅と鹿の大角を持ち換える。

 先ず、苑は甲羅を地面に叩き付けた。

 次いで、大角も同じように地に打ち付ける。

 パキン、バキン、と音を立てて甲羅と大角は砕け散った。

 広がった其々の破片は黒く焦げており、まるで大鴉の濡羽のようにも見える。

 そう、戰の膝元近くにまで飛んで来たのだ、まるで戰に何かを伝えんが為に此の世の物として現れた、神遣しんしのように。


「天涯の主であらせられる天帝さまの大詔おおみことがあい整いまして御座います。太占により、此れより2日の潔斎の後、明鴉が発つ前に、あさひいでし方角に向かいての一気早駆けの御出立を命じておられます」

 竹たち、剛国行きの騎馬隊とは全く逆の占いの結果だ。 

 戰は無言のまま、苑が下した筮いの言葉に傅いてみせる。

「此度の戦は、郡王陛下におかれては辛く厳しく、そして生涯を左右するものとなりましょう。多くを得られますが、陛下が得られれば得られた分だけ、喪い、永遠に損なわれて取り戻せぬものも多々生じましょう」

 苑は、軽く目を伏せて深く呼吸をした。

 そんな母の様子が、何か、自分の内側に滾るものを必死で押さえているように、学には見えた。


「けれども、決して臆してはなりませぬ。何かを束ね何事かを為すには、何かを手放し何かを失うのは道理であると心得られませ。もしも――もしも、その決心が鈍り、揺らぐ事あらば。其の時、陛下が此れまで積み上げられし全ては砂の城が嵐に消し飛ぶが如くに、消えてゆきましょう」

砕けた甲羅と大角の破片と一つづつ指先で摘み上げると、戰の前に差し出した。

「其の二つの破片は、陛下が迷われた時の心の御守となりましょう」

 三杯目の盃に苑が手を浸して暫しの間、揺蕩わせる。盃の水面に、輪が生まれては消えて行く。

 やがて輪が全て収まると、苑は音もなく手を掲げた。

 そのまま、足元に一度平伏した戰の頭上に手を翳す。

「蒼穹に在り天地あめつちを統べし天の帝が言霊は永遠無窮也。卦の答えをば言祝として天の帝は其方に与えんと欲するもの也」

 ぽたり、ぽたり、と雫が彼の額から掌を濡らしていく。


「祭国郡王・戰は天帝の御心を得られました。必ずや、勝ち戦へと導かれて行かれましょう――さあ、お立ち下さい。此れより、陛下が率いられし全ての兵の一路平安を天帝さまにお祈り申し上げると共に、陛下の御霊が死の穢れに取り憑かれぬよう、祓いの儀式を行います」

 戰は掌を掲げて恭しく破片を掲げた後、ぐ、と強く握りめた。



 ★★★



 戰が率いる軍の吉日良辰が占い終わったと、でんが椿姫の部屋に伝えに来た。


「そう……何時?」

 まだ眠る子供たちの額に掛かる前髪を掻き分けてやりながら、椿姫が微笑んでいる。

「はい、2日後の明鴉が飛び立つ前に、旭いでし方角に向かいて、との事に御座います」

 ……そう、と椿姫が呟いた。

 薔姫の処には、蔦あたりが気を利かせて遣いを出して呉れている事だろう。

 健やかな寝息をたてている息子たちの丸みのある胸が、規則正しく上下している。

 明鴉が飛び立つ前、ということは日の出前になる。

 今の季節だと、平旦の初刻になるだろうか。


 ――でも、明鴉が卦に出るなんて……。

 鳥類は特に筮いに於いて重要視される獣であるが、中でも鴉は二面性のある鳥だ。

 不吉と不幸の予兆を振りまく凶鳥と恐れられる一方で、太陽と共に活動する鳥として神の御使い、つまり神遣しんしとして崇められている。

 つまり戰の此度の戦は、何方にも転がる可能性がある、という意味だ。

 凶鳥の成り代わりとされ、忌み嫌われて終わるのか。

 其れとも、神遣として、導きしものとして敬われ受け入れられるのか。

 全ては戰の度量、戦の戦果に決定つけられる。


 椿姫は、息子たちの寝台に座り、寝顔を眺めながら何の気無しに聞いた。

「大亀の甲羅で占ったの?」

「いえ、その……大角鹿の肩甲骨もお使いになられたそうです……」

 もじもじと答える鈿に、そうなの? と椿姫は首を傾げた。

 戦に赴く際の祭事には、基本的に甲羅が使われる。特に、年輪が刻まれた大亀の甲羅が最もよいとされている。

 大角鹿も同様に吉凶禍福を占う際に使われるが、何方かと云えば国土の富裕や豊潤を視るものだ。

 若しくは、生命の萌芽と消失、つまり死生を卜うものだ。


 ――お姉さまは、何を卜う為に大角鹿で臨まれたのかしら……。

 亀卜だけであるならば、然程、気にはしない。

 が、鹿卜まで行っていたとなると何かを決意しての事としか思えない、というのが、神事に関わる者全てが抱く思いだろう。

 鈿が、思い詰めたような顔付きで、椿姫を注視している。だが、椿姫の態度が平然と変わらない。


「明鴉の前の出立では、此の子たちにお見送りは無理ね。……その代わり、お父様の戦勝のお出迎えは、星も輪も、しっかり致しましょうね」

 優しく語り掛ける椿姫は、なんと眠る息子たちにゆったりとした子守唄まで歌いだしているではないか。

 椿姫の、取り乱す事もなく在るが儘に全てを受け入れる態度を取っている姿に、鈿はほっとしたような、些か拍子抜けしたような、だがそれ以上に尊敬の念を抱いているような、複雑な顔付きでもじもじとしていた。



 ★★★



 2日後は、城に在る者にも、またそうでない者にとっても、あっと言う間に訪れた。

 明鴉が鳴く前に出立せねばならない為、城を出る時刻は、まだ空が色艶を取り戻す前の平旦へいたんの初刻と定められた。


 椿姫が聞けば、予想通りね、と微笑んだだろうか。

 戰が潔斎を行っている間、椿姫は星と輪と普段と変わらぬ生活を務めて行っていた。

 王妃としての政務は勿論の事であるし、息子二人と腹の子の母としても落ち着いたものだ。

 別れの度に涙を流し戰に縋っていた少女の愛情は、新たに授かった大切な人を護りつつも戰を想い続ける慕情へと変わっていた。

 

 其れは戰にも云える事だった。

 椿姫と子供たちの見送りがなくとも、胸が痛む事はない。

 ただ、愛しさと慈しむ心が、枯れぬ泉の水のように渾渾と魂を満たすのを感じるばかりだった。


 ――今頃、両の腕に星と輪を抱いて、まだ夢を見ているだろう。

 義理妹いもうとの薔姫も見送りに来る様子はない。

 真の同腹妹の娃がむずがりでもして、出られないでいるのだろうか?

 ――だが、其れでいい。

 普段の何気ない日常が、その愛すべき一瞬一瞬が、永遠に続いて欲しい。

 其の為に、自分は挑みに行くのだ。


 空の色を確かめようとした戰の前に、学が一人で、表地に黃麻が裏地に白麻を使って縫われた鈴懸衣(すずかけ衣)姿で現れた。

 戰に向かい、少年王は堂々と礼をしてみせる。

 互いの視線があい、何方からともなく頷きをもって合図をする。


「騎乗!」

 戰の号令に、騎馬隊が一斉に従った。

 馬に跨る際の衣擦れの音が、まるで鳥の羽撃きのように夜明け前の空気を裂く。

 歩兵たちは、手にした槍をぐっと引き寄せて背筋を伸ばして呼応した。


「では、学。後を頼む」

「はい」

 馬上の人となった戰に、学がもう一度、礼拝を捧げる。

 学が礼拝を解くと同時に、頼む、と重ねて言い置いて戰は腕を振り上げた。


「出陣!! ――目指すは那国!!」



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